千獄の宵に宴を



  第十場 天界 


2


 そうして二人は引き離された。
 斬太は今でもあの時の光景が目に焼きついて離れなかった。久遠が自分ではない、他の誰かの背中に着いていく後姿。そして、最後に「お元気で」と告げ、金色の扉の向こうに消えていったあの瞬間を。

 それから斬太は一人で魔界を彷徨った。何もする気が起きず、数日間、じっと岩の上に座って遠くを眺めていた。「見た目だけご立派な弟はどうした」とからかってくる者も少なくはなかったが、斬太は怒る気力もなく、返事さえ返さない。
 長い時間そうしていたが、いくら待っても弟は戻ってこなかった。久遠は自分がいなければ生きていけないと信じていた。だから自分はいつもそのことで頭が一杯で、無意識のところで、それが自分の生き甲斐になっていたことも気づいていなかった。久遠は違った。久遠は斬太よりも繊細な感情で、互いに必要とし合っているこという言葉をはっきりと心に抱いていたのだ。どれだけ周囲にバカにされようと、自分たちはそれぞれに形を成して生きていた。それを侵害できる権利など、誰にもないはず。
 なのに、久遠は遠くへ連れていかれた。抵抗する手段を持たない自分の手から、無理やり奪われた。なのに、と思う。誰のせいでもないのだ。恨みをぶつける相手も、それさえもどこにもいない。
 その現実を、斬太は次第に受け入れ始めていた。



 薄い霧の漂う空間で、久遠は心から安らいでいる表情を浮かべた。
「そうだ、兄さん。何か必要なものはありませんか」
「え?」
「せっかくですから何かお土産をお持ちください。あまり珍しいものは盗賊に狙われてしまいますが……記念となるようなものを。いかがでしょうか」
 斬太は久遠の心遣いをあまり喜ばなかった。無理に笑顔を作って肩を落とした。
「い、いいよ。別に、欲しいものもないし」
「そうおっしゃらないで。樹燐様に頼めば何でも持たせてくださいますよ」
「はあ……」ため息に似た声を漏らし。「樹燐様ねえ……俺、あの人苦手だな」
「そうですか? とても優しい人ですよ」
 斬太は浮かべる笑いを乾いたものへと変える。
「優しいのはお前にだけじゃないのか? なんでも、男好きらしいじゃないか。しかも、顔のいい奴には目がないとか」
 声を潜めて皮肉る斬太に、今度は久遠が言葉を濁す。
「そういう噂もありますが……冗談を口にされるだけで、実行はなさいませんよ。少々誤解されやすい方ですが、あることないこと飛び交う陰口を耳にしながら逆に楽しんでいらっしゃるようですし」
「ふーん。気の強い女だな。やっぱ苦手だ」
「でも……僕は樹燐様に心から感謝しております」久遠は屈託のない瞳を優しく細めた。「こうして一年に一度、兄さんと会えるように取り計らってくださったのですから」
「…………」



 魔界で、一人で呆けていた斬太の元に再び天上からの使者が訪れた。今度は何事かと警戒する斬太に、使者はこう告げた。
「菩薩様のご慈悲により、一年に一度だけ、弟君との謁見を許可する」
 斬太は喜んだ。もう二度と会えないと、そう必死で自分に言い聞かせていたのだから。一年に一度でもいい。久遠が幸せに笑っている姿を見られるのなら、きっとそれだけで自分も生きていける。斬太はそう思い、心が躍った――そのときは。



「そうだな」斬太は虚ろに答えた。「俺みたいななんでもない妖怪を、こうして天界に入れてくれるんだ。その樹燐様はよほど権力があるんだろうな」
 その言葉に、久遠は棘を感じた。
「そういう言い方はよくありませんよ。兄さんはなんでもない妖怪などではありませんし、樹燐様は、確かに位の高いお方ですが、毎日泣き続けていた僕を心配してくださったのです。今でも寂しくなるときはありますが、一年に一度兄さんに会えると思うことで凌いでいるのです。そうでなければ、僕は今頃どうなっていたか分かりません」
「……そっか」
「そうですよ」
 久遠の言葉に嘘があるとは思わない。引き離されたからこそ、斬太も改めて弟の存在がどれだけ大事だったかを思い知らされたのだから。

 だけど、もう昔に戻る方法は――どこにもない。

 斬太は一度目を閉じた後、すぐ開けて笑顔を向けた。
「そうだな、せっかくだから何かもらって帰ろうか」
 それを聞いて、久遠は花が咲いたように明るくなる。
「そうですよ。そうしてください。何がいいですか? 希望がなければ僕が決めますよ」
「うーん、どうしてもって言うのはないんだけど……何か、思い出になるものがいい」
「思い出ですか?」
「うん。できるだけ、身につけていられるものがいいな」
「えっと、例えば、どういうものでしょう」
 久遠には、斬太の求めているものが想像できなかった。もう少し具体的な言葉が欲しいと待っていると、斬太はふっと、久遠の目を真っ直ぐに見つめた。
「これで、最後にしようと思うから」
「――え?」
「もう二度と、お前には……会わないから」
 斬太自身も、身が張り裂けそうだった。
「だから、お前のことを大事な思い出にしたいから、ずっと持っていられるものがいい」
 久遠の目の前が真っ暗になった。どうして? その言葉だけが彼を支配する。
 久遠の気持ちは斬太の心に突き刺さる。代わりに自分が血を流してしまいそうなほど痛かった。そして、自分も苦しくて仕方がなかった。兄弟が離れ離れになる理由なんてどこにもない。一年に一度でも会えるのならば、離れている間もお互いに心を通じ合わせていられるのならばそれでいいのかもしれない。だけど、と斬太は思う。
「……ごめんな。これでも、いろいろ考えたんだ。俺、頭悪いけど、俺なりに考えて出した答えなんだ」
 久遠は状況が理解できずに呆然としていた。何を突然? どうして、どうして? そんな言葉だけが頭の中で渦巻いている。
「……な、何を言っているんですか?」
 久遠は必死で笑った。しかしその笑顔は引きつり、笑えているとは言えないものだった。
「冗談はやめてください……そ、そうか、僕が、せっかく来てくれた兄さんを退屈にさせてしまったからいけないのですね。こんな何もないところを案内してしまって……場所を変えましょうか」
「違う」
 震える足で立とうとする久遠を、斬太は遮る。
「冗談じゃない。俺が、今までお前を傷つけるような冗談を言ったことがあるか?」
 久遠は血の気の引いた顔を下げて、笑顔を消した。
「……では、そんな冗談は、最初で最後にしてください」
「……冗談じゃないんだ」
「…………」
 安らかだった空間の空気が、潰されそうなほど重くなった。冗談だと言いたかった。もう二度と会わないなんて、考えるだけで頭がおかしくなってしまいそうだった。
 だけど、だからこそ斬太は別れを決心したのだった。
 冗談だと、できることなら言って欲しかった。すべてが嘘だったと。自分たちが引き離された事実も、二人が死ぬまで一緒には暮らせないということもすべて。すべてが嘘だと誰かが言ってくれれば、どんなに楽だろう。
 どれだけ望んでも、祈っても、誰も言ってくれない。それが答えだった。
「お前は言ったよな。自分が弱いから俺が守ってくれると。恵まれてしまったら、守ってもらえないと」
 久遠は返事をせず、黙って俯いていた。
「今がその状態なんだよ。ここは安全だ。お前を襲う者などどこにもいない。つまり……もうお前に俺は必要ないんだよ」
 久遠は膝の上で拳を握った。そこに、涙が落ちた。肩が揺れている。
「……では、兄さんは、僕が必要ではないのですか……?」
 斬太は居た堪れなくなり、ここから逃げ出したくなる。しかし、本当にこれが最後になるのかもしれないのだから、いや、最後にしなければいけないのだから、辛くてもちゃんと向き合って話をしなければいけない。嘘も建前も、飾った言葉も使わずに。
「必要だよ。当たり前じゃないか。お前のことは、とても大事だし、可愛いと思う……だから、辛いんじゃないか」
「……だったら、どうして」
「生まれつき欠陥があって辛い思いをしていたのは俺も同じだ。だけど、お前がいたときは満たされていたし、楽しかった。足りないものなんてないと信じられるほど幸せだった。でも、でもな……」
 斬太の声が上擦った。久遠は少しだけ顔を上げる。そこには、堪えきれずに涙を落とす兄がいた。
「もう、二度と、あの時には戻れないんだよ……」
 斬太は慌てて顔を拭い、口の端を上げた。
「ごめんな……こんな兄貴で、ほんとにごめん」
 久遠は初めて弱音を吐く兄を、じっと見つめた。
「俺たちは欠陥妖怪だけど、二人で一つだった。だから生きていけたんだ。でもお前は、足りなかったところをもう補っている。この世界に馴染んでいくお前を見るたびに、辛くてどうしようもなかった。その理由が分かったんだ。お前は、もう完璧なんだよ」
 久遠の虚ろな目から流れる涙は止まらなかった。
「俺じゃない、もっと強いものから守られているんだ。その、妖怪では稀な美しい姿は神々にも劣らないほどだ。欠陥品なんてものじゃない。綺麗な姿と心を持ち、天の宝である魂を宿す者……もう、お前はこの世界の住人で、俺の弟なんかじゃないんだよ」
 一番言われたくないことを、一番言って欲しくなかった相手から言われてしまい、久遠の心に、見えない亀裂が走る。斬太もまた感情が昂ぶり、それに気づくことができなかった。
「いつか戻れる日がくると、その可能性があるというのなら、俺だって、どんなに辛くても待つことができる。でも、もう、死ぬまでそんな日はこないんだ。いつまで待ってもこないものを待ち続けるなんて、俺には耐えられない。それでもし、お前を失って、本当に生きていけないと思ったら、俺は死ぬ。そしたら、いつか生まれ変わって、また一緒に暮らせるかもしれないから。その時こそ人並みの幸せが手に入るかもしれないから。もう、今生では無理なんだ。もう少し一人でも頑張ってみるけど、ダメなら、もう終わりにしたい。俺はそうしたいんだ。それしかないんだ」
 久遠は未だに動かなかった。薄く開けた瞳が時々瞬きし、そのたびに雫が流れ落ちていた。それは久遠の頬を流れ、顎を伝って、いくつもいくつも膝元に染みを作っていた。
「お前は、大丈夫だ。ここにいれば安全なんだから。みんなから大事にされて、優雅に暮らしていける。俺はそうして欲しいと思っている。だって、今のお前に何の不足がある? お前はもう完成している」
 違う、違うと久遠は言葉にせずに内で繰り返す。言いたいことは山ほどあるのに、声が思うように出なかった。違う、という久遠の気持ちを感じ取り、斬太は問われる前に彼の迷いに止めを刺す。
「お前は、俺と会えるときだけを希望としていると言うが、それが嘘じゃないのは分かってる。でも、その気持ちは……一緒にいたときの情に過ぎないんだ」
 微かに、久遠の瞳が揺れた。
「俺が可哀想で、惨めだから、同情しているだけなんだ。俺がいなくなってしまえば、そのことが、きっと分かるよ」
「…………」
「だから、もう、終わりにしよう」
 気持ちを吐き出した斬太は、改めて顔を拭った。言ってしまった以上、もう後戻りはできない。もう少し頑張ってみると言ったが、無理だと思った。ここを出たら――と、決意して、頭を垂れた。

 睡蓮の池を一望できる城の高い窓から、樹燐が庵を見下ろしていた。二人の声は届かないし、屋根に隠れて姿までは見えない。しかし樹燐は、そこに漂う不穏な空気を感じ取っていた。
 開いた扇子を胸元に当ててじっと様子を伺っていた樹燐に、一人の官女が声をかけた。
「樹燐様」同じく、庵にいる二人の姿を見て。「あれは底なしの池。よろしいのでしょうか。久遠殿をあのような危険な場所に、護衛もなしに近付かせて」
「構わぬ」樹燐は扇子を揺らしながら。「久遠殿は年中拘束されているのだ。たまには自由にさせておあげ」
「しかし、もしあの方に何かあったときは、樹燐様に責任が嫁せられるのですよ」
「大いに結構」
 樹燐に軽く笑い飛ばされ、官女は戸惑って少し肩を竦めた。
「この世の生業はどうとでもなるように、うまくできているものなのだ。それに、皇凰とはどれほどの仏神よりも慈悲深き魂。あのあまりにも哀れな兄弟を、きっと救ってくれるであろう。私はその奇跡を心待ちにしておる。だからこそ久遠殿の管理を請け負ったのだ。安心せい。ちゃんと最後まで面倒は見る」
 樹燐が久遠の管理役を買って出た理由は、彼の外見が好みだからだと誰もが思っていた。この官女も例外ではなかったのだが、それだけではないのだろうかと疑問を抱いた。
「……ど、どういう意味でしょうか」
「さあな」樹燐はとぼけるように首を傾げ。「いずれにせよ、千獄の時は訪れる。抗うことができぬのならば、いっそ……受けて立ってみるのも、面白いかもしれぬよなあ」
 不適な笑みを浮かべる樹燐に、官女は恐れを感じて一歩足を引く。何も聞かなかったことにし、そっと一礼して逃げるように室を出ていった。

 今まで黙っていた久遠が、沈む空気を揺らした。
「……あなたが」その声には感情がなかった。「僕のことを『久遠』と呼んでくれなくなって、もう何年もなるんですよ。ご自分で、気づいていらっしゃいましたか?」
 斬太は顔を上げる。そこには、まるで人形のような弟が自分を見つめていた。
「そのことが気がかりで……だけど、理由を尋ねるのが怖くて、一人で抱え込んでおりました。だけど、今のお話で、すべてが明確になりました。もう、僕はそんなことで悩む必要はないのですね」
 理由の分からない危険を感じた。斬太は、自分が何か、取り返しのつかないことをしてしまったのではないかという不安に襲われる。
「……もしかすると」久遠は冷たい微笑を浮かべた。「その言葉を、僕は待っていたのかもしれません」
 こんな弟を斬太は見たことがなかった。久遠の心を探る。しかし、彼からは何も伝わってこなかった。久遠は完全に心を閉ざしていたのだ。
 斬太の気持ちを理解してくれた、そうは思えなかった。彼の心理が読めないわけを考える。そして、気づく。閉ざしているのではない。久遠の心は、壊れていたのだ。
「そうですよね。それでいいんですよね」
 久遠の涙は止まり、いつもの穏やかな笑顔になった。今までは彼のその表情が好きだった。だけど、今は違う。まずい。斬太の鼓動が早まった。
「死んでしまえば、すべてが終わるのです」
「……な」
 斬太が立ち上がるより早く、久遠が背後の手すりに手をかけた。
「この魂から解放される手段はただひとつ。それは兄さんもご存知のはず」
「な、何を言ってるんだ……!」
「僕はこんな宝なんてどうなってもいいんです。今までは兄さんと会えるという楽しみあったから我慢してきました。だけど、それさえも奪うものならば、僕にとっては恨むべき粗悪品。こんなもの……消えてなくなってしまえばいい!」
「や、やめろ、やめるんだ!」
 斬太は青ざめ、飛び掛るようにして久遠の腕を掴んだ、掴もうとした。
「しばしの別れです。兄さん、来世で、またお会いましょう」
「久遠!」
 久遠は穏やかな表情で、底なしの池の中に沈んでいった。
 腕は届かなかった。止めることができなかった。斬太は自分のしたことを後悔しながら、夢中で池の中に飛び込んで彼の後を追った。