第十一場 魔界の森
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久遠は睡蓮の池が底なしであることを知っていた。正しくは、人の深層心理に流れ込み、その者の願望を映す鏡のような空間である。ここに落ちて、生きて帰って来た者はいない。だから気をつけるようにと樹燐から注意されていた。
しかし、久遠はあえてそこを選んだ。もしかすると、こうなることをどこかで予感していたのかもしれない。久遠は脳裏に、懐かしい故郷を思い描きながら落ちていった。
彼を追う斬太は、ただ必死で久遠に手を伸ばした。しかしいくら水を掻いても久遠との距離を縮めることができなかった。二人は同じ早さで、次第に光の届かないところまで落ちていく。見渡す限りが暗闇になった。方向はおろか、上下左右も判別もできないほど感覚を失っていく。
呼吸も、当然できない。斬太はこの池の意味を知らず、理由の分からない恐怖に包まれた。このまま暗闇に支配されて死んでいくのだろうか。だったら、せめて久遠に一言謝りたい。せめて、彼の無垢で無力な手を握って最期を迎えたい。そう強く願った。
「!」
突然、二人は地面に落ちた。体を強く叩きつけられて、斬太はうめき声を出す。一体、何が起こったのか、一体どこにたどり着いたのか。その前に久遠をと、斬太は体を起こした。体には水滴などひとつもなかった。
そこは深い森の中だった。なぜと考えるより早く、離れたところで地面に横たわる久遠に這い寄った。
「おい、久遠」
久遠は瞼を揺らした。生きている。怪我もなさそうだ。最悪だけは免れたと思い、斬太は安堵して深く息を吐いた。
「……久遠」改めて、弟の顔を覗き込む。「ごめんな、ほんとに。俺、お前のこと、勘違いしてたみたいだな。追い詰められて、苦しい思いしてるのは自分だけじゃなかったのに、俺は自分が楽になることしか考えられてなかった」
聞こえていようといまいと、斬太は弱々しく呟いた。その声を聞いて、久遠が目を開けた。
「兄さん……」
「久遠。無事か」
久遠も体を起こした。一度周囲を見回した後、斬太に向かい合う。
「一緒に、来てくれたんですね」
純粋な笑顔を浮かべる久遠に、斬太は再び目頭を熱くした。
「あ、当たり前じゃないか」
「……よかった。やっぱり、僕の選択は間違っていなかったんですね」
選択――久遠の言うそれが何を意味するものかを尋ねる前に、斬太には気になることがあった。
「なあ、それよりも」斬太は悪寒を感じる。「ここ……もしかして、魔界じゃないのか」
深く、重い空気。二人が生まれ育ったところなのだから抵抗はなかったのだが、その位置に問題があった。斬太の勘が当たっているとしたら、ここは魔界でも奥深く、自分たちのような低級妖怪の足を踏み入れてはいけない場所。
つまり、魔界でも恐れられる「極悪妖怪」が闊歩する空間なのだ。だとしたら、ここにいてはいけない。炎極魂のことを知るそれに久遠を見つけられてしまったら――汗を流す斬太を余所に、久遠は笑顔で答えた。
「はい。ここは魔界。僕たちの故郷です」
やはり、と斬太は咄嗟に久遠の腕を引いた。
「大変だ……こんなところに迷いこむなんて。早く、逃げよう」
しかし久遠は斬太に従わなかった。踏みとどまり、頭を横に振る。
「いいえ。逃げても無駄です」
「……え?」
「逃げても、天上の人が僕を捕らえにやってきます。そうでしょう?」
斬太は、優しい表情で落ち着いている弟の態度に釣られ、自分も力を抜いた。
「でも、でも……ここにいたら、お前は」
「……妖怪に、殺される」
斬太の心が、切り裂かれたように痛んだ。分かってて、どうして久遠はこんなにも穏やかでいられるのだろう。嫌な予感が消えない。まだ何も解決などしていない。まだ何も、終わってなどいないことを感じ取った。
「ダメだ」斬太は再度彼の腕を引いた。「卑劣な極悪妖怪なんかにお前が殺されるなんて……そんなのダメだ」
久遠は腕に力を入れて、やはりそこから動こうとしなかった。
「あの池は底なしで、落ちた者の深層心理のところで描かれた場所へ繋がるのです」
「な、何?」
「ここが、僕の望んだ場所なんです。これでいいんです」
覚悟を決めた久遠の表情と声に、斬太は震えた。
「このまま逃げても天上界へ連れ戻されて、また同じことの繰り返し。それが嫌で、あなたは僕との別れを決意されたのでしょう?」
「……それは」
「そんなことを続けるくらいなら死んだほうがいいと、あなたは言った。僕も同じ気持ちなんです」
久遠は昔と同じ、屈託のない笑顔を浮かべる。今のこの瞬間が最高で、最後の幸せだと、忘れないように心に刻んでいた。
斬太には久遠が何を言っているのか、何をしようとしているのかが分かった。分かったからこそ、笑えることができなかった。悲しくて悲しくて、涙が溢れる。
「……そんなの、ダメだ」
だけど、思うように体に力が入らない。
「久遠、お前が殺されるなんて、俺は許さない。お前は生きる手段を持ってるじゃないか。お前の寿命が後どれくらいか知らないけど、お前は天上で生きてくれよ。いつか、どうせ死ぬんだ。それまで、幸せに暮らしてくれよ」
そう訴える斬太に、久遠はふふっと笑いを零した。
「兄さん、あなたはまだそんなことを言っているのですか」
斬太は顔を上げる。
「僕も、あなたと同じ。あなたがいない世界で生きていても幸せになんかなれないんです。もう、それでいいじゃないですか」
久遠は吹っ切れており、明るい声で笑った。苦しむのも、痛い思いをするのも怖いが、長い時間をかけて心を縛り付けられているよりはずっといい。
「それに……」
久遠は斬太から目線を外して、足元にあった尖った石を拾いあげた。
「見てください」着物の袖を捲くり。「ずっと兄さんが守っててくれたから、知らなかったでしょうけど」
途端に久遠はぐっと歯を食いしばって、石の角を自分の腕に突き刺した。
「な、何を……!」
斬太は驚愕したが、血が溢れ出す久遠の腕に目を奪われた。久遠の腕が僅かに震えているうちに、傷は血を流しながら、目に見える早さで縮小していく。落ちた血液は地面に残ったが、傷はあっと言う間に口を閉じた。
「……どうやら、僕は不死身のようなんです。寿命は決められておりますが、それまでは刃物も毒も妖術も、何も効かない体。これが、炎極魂の加護です」
斬太はその事実を目の当たりにし、気が遠くなりそうだった。そういえば、と思う。今まで久遠が怪我をしたこと、彼の血を見たことをなかったとことを、今気づく。
「昔から、時々おかしいと感じることはありました。転んだときやぶつけたときにできる小さな傷や痣が、翌日にはきれいになくなっていたんです。大きな怪我をしたことがなかったから、あまり気に留めていなかったのですが……」
斬太は今になって、初めてことの大きさを感じた。自分が天界に招かれるだけでも大変なことだと思ってはいたのだが、どうしてこんなことをしているのだろうという疑問の方が大きかった。結局は炎極魂の存在というものを感じることができなかったからである。だけど今になって、何のために久遠が天界に幽閉されていたのかを実感することになった。
「この事実は樹燐様が教えてくださったんです。おそらく、あの時僕を迎えにきた天部の遣いの方はご存知なかったのでしょうね。魔界でその言葉を口にするもの危険ですし……あまり公に事実を広めてしまうと、目が眩むのは妖怪だけでは済まないかもしれないと、樹燐様は仰っておりました」
「よ、妖怪だけじゃ済まない……っていうのは」
おぼろげに分かっていながらも聞こうとする斬太に、それは禁句であると、久遠は答えないことで示した。目線を落として、自分の両手を見つめる。
「最強を求める妖怪が欲しがっているのは、この力です。当然ですよね。不死身の肉体だなんて、肉体を持つ者、誰もが一度は憧れる遠い夢なんですから。欲の深い者なら尚更です」
久遠は袖を直し、改めて斬太に向き合った。
「でも、僕には必要ありません。持ったからこそ、断言できるんです」
「……久遠」
「だから、これでいいんです」
その時、二人の頭上でカラスが鳴いた。
その不吉な気配に、斬太と久遠は同時に身震いする。斬太は反射的に久遠の前に出て両手を広げた。
このカラスの親玉の噂は聞いている。光物が好きで、鋭い爪で理由もなく金色の瞳を抉ろうとする。だからカラスには気をつけろ。サトリ一族の間では誰もが心している言葉だった。
恐れるべきはその嫌な習性だけではない。このカラスの親玉は、サトリに限らず魔界では要注意人物としてその名を囁く。ただ欲望のままに、本能のままに強さを求め、いつしか彼の上には何者も立てないといわれ始め、もう長い時間が過ぎている。
決して苦しまずには殺してくれない。落ちた死体も嘴で啄ばみ、原型を残さない。どこまでも無情な彼の名は虚空。
カラスが森を駆け巡った。普通の飛行ではない。獲物を見つけてそれを威嚇する行動である。湧いて出てきたかのような大量のカラスの中心は、何の罪もない二人の兄弟だった。もう逃げられない。斬太は息を上げた。
八文字を描くカラスが一羽ずつ絡み合い、黒い塊を作っていく。塊は次第に人の形になり、存在だけで相手を恐怖に染めるその姿を現した。
虚空は黒い羽を揺らし、怯える兄弟を見据えた。斬太は足を一歩引くが、飛び交うカラスが腕や背中を掠り、彼の体を削って動きを封じる。
「……に、兄さん」
傍にいた久遠が斬太に手を伸ばそうとすると、今度は彼がカラスたちに髪を引っ張られる。久遠は頭を庇いながら地面に伏せた。
「久遠……!」
纏いつくカラスを斬太が慌てて振り払うと、それらは一旦二人から離れていった。
虚空はしばらく二人を交互に眺めた後、静かに笑った。
「……黄金の瞳を持つ、欠陥兄弟。どこかで聞いたことのある風貌だな」
やはり、虚空は二人を知っている。もうダメだと斬太は目を閉じるが、自分以上に恐ろしいはずの久遠を置いて諦めるわけにはいかなかった。気を強く持って虚空を睨み付ける。
「片割れは天界に隔離されたと聞いたが、どうしてこんなところに転がっているんだか」
極上の獲物を見つけたと言わんばかりに、虚空は舌を出して唇を湿らせた。二人が震えている間にも、虚空は爪を尖らせて妖気を上げていっている。
「……久遠」斬太は小声で。「宝なんて、どうでもいい。お前が殺される理由はどこにもないんだ。逃げろ」
「兄さん……」
「逃げてくれ。無駄かもしれないけど、逃げて欲しい。俺ができるだけ時間を稼ぐから。もしかしたら、その間に天上の奴らがお前を連れに来るかもしれない。そしたら……助かるかもしれない」
久遠は昔のままの癖で斬太の裾を握った。
「でも、兄さんが」
その感触さえ、懐かしかった。
「いいから。間に合ったら、俺もついでに助けてもらえるかもしれないだろう? だから、頼むよ」
「……でも、間に合わなかったら……僕だけが助かって、兄さんが殺されたら、そんなの、僕にとっては地獄です。だったら一緒に死にたいです」
そう言ってくれるのは嬉しかったが、これ以上問答している時間はなかった。斬太は取り巻くカラスに体当たりしながら駆け出した。
「兄さん!」
斬太は小さな体を屈め、地を蹴って虚空の胸元に飛び込んだ。斬太の狙いは心臓である。そこに少しでも妖気を流し込めればと、神経を尖らせる。虚空は、まさか自分からかかってくるとは思っておらずに驚いたが、彼の速さは魔界でも群を抜く。斬太の動きなど見透かし、飛び込んできた彼を大きく広げた羽で包み込む。
斬太の視界は闇に包まれ、怯む。その瞬間に、虚空は大地を削りながら回転する。
飛び散る黒い羽に、赤い液体が混ざっていた。そのいくつかが、久遠の顔や着物に付着する。その血が誰のものなのか、あの羽の中で何が起きているのか考えたくなく、久遠は目を見開いて真っ青になった。
「……あ、ああ」
虚空は両手と羽を同時に開いて止まった。胸元を中心に、顔や羽に赤い雫が垂れている。回転で弾き飛ばされた斬太は動物のような悲鳴を上げて、近くにあった大木に強く体を打った。
羽の刃に切り刻まれた斬太は、息も絶え絶え、全身血塗れでもがき苦しんでいた。
久遠は逃げることも、斬太に駆け寄ることもできないほどの恐れに支配されていた。震える歯を噛み締めても、力が入らずにカチカチと鳴る。
虚空は浴びた血など気にも留めずに、身動きが取れない斬太に近付いた。
「……やはりお前は欠陥妖怪なのだな。姿、妖力だけでなく、頭の中身も欠落しているようだ」
虚空は、言い返す力も出ない斬太の胸倉を掴み上げた。
「しかし、その黄金の瞳を、俺は持っていない」顔を寄せ。「存在価値のないネズミには意味のないもの。そうだろう?」
斬太は、今まで味わったことのない恐怖と苦痛に耐えながら、自分がどうなってしまうのかなどは考えていなかった。あまり頭は働く状態ではない。その中で、一つのことだけを祈っていた。
――早く、久遠を助けに来てくれ。
天上の使いはまだ来ないのか。もっと時間を稼がなければ。
本当はこのまま殺されても構わないほど、むしろ早く殺して欲しいと思うほど苦しかった。だが、自分が死んだら次は久遠に牙が向けられると、重い手足を必死で動かした。
「……やめてくれ。殺さないでくれ」
心とは裏腹な言葉を綴る。
「嫌だ。死にたくない。なんでもするから、殺さないでくれ」
惨めに命を請う斬太を、虚空は笑った。斬太を抱える手とは逆のそれを、彼の目元に近づける。斬太の眼球の目の前に虚空の鋭い爪が光った。
「綺麗な目だな。貰うぞ」
斬太の背筋が凍った。体を傷つけられるのは我慢できるが、一族の、そして久遠と同じ色のこの瞳を奪われることは最大の屈辱。身を引き千切られてもいい。死体を啄ばまれてもいい。だけど、これだけは穢されたくないものだった。
「や、やめ……」
斬太は目を閉じて顔を背ける。