第十一場 魔界の森
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虚空の爪が斬太の瞼に刺さった、刺さろうとした。その時、今まで黙って震えていた久遠が突如悲鳴を上げた。
「!」
大人しかった久遠が、これほどの大声をあげたことなど今まで一度もなかった。突然の咆哮に、カラスたちも鳴き声を上げて森を騒がせる。
虚空も何事かと手を止めた。斬太が目を開けると、錯乱した久遠が二人に駆け寄ってきていた。
「久遠、ダメだ。来るな!」
久遠は不器用に虚空に体当たりして、彼の手から斬太を引き離した。斬太は地面に落ちて血を散らすが、痛みを忘れて体を起こす。
そこには、虚空に向かい合う久遠がいた。その顔つきはまともではなく――あの時、天部の使者に立ち向かったそれとは比べ物にならないほど――怨念を剥き出しにした、飲み込まれるほど凄まじいものだった。
金の目を穢されたくないという気持ちは、久遠も同じだった。目の前で斬太が傷つけられているだけでも耐えられないのに、それ以上の侮辱だけは許せなかったのだ。
「ふん……」虚空は久遠を見据えて。「お前が、炎極魂の入れ物か」
足元で斬太が声を出そうとするが、もう呼吸するのが精一杯の状態になっていた。薄れる意識の中で、必死で久遠を見つめた。
「そうです」久遠は迷いなく告げる。「僕の中には天の宝があります。あなたが欲しいのは僕の魂でしょう。欲しいなら早く盗って、二度と兄さんには近付かないでください」
「度胸のある弟だな。しかし、兄弟揃って知能が低い」
「なんとでも言うがいい。僕たちはもう抵抗する力など持っていません。ここにあなたの欲しいものがあります。さあ、早く、盗りなさい!」
その迫力は、まるで別人のようだった。斬太は残る力で久遠の心を探る。そこで感じたものは、「死」だった。
彼は生きながら死を受け入れていた。今まで、これ以上にないほどの苦痛や屈辱のすべてを受け続け、もうすべてを投げ捨てていたのだ。だが弟の覚悟を感じ取っても、斬太はまだ諦め切れなかった。もしかしたら、もう数秒待てば天上の者が来るかもしれない。だから、やめてくれと声を絞り出そうとしたとき、虚空が片方の羽を大きく開いた。
同時に、久遠の胸から血飛沫が上がった。その返り血が、虚空と斬太に降り注ぐ。
斬太は、自分の目を疑った。あまりにも衝撃的な瞬間に、呼吸することも忘れてしまった。
久遠は一瞬白目を剥いて倒れそうになったが、ふらつく足に力を入れて持ち直す。そうしているうちに、久遠の傷が癒えていく。体が二つに割れてしまうかと思うほどの痛みに耐え、久遠は再び虚空を見つめた。
「……何をやっているんですか」血の垂れる口元は、微かに笑っていた。「そんなことでは、僕は死なない」
さすがの虚空も驚き、片翼を開いたまま久遠を凝視している。
「ほら、ここですよ」
久遠は両手を心臓に当てた後、ゆっくりと開いた。
「ここに皇凰の魂が眠っています。叩いても斬っても無駄です。早く、その爪で抉り取ってしまいなさい」
そう挑発する久遠を、虚空は疑った。本当にそんな特殊なものならば、どうして自分に差し出そうとしているのか。羽を収めながら考えていると、足元に何かが纏わり付いてきた。目線を下ろすと、虫の息で虚空の足を掴んでくる斬太がいた。もう喋る力も、意識さえもあるのかどうか疑わしいほどの脆弱な力で抵抗し続けていた。
虚空はそんな姿に情の欠片も持たず、蠢く斬太を蹴り上げた。
「!」
斬太は悲鳴もあげずに、再び大木に打ち付けられた。騒ぐカラスの鳴き声は嘲笑うかのように森にこだまする。
「やめろ!」
久遠が大声を出して自分に気を向けさせた。その表情は勇ましかったが、先ほどのものと変化していることに虚空は気づく。
「これ以上兄さんを傷つけたら絶対に許さない。いいか、僕から魂を奪った後も、絶対に兄さんには指一本触れないと約束しろ」
そして、なぜ彼が自分に命を捧げようとしているのか、その理由を察した。
この「魂の入れ物」は、命を捨てて兄を守ろうとしているのだ。
虚空には、出来損ない同士が手を取り合っている姿が滑稽なものにしかに見えない。そして、久遠が魂を差し出す理由が分かれば遠慮する必要はなかった。もう茶番は終わりだと、微笑みながら爪を尖らせる。
虚空の爪が久遠の心臓に届くまで、そう時間はかからなかった。
久遠は生きたまま心臓を掴まれ、大量の血を吐く。
(……久遠。どこだ)
木の根元で、斬太は必死で瞼を上げた。
(久遠、返事をしてくれ……)
声の出ない斬太は心で呼びかけたが、彼の返事はなかった。斬太の五感は鈍り、起き上がろうとしても腕が立たず、耳を澄ましても鈍いカラスの鳴き声しか聞こえない。蹴飛ばされたときに頭を打ち、久遠がいる方向を見失っていた。どこを見ても森の木しかない。
やっと、彼の姿を見つけた。しかし朦朧とする斬太の目に映ったものは、一番あって欲しくない、あってはいけない光景だった。
虚空の大きな手が久遠の胸に深く突き刺さっていた。虚空は久遠の中で、魂を探して指を動かす。その間、死ぬことが叶わない久遠は体中を雷に打たれ続けているかのような苦しみを味わい続けていた。傷口は塞がろうとし、溢れ続ける血は次々と再生している。
死を望む者には、不死の体など毒でしかなかった。受けなくていい苦痛を受け続けなければいけないのだから。その時間は数秒のことだったかもしれないが、久遠にとっては何百年分もの苦しみを一度にまとめて受けているようなものだった。
虚空は手応えを感じ、腕にぐっと力を入れた。
それと同時、久遠の瞳孔が開き、再生が止まった。
虚空が腕を引き抜く。そこに纏わり付く赤いものは、久遠の血だけではなかった。虚空の拳の中に、真っ赤に揺れる人魂のようなものが握られていた。それこそが、炎極魂が具現化したものだった。
虚空はその力強さに感動し、しばらく赤い光に見入った。
「これで、俺は魔界を……いや」目を細め。「天にさえ勝る力を手に入れたのかもしれない」
魂を奪われた久遠は、胸に大きな穴を開けたまま倒れる。既に息はなく、体中の機能は完全に停止していた。
その一部始終を見ていることしかできなかった斬太は涙を流した。体を引きずって弟の遺体に近付こうとする。せめて、あの手を握りたい。彼の隣で眠りたい。
しかし、そのささやかな願いさえ邪魔するように卑しいカラスたちが久遠の体を包んでいった。
「…………!」
それだけは、と斬太は必死で地を這った。久遠は美しかった。せめて、できるだけ元のままで埋葬してやりたい。なのに、殺しただけでは飽き足らずに、その遺体さえも陵辱されようとしている。それだけは、許さない。斬太の目からポロポロと涙が溢れ出して止まらなかった。
虚空は魂を胸にしまい、這いずり回る斬太に目線をやる。早足でそれに近寄り、弟に手を伸ばす斬太を踏みつけた。その衝撃で斬太の傷が開く。呻くこともできない彼を、虚空は乱暴に掴み上げる。再び宙吊りにされた斬太に、虚空は至福の笑みを見せた。
「麗しい兄弟愛だな……反吐が出るほど。こんな惨劇、俺だったら耐えられない」
上げる口の端からは牙が覗いている。もう斬太に恐怖はなかった。ただ、耳の奥に届く、極上の餌を啄ばみながら歓喜の声を上げているカラスたちの鳴き声だけが彼の心を蝕み続けていた。
「運命とは残酷なものだな。神が何の力もないネズミに余計なものを与えたのがすべての間違いだったのだ。恨むなら、神を恨め」
虚空は真っ赤な口を開け、斬太の顔にそれを近付けた。斬太はもう驚かなかった。そんな力は残っていない。
ブチブチと、肉の千切れる音が頭の中に響いた。虚空は、それは楽しそうに、斬太の左目の瞼を食い千切ったのだ。
「……うう」
斬太は無意識に声が漏れていた。痛みで体が痙攣する。兄には手を出すなという久遠の言葉を思い出すが、虚空はそんな約束など、守るどころか聞く耳さえ持ち合わせていなかった。
虚空は瞼を吐き捨てた後、何のためらいもなく、剥き出しになった斬太の左目を指先で抉り出した。
赤い光の魂に続き、金色の眼球を手にした虚空は悦に入る。彼にとってはゴミ同然の斬太の体を投げ捨て、大きな声で笑った。
虚空はもう斬太に興味を失い、止めを刺すこともしなかった。どこまでも陰惨を極め、仕事は終わったと背を向ける。
虚空は低い笑い声を残して、森の中へ消えていった。
その場には、もう原型を留めていない弟とその血肉を奪い合うカラスたち。そして、左目を抉り取られ、完全に心を破壊されて横たわる斬太だけが残った。
虚空が消えた方向とは逆の森の奥で、二つの目が光った。
彼は今の一部始終を、黙って、気配を消して見つめていたのだ。それを見て何を思ったのかは分からないが、ただ、闇の中で静かに微笑んだことだけは確かだった。
天界では騒ぎが起きていた。
炎極魂の「入れ物」である久遠がいなくなったからである。
責任者である樹燐は帝の元へ呼び出されて尋問されていた。樹燐は顔色一つ変えずに答えていく。
「なぜすぐに知らせなかった」
「私の監督不行き届きでございます。申し訳ございませんでした」
本当は、樹燐はすべてを見届けていたのだが、二人がいなくなったことに気づいた官女が騒ぎ出すまでその場を動かなかったのが事実だった。
「どうして彼は池に落ちた」
「さあ……足が滑ったのではないでしょうか」
「兄との面会中であったろう。兄はどうした」
「兄上殿も一緒に落ちたようですね」
「……その者が、落としたのではあるまいな」
樹燐は、それはないと口を出そうになったが、答えを変える。
「さあ。なんとも……」
「そもそも、なぜあんな危険な場所に護衛もなしに近付かせたのだ」
「気をつけるようには言っておいたのですが、私の不注意でございます」
「それで、彼はどこへ行った?」
「問題はそこですよ、帝様」樹燐は他人事のように。「早く久遠殿を見つけねば、大変なことになり兼ねません。ご指示を」
魔界の森に転がる斬太は絶望の淵にいた。生きようとも死のうとも思わない。ただ、これほどの不幸、なぜ、どうしてと、そればかりが頭の中で繰り返されていた。
そんな彼に、更なる仕打ちが追い立ててくる。
遠い世界から、数人の声が響いた。
「久遠様が殺された」
聞いたことのある声だった。確か、天界でいつもくだらない噂話ばかりする女官たちのそれだったと思う。
「どうして? 久遠様は天に守られていたのに」
「……怪しい者といえば、一人しかいないわ」
「あの、チビで汚らしい妖怪ね」
――え?
「あれで久遠様の実兄だっていうからおかしな話だわ」
「きっと、久遠様が美しくて恵まれていらっしゃったから、嫉妬に狂ったのよ。身の程も弁えずに」
「本当に兄弟だったのかも疑わしいわ」
「きっと、心優しい久遠様を騙していた低級妖怪だったのよ」
違う、違う。
「久遠様を殺したのはあの妖怪よ」
違う。
「そうよ。大体、どうしてあんなところに二人でいたの?」
「あの妖怪が久遠様を誘い出したんだわ」
「そして、他の妖怪と手引きしていたに違いない」
違う……何度も斬太は繰り返した。虚ろな片目から、涙が流れた。
「人殺し」
――違うんだ。いいや、俺のことはなんとでも言っていい。誰か。久遠の心を救ってやってくれ。
「人殺し!」
その一方的な言葉は、傷ついた斬太の心を更に切り刻んでいた。
「あの醜い妖怪が、久遠様を騙して殺したのよ!」
責任のない女官たちは、噂だけでその答えを出した。否定する者もいないまま話には尾ひれが付き、人から人へ次第に広まり、自然と上部の者の耳にも届いた。
「なあ、あんたはどう思う?」
男は鎧を纏い、抱えるだけで強靭な力を必要とする愛用の鉈を磨いていた。声をかけた相手は、彼の上司に当たる武神の中でも特別な位置にいる静かな男だった。
彼は口数が少ない。すぐには答えずに、肩に乗る小型の天竜をゆっくりと撫でた。
その間も、二人がいる室内の外は騒いでいた。状況によっては自分たちの出番かもしれないと、そのつもりで待機していた。
天竜を飼い慣らし、鎧の一部として常に傍で従わせる男の名は「依毘士」。天竜は魂を食い荒らす邪神として、天上と地獄の狭間に息づく凶暴な生き物だった。その体長は果てがないかと思うほど長く、大人の男を纏めて数人を口に頬張れるほどの巨大な竜だった。依毘士はそれを支配し、術をかけて自分の都合のいい大きさに変化させていた。竜はまるで彼の体の一部のようにいつも絡み付いて、時には顔に擦り寄ってきたり膝に頭を乗せてきたりと甘えてくることもある。しかし、その姿を微笑ましいと思う者はいなかった。
天界ではそんなものを飼い慣らそうと思う発想があり得ず、そしてそれを実現させる者がいることに誰もが驚いた。しかし依毘士は一人で、いつの間にかそれをものにしていたのだ。依毘士が普段何を考えているかなど知る者は少ない。だが彼の持つ力は、その聡明な姿からは想像できないほどのものだった。依毘士が、この世のすべてを含む罪人の死刑執行責任者として命名されたことに、誰も不満はなかった。
その身分は毘盧遮那仏の眷属と、天界でも高い位置にある。それにも関わらず、彼は一人で特殊な力を手に入れ、地獄に立場を置いた。処刑という行為が好きな悪趣味な者なのではないかと陰口を言われることもあるが、彼はあまり力を使わず、好んで表に出て目立とうとはしなかった。余計なことは語らずに、命令があったときだけ、獲物の魂を確実に消滅させてきた。
魔界には天界の武神でも勝るとも劣らないほどの妖怪がいる。それらを罪人として罰するのは仏神の役目なのだが、年々力をつけていく妖怪は決して侮れる存在ではなかった。しかし依毘士だけは違った。彼と、いつも傍にいる天竜の力を持ってすれば逆らえる者はいないほど抜きん出た能力があったからだ。だから依毘士は帝から今の立場を頂いた。そうして依毘士は誰からも一目置かれ、同時に、「変人」の異名を取らされ、周囲から敬遠される存在だった。
そんな変人とまともに付き合える者がいた。いつも隣で鉈を振る乱暴者、「鎖真」である。依毘士を制御することは難しかったが、彼もまた、本来は帝釈天の眷属と身分が高く、依毘士と同じ役職である地獄の処刑係を買って出た変わり者だった。ただ、依毘士よりは感情豊かで人当たりは悪くなかった。少々口が過ぎることもあるが、軽いわけではない。理解不能な依毘士のことを周囲から尋ねられることがしばしばあったが、知っていることもそうでないことも、うまく言葉を選んで余計なことは喋らないように努めていた。
鎖真のそういうところが楽なのか、依毘士は理由も伝えずに彼を直属の部下として傍に置いた。このときも鎖真は何も聞かずに、言われたとおりに従った。
依毘士は天竜に軽く指を当てたまま、少し目を閉じた。すぐに薄く開けて、思い出したように呟く。
「……兄の仕業ではない」
もう答えないのだろうと思っていた鎖真は、意外そうに顔を上げた。
「へえ。どうしてそう思う?」
「見えたからだ」
「本当か?」鎖真は笑いながら。「じゃあその辺の女官に教えてやれよ。あの兄弟は仲がよかったらしいじゃないか。誤解されたままじゃ可哀想だろ」
「ただの噂だ。言いたい奴には言わせておけばいい」
「冷たいねぇ。あんたが言えば皆信じるのに」
鎖真が言い終わる前に、依毘士は愛用の槍を掴んで扉に向かった。鎖真は慌ててその後を追いかける。
「おい」
「仕事だ」
二人は廊下を歩きながら話した。
「命令は出てないぞ」
「『入れ物』は魔界に落ちた」
「え?」
「極悪妖怪が天の宝を汚した。これは一級犯罪。つまり、私の獲物だ。命令は出る。待つ時間が無駄だ」
それもそうだと納得し、鎖真は話を進める。
「天の宝を汚したってことは、もう入れ物は殺されたのか」
「そうだ」
「それじゃ手遅れじゃねえか?」
「私の仕事は罪人を処刑すること。入れ物を守ることではない」
それもごもっともと、鎖真は足を止める。依毘士から動くことは珍しかったが、多くを聞かずとも、彼には彼の考えがあることを鎖真は知っている。廊下の先に消える依毘士とは逆に向かい、出撃の準備に取り掛かった。