第十五場 魔界の森
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斬太は悩んだ。今の自分だったら、久遠の仇を討つための方法があれば迷いなく飛びついていたのだろうが、弟との思い出も、彼を思う気持ちも忘れてしまうのであれば意味がない。そう思った。
「でも……俺には、そいつの気持ち、分かる」
斬太は強く目を閉じ、握った拳を震わせた。
「何でもいい。どうなっても構わない。一番大切なものを無碍に奪われるってことは、苦しい、悲しい、そんな単純なものじゃないんだ。威厳も誇りも何もかもを傷つけられて、惨めで虚しくて、仮に何かの希望があったとしても、そんなものに縋れる余裕なんかない。本当に、何よりも憎くて仕方ないのは、敵でも運命でもなく、大切なものを守れなかった自分自身の弱さなんだから」
自分が救われたいわけじゃない。敵に復讐しても何も変わらないことも分かっている。
どれほどの幸運にも快楽にも価値が感じられず、誰の情も優しさも言葉も、何もかもが空虚で温かさを感じることができない。できることは、己を責めることだけ。
「望みがあるとしたら、自分がやってしまった取り返しのつかないことを取り返すことだけ。時間を戻してやり直したいとしか考えられず、前になんか進めない。だけどそれは無理で、無理だと分かっているからこそ、頭がおかしくなりそうなほど悔しくてたまらない。こんなときに自分の中にあるのは負の感情のみで、笑うこと、楽することに酷い罪悪感を抱く。なら苦しんでいたほうがよっぽどマシなんだ。だからもしも、俺にもそんな選択があるとしたら……きっと、辛いと思うほうを選ぶと思う」
斬太の言葉は、決して嘘にも強がりにも聞こえなかった。本心からのそれだと見抜き、鎖真は思い出したように酒を飲み込む。
「そんなものなのかねえ」
「……そうだよ」
「でもな」鎖真は不適な笑みを浮かべる。「お前には、選択権なんかないぜ」
無情な鎖真の言葉に、斬太は唇を噛んだ。分かっている。自分は無力な妖怪。依毘士とは天と地ほどの差がある。そんなこと、いちいち言われなくても――。
「もう始まってるから」
斬太はその意味がすぐには分からなかった。始まっている? 何が?
「お前は」鎖真は白い徳利を指して。「もうこれを飲んだからな」
何を言っているのだろう。斬太はまだ理解できずに、指された徳利に目を移した。記憶は曖昧だが、確かに一口、飲まされた。それが何なのだろう。
そう言えば、飲まされた途端に体に異常が起きた。激しい苦痛はあったものの、これほど回復力のある薬などあるはずがない。そもそもこれは薬なのか。それとも酒なのか。一体自分は何を飲まされたのだろう。
「……これ、何なんだよ」急に斬太は不安に襲われた。「お前は俺に何をしたんだ」
鎖真はすぐには答えず、意味深に目を細めた。それが更に斬太の恐怖心を煽った。
「飲むか飲まないか聞いてもよかったけど、お前、返事もしなかったからさ」
「だから、この白い徳利には何が入っているんだよ」
感情が昂ぶる斬太を横目に、鎖真は白い徳利を掴んだ。それを顔の自分の横に付けて、笑う。
「これは『鍛錬酒』っていう天上の秘蔵の酒だ」
天上の……斬太はそんなものを飲んでしまったと分かっただけで寒気がした。
「な、なんでそんなものを、俺に……」
「これはな、一日に一口だけ、九百九十九日間欠かさず飲み続けると、とっても強くなれる不思議な酒なんだ」
「…………」
「ただし、決まりを破ると体が破裂してしまうっていう、ちょっと強引で怖いものだけどな」
体が破裂。想像もつかないが凄まじいものであることは分かる。ちょっとどころではない。そんなものが自分の体に入ったのかと、斬太は再びあのときの激痛を思い出した。
「……お、俺、それ、飲んだよな」無意味に、自分の体や顔を触りながら。「ってことは、九百九十九日間、嫌でも飲まないといけないってことか」
「まあ、そういうことかな」
「どうしてそんなことを……いや、それより、決まりってなんだよ。ちゃんと教えろよ。まさか、悪戯で飲ませたわけじゃないよな」
混乱して体を起こす斬太を、鎖真はやっと元気になったというふうに解釈した。白い徳利を彼に差し出すと、斬太は恐る恐るそれを手に取った。
「まずは、一日に一口」人差し指を立て。「それ以上でも以下でもダメだ。九百九十九日間、一日も欠かさないこと。以上」
「そ、それだけ……?」
「それだけだ。日数は分からなくなったら数えていなくてもいい。一口という量の多少の誤差も気にする必要はない。徳利は小さいが、鍛錬酒は九百九十九口分きっちり入っているし、途中で死ななければ、最後の日には綺麗に底を尽きるようになっている」
斬太は突然のことに戸惑い、まともに頭が働かなかった。決まりを守れと言われても、大体なぜ自分がこんな奇妙な酒を飲み続けなければいけないのか理解できない。
「そうは言っても、ある程度は正気を保っとかないと時間が分からなくなるからな。自分で分かるように目安なり目印なりどこかに見つけておいとけよ」
斬太は何かに気づいて、深く息を吸った。
「しょ、正気を……って、まさか、さっきの激痛が、毎回襲ってくるってことなのか」
「当たり前だ。楽して強くなれるわけないだろ」
誰も強くなりたいなんて言ってないと反論しようとしたが、鎖真はそれを許さなかった。
「しかも、その激痛は徐々に強くなり、その時間も長くなる。それから段々悪夢まで見るようになって、寝ても覚めても苦痛は続くらしいぜ」
「な……」
「でも、苦しんだ分だけ強くなれるんだ。確実に。世の中には努力しても報われないものが多い。有難いと思えよ」
いつの間にか始まってしまっていた「戦い」に、斬太は気が遠くなりそうだった。何も分からない。何から尋ねればいいのかも。
「まあ、お前なら、そうだな。弟と違って妖力が皆無ってわけでもなく、並程度か。なら、あの才戯とか暗簾くらいの力は養えるんじゃないかな」
どうしてここでその二人の名前が出てくるのか、事の流れをまだ知らない斬太には疑問だったが、彼らは虚空と同格の高等妖怪である。もしそれほどの力を手に入れられるのなら、何かが変わるかもしれないと思った。
強くなれる。何の変哲もない徳利を見ただけでは実感は湧かないが、斬太の中に小さな火が灯った。
そうだ。どうせ今も死ぬほど苦しい。どうせ、死のうと思っていた。更なる苦痛を強いられようが、体が破裂しようが同じこと。鎖真の話が嘘でも構わない。
賭けてみよう。斬太は徳利を持つ手に力を入れた。
確かに表情が変わった斬太を見て、鎖真はやはりと思った。依毘士の気持ちは、自分には理解し難かったが、窮地に立たされた男というものはどうしようもないバカになるのだということを実感した。
「そうだ、それと」鎖真は腰に下げていた荷物を前に置き。「これもやる」
鎖真はそれを軽々と持ったが、地面に置くと土が僅かに沈み、異様な重量感が見て取れた。物は古布に包まれていたが、形から大きめの刀と思った。何色かの紐で幾重にも括られ、まるで邪悪な何かを封印されているように見える。斬太は自然に手を伸ばしたが、鎖真はそれを軽く払った。
「あんまり軽々しく触らないほうがいい」
「これはなんだ?」
「才戯の刀」
斬太は途端に手を引っ込める。
「え……じゃあ、まさか、牙落刀か?」
「そう。勿体ないからもらおうか思ったんだけど、こいつ、俺でも言うこと聞かないんだ。使いものにならない上に封印するだけで骨を折った。重いし、邪魔だし。よかったら持っていけよ」
「何でこれをお前が持っているんだ」
虚空にやられてからこの場で放心していた斬太にはまったく流れが読めない。
鎖真はここに来るまでと、二人を処刑するまでのいきさつを簡単に話して聞かせた。
「で、でも、それじゃあ」斬太は納得がいかない様子で。「虚空は……たまたま暗簾に炎極魂を横取りされたから助かったってことなのか」
「最初の標的は虚空だったんだが、移動の途中で依毘士が変更したんだ」
「おかしいだろ。俺たちを傷つけて、宝を盗んだのは虚空じゃないのか。そんなやつがどうしてのうのうと……」
「そう言うなよ。俺は依毘士に従ってるだけだし、依毘士は罪に罰を与えてるだけなんだから」
「だから、虚空は大罪を犯したじゃないか。なんでそれを罰しないんだよ」
答えはあるのだが、鎖真は困った様子で言葉を選んだ。
「……依毘士じゃない奴だったら、虚空も殺しただろうな。でも、あいつに情はないんだよ。お前たち兄弟がどれだけ苦しめられてようが、依毘士には関係ない、ってこと」
あまりにも冷たい言葉に斬太は怒鳴りそうになったが、ぐっとそれを飲み込む。鎖真を責めるのはお門違いである。彼らにとって罪人を裁くことは仕事でしかなく、赤の他人である自分たちに同情してもらおうなんて、ただの我侭でしかない。
しかし、鎖真が今ここにいて、自分に貴重な話をしているのは仕事ではないはず。これだけは聞いておきたい。
「……どうして」呟くように。「俺に、こんな特別なものを?」
もっともな質問である。自分から話そうとは思っていなかったが、聞かれれば隠す必要もない。鎖真は肩の力を抜いて空を仰いだ。
「そうだな。これだけは先に言っとくけど、お前や、お前の弟のためじゃない」
それは分かっている。分かっているつもりなのだが、面と向かって言われると辛いものがあった。では、自分たちのためではないのなら、一体何のためなのだろう。
「依毘士って、可哀想な奴だよな。今じゃあんな融通の利かないどうしようもない男になって敬遠されてしまってるんだ。本当は万人を慈しむ、誰からも愛されるべき奴なのに。あの不幸さえなければ、あいつは幸福の模範みたいな存在だった」
鎖真は残り少なかった酒を飲み干した。
「だからさ」口元を袖で拭い。「俺が、『本当の依毘士』がやりたいだろうと思うことを代わりになってやっているんだ」
斬太は、初めて鎖真の目の奥の深い情を垣間見た。そんな気がした。
「時々、依毘士は口数が多くなるときがある。そういうとき、あいつは俺に何かを伝えたがっているんだってことに気がついた。さっき戻ったときは口きいてくれなかったけど、出撃する前に劣等妖怪がいたぶられている話を聞かされた。状況説明として不自然ではなかったが、その描写は妙に鮮明だった。それでも他の奴と比べたら言葉は少なかったんだけどさ、俺には分かった。罪人を裁くには必要のない情報だって。だからきっとそこには依毘士の、どこかに残っている良心が何かを訴えているんだと思って……それで、俺はここに来た」
鎖真は照れを隠すかのように、斬太の頭に片手を乗せる。斬太にはそれだけでも重く、首が縮んだ。痛いと思うほどではなく、抵抗せずに話を聞いた。
「酷いもんだぜ。あいつの態度の悪さを叩く奴がいるのは分かるけどさ、『無慈悲の神に魅入られた依毘士は無慈悲の生涯を送るのだろう』なんて言う奴もいたんだ。天竜の力は無慈悲かもしれないけど、天竜だって神の一種だ。死に掛けてた依毘士に役目を与えた。俺はそう思ってる。あいつが不幸になる必要なんてないんだよ」
矛盾だらけで、下層の存在である斬太にはすべてを整理することはできなかった。
「だから俺はあいつの傍にいて、ずっと従い続けるって決めたんだ」
自ら幸福を切り捨てた依毘士を、鎖真という一人の男が影で支えている。依毘士に心はなく、きっと鎖真の行動に感謝などしないのだろう。それでも、斬太には依毘士が救われていると思えた。本当なら殺された妻の仇を討つことこそが目的だったはずなのに、依毘士はまったく別の形で復讐を遂げ、まったく別の形で心の支えを得ている。
不思議だと思った。同時に、斬太の中に歪んだ希望が湧いた。
久遠に炎極魂が宿ったこと。それによって引き起こされた悲劇。死にかけていた自分に手を差し伸べた雲の上の武神。今、斬太の手の中にある鍛錬酒。才戯が落としていった牙落刀。
このすべてが繋がったとき、何が起こるのかを知りたくなった。もしかすると思いも寄らないことが形になるのかもしれない。そのとき、自分は何を手に入れるのだろう。
まだ終わっていない。少なくとも体が破裂するまでは生きていられる。きっと、ただ強くなれると単純に期待していいものではないと思う。限界まで生きてみよう。
斬太が心を決めたとき、鎖真は空になった徳利を逆さにしながら立ち上がった。
「酒も切れたし、じゃ、帰るな」
「え、あ……そっか」
斬太は礼を言おうとしなかった。斬太と久遠のためではないという鎖真の言葉が建前ではないことが分かっていたからだ。
「鍛錬、頑張れよ」
斬太に背を向けながら、肩越しに最後の言葉を残した。
「修行に成功したら、炎極魂について調べてみろ。もうお前と会うことはないけど、まあ、納得のいく答えを見極めて、それに打ち込めば悪いことはないと思うぜ」
「……ん」
曖昧な返事をして俯く斬太を残し、鎖真は姿を消した。
斬太の修行は見事に九百九十九日を迎えた。
見た目は変わらなかったが、内側にある妖力は彼に揺ぎ無い自信と野望を与えるものとなっていた。
何度も死に掛け、何度も諦めようと思った。鎖真の言った通り、日に日に苦痛は増していったのだ。
最初は針のむしろで体の内側を刺されるような感覚から始まり、数日後には鎌で五臓六腑を切り刻まれているような幻覚に襲われた。
とろ火で炙られたときは、皮膚が硬直し煙で呼吸ができなくなり、内も外もジワジワと炭になっていった。
ある日は巨大な岩に何度も打ち付けられ、体の弱い部分から潰れ始めた斬太は、最後には固体と呼べるものがないほど粉々になったこともあった。
目を覚ませば体に傷は一つもない。すべてが幻覚であることは分かっているのだが、伴う苦しみは本物で、そのときの記憶は鮮明に残っている。
斬太は魔界の森の奥深くの洞窟に潜み、何のためにこんなことをと、毎日訪れるその時間に白い徳利と向かい合っていた。これを口に含めば気が狂いそうなほどの責め苦がくることは分かっているのに、それを自ら進んで得ようとしている。怖い。怖くて涙が出てくる。いっそのこと体が破裂してもそれで終わりにしたいと何度も思った。
しかし、そのたびに久遠の笑顔を思い出す。まともでいられる時間は次第に少なくってきていたのだが、その短い間は弟のことを考えていられた。それが斬太の救いになっていた。もしも久遠のことを忘れてしまうことがあれば、そのときこそが本当の最後だと思った。
自分の中に、僅かでも思い出が残っている間は続けてみよう――後一日、一日だけと己の心に鞭打ち続けるうちに、果てしないと思った日数はいつの間にか過ぎ去っていた。
確実に、斬太は変わっていた。
まず力を得た斬太は、密かに炎極魂を調べ始めた。そのうちに、「千獄の時」の情報を知ることになった。
具体的なことは明確にならなかったが、魔界の年月で十年後、人間の世界ではそれより少し後に起こる、と。
これはいい機会だと、運命だとさえ思った。虚空と同等の力を得た斬太でも、彼の場慣れした戦闘術を上回るのは難しい。それに、斬太の力の根源である瞳が欠けている状態では尚更のことだった。
だから虚空を惑わす何かが必要である。
同時に、影に潜んで虚空の動きも探り続けた。虚空は斬太から奪った左目を利用して炎極魂の在り処を探していた。斬太はそれに便乗して情報を得ることもあり、そのうちに、少しずつ目的を確かにしていった。
斬太の望みは、久遠の魂である炎極魂を取り戻すこと。
取り戻してどうするのか、どうなるのか。「千獄の時」、何が起こるのかも分からなかったが、そんなことはどうでもいいと思う。罪なき久遠の魂を邪悪な妖怪の手から解放すること。それが叶えば、後は何がどうなっても構わないと、斬太の心は揺ぎ無い決意を固めていた。
虚空への恨みは大きい。しかし復讐だけに捕われていてはいけないと冷静に判断する。炎極魂を取り戻すために何をすべきなのか、一つ一つ整理しながら準備を整えてった。
処理に困った牙落刀はとりあえずどこかに隠し、炎極魂を持ったまま転生した暗簾を探した。面倒なことに、彼は魔界から遠い人間界にいた。それだけではない。炎極魂は高僧によって複雑な術で封印され、本人は記憶を失って別の人物として生活している。その上、傍には厄介な才戯もいる。だが才戯の能力は利用する価値があると思い、二人の動きにも目を見張らせ続けた。
斬太は一人で「宴の舞台」を作り上げていった。命と引き換えても、目的を達成するために。
天上から久遠に見守られて、絡み合った運命の糸を少しずつ解き始めていった。
そして今、縁あって出会った人物たちが炎極魂に導かれ、千獄の時を迎えようとしている。