千獄の宵に宴を



  第十五場 魔界の森 


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 魔界の森の奥深く、惨劇の起こったその場所では残酷な傷跡が残されたままだった。
 大量のカラスの羽と血痕が飛び散り、その上に横たわる二人の少年。一人は半分以上の血肉を奪われており、赤く染まった骨が剥き出しになっている。その近くで仰向けに倒れているもう一人は、息は微かにあるが、全身が切り裂かれており左目は深く抉れていた。
 そこに漂っていたのは寂しさと虚しさだけだった。命こそ奪われなかった斬太だが、もう彼に生きる気力はなかった。体は呼吸だけを行い、このまま衰弱して息絶えるときを黙って待ち続けていた。
 悔しいとも悲しいとも思わない。何を考えても無駄だからだ。どれだけ恨んでも、何も変わりはしないのだ。死んでしまえばすべてが終わる。今の斬太にとっての希望は「死」のみ。急がずとも訪れるそれにすべてを委ねようとしていた。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。斬太は瞬きもせずに暗い空をじっと見つめたままだった。
 森の奥から足音が聞こえてきた。斬太の耳に届いていたが、今の彼は何が起きても驚くどころか反応さえ示さない。誰かが来た。それだけは分かる。
 大股でゆっくりと歩き、斬太の隣に立った彼は、妖怪ではなかった。人間でもない、ここから遥か遠い世界の、更に高い位置に身を置く武神・鎖真だった。
 依毘士との「罪人掃除」からだいぶ時が過ぎていた。どうやら彼は一度天上に戻ったらしく、才戯に受けた傷を治療した後があちこちにある。鎧や愛用の鉈も装備しておらず、軽い衣装に着替えている。それでも身分の高い彼の衣服は、赤や緑の原色を鏤めた派手で威圧感のあるものだった。
 鎖真は、鉈ではない武器を腰に下げ、片手に大きな徳利を掴んで薄く笑っていた。徳利の中身は強い酒であり、歩きながら飲んできたのか、既に顔を赤く染めている。
 ほろ酔いの鎖真は虚ろな斬太を見下ろした後、久遠の遺体に目を移す。
「うわ、酷いな」声に感情は篭っていなかった。「妖怪ってのは残酷だな。これは酒がまずくなる。片付けとこうな」
 誰にともなく言いながら、鎖真は血の海に浸る遺体に近寄った。まだ完全に乾き切っていない血は、踏むと嫌な音がし、足を上げると細い糸を引く。
 鎖真は上半身を少し逸らして久遠に片手を翳した。唇だけを動かして、呪文を唱える。すると掌から淡い光が灯り、遺体に向かって一本の線となって二つを繋ぐ。光は遺体を優しく、温かく包みこんだ。鎖真が掲げた片手を揺らすと、光もそれに合わせて揺れ動いた。
 次第に光は銀の粒子となり、細かく崩れていく遺体と一緒に上空へ舞い上がっていく。地面に広がる血痕までを連れて天に昇っていく光を、鎖真は笑顔で見送った。
 周囲に散るカラスの羽や飛び散っている細かいものはそのままだったが、見るに耐えないそれは跡形なく消え去っていった。鎖真は手を下げ、満足そうに徳利を口に傾けながら振り返る。再び斬太の元へ足を進め、未だ動かない彼の隣に胡坐をかいた。
「おい。生きてるんだろ」
 体を屈めてわざと大きな声を出すが、やはり斬太はピクリとも反応しなかった。
「あーあ、つまんねえな」鎖真はため息をつき。「天界はバタバタしてるし、依毘士は異常に機嫌が悪いし。ゆっくり酒も飲めやしない」
 独り言を言いながら、鎖真は徳利を地面に置いた。そして腰に下げた袋の一つに手をかけ、その中にあった別の小さな徳利取り出す。
「お前の分も持ってきた。付き合えよ」
 斬太は、廃人となっていた。ものを感じることも、考えることも不可能――そんな状態の彼が返事をしようとしない理由を、鎖真は分かっていた。
 しかし鎖真は笑顔のままで斬太の頭を抱え、片手で白い徳利を彼の口に運ぶ。
「なんだよ。どいつもこいつも、返事くらいしろっつうの。無視はないだろ、無視は」
 どうやら依毘士には話しかけて返事もしてもらえなかったようだ。斬太がそうする原因はまったく別のものなのだと理解していながらも、彼の気分や体調に関係なく無理やり酒を注ぎ込む。
 斬太の口に、一口だけ酒を含まされた。零れないように、鎖真はそのまま斬太の体を倒した。斬太には飲み込む力もなかったのだが、液体は自然と喉を通って体に染み渡っていく。鎖真は自分の徳利に持ち替えてぐっと酒を飲み、彼の反応を待った。
 斬太の指がピクリと動く。最初は痙攣に似たものだった。次に、まるでそこだけ地震が起きているかのように、斬太の体が小刻みに揺れ始める。
「……あ」
 斬太の目が、口が開き、自然と声が漏れた。震えは激しくなり、死体同然だった彼が悶え苦しみながら暴れだす。
 足元で呻き転がる斬太を、鎖真は平然と眺めていた。
 体の内側を無数の針で刺されているような責め苦は、数秒続いた。たかが数秒でも斬太にとっては耐え難い痛みである。込み上げる高熱で顔が真っ赤になった彼の、断末魔の悲鳴が辺りに響いた。
 虚空に受けた傷よりも大きな衝撃は、まるで風が吹き抜けるかのように消え去った。斬太は軽くなった体を丸めて激しく咳き込んだ。何が起きたのか分からないが、飲まされたものが酒ではないことだけは確かだと思った。
 気がつくと斬太は正気に戻っており、体にあった傷も治っている。抉られた左目が復活することはなかったが、千切られた瞼の腫れも痛みも引いていた。
「……な、なんだよ、今の」
 斬太は久しぶりに言葉を発したような気分だった。助けてくれたにしても乱暴過ぎる。お礼を言う気になどなれなかった。
「何を、飲ませた」
 吊り上げた涙目を向けられ、鎖真は酒を飲みながら嬉しそうに笑った。
「酒だよ、酒。最高級品の。妖怪の口には合わなかったかな」
「ふざけるな」斬太は痺れの残る腕で上半身を起こした。「……お前、誰だよ」
「ああ、俺? 『鎖真』。知ってる?」
 軽い口調で名乗りながら、鎖真は口に当てた徳利を傾ける。その名を聞き、斬太は途端に緊張した。知っている。妖怪の間では有名なのだ。しかし、大した力も野望も持たない自分がまさか彼と会うことがあるなんて考えたことさえなかった。
 心当たりがあるとしたら、やはり炎極魂との関わりである。
「……な、何の用だよ」斬太の声が震えた。「もう、久遠は死んだんだ……お前も、見たんだろう」
 恐ろしさからの震えではなかった。再び込み上げてくる悲しみに逆らうことができずにいたのだ。
「助けたつもりなら、大きな勘違いだよ。久遠は俺の目の前で殺された。俺は、何もできなかった。もう何もないんだ。もう、生きていても意味がない」
 後悔が、無念が押し寄せ、押し潰されそうになる。
「こんなことなら、久遠をこんな目に合わせるくらいなら……何もしなければよかった。俺だけが一人で、どこかで死んでいればよかったんだ。俺に同情するなら、いっそのこと殺してくれよ」
 斬太の残った右目から涙が溢れた。もう自分には泣くことしかできないのだ。生きていても悔しくて悲しくて泣き続けるだけ。どれだけ時間が経っても笑うなんてできるわけがなかった。涙が枯れ果てるまで泣いたとてしも、この世のどこにも久遠はいない。その事実が胸を苦しめることをやめてくれないのだから。
「鎖真って、知ってるよ。お前は偉い神様なんだろ? だったら、教えてくれよ。どうして俺たちがこんな目に遭わなければいけなかったのか」
 斬太は自分よりいく周りも大きい鎖真に縋りついた。
「俺たち、何も悪いことなんかしていない。無理やり引き離されて、どうしようもなくて、それでも我慢してたんだ。確かに逃げようとしたけど、別に俺たちが死のうが何しようが関係ないじゃないか。俺たちが死ねば、炎極魂は別のところにいくだけなんだろ? いらないから捨てようとした。それだけのことだったんじゃないのか」
 斬太は流れ続ける涙を拭おうともせずに必死で思いを吐き出した。彼の切実な言葉を聞いても鎖真は顔色ひとつ変えない。
「さあ」呟きながら頭を傾け。「知らね」
 斬太の感情はこれ以上に高めることができないところまで来ており、バカにしたような鎖真の態度に腹を立てる余裕はなかった。彼の衣服を掴んでいた小さな手の力が抜ける。崩れるように地面に突っ伏し、斬太は声を上げて泣き出した。
 鎖真は彼の気持ちなど汲む様子もなく、斬太の首根っこを掴んで持ち上げた。野良猫扱いされる斬太は鎖真を睨み付ける。
「なんだよ……! もう俺に構うな。ほっといてくれ」
「お前な」酒臭い息を吐きながら。「男のくせにいつまでも済んだことをグダグダ言うなよ」
「お前なんかに何が分かる!」
「見た目はガキでもそれなりに年いってんだろ? その容姿じゃ卑屈になるのも分からなくもないが……」
「うるさい! お前みたいな恵まれて生まれたやつと話なんかしたくねえよ。どうせ見下してんだろうが」
「恵まれて生まれた? 俺が?」
 鎖真は突如、斬太のそれとは比べ物にならない迫力で彼を睨み返した。斬太は一瞬にして飲み込まれ、涙目を見開いた。しかし、鎖真は怒るどころか再び大きな声で高笑いする。
「まあな。やっぱり分かるか?」
 鎖真は手の位置はそのままで斬太を離した。斬太は地面に強く腰を打ち、ぐっと力を入れて顔を上げる。
「顔も頭も体格もいいし、力は強くて身分も高い。全部生まれつきなんだよ。大した苦労も努力も、女に不自由したこともない。お目出度いよなあ」
 謙遜の欠片もなく自慢してくる鎖真に斬太は嫌気が差してくる。そして分かった。鎖真がただの性質の悪い酔っ払いだということを。斬太は立ち直れないほど満身創痍である。そんなものに付き合ってなどいたくなかった。
「……もういいから消えろよ。一人にしてくれ。女にもてるならそいつらと飲めばいいだろう。その方が楽しいじゃないか」
「それがな、そうもいかないんだよ」鎖真は腰を折って斬太に顔を寄せた。「あいつの下に就いてからと言うもの、いつの間にか俺まで変人扱いされてさ」
「あいつ……?」
「依毘士だよ。知ってる?」
 それも聞いたことがある。天竜使いとして、鎖真と並んで特別視されている武神。斬太は名前しか知らない。どうでもよかった。
「ほんと、何度殴ってやりたいと思ったことか。今はだいぶ扱い方が分かったからいいけどさ」
 斬太は鎖真の傍で足を投げ出し、俯いて返事をしない。もう気が済むまで勝手に喋らせておこうと思う。
「でもなあ、今でもまだ理解できないことがあるんだよ」
 目を合わせようとしない斬太に構わず、鎖真は一人で喋り続けた。
「あいつはあれでもな、大昔だけど、優しい奴だったんだ」少し声を落とし。「極悪人だろうが罪人だろうが、必ずどこかにいいところがあるって思うようなお人好しだったんだよ。誰からも愛されるお釈迦様みたいな奴で、もてるくせに、たった一人の女だけを一途に思い、二人は気色悪いほど仲睦まじい夫婦だった。だけど、ある日、妻は妖怪に殺されたんだ」
 聞かないつもりだった斬太は、ふと目を揺らした。
「詳しいことは知らないけど、依毘士の血族に恨みを持つ妖怪に襲われて、女は夫を庇って死んだんだと」
 騙されて力を奪われた依毘士は、目の前で最愛の妻を残酷に殺された。一思いにではなく、少しずつ、身を削るように。そして最後には肉も魂も、まるで酒のつまみかのように骨まで食い尽くされてしまうという過去を持っていた。
 斬太は顔を上げて息を飲んだ。鎖真は酒を口に運びながら、久遠の遺体のあった場所に目線を送る。
「まるで、あんたの弟みたいにな」
 斬太も鎖真と同じところを見つめた。そこにはもう久遠はいない。辛い気持ちは変わらなかったが、もしまだそこに、無残な彼の遺体があったならと思うと心が苦しくなる。鎖真の神聖なる力で浄化してくれたことを、今になって感謝した。
「それから、依毘士は変わった。同じ人物だとは思えないほど」
 その気持ちは斬太には嫌というほど理解できる。きっと今の自分と似たような状態だったのだろう。再び、涙が込み上げた。
「俺にはそんな不幸な経験はないが、まともでいられないのは分かる。そんなあいつが選んだ道は、絶対的な力を手に入れることだった。そこまでも分かる。そうすることで、正義を守りながら復讐ができるわけだからな」
 天界でも天竜は異例な存在だった。ある日、右も左も分からないような依毘士がそこへ赴いたことに誰もが驚き、心配した。同時に、彼は自害するつもりなのだと思った。それを止める手段などどこにもないというのが現実であり、哀れむことしかできなかった。
 だが、彼は帰ってきた。変わり果てた姿で。
 それが今の、天竜を肩に乗せた無慈悲の神、依毘士だった。
「どうしても気になったから、俺はあいつの下に就いてなぜそんなことができたのか、なんのためにそんなことをしたのかをしつこく聞いた。最初はまったく相手にされなかったが、いつしか、依毘士にまともに話しかけるのは俺だけになってたんだ。だからかどうかは知らないけど、あいつは少しだけ話してくれた」
 依毘士は天竜に魂ごと消して欲しく、彼に会いに行った。忘れることができない、忘れてはいけない不幸を背負ったまま生きることも、死んで生まれ変わることも考えられないと。
「そしたら、天竜は思いがけず依毘士に話しかけてきたらしい」
 斬太はいつの間にか鎖真の話に聞き入っていた。自分と同じような経験をした者がいて、それがどんな答えを出したのか、知りたくて当然だった。
「天竜は、依毘士の本質にある強い意志や高潔な心を見抜いたんだろうな。己のすべてを捧げることができるなら、力を授けると、そう言った」
 自然と、斬太は言葉を零していた。
「……すべてを?」
「そう。本当はな、あいつは天竜を飼ってるんじゃなくて、天竜に支配されているだけなんだ」
 天界の者でさえあまり知られていないことを、鎖真は口に出していた。酔っているからというのもあったが、それ以上に、斬太だからこそ聞いて欲しいという思いを持っていた。
「依毘士は自由を、心を引き替えに天竜の力を手に入れた。そして今では最強の神として妖怪のすべてに恐れられる存在となった」
 斬太は、それが依毘士の復讐であり、果たすことができたのならそれだけでも救いなのではと思う。どうしても自分と比べてしまう斬太は、自分にはそんな力はないと落胆した。
「……俺は、そいつが羨ましいと思う」
「そうか? 俺には理解できないけどな」
 斬太は改めて鎖真に向き合った。今までふざけた酔っ払いだとしか思っていなかった彼の目が、据わっている。酔いが回ったのか、斬太は危険を感じで警戒心を抱いた。
「今の依毘士には心がないんだ。それがどういうことか分かるか?」
「こ、心がない……?」
「そうだ。つまり、天竜に支配された時点で、あいつには妻を想う心も、妖怪を憎む気持ちもすべてがなくなっていたんだ」
 斬太の胸に何か重いものが圧し掛かった、そんな気がした。
「それって、復讐と言えると思うか? 依毘士は自分の意志で罪人を裁いているわけじゃない。天竜の力に従い、帝の命令を受けて初めて行動する。どう思う? あいつが立ち直って、力を持って、罪人をいくら殺したところで依毘士本人も、亡くなった嫁も、誰も喜んでなんかいないんだ。俺にはあいつが人形にしか見えない。記憶はあっても、人を愛する気持ちをなくしたあいつは死んでるも同然なんじゃないのか?」
 斬太は鎖真の話を聞いて、少しでも彼を羨んだ自分を恥じた。もしも、自分だったらと考えたとき、鎖真が同じことを尋ねてくる。
「もし、お前だったらどうする?」