千獄の宵に宴を



  第十四場 輪 


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「……それでも、貴様を許すことはできない」
 武流の強い意志に、暗簾は笑顔を消す。
「神を欺くことはできないのだ。だから孤独を選んだ。きっと、貴様をここで罰することが私の役目だ。命と引き換えても、貴様を追い出してみせる」
 武流は獣のような形相で暗簾を睨み付けた。それは僧侶の顔つきではない。暗簾はその凄まじさに少々押される。
 武流は暗簾の攻撃が緩んだことに気づき、邪念を振り払って呼吸を整える。
「一つ聞こう。貴様の望みはなんだ」
 改めて問われ、暗簾は更に小さくなった。
『……別に、ただこの子供を入れ物にして生き延びる』
「何が目的だ」
『目的ねえ』そう言われてみれば、特にないことに気づく。『ないと、生きてちゃいけないか?』
 武流は目尻を揺らす。これも話術か――違う。暗簾は素に戻っていたのだが、武流は彼の性格など知らない。警戒を解くことはできないが、話し合う価値はあるかもしれないと姿勢を正した。
『死ぬときは死ぬ。でも、生き延びてる。だから死にたくない。それだけだ』
 暗簾の素直な言葉は、武流の闘争心を和らげた。嘘を言っているとは思えない。そもそも暗簾の言動には謎が多すぎる。どうして肉体を失ったのか。どうしてここへ来たのか。武流は彼に興味を持ち始めた。
「……どうして貴様が炎極魂を持っているのだ。貴様が入れ物なのか?」
『いいや。入れ物のことは知らない。ちょっとした手違いだ。だが、これに守られたことは事実。ついでに聞きたい。入れ物じゃない俺がこれを持ってたらどうなるか知ってるか?』
「どういう意味だ。私を試しているのならば愚問だ。私はただの人間。炎極魂の存在は認知しているが、それが皇凰の魂であること以外はほとんど知らないぞ」
『あ、そう』
 暗簾は少々残念そうな声を出す。しかし皇凰の、とは言っても魂であることには違いない。最初は自分の体から元の魂を追い出そうとされて具合が悪かったが、今は同じ立場で一つの肉体を求めるもの同士である。いずれは一つになるなり、なんとか形を為すだろうと考える。そうなったとしても、意識は暗簾のものである。どっちが暗簾を支配したとしても構わないと思っていた。
 その前に、と暗簾は改めて武流に向き合った。
『なあ、あんたがいくら位の高い坊主でも、炎極魂をどうこうするのは、はっきり言って無理なんだろ?』
 武流の心は静かだった。暗簾が何かを企んでいるのが分かった。だがなぜか敵意を感じない。話を聞いてみようと、警戒心を別のものへと切り替えた。
「……そうだな」武流に、笑う余裕ができた。「正直なところ、私ごときでは神の魂の領域に触れることは不可能」
『やっと素直になったね』暗簾はいつもの不適な表情を浮かべた。『冷静に考えてみよう。あんたの子供の魂はもうない。俺が喰った。それは今更咎めないでくれよ。もうどうしようもないんだからな』
「分かった……」
『で、俺を殺せば子供は確実に死ぬ』
「もう死んでいるも同じこと」
『物理的にはそうだが、子供の肉体には魂が宿っている。今現在呼吸をし、このまま生まれて生きることは可能だ。それは分かってくれるか?』
 順序を踏んで話を進める暗簾に、武流は心を鎮めて聞き入っていた。引き込まれて惑わされないように、そして話の腰を折らぬように。
『俺はこのままこの子供に取り付いても、どうなるか分からないというのが本音だ。もしかしたら記憶をなくしてしまうかもしれない。記憶を持ったまま成長してしまうかもしれない。元々持っていた妖力も、残るのか、消えるのか、何も予測できないんだ。つまり、俺をこのままにしておくことが、あんたにとっていい方に向かう可能性もあるってことだ。それは、どうだ?』
「……それは」武流は小声で答える。「分かる」
『俺はどうしたいという希望はない。記憶を、妖力を持って、人間の肉体で短い寿命を全うするのならそれで構わない。何も持たないで、ごく平凡な人間として生きるのもいい。最悪は、炎極魂を追ってくる天界の者に捕まるかもしれない。もっと最悪は、今ここであんたに殺されてしまうことだってあり得る。そうだよな』
「そうだな」
『だよな。じゃあ聞く。お前は、一体、どうしたいと思う?』
 武流は考えた。暗簾の言うことも、自分だけに選択権があるわけではないことも分かっている。いろんな可能性がそこにはあった。どれがいいとも言えない。仮にこのまま暗簾に宿らせて、彼が時間とともに記憶をなくし、子供が普通の人間になれたとしてもその人生が幸せとは限らない。それに、何よりも炎極魂を持っている以上は天界の者が干渉してこないとは考え難いことだったのだ。
 気がかりなこともあった。昔、仲間に聞いたことがある。
――千年に一度、地獄の釜が開く、と。
 その周期は人間の時間では気が遠くなるほどのものだったのだが、それが近いという噂が立った。それは「千獄の時」と呼ばれて恐れられていた。実際に何が起こるのかを正確に知る者はいなかったのだが、ただ「罪深き魂の祭り」とだけ、どこかに記されていたことを武流は記憶の隅に置いていた。
 意味は不明だった。言葉だけを聞くと恐ろしいものである印象が強い。
 皇凰はその祭りを行うためだけに存在し、不要なときは他の肉体を借りて転々としている。どこに宿るのかは決まっておらず、天上の者が管理を行うことで、入れ物となった者はどこかで幸せな生涯を送る。武流が知るのはそこまでだった。
 その皇凰の魂がここにある。しかも、千年という遥かな時間の周期が近いのだ。これはただの偶然ではない。そう思いたかった。
 いや、それは建前であると、武流は自分に素直になろうと考え直す。
 自分の一番の望みは? ここで邪悪な妖怪を滅して徳を積むことか。皇凰の魂を守り、神に返上して感謝されることだろうか。
 そんなことではない。あってはならぬことを起こしてしまった自分の望み。それは、たった一人愛した人の間に宿ってしまった命が救われること。
 武流はその言葉をはっきりと心に刻んだ。そうすることで心が軽くなったことを否めない。
 そうだ、自分は、ただの人間。神ではない。奇跡を起こそうなど、考えるだけで烏滸がましい所業なのだ。
 武流は暗簾の問いに答える。迷いなく。
「私の一番の望みは……我が子が、幸せに生きることだ」
 暗簾は笑った。
『俺は優しい生き物じゃないけど、皇凰は違う。こいつなら、哀れな子供を救ってくれるかもしれないぜ』
 だから、見逃せ。それが暗簾の望みだった。それでいいのかもしれないと武流は思う。ここで彼を消し、子供を殺してしまっても誰も喜びはしないのだ。
 必ずしも子供が幸せになるとは限らないことも理解している。この状況で生れ落ちてしまえば、確実に苦労させることになるだろう。それは人間誰しもにある宿命のようなもの。それを乗り越えた先にこそ希望がある。そこまでに導くのが親の役目。
 武流も、暗簾と似た笑顔を浮かべた。
「……皇凰はいい。問題は妖怪、貴様だ」
 意外な言葉に、暗簾は首を傾げた。二人はいつの間にか向かい合って、友のように語り合っている。武流は人差し指を立て、暗簾に向けた。
「手放しで妖怪に我が子を与えるわけにはいかない」
『何だと?』
「……賭けをしよう。私の持つすべての力を駆使し、貴様を封印する。貴様の魂も妖力も、炎極魂もだ」
 暗簾は眉を寄せる。
「貴様もそれなりの妖力を持つ者と見受ける。これは勝負だ。貴様が私の封印を破ることができたなら、子供の体を自由にするがいい。それができなければ、子供は貴様の魂を持ったまま、一人の人間として人生を全うしてもらう」
 なんのつもりだと、暗簾は武流の目をじっと見つめた。そこに悪意も敵意もなかった。
『……意味は分かる。だけど、天界の介入があった場合は?』
「そのときはそれまで。どうせ私もお前も天上には適わないのだから。勝負は引き分けということだ」
 そう語る武流はどこか楽しそうに見えた。その表情は作られたものではない。暗簾はやっと武流の真意が分かり、再び笑った。
『そうか……やっぱり、あんたはどうしようもないクソ坊主なんだな』
 武流はもう否定する気になれなかった。戒律を破ったことは形になってしまって誤魔化しはできない。妖怪に迷いを見透かされ、腹を割って話した。どれだけ強がってもやはり自分は罪人であることには変わりはない。受け入れることがこれほど楽だったとはと、武流はそれを知ることができたことを喜んでいた。
「それが私にできる精一杯の抵抗だ。お前のような邪悪な妖怪など生きる価値もない。しかし、その魂は欲しい。思い通りにならないのならば、賭けに出るしかないではないか」
『勝手な言い草だな。それが坊主の言葉か』
「私は追放された身。仏道は尊いが、我が子も愛しい。それが人の道だ」
『都合のいいお話だ』暗簾は声を落とし。『ま、分かったよ。乗ってやる、その勝負』
 暗簾は武流から離れ、背を伸ばして宙に浮いた。
『俺はこれでも魔界で名を馳せた高等妖怪だ。人間如きの法術、必ず破ってやるよ』
 暗簾の宣戦布告に武流は僅かに身震いした。彼が最後に見せた姿は、まさに邪悪な妖怪そのものだったのだ。一度でも彼に心を許した自分の不甲斐無さをいつか後悔するときがくるのかもしれない。それだけでなく、守りたいと思った子供に辛い思いをさせる。そのとき、きっと子供は自分を恨むだろう。
 いっそのこと、この時に殺してくれればよかったとさえ思われてしまうのかもしれない。
 だが武流は考えることをやめる。自分にできること、できないことを見極めるのも能力の一つである。所詮は「破戒坊主」。認めることで、いろいろなものが見えてくる。

 まず武流は、眠りについた暗簾を魂の記憶と妖力を封印した。
 次に、一つだった体を二つに分けた。誰にも知られることなく、子供は静かに「双子」となった。

 重要なものを閉じ込めるには「入れ物」と、それを守る「鍵」が必要である。
 不本意ではあったが、暗簾ほどの妖怪を欺くには並の呪文や札程度では追いつかない。その上、炎極魂という大きな力も隠さなければいけない。小さな胎児ひとつの媒体ではとても手に負えるものではなかったのだ。
 武流の儀式は何日も続いた。その間、朝も夜も区別できないほどの集中力を要していた。結局、どれだけの時間を費やしたのか、数えていられないほど長く苦しい日が続いた。

 封印は形を成した。だがまだやることがある。
 この賭けによって子供の運命を大きく変えてしまったことへの責務がある。武流は月子へ知らせを届けた。彼女とは二度と会わないと誓った。信頼できる者に頼み、彼女の中の子供が双子であること、そして目に見えない重荷を背負っていることを伝えてもらった。妖怪や炎極魂の存在は伏せながら、姿はなくとも自分も力になるという証に、守護神の加護の力を込めた二つの舶来の首飾りを渡した。
 武流はもう一つ願いを綴った。子供が双子であることは、引き離された自分たちの象徴であると告げ、片割れを自分の元へ預けて欲しいと。そのときに、一度渡した首飾りの一つを子供の首にかけてくれるように。
 それ以上は語らず、最後に一言、ここではないどこか遠い世界に生まれ変わったときは、必ず幸せになろうという言葉を残した。

 数ヵ月後、伝えたとおり武流のもとへ生まれたばかりの赤子が使者によって届けられた。間違いなく首には十字架の首飾りがかけられており、内側に妖怪の魂が眠っていることを確認した。
 武流はその子に「汰貴」と名づけた。そして汰貴を、智示という「箱」を閉じるための「鍵」とした。最後の術を施し、そこで封印の術は完全に成功した。
 汰貴は何も知らず、何の力も持たないごく平凡な少年に育った。

 数年後、武流は戦火の中で盲目の少年と出会った。
 彼に背負わされていた荒々しい業は、武流の目には特別なものに映った。具体的な理由はなかったのだが、武流は彼を救い、汰貴の傍に置いた。それが前世からの因縁であることには気づかずに。
 盲目の少年「赤坐」は、不幸を克服して強い男になった。彼の強さには理由があると武流は感じていた。
 ある夜、武流の夢の中に光り輝く仏が現れた。武流はすべてを悟り、自分が神に迎え入れられたことを心から誇りに思い、赤坐に汰貴を預けてこの世を旅立った。