千獄の宵に宴を



  第十四場 輪 


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 暗簾の魂は時空の狭間を漂っていた。
 天竜の牙に触れた途端、暗簾は肉体も意識もすべてが溶けてしまうような奇妙な感覚に襲われた。それとほとんど同時、体の内側から熱い炎が燃え上がったのを感じた。何が起きているのか分からず、暗簾は自分を包む炎の熱に身を任せた。
 そこから先は意識が途切れてあまり記憶に残っていない。気がつくと見たことも聞いたこともない世界に浮かんでいた。それが今だった。
 体はなかった。意識だけが世界を見、ものを考えている。
 まるで人の体内を思わせるような収縮を繰り返す空間には、所々に赤や黒の液体が交じり合っている。地面も天井もなく、中央には螺旋状に絡まった細いものが途切れることなく下から上へと漫ろ伸びていた。目を凝らしてみると、螺旋のそれは小さな粒の塊だった。
 暗簾の心の中に、自然と一つの答えが導かれた。
(……ここは、輪廻転生の世界)
 暗簾にそんな知識はなかった。それに、通常であればここは思考能力など働かないはずの空間。なのに暗簾は命の螺旋を傍観しながら冷静に物事を判断していた。
(そうか。俺の魂は皇凰に守られたんだ。そしてここへ来て……ああ、そうか)
 肉体だ。魂は肉体を欲しがっているのだ。
(俺の体はもうない。俺は死んだ。体はどこかに置いて来た。俺は、体が欲しい)
 暗簾は無意識のところから湧き上がる欲望を抑えることができずに、ゆっくりと螺旋に近付いた。
 螺旋の蔦には数え切れないほどの生命が実っていた。じっと見つめると、一つ一つに宿る人生が垣間見える。
 悩みを抱える幼い少年。持病で苦しんできた老人。強運に恵まれた美しい女性。
 こんなにたくさんあるのに、自分が潜りこめる隙間はどこにもなかった。当然である。そもそもここは極楽や地獄から転生を許された魂だけが、果実である肉体と共に送られて初めて蔦から芽を出すものなのだから。
 次第に暗簾は焦り始めた。このままここで彷徨い続けなければいけないのかもしれない。どうすれば実に宿れる? なんとかしなければ。
 暗簾は意識の速さを上げ、上へ下へと浮遊した。苛立ちが募り、豊かに実る果実を握り潰したくなる。しかし掴む手さえ持たない彼にはそれも叶わぬことだった。
 ふと、蔦の一部が光って見えた。暗簾は誘われるようにそれに近づいた。光ったそこには、出たばかりの小さな芽が頭を擡げている。
(……今、芽生えたばかりの生命か)
 なぜかその芽は他のものより元気がないように見えた。
(なんて力の弱い生命なんだ。これは、もしかして生まれてすぐに排除される運命にある哀れな命なのかもしれない)
 暗簾はそう考えながら、これ以上は耐えることができなくなった。
(どうせ生きる価値のない命ならば、俺がもらってやる)
 この先に何があるのかなど知る由もない。膨らんで止まらない欲望に、ただ忠実に従った。
 暗簾は小さな芽に触れ、目を閉じる。吸い込まれるように意識が遠のき、暗闇に閉ざされた。
 輪廻の蔦は、外部からの異物に気づくことなく、いつもように命を育み続けた。

 森の奥に佇む小さな祠に灯りが灯っていた。
 夜は深く、細った月の弱い光は森の中まで届かない。さわ、と風が流れた。祠の中央に立てられた蝋燭の炎が揺れる。
 その前に鎮座し、目を閉じて精神を集中させている僧がいた。
――おん ばざら だるま きりく
 頭に浮かんだ言葉をつづり、己の罪に心を苛まれている。生きていくために誰かが傍にいてくれる。すべてに感謝を。優しさを与えられたなら、優しさで返ってくる。
 しかし、僧・武流は自ら孤独を選んでいた。同じ志を持った同士を裏切り、世界から追放され、たった一人の愛した人さえも苦しめようとしている。
 生きている意味などないと何度も思った。それでも、意志を持って生き続けてきた。自ら命を絶つことだけは抵抗があった。自分は生かされている。死に場所など選べないのだ。それまではまだやることがあるに違いないのだと、こんな自分にも役目があるのだと神に感謝してここまで来ていた。

 武流は不穏な雲の動きに勘付き、眉を寄せた。
 離れた場所から、二度と会わないと決めた一人の女性の安否を心の目で見つめていた、そのときだった。
 女性・月子の中には一つの命が宿っていた。彼女の精神には大きな負担があったものの、中の胎児には今まで異常はなかった。まだ小さく、本人も気づいていなほど脆弱だったそれに、突如黒い影が落ちたのだ。
 武流は気を集中させてそれを探った。心の目を月子の中へ飛ばし、胎児を喰らう「鬼」の姿を見た。
(……なんということ)武流の鼓動が早まった。(胎児の生命が……)
 本当は、このまま胎児は消えていくことを武流は予測していた。それも運命の一つと、口を閉ざして見守っていた。その小さな灯火を、何者かが故意に吹き消した。そしてそこに居座り、子供を乗っ取ろうとしているのが見えてしまったのだ。
 このままにしておくことはできない。見える。邪悪な心を持つ妖の存在が、はっきりと。
(違う……)
 武流は寒気を感じた。魂は、二つあったのだ。子供のものではない。それはもう踏み消されてしまった。今子供を生かしているのは、どこからか迷い込んできた魂。そして、それが抱えていたもう一つの魂。
(まさか……いや、そんなはずはない)
 魂の正体を探りながら、武流は見出した可能性を否定した、したかった。しかしそうだとしか思えない。否定するよりも受け入れてしまったほうが解決に近い。
(そんな、どうして……)
 そうだとするならば、これも自分の犯した罪の業なのだと認めるしかない。戦うしかない。戦うことで敗北するかもしれない。悪を滅したところで自分も、月子も子供も無事では済まないかもしれない。すべてを覚悟して、武流は気を研ぎ澄ました。
 数珠を手に巻き、印を結ぶ。紡ぎ出す言葉は経に似た呪文だった。
 武流は生まれついて強い法力を持っていた。迷うことなく仏道へ進み、その特殊な能力を活かして悪しきものを滅する力を習得していた。ただの高僧ではなかった。神仏と意志の疎通も可能とし、必要があれば彼らの足や腕となり戦うことのできる、修羅神に最も近い数少ない人間の一人だったのだ。
 その世界で彼を知らぬ者はいないほど高い位を頂いていたにも関わらず、武流はたった一つの戒律を破った。そのために世界の隅に追いやられてしまっていた。彼が世を捨て一人になり、もう数年が経っている。
 武流の呪文は、目に見えてしまいそうなほど禍々しかった。室内中に言葉が渦巻き、蝋燭の炎を激しく揺らす。熱気が篭り、武流は全身から汗を流していた。呪文が異空間の扉を作り始めた。空中に浮かんだ黒い塊が深く、大きくなっていき、ここではない場所へ繋いだ。
 捕えた。
 武流は更に集中力を高める。ここからが本当の戦いだった。気を抜けば、簡単に闇に取り込まれてしまうことを知っている。
 黒い渦は大きく口を開き、そこから何かを連れ出した。
 息を乱して苦しんでいたのは、寄生妖怪の暗簾の魂だった。姿はここにないのだが、武流にはそれが見えた。
『……ああ、クソ』
 暗簾は、せっかく安堵の場所を見つけたと思っていたところに、思いも寄らない邪魔が入ったことで苛立っていた。
『次から次へと、何なんだよ』
 武流は彼の正体を探りながら、意を決して語りかける。
「胎児を侵す邪悪な妖怪。何ゆえ、我が子に取り憑いた」
『はあ? 誰だよ、あんた』
 暗簾も、武流と同じく彼の正体を探る。一見してただの人間ではないことは分かった。
『……ちくしょう、坊主か』暗簾は歯をむき出す。『よりにもよって、ついてねえな』
 面倒なものに憑いてしまったと思いながら、ここは踏ん張らないと自分が消されると気を引き締める。
「妖怪、今すぐ子供から離れなさい。そうすれば私が成仏させてやろう」
『いやだね。人間の言うことなんか聞くもんか』
「貴様を無理やり引き剥がすことも可能なのだぞ。そうすればその魂は地獄行きだ。それでもいいのか」
 暗簾はじっと武流の心の隙を狙っていた。肉体のない暗簾にできることは心理戦だった。確かに無防備な暗簾を祓うことは、武流なら可能なのだろう。そうはいくかと、目を細める。
『いいのかな、そんなこと言って』
「妖怪の言葉など聞く耳持たぬぞ」
『悪いけど、子供の魂は俺が喰ったよ』
 武流の心が微かに揺れた。
『俺を消したら子供も死ぬ。それでいいのか?』
 分かっている。しかし、このまま妖怪に乗っ取らせるくらいなら子を犠牲にしたほうが……いい、とは断言できず、それが武流に迷いを作っていた。
 暗簾は笑った。どれだけ力があっても所詮は人間。神仏とは違って無情にはなれないはず。
『って言うかさ、あんた坊主のくせに、我が子って、どういうことよ?』
 暗簾の攻撃が始まる。武流は揺れる心に気を張り、神通力で厚い壁を作り出す。
『隠しても無駄だよ。俺には見える……高僧のくせに、女と情を交わして仏道を追放された腐れ坊主、だよな』
 武流は答えない。
『そんな外道が偉そうに経を読んでんじゃねえよ。如来に蹴飛ばされるぞ』
「……道を誤った今も、仏を愛し、仏道を尊重する心は変わらぬ。貴様を滅するこの力がまだこの手にあることがその証だ」
『ふうん……それじゃ、俺の中にあるもう一つの何か、それが何か、お前には見えているのか?』
 武流は、やはりと思う。確かに魂は二つある。しかも、本来ならば人智の及ばぬ巨大な力のあるそれ――皇凰炎極魂。信じられない。蝋燭の炎が不穏に騒いだ。
 暗簾はそれを見逃さなかった。
『俺が地獄の使者、天竜使いから逃れられた理由は、皇凰に守られたからだ。今も、それは俺の中にある。あんたに炎極魂を消せるほどの力があるのか?』
 それは、ない。このままでは子供は暗簾の魂に乗っ取られてしまう。何か、方法を。武流は焦りを隠して考えた。その間も、暗簾は攻撃を止めない。
『仮に炎極魂を消せたとして、その後はどうするつもりだ? 炎極魂を消すことで起こる障害は? それが何か分かっているのか? 起こったことに責任を取れるのか?』
 暗簾は、口の端を耳の近くまで持ち上げ、毒々しい笑顔を武流に突きつけた。
『……責任なんて取れるわけがないよなあ。女一人、幸せにできない甲斐性なしの破戒坊主が』
「……何を!」
 武流は、怒りのあまり大きな声を上げた。その声には退魔の念が篭っており、暗簾の体を引き千切った。しまった、と武流は息を飲む。散り散りになった暗簾は、煙のように宙を舞い、笑い声を上げながら一つになっていく。再び姿を現し、乱れた武流の心に一歩近付いた。
『しかも、不本意でできた子供さえも、下らない綺麗事をのたまって見殺しにしようとしている。そんな薄情な男が、仏を愛しているだと? 世迷言にも程がある』
 武流の印を結ぶ指がすべり、印が解ける。すぐに整えるが、既に力は弱まっていた。
『それに、俺は見たんだ。この子供の命は芽吹いたばかりで消えようとしていたことを』
「……何?」
 武流は、とうとう暗簾の言葉に反応を示してしまう。
『母体は弱っている。あのままでは生まれ出でずに息を引き取っていたか、生まれて間もなく死んでいた。もしくは……真実を隠すために、邪魔なものを排除せんがごとく殺される運命にあったのかもな。俺にはそう見えたよ』
 武流は呼吸を乱した。暗簾の言うことが間違いではないと分かったからだ。
『なあ、俺にはウソついても無駄だぜ。お前はどこかで望んでいたんだろう?』
 武流は印を解き、耳を塞ぎたくなる。その衝動に耐えるが、暗簾は彼の心の隙間に魔の手の爪先を伸ばしてくることを止めない。
『子供など欲しくはなかった。そうだろう? 戒律を破った事実は、形にさえならなければ隠すことだってできたのかもしれない。弱り続ける女の様子を探りながら、そこに宿った魂など消えてなくなってしまえばいいと、そう思ったことがあるだろう!』
 印は完全に解けた。違う、違うと武流は自分に言い聞かせる。二人の間にできた愛の形を、確かに、自分は喜んだはず。たとえそれが罪だったとしても、戒めと理性さえ取り除いてしまえば幸せと呼べるのだと信じた。偽りではない。何度も、武流はそれを確かめて答えを出していたはずなのだ。
 生じた迷いは、恐ろしい妖怪が作り出した幻影。絞めつけられる心臓を押さえながら気を強く持った。