千獄の宵に宴を



  第十三場 地獄 


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 しかし、突然才戯に駆け寄ってきた樹燐に、依毘士は押しのけられる。今度は何事だと、一同は再び警戒心を強めた。
 樹燐は才戯の前に膝をつき、彼の顔をじっと見つめた。才戯は眉を寄せて顔を逸らすが、樹燐に乱暴に顔を掴まれて彼女に引き寄せられた。
「……般闍迦はんしか様?」
 樹燐は才戯の顔や角をじろじろと見ながら呟いた。依毘士と音耶はその名を聞いて顔を見合わせた。
「なんということ」樹燐は嬉しそうに目を細めた。「この凛々しいお姿、黄金の角。鬼神の王、般闍迦様を映したものではないか」
 樹燐は今までの、男と同等にやりあうほどの勇ましさを一転させた。まるで運命の出会いでもあったかのような「女」の顔になり、うっとりと才戯に見とれている。才戯は彼女の気持ちに、あからさまに迷惑そうな表情で答える。だが、そんなものは樹燐には伝わらなかった。
 般闍迦とは鬼神の頂点にある王の名である。そして、樹燐の血族である鬼子母神の夫でもあった。般闍迦は、樹燐でも純粋に憧れるほどの高潔な鬼神であり、鬼の一族の間では誰もが尊敬する存在だった。
 どうやら、才戯は般闍迦と容姿が似ているようである。樹燐は才戯のことなど知らないまま、すっかり彼に心を奪われていた。
 樹燐は才戯の顔から手を離し、依毘士を睨み付ける。
「おい、なぜこの者の角が一つないのだ。しかも、片腕も失っているではないか、貴様の仕業ではあるまいな」
 依毘士にとってはどうでもいいことだった。あまりにも自分勝手な樹燐の言動に、怒りを通り越して呆れの域に達してくる。
「……私ではない。腕が切れたのは事故だ。角は知らん」
「まったく、この者が般闍迦様の血縁者と分かっての仕打ちか。鎖で縛り、このような牢獄に閉じ込めるとは。音耶、貴様は自分の立場が分かっているのか」
 今度は音耶に飛び火する。音耶も返事に困り。
「そう言われましても、才戯は妖怪です。元は鬼神だったかもしれませんが、罪を犯して地へ落とされたわけですし、もう彼の中の鬼神の血は薄れています」
「薄れていても、こうして般闍迦様のお姿を色濃く映し出しておるのだ。よくもこんな無礼なことができたものだな」
 樹燐は一通り八つ当たりした後、再び顔を赤く染めて才戯に向き合った。
「……素晴らしい。こんなところで帝に逆らった鬼神の末裔と出会えるとは。しかも般闍迦様によく似ておる。殺すだなんて、勿体ない。きっと、そなたの心もまた鬼神に相応しい勇敢な思想なのだろうな」
 完全に脱線してしまったこの空間で、樹燐だけが一人で思い耽っていた。いつまでこのままにしておくのか、誰もが悩んでいる中、才戯が口を開く。
「……俺は、般闍迦の直系じゃない」
 その声も憧れの般闍迦に似ているらしく、樹燐の耳には心地よく感じた。
「知っておる。魔界に落とされた鬼神は般闍迦様と勢力を二分する者だったと聞いた。しかし鬼神の一族は遠い昔に分裂しているのだ。どこかに血の繋がりはある。こうして遠い世界で王の覚醒遺伝が起こっていたとは。なんて素晴らしい」
 樹燐はすっかり舞い上がっていた。
「天界にはもう独り身のいい男はおらぬと落胆していたところだったのだ。そうか、魔界にいたのか。まさかこんな形で出会えるなんて、これは奇跡と言っても過言ではないかもしれぬ」
 才戯は鬱陶しくなっており、それは他の者も同じ気持ちだった。
「俺は自分の系列だとか血族だとかに興味はない。離れろ」
「そうはいかぬ。そなた、才戯と申すのか。私が生かしてやる。これからは私の傍にいるがいい」
「!」
 今までに増して酔狂な樹燐の発言に、依毘士と音耶は大声を上げそうになる。彼女の言っていることは二人にとっても許せることではなく、天界の掟にも大きく反する。冗談にしか聞こえないのだが、樹燐ならやり兼ねない。
 ざわつく空気を鎮めたのは、才戯の一言だった。
「断る」
 強い口調で拒絶され、樹燐は戸惑いを見せる。
「なぜだ。このままではそなたはこの世界から完全に消滅させられてしまうのだぞ。転生もなくなり、やり直すこともできず、今までの生きた軌跡もすべてがただの記録でしかなるくなるのだ。そなたほどの貴重な存在が、何も残さずに消えてしまうなんて……」
「うるさい」才戯に迷いはない。「俺はいつ死のうが、転生しようがしまいがどうでもいいんだ。誰かに借りを作ってまで生き延びようなんて、そんなみっともないこと、願い下げだ」
「そうか……」樹燐はそれでも諦めない。「男らしい立派な心構えだ。やはり、手放すのは惜しい」
 依毘士と音耶は、これ以上は時間の無駄だと思い、強制的に樹燐を追い出そうかと考える。
 それは才戯も同じだった。そして、彼には樹燐に遠慮する理由はまったく、ない。
「いい加減に黙れ。この、鬼ババア」
 一瞬にして、一帯の温度が下がった。それは言いたくても言ってはいけないと我慢していた言葉である。依毘士と音耶に寒気が走った。
 さすがの樹燐も、あまりの衝撃に固まってしまっていた。
「外見ばっかりチャラチャラしやがって」才戯は構わずに暴言を吐く。「こんなおっかない女、魔界でも見たことねえよ。鬼神の王も尻尾巻いて逃げんじゃねえの? 本気で男を口説きたかったらな、もっと女らしくなってみろ。もしいくら頑張っても修正できないようなら、別の生き物にでも生まれ直してこい」
 室内はしんと静まり返った。もう才戯は助からないだろう。誰もがそう思った。彼女のことだ。ただ魂を消滅させられるだけでは済まず、陰険な方法で彼を苦しめるに違いない。雉も鳴かずば討たれなかったのに、一同は才戯に僅かな同情を抱いた。
 重苦しい空気を揺らしたのは、樹燐だった。ふっと口の端をあげて、改めて才戯を見つめる。
 今彼女の頭に血が上っていることは、こめかみに浮き出た血管を見れば分かる。そもそも才戯は樹燐のことをよく知らず、ただの高飛車な女だとしか認識していない。恐れはなかった。
 樹燐は、最後に如来のような笑顔を才戯に見せる。なんのつもりだと思う、その間もなく、樹燐は突如、爪を尖らせて才戯の顔を鷲掴みにした。無防備だった才戯はぞっと背筋を凍らせた。
「!」
 見守っていた一同は目を見開き、危険を察知して少々二人から離れた。
 樹燐は才戯の顔を掴み、握り潰さんばかりに爪を食い込ませてくる。才戯は逃げることができずに苦しみ悶えた。掌で視界を遮られて何も見えない。目の前の彼女が、般若の形相で牙を剥き出していることも知る由がなかった。
「……そなたは」樹燐の声は低く、僅かに震えていた。「男としての器はなかなかのものだ。が……女を見る目は、どこまでも最悪のようだな」
「いっ……離せ、鬼ババ! 頭が潰れる!」
 懲りずに禁句を口にする才戯に、樹燐は更に腕に力を入れてく。それだけではなかった。樹燐を取り巻く空気の温度が上昇して滲み始めた。止めるべきと音耶は思いつつ、勇気と恐怖が葛藤してすぐには行動できなかった。
「せっかくの上玉、このまま消滅させるのは口惜しい。才戯、そなたにはその腐った目を鍛える機会を与えてやろう」
「ふざけるな! 俺の目は正常だ。腐ってるのはてめえの性根だろうが!」
 依毘士もこのままではまずいと足を出すが、途端に樹燐から発せられた強い光に目が眩み、間に合わなかった。
 才戯の体が焼けるように熱くなった。燃える、というより、溶ける。いや、小さな粉になって舞いながら空間の一部になってしまいそうな幻覚に包まれる。
「今以上にいい男になってこい。そして、いつか必ず、貴様を私の前に跪かせてやるからな……!」
 樹燐の捨て台詞が才戯の意識の中から遠のいていった。

 樹燐の放つ光が収まると同時、太い鎖が大きな音を立てて床に落ちた。そして、才戯の姿はどこかへ消え去っていた。
「……な、な、何をなさいました!」
 とうとう音耶は大声を上げた。すっと腰を上げて振り向いた樹燐の顔は、いつものものに戻っていた。
「樹燐」依毘士の怒りは頂点に達している。「何をしたのか分かっているのか!」
 二人に怒鳴られ、樹燐はふと我に返った。そういえば、樹燐は才戯が何者なのかをよく知らなかった。依毘士と音耶の会話から、どうやら炎極魂を盗んだ妖怪と関わりがあることは分かっていたのだが、怒りですっかりそのことを忘れてしまっていた。
 さすがにやりすぎたかもしれないと、樹燐は額に汗を流した。しかし、今更どうすることもできない。戸惑いを隠して無理に笑う。
「あの無礼な妖怪に業を背負わせて人間に転生させた。それがどうした」
「才戯は転生させてはならぬ魂だ。帝の決定なのだぞ」
「だから、それがどうした」樹燐は強気に出る。「どうせお前が一人逃がしているのだ。一人も二人も同じこと」
「同じではない! 貴様のしたことはただの腹いせだろう。一緒にするな」
「ふん。それでもお前に私を裁く権利はない。文句があるなら帝に言いつければいいではないか」
 樹燐の開き直った態度は腹立たしいが、彼女の言葉には二の句が告げない。言い訳さえしようとしない相手では話し合いもクソもなかった。
 才戯がこの場にいなくなった以上、依毘士がここにいる理由はなかった。このまま樹燐の思い通りになるのは気分が悪いが、今できることはせいぜい口喧嘩がいいところである。そんな下らないことで時間を費やすのは愚行であると、冷静に判断する。樹燐といればいるほど神経が磨り減るだけ。依毘士は怒りを飲み込んで背を向けた。そんな彼に振り向き、樹燐は軽く片手を振って送り出す。
「お疲れ、依毘士」
 いちいち心にもないことを言わなくていいと心の中で呟きながら、依毘士は黙って立ち去った。

 その場には樹燐と音耶、そして影の薄い無表情の久遠が残った。音耶は脱力し、座り込んで頭を垂れる。
 足音も立てずに久遠が樹燐に寄った。
「樹燐様……何か、お考えで?」
 久遠は才戯のことを聞いていた。樹燐としても予定外のことをしてしまったのだが、ここはもう居直るしかないと気持ちを切り替えた。
「別にそうでもないのだが、これも一つの縁かもしれぬ。才戯が千獄の時に関わる可能性は高い。悪いようにはならぬと思うがな」
 才戯を縛っていた鎖を見つめている樹燐に、音耶は声をかける。
「あ、あの……樹燐様。あなたは、一体何を企んでいらっしゃるのでしょう」
「企んでいる?」
「あ、いえ、言葉は悪いですが、ここまでの暴挙……お咎めを受けないと思える自信は、どこにあるのでしょうか」
「暴挙とは、大げさな」
「大げさではありませんよ」音耶は今にも泣き出しそうな顔になる。「天界や地獄での決まりごとにことごとく逆らい、しかも対象は皇凰に関わった重要な魂ばかりです。その上、千獄の時が近いのです。あなたのしたことが大きく影響を与えるのかもしれません」
「そうか?」
 重い口調の音耶に反し、樹燐は何でもないかのように目線を上げた。
「千獄の時は何をしても起こるものなのだ。例え帝であってもそれに逆らうことは不可能な、自然の摂理のようなもの。それに紛れた少々の悪戯でどうこうなるものではない」
 音耶は厳しい表情を浮かべる。
「やはり……考えなどないのですね」
 樹燐は冷たい目線を投げ、ふんと逸らした。
「お前に久遠殿の魂を借りると伝えに来ただけだ。用は済んだ。帰るぞ」
「どうなっても、私は知りませんよ」
 久遠を連れて去ろうとする樹燐の背中に、音耶は言い捨てた。生意気な、と樹燐は思うが、自分にも非があることは受け入れている。重い罰を言い渡される可能性も当然あった。それでも、構わない。
 樹燐には依毘士や音耶のように真っ直ぐな生き方はできない。自分がしたいと思うことを貫く。その結果は、何があっても受け止めるという覚悟だけが彼女の原動力だった。
 久遠は樹燐のそんな勇気と孤独を見抜いていた。だから彼女のついてきたのだった。きっと恩返しはできないだろうと思う。樹燐も見返りなど期待していない。そのことを心に留め置き、久遠は心から樹燐に感謝し、彼女と同じ重さの覚悟を持っていた
 久遠は険悪な二人の間にそっと割り込み、音耶に頭を下げた。
「申し訳ありません、閻魔大王様。僕の我侭です」
「えっ……」
 音耶は戸惑う。無理やり捕えることもできるのだが、重なり続けるうまくいかない出来事の反動で、こう素直に謝られると強行することに抵抗を感じる。
「もう少しだけ時間をください。僕は何もしません。今はもうただの死者ですから」
 役職上、目の前にいる久遠を見逃してはいけないとわかっているのだが、音耶は彼の受けた仕打ちを知らないわけではなかった。個人的には、確かに可哀想だと思う。もしも閻魔歴の長い父だったら、きっと例外なく彼の自由を奪うに違いない。善でも悪でもなく、この世界の秩序を守るために。自分もそうするべきなのだろうが、どうしても無情にはなることができなかった。こんなときだからこそ自分の未熟さに、今の混乱の状況に甘えてもいいかもしれないと思い、音耶は力を抜いた。
「……お前はその少しの時間で、何をしたいと思っているんだ」
「見届けたいだけです。僕たち兄弟の運命を。早くて数時間後、遅くても千獄の時に兄は、死にます」
 覚悟を決めている久遠の揺ぎ無い意志に音耶は心を動かした。しかし。
「僕は、最後まで付き合いたいのです。この架せられた悲劇に」
 なぜか、久遠が微笑んでいるように見えた。見えたのではない。久遠は、不適に笑っていた。
「救われなくてもいい……報いを、復讐を。兄さんがいる限り、炎極魂は僕のもの。まだ僕たちは解放されていないのです。逃げようなどと思った僕が愚かでした。だけど、今こうして肉体を失ったことですべてが見えたのです。僕は皇凰と向き合いたい。皇凰の持つ力を、偉大なる加護を信じること。それが僕にできる最後の役目なのです」
 理解不能な言葉を綴る久遠からは深い怨念が放出していた。久遠は生前も大人しくて心優しい少年だった。霊魂となった今では悲しみに暮れて存在感さえ薄く、とても何かに危害を加えるような人物とは思えなかった。なのに、突然の彼の変貌に音耶は蒼白して身震いを起こす。この世界には怖いものしかいないのかとこの場から逃げ出したくなった。
 感情が昂ぶった久遠を諌めるように、樹燐は彼の隣に立つ。
「音耶。どうせお前は何も聞いておらぬのだろうが、今まで皇凰が宿ってきた者の因果関係を調べてみるといい。そうすれば久遠殿の言葉の意味が自ずと分かるだろう」
「え?」
「入れ物には必ず番いがいるのだ。様々な形で。そして久遠殿のように、入れ物が番いより先に死亡した例は、今までになかったことだ。入れ物は天界に隔離し、番いは通常の生活を送るのだから当然のことなのだがな。だから、今回のことは特殊な事例である」
「番い……ですか」
「そう。神の魂の入れ物には何かが必要。本来は妖怪如きが盗んで奪えるものではなく、それに気づいている者は少ない。ただ、それだけのこと」
「…………」
 音耶にどっと疲れが押し寄せた。二人が何を言っているのか気にはなるのだが、これ以上仕事を増やしたくないというのが本音である。
 自分が地獄の王に就任してから今までの間に片付けられずに積み重なってきたもの。それ以前に父から引き継がれたこと。現在、こうして言うことを聞いてくれずに増えた余計な仕事。それによって起こるであろう問題。そして、近々訪れる千獄の時。
 それを全部自分がなんとかしなければいけないのだと思うと、すべてを放棄して死にたくなるほどの苦痛が圧し掛かってくる。音耶はがっくりと肩を落とした。
 彼の気持ちは分かるが、樹燐に手助けできることはない。久遠に目配せをして踵を返した。
「音耶……父上殿はいくつものご病気を抱えて療養中とのこと」
 音耶は俯いたまま答える。
「……はい。リウマチに脚気に偏頭痛……最近は外反母趾で」
「温泉に通っているらしいな」
「はあ」
 久遠は何か思うことがあり、ちらりと音耶の背中に顔を向ける。
「それはお気の毒」
 そう言い残し、樹燐は久遠を連れてその場を後にした。

 牢獄を出て、暗い廊下を歩きながら、久遠が小声で呟いた。
「音耶様が先代の嘘を真に受けているうちは……」
 続きを濁す久遠の気持ちを察し、樹燐が続けた。
「ずっとうだつが上がらないままだろうな」
「……そう思います」
「先代は千獄の時を経験している。見え見えの嘘をついても逃げたくなるほど大変だったということだろう。未熟な息子に押し付けるのはどうかと思うが……まあ、私の知ったことではないがな」
 素知らぬ顔で廊下を進む二人の隣を、数人の鬼が駆けていった。牢獄に一人で残った音耶が、落ち込む暇もなく仕事へ引っ張り出されたことは、想像するに容易いことだった。