千獄の宵に宴を



  第十三場 地獄 


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 三途の川を進むと大きな門が見えてくる。
 それは黒を土台にし、炎を象った装飾で囲まれていた。その左右には赤と青の肌をした巨大な鬼が番をしている。目は飛び出るほど大きく、伸びた牙は口に納まりきれずに常にはみ出している。その形相は恐ろしく、手に持つ金棒で今にも襲い掛かってきそうな迫力があった。
 訪れる者を怯えさせる門番は、足元に立つ二人を見て静かに頭を下げた。
 鬼の意志を受け、重く頑丈な門がゆっくりと開く。ご苦労、と言いながら樹燐は悠々とそこを潜った。その後ろに、無表情の久遠が続いた。

 門の中は石畳の道が続き、道に迷うことがないように真っ赤な鳥居が立ち並んでいる。その数を数えたものはいない。そこに行列を作る死人の人数によって増減するからだ。
 顔色の悪い死人たちの先には閻魔大王の座があった。閻魔大王の台帳には、死人一人一人の、生まれたときから死ぬまでのすべての人生が書き綴ってある。それを管理し、確認し、死人の魂をどこへ向かわせるか決める権利のある者が地獄の王だった。
 その仕事はとても大変なことであり、責任も重い。相当な能力を必要とされる役職なのだが、現在の閻魔大王は、あまり頼りになる風貌ではなかった。
 まだ閻魔の衣装が馴染んでいない彼は、音耶おとや。彼は見た目だけでなく、中身も若かった。数年前に父の後を継いだばかりだったからだ。先代はまだまだ元気だった。なのに、父の急な隠居宣言に音耶は戸惑い、困り果て、それでも逆らうことができずにその椅子に座らされることになっていた。
 突然音耶が就任させられてからというもの、地獄は騒然とした。能力の追いつかない若者が無理にそこで仕事を任せられたのだから当然である。そして今も、閻魔の部屋は騒がしかった。

「依毘士、一体なんの用だ」
 音耶は、捌けない仕事をそっちのけ、知らせもなしに乗り込んできた依毘士に大声を上げた。依毘士は返事もせずに部屋の奥へ進んだ。その後を音耶が追いかけてくる。
「勝手なことをするな。用件を言え」
 肩を掴まれて依毘士は足を止めるが、手を払いのけて音耶を睨み付けた。
「才戯がここへ来ただろう。奴を出せ」
「は? 確かに来たが」
「どこにいる?」
「暴れたから鎖で繋いだ。あれはお前がやったのか」
「そうだ。奴の魂を処分する。帝から命令が出ているはずだ。文句があるか」
 依毘士は背を向け、牢獄のある場所へ足を進めた。
「命令? そんなの……あったかな」
 音耶は首を傾げる。細部まで仕事の行き届いていない彼は自信がなかったのだ。確認に戻りたいが、それが済む前にきっと依毘士は才戯を消すだろう。魂の行き先を決め、確実に見届けるのが音耶の仕事でも重要な部分である。炎極魂のことは聞いている。きっと命令が出ているものと信じ、そのまま彼の後についていくことにした。

 書類で散らかった音耶の部屋を出ると、闇に包まれた廊下が続いた。足元は見えないが等間隔に蝋燭の炎が浮いており、それを頼りに進んでいく。この奥には罪人の送られる地獄がある。
 地獄には八種類あり、罪の重さによってその種類が決められる。奥へ行けば行くほど与えられる罰は重く、最後の八つ目は無限地獄と呼ばれ、そこは許されざる重罪人が永遠に閉じ込められて責め苦を受けなければいけない無慈悲の空間だった。

 地獄へ通じる闇の廊下の途中に、二人の鬼が立っていた。一人は牛の頭、もう一人は馬の頭を持つ大きな獣人だった。
 仁王立ちしたまま動かない二人の鬼の間には鉄の扉があった。依毘士はその前に立ち、顎を上げて音耶に「開けろ」と命令する。音耶は態度の大きい彼に不快感を募らせながらも、仕方なさそうに鍵を取り出した。
 錠を外し、音耶が先に中へ入る。その先も闇は続いた。進めば進むほど空間が狭くなってくる。息苦しさを感じながら、突き当たりまで進む。そこには、赤い目を光らせて二人を見据える才戯がいた。
 ここは、まだ行き先が決まらず、上部の指示を必要とする重要人物の魂が収容される牢だった。
 才戯は暗闇の中で上半身を太い鎖で頑丈に縛られ、胡坐をかいていた。その両足にも枷が嵌められている。彼はここへ着いた途端、右腕も武器も持たない体で暴れ、音耶に暴言を吐いた。ただでさえ忙しい音耶は才戯の悪口雑言に腹を立てる余裕もないまま、どうしてここに彼が来たのかを確認するまでと、鬼を総動員して何とか捕らえ、無理やり牢獄に閉じ込めた。その騒動が一段落したところに依毘士がやってきたのだった。
 依毘士は才戯に近寄る。
「貴様の魂は消滅させる。言いたいことがあるなら聞こう」
 才戯は依毘士に目線を移し、じっと睨むだけで言葉を発さなかった。
「何もなければ、これで仕舞いだ……だが、その前に」
 依毘士は少し声を落とした。早く終わらせろとため息をついていた音耶は彼の変化に気づき、耳を澄ます。
「一つだけ問う。暗簾はどこへ行った?」
「……なに?」才戯は目を揺らした。「あいつ……ここへは来てないのか」
 音耶は何事かと思うが、とりあえず二人のやり取りを傍聴することにする。しかし、依毘士はそれ以上言おうとしなかった。
「……知らぬなら、結構」
「待て」遮ったのは音耶だった。「依毘士、お前、まさか罪人を逃がしたのか」
 その言葉に、依毘士は眉を寄せて苛立ちを露わにした。
「奴の魂を炎極魂が守った。予想外だったのだ。だが暗簾は探す。確実に、私が殺す」
「落ち着けよ。問題はそこじゃない」
「なんだと」
「お前は一度処刑に失敗ということだな。それじゃあ免罪だ。お前が暗簾を殺すことはただの殺人行為。そのことがわかっているのか」
「何を……失敗など許されない。天の宝を穢した者を野放しにしろと言うのか」
「その許されないことをしたのはお前だ。帝に指示を仰げ。これ以上勝手なことは私が許可しない」
「偉そうに」依毘士は舌を打ち。「新任の若造が。私に命令か」
 音耶は依毘士に睨まれて少々怯んだが、これは仕事だと踏ん張った。
「こ、ここは私の管轄だ。私の指示に従ってもらう」
 言い合う二人の足元で、才戯が牙をむき出していた。暗簾が逃げた。巻き込んだ自分を差し置いて、一体どこへ。
 険悪な雰囲気の室内に、高い笑い声が響いた。いつからそこにいたのか、樹燐が扇子を広げながら姿を現す。
「樹燐様……」
 音耶が慌てて頭を下げるが、樹燐は指を揺らして挨拶は無用と伝えた。樹燐の浮かべる嘲笑の瞳は、依毘士に向けられていた。依毘士は、嫌な奴に会ったという表情を露骨に出した。
「依毘士。貴様は少々調子に乗りすぎたようだな」
「何……」
「こともあろうに帝の勅令に失敗するとは、なんたるマヌケ」
 依毘士は音がするほど奥歯を噛み締める。樹燐はまったく臆せずに続けた。
「さすがの天竜様でも皇凰の加護には適わなかったということか。貴様の完璧神話も崩れ去ったなあ。無様なものだ」
「樹燐……調子に乗っているのは、貴様のほうではないのか」
 一触即発の二人に、音耶は足が震えた。神仏同士の喧嘩の仲裁の方法は教えてもらっていない。逃げてもいいだろうか。音耶は腰を引いた。
「己の力を誇示することに気を取られているから足元を掬われるのだ。神は業を徳に変える生き物。何のために罪人を裁くのか、その意味を履き違えた貴様の負けだ。認めよ」
「ふん、天竜は無慈悲の神。すべてが許されるのならば天竜の存在理由を迫害するも同じこと。貴様にそんな権利があるとでも?」
「そんな権利を主張した覚えはない。天竜が無慈悲の神ならば、慈悲の象徴である皇凰が討ちあい、その皇凰が上回ったということ。それがどういう意味なのか分からぬか」
 言葉を失い、依毘士は拳を握った。彼が切れたら誰も止めることができない。唯一、うまく宥めることができる者いるとしたら鎖真なのだが、彼は今ここにいない。いつも一緒にいるはずなのに、こんな時に限ってどうして、と音耶は何もできずにうろたえていた。
 とりあえず、この場からいなくなって欲しいと思い、睨み合う二人に恐る恐る声をかける。
「あ、あの……ここを出ませんか? そういった話し合いは天界でされたほうがよろしいかと」
 二人に同時に目を向けられ、音耶は縮み上がった。
「才戯は、そのままにしておきますから、ここで二人が問答しても答えは出ないのでは」
 依毘士は再度樹燐を睨む。
「大体、どうして貴様がここにいるのだ。入れ物は死んだ。その入れ物の管理を怠ったのは樹燐、貴様ではないのか。それが問題を引き起こした。その責任はどう取るつもりなのだ」
 二人の口論はまだ終わらなかった。
「おお嫌だ。まるで鬼の首でも獲ったかのように。確かに久遠殿は死んだ。しかし、その責任を取らぬとは誰も言っておらぬぞ」
 入れ物、久遠の名を聞いて、音耶は別の不安に襲われた。確か、何か別の問題があったような気がする。なんだっただろうと、考えた。
「それならここで何をしているのだ。鬼の首を獲ったかのように私を責めているのは貴様のほうだろう。他にやることがあるのではないのか」
「やることがあるからここへ来たのだ。邪魔をしないでもらえぬか」
「…………?」
「なあ、久遠殿?」
 樹燐は肩越しに振り向く。すると、闇の中から久遠が姿を現した。依毘士と才戯は顔を上げて彼に注目した。
 久遠には、生前の明るい彼の面影はなかった。魂となった彼は、虚しさと悲しみだけを剥き出しにした寂しい色の表情を浮かべている。
「あっ!」
 突然、音耶が大声を上げた。何事かと、今度は彼に注目が集まる。音耶は久遠を指差して汗を流した。
「久遠……炎極魂を宿す者、確か、妖怪に殺されたはず……なのに、そうだ。ここへ来なかったんだ」
 重要な魂である。一体どこへ行ったのかと調べていたところだったのだ。そこへ依毘士が来て、それどころではなくなっていたことを思い出した。
「どうして……」
「音耶」樹燐はにこりと笑い。「騒ぐな」
「いや、そんなこと言われても」
「久遠殿は私の管理下にある。私が連れていても問題はないだろう?」
「え、いえ、そんな」
 久遠は死んだのだ。死んだ後はすべて閻魔大王の裁きを受けなければいけないはず。霊魂までを樹燐が管理する権利は、ない。
「も、問題ありますよ」ここだけは譲ることができない。「あるに決まってるじゃないですか。生きてるならともかく、なんの許可も指示もなく死んだ者を連れまわすなんて……」
 樹燐は表情を消してじっと音耶を見つめた。樹燐は妙なところで該博である。きっと何かしらそれっぽい理由や言い訳があるはず。音耶はどこかでそれを期待した。
 しかし、樹燐は目を逸らして笑い出す。
「まあまあ、よいではないか。堅いことを言うな」
「……はあ?」
 音耶は肩を落とす。
「久遠殿の受けた仕打ちを知らぬわけではないだろう? 可哀想だとは思わないのか? このまま何もなかったかのように全部を忘れさせて、まったく別のものに生まれ変わればそれで済むとでも思っているのか」
 樹燐の言っていることは、神としての心理ではなく個人的な感情にしか聞こえない。音耶は嫌な予感を膨らませていく。
「……みんな、そんなものでしょう」
「ああ、なんて冷たい男だ! 能力だけでなく優しさも欠如しているとは。まったく、驕り高ぶった挙句、失敗を認めずに醜態を晒す者といい、天界には碌な男がおらんな」
 音耶だけでなく、どさくさに自分までを貶なされた依毘士も怒りを増幅させる。敵意を打ち付けられても樹燐は構わずに続ける。
「どうせ、千獄の時が訪れれば世界は揺れる。その千年に一度という周期が近いのだ。多少の混乱など、紛れてしまえばなんとかなる。男が細かいことをガタガタ言うでない」
 千獄の時。その言葉を聞いて一番心が重くなるのは音耶だった。考えるだけで泣きたくなる。
「……じょ、冗談ではないですよ。ただでさえ、私一人では追いつきそうにないのに、これ以上面倒を増やさないでください」
「皇凰の祭りはめでたいことだ」樹燐は他人事のように微笑む。「……千年分の台帳の整理、せめて次の周期にまでに終わればよいがな」
 音耶は頭を抱えてうずくまった。考えることとやることが多すぎる。彼が閻魔の地位についてからというもの、目の前にある問題をつい後回しにしているうちに、問題が問題を重ねていき、現在の地獄は少々混乱状態にあった。
 存在を忘れられかけていた才戯が、一同の会話に少しの反応を見せた。今までは、消すならさっさと消せとしか思っておらず、彼にとっては下らないこの状況が落ち着くのを黙って待っていた。しかし、ふと「千獄の時」という言葉が耳に引っかかり、僅かに瞳を動かした。
「……樹燐様」
 それに気づいた久遠が、小声で樹燐を呼ぶ。
「どうした」
「そこに、妖怪がいます。あまり天界の内情を口にされるのは……」
 言われて、初めて樹燐は才戯の存在を意識した。暗くて顔はよく見えないが、何かに気づいてじっと目を凝らした。
 久遠の言葉で我に返った依毘士が、才戯に体を向けた。
「どうせこいつは消えゆく魂。情報が漏れる心配は無用」
 暗簾のことは別問題として、才戯の処分は今すぐ行える。それで自分はここから、樹燐の前から立ち去ることができると依毘士は才戯に掌を翳した。