第十二場 三途の川
そこは一面の花畑だった。
空気は綺麗で風も心地いいのに、なぜか全体が白い靄がかっている。ここはどこなのか、この先には何があるのか。何も分からないのに、なぜか無性に引き込まれる。
久遠は一人、目を細めて世界を眺めた。
道はない。どこに行けばいいのか考えていると、地平線のずっと先に人の気配を感じた。何も見えないし、それほど遠くのものを感じ取るなんてできるはずがないのに、目線の先では誰か朗らかに笑っている気がした。
とても楽しそうだと思った。久遠は一歩、誘われるように足を出す。
数歩進んだところで、久遠はふと足を止める。目の前を大きな川が横切っていたことに気づいたからだ。だけど、どうしてと久遠は思う。川の幅は広く、泳がずには渡れないほどのものなのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
ああ、そうか。久遠は耳を澄ました。川に水は流れているのに、せせらぎがまったく聞こえてこなかったからだ。自分の耳がおかしいわけではない。川が静か過ぎるのだ。
不思議だ。それでも怖いとは思わず、久遠は衣服が濡れてもその先に行きたくて仕方がなかった。迷いはない。再び久遠は足を進めようとした。
「お待ち」
背後から女性の声が聞こえ、久遠は顔を上げた。振り向くと、そこには自分のよく知った者がいた。
天界でとてもよくしてくれていた樹燐である。
「樹燐様……」
樹燐はいつもの優しい表情で久遠に近寄った。
「久遠殿。ここは、三途の川。川を越えるとどこへ行くか、存じているか?」
「……三途の川」
久遠は川に目線を戻す。そして、いろんなことを悟った。
「そうか……僕は、死んだのですね」
「そうだ。覚えているか?」
久遠にあのときの記憶が甦ってきた。虚空と向き合って、必死で恐怖を隠していた自分。
「ええ。覚えています」
体を裂かれても、心臓を抉られても死ねなかったときの苦しみ。傷つけられたことへの恨みはなかった。すべては斬太のためだったのだから。自分が受けた痛みの分、斬太が楽になっているのであればそれでいいと心から思えた。だけど、久遠は結果を見届けることができなかった。
「……そうだ」久遠は目を見開いた。「兄さんは?」
途端に取り乱し、泣きそうな顔を樹燐に向ける。
「兄さんはどうなったんですか? まさか、虚空は、兄さんまで……」
「落ち着きなさい。兄上殿は、死んではおらん」
「……え」
「死ぬより辛い現実と戦っておる」
「ど、どういうことですか? 死ぬより辛いって……一体、兄さんに何が」
目に涙を溜める久遠の頭を、樹燐はゆっくりと撫でた。
「おいで」
久遠の横を通り樹燐は川へ向かう。岸で腰を折って久遠を水面まで誘導した。久遠は彼女の隣に座り、水面を覗きこんだ。そこには自分たちの顔が二つしか映っていない。じっと見入っていると、映った影が揺らめき出した。久遠は数回瞬きをして、それに集中する。
そこに森が浮かんだ。これは、魔界の森。あの時の光景が映し出されていた。
心臓を、魂を抉られ、息絶える自分。その隣で嗤う虚空。そして、地面を這う兄の姿。
久遠は胸が痛んだ。ここから先、自分の知らない時間が始まる。
倒れた自分をカラスたちが囲む。あっという間に黒いそれに包まれてしまうが、何をされているのかが分かった。我先にと、まるでハエのように死体にたかるそれらの隙間から、血肉が飛び散っていたのだ。カラスたちは、死んだばかりの自分の死体を嘴で啄ばみ、食い漁っていた。
久遠はそのおぞましさに吐き気を覚え、咄嗟に口を塞いだ。こんなことがあっていいのだろうかと、久遠は一度目を伏せた。しかし、彼にとって一番気がかりなのは別のところにある。
もう一度水面に向き合い、傷だらけの斬太を見守った。
しかし、久遠の僅かな希望は打ち砕かれる。
虚空が、まるでことのついででもあるかのように、虫の息で、力を振り絞って弟に手を伸ばしていた彼を踏みつけた。更には見下し、嘲笑い、とうとう斬太の片目までを奪っていったのだ。
水面に、久遠の涙が落ちた。波紋を広げ、映し出された映像は掻き消える。
頭を垂れて肩を揺らしている久遠の背中を、樹燐はしばらく見つめた。久遠は声を殺して泣き続けながら、地面の草を、ぎゅっと掴んだ。
「……悔しいか?」
樹燐は囁くような声で問いかける。久遠はすぐには答えなかった。
「だが、そなたはもう死んだ。何もできぬのだ。そして、兄上殿ももう生きる気力を失っておる。心まで破壊され、きっとこのままそなたの死体の隣で息絶えるときを待とうとしているのだろう」
「……そんな」久遠は顔を下げたまま。「どうしてですか。どうして、僕たちがこんな目に逢わなければいけないのですか。僕たちは、何もしていない。何も悪くない」
「その通りだな」
「兄さんと、ただどこかで静かに生きていられれば、それだけで十分でした。それ以上は何も望みませんでした。それとも、兄さんと一緒に平穏な時間を過ごしたいと思うことは許されないことだったのでしょうか。たったそれだけのことが、これほどの不幸を受けねばならぬほど罪深かったのでしょうか。命も希望も奪われ、やり直すことさえ許されないほど打ち砕かれなければいけない理由とは、一体、なんなのでしょうか」
悔やみきれないと、久遠は溢れる涙を堪えることができなかった。それに、もう堪える必要はどこにもない。何も手に入れることができないまま、すべて終わってしまっているのだから。
せめて隣で眠りたかった。せめて、この川を一緒に越えたかった。それすらも叶えられることはなかった。悔しさをぶつけるところも、解消する方法も何もないまま、消えてしまうしかないなんて。
悲しみに支配され、久遠はただ泣き続けた。
樹燐は隣で、しばらく彼の気が済むまで泣かせようと待った。どこまでも広く、何もない静かなこの世界では小さな久遠の嗚咽だけが聞こえていた。樹燐は遠くを見つめながら彼の気持ちを受け取っていた。
久遠の悲しみはいつまでも止まらなかった。少しだけ顔を上げて涙を拭う。それでもまだ涙が零れてくるが、いつまでもここにいても仕方がないということを分かり始めていた。
「炎極魂の入れ物は」樹燐は久遠に目を移し、囁くように。「今まで、誰もが天界で幸せな生涯を送ってきた」
久遠は樹燐に向き合う。彼女は、微笑んでいた。
「久遠殿、そなたにも幸せになる資格がある。私はそう思う」
慰めてくれようとしているのだろうが、虚しさしかない久遠は俯いた。
「でも、もう僕は死んだのです。来世でまた兄さんと会えるかもしれないという、ないに等しい期待を抱くしかできることはありません」
「そうだろうか……?」
予想してなかった答えに、久遠の心は揺れた。
「え?」
「確かにそなたは死んだ。しかし、兄上殿はまだ生きておる。兄上殿も同じ気持ちならば、まだできることがあるのではないのだろうか」
「……で、でも、もう兄さんはあんなにボロボロになって、とても一人で戦えるとは思えません」
「それはそなたが決めることではない。今のままでは兄上殿は、このまま動くこともできずに黙って息を引き取るのであろう。だが、それまではまだ分からないではないか」
樹燐が何を言おうとしているのか久遠は分からなかったが、なぜか彼女に期待を抱いた。もうないと思っていたそれが、再び、壊されることも恐れずに久遠の中で甦ってきた。
「……樹燐様、あなたは、何をご存知なのでしょうか」
樹燐は、まるで我が子を包むように久遠を見つめた。
「この世には、偶然というものがある。それが何か、知っておるか?」
「……偶然、ですか?」
「そう。それは運とは似て非なるもの。人の命や宿命、縁とも違う、神ですら左右することができないものだ。偶然によって、人生は大きく変わることもある。もしも今、兄上殿を救うものがあるとしたら、それは偶然だ。その偶然がまったくないと、そなたは思うか?」
「それは……僕には、分かりません」
「兄上殿が息絶えるまでそう長くはないだろう。場所は森の深いところ。魔界では彼の知名度は低く、天界ではそなたを殺した犯人とまで言われ蔑まれておる。そんな兄上殿を助ける何かがどこかにあるとしたら、偶然以外に何があるだろう」
久遠はその問いの答えが分からずに黙った。教えて欲しい。そう強く思った。
「誰かがたまたま通ったくらいの偶然程度では救えないだろうな。事情を知り、同情し、救いたいと思い、それを可能とする力を持つものの介入があれば、助かるのかもしれぬ。救われるというのがどの程度で、どんな形なのかは分からないが――その可能性がないと、久遠殿は言い切れるか?」
この問いには答えることができる。
ない。それに限りなく近い。だけど。
「あります」
はっきりと答えた久遠の表情が変化していることを、樹燐はすぐに分かった。
「このまま川を越えて、閻魔の洗礼を受けて極楽浄土を拝むのもそなたの道だ」
白くて柔らかい手を久遠に差し出す。
「しかし、ここで私についてくるのも、そなたの道の一つ」
久遠は樹燐の手を見つめた。
「それも、偶然ですか?」
「私がここに来たのは必然だ。偶然があったとしたら、そなたと、そなたの幸せを望む私とが出会ったこと」
久遠にはその意味が分かった。
きっと、あのまま炎極魂に捕われたままでは斬太とは引き離されていた。だから死を選んだ。そして死ぬことは適い、ここで樹燐と再会した。
まだ、終わってなどいないのだ。
自分と斬太は一心同体。その片割れがまだ生きている。もしかしたら彼も間もなく死んでしまうかもしれない。それでも、完全に終わるまで見届けたい。
終わりではない。もう少しだけ、やりたいことがある。
意を決し、久遠は樹燐の手を取った。樹燐は微笑み、久遠が往くべきだった道を逸れて、歩き出した。