千獄の宵に宴を



 第十一場 魔界の森 


5


「な、何なんだよ……!」
 暗簾が頭を抑えながら起き上がると、自分に重なって才戯が倒れていた。
「才戯! てめえ、邪魔す……」
 暗簾は言葉を失った。あの自信家で、魔界では無敵と言われた才戯が血塗れで息を上げていたのだ。額から流れる血が目に入り、右目の視界は奪われている。その死角となったせいか、右肩には抉れるほどの大きな傷があった。意識はあるようだが、これ以上戦える状態ではない。
 暗簾は、彼の無残な姿を見て、初めて今の状況に怯えた。今は小細工で時間を稼いでいるが、このまま続ければきっとすぐに才戯ほどの苦痛を受けることになるだろう。才戯は声も出さずに必死で体を起こした。二人の前に、大鉈を抱えた鎖真が聳え立つ。
 鎖真もあちこちを負傷しており、深く斬られた二の腕から血を流している。鉈の先も欠け、刃こぼれが酷い状態だった。才戯も健闘したようだが、鎖真にはまだまだ余力がある。
「そいつはよくやった」笑う鎖真は少し呼吸が深かった。「何があっても刀を手放さないなんて、大した根性だよ」
 鎖真の言うように、引けば切れてしまいそうなほど右肩をやられているというのに、どこにそんな力があるのか、牙落刀を握る才戯の手は指一本解けていなかった。
「だが、お前はもう戦えない。後は依毘士に任せる」
 鎖真は振り返り、背後にいた依毘士の横をすり抜けた。依毘士は顔色一つ変えずに、じっと暗簾だけを見ていた。その目線に、暗簾は飲み込まれる。
「才戯」隣で呻いている才戯に小声で。「お前、死ぬのか」
 才戯は呼吸をするのも辛かったが、歯を食いしばって暗簾を睨んだ。
「……俺だけじゃない。お前も、死ぬんだよ」
「そ、そうか……」
 納得したようなしてないようなで、暗簾は息を飲んだ。
「ってことは、依毘士も鎖真くらい強いってことだよな」
「あのな、脳にウジでも湧てんのか……依毘士は鎖真より、強い。一体、お前は今まで、何やってたんだ」
「……一応、戦ったけど」
 今までのはまったく効いてなかったということだった。依毘士は瞬きもせずに暗簾を見ている。きっと能力は見切られた。いや、珍しい妖術を楽しんでいただけなのかもしれない。次の交戦では手加減はないのだろう。何とかなるかもしれないという僅かな期待は崩壊した。
「才戯、最後に本気出してみる。それで、俺は逃げる。お前も逃げろ」
「……俺はもういい。一人で勝手に、逃げろ」
 才戯は意識が朦朧としており、逃げる力などないというのが本音だった。それは暗簾も見て取れている。急に一人になってしまったようで、焦りが生じた。内側から、水が沸騰するかのように、暗簾は妖力を高めていく。
 それに気づき、依毘士も全身の神経を集中させる。肩に乗る天竜が、頭を擡げた。
 周辺の森が大地ごと浮き上がった、ような気がした。依毘士と鎖真は足を取られ、じっと整列していた武神たちも気を乱す。
 まるで、地面から数え切れないほどの大蛇が突き出てきたかのように見えた。すべては暗簾の髪が変化したものだった。それらは地面を破壊し、何十年、何百年と張り続けてきた大木の根も掘り起こされ、倒れされていく。うねるヘビのようなものは、そこにあるすべてを憎んでいるかのように見境なく暴れた。木々も岩も握り潰され、襲われる武神たちは印を解いて戸惑いながら応戦する。
 鎖真は依毘士を庇うようにして、ヘビに変化した暗簾の武器を叩き落していく。騒然とする周囲に眉一つ動かさない依毘士は、片手の掌を向け、必要ないと鎖真に伝えた。彼の意志を受け、鎖真は鉈を下ろす。
 暗簾は地面に両手と片膝をつき、獣のような形相で依毘士を睨み付けていた。持つ妖力のすべてを放出していたのだ。暗簾の背後で身動きが取れずにいる才戯は、こんなに真剣に戦っている彼を見たことがなく、素直に驚いていた。改めて暗簾の異形の妖術を見て、もしも今までに一度でも本気で戦うことがあったとしたら、既にどちらかは死んでいたのだろうと、そんなことを思った。
 いくつものヘビが依毘士に向かって襲い掛かった。
 牙が届く寸前、依毘士は鋭い目を見開き、うねる刃は粉々に砕け散る。
「…………!」
 暗簾は両手を地に付けたまま総毛立つ。もしかすると依毘士から槍を奪わないほうがよかったのかもしれないと、本能のところで後悔が押し寄せた。
 天竜が依毘士の鎧からとぐろを解き、彼のそれより高い位置に頭を持ち上げた。
 あれが、依毘士の真の「武器」。
 もう終わったと、才戯は薄れる意識の中で静かに死を待った。暗簾の鼓動が早まる。これはいつもの冗談では済まない。最後の力を振り絞り、もう一度先ほどと同じ現象を起こす。再び森が揺れた。
 そうやって敵を惑わしながら、暗簾は崩れる大地の隙間に潜って姿を消す。諦めていた才戯は彼に左の腕を引かれ、同じように瓦礫の中に消えていった。

 一瞬にして、暗簾と才戯は離れた位置に移動していた。暗簾は咄嗟に引いた才戯の腕を掴んだままで半泣き状態だった。ただでさえ酷い傷を受けてた才戯は、突然の衝撃と激痛で頭がおかしくなりそうだった。我慢も限界に達し、堪らず大きな声を上げて呻いている。尋常ではない才戯の苦しみように暗簾は異常を感じた。
「さ、才戯……どうし……っ!」
 才戯の代わりに暗簾が悲鳴を上げそうになる。才戯の右腕が、とうとう千切れてなくなってしまっていたのだ。地面に引き込んだときに瓦礫に挟んでしまったのだろう。自分のせいだと、暗簾は更に震え出した。
「……ああ、このクソ野郎が」
 才戯は骨の突き出た右肩を片手で押さえるが、指の間からは大量の血が溢れ出して止まらない。当然、牙落刀もそこにはなかった。
「どこまで人に迷惑かければ気が済む……! 今ここで貴様を一発も殴れないなんて、それだけが唯一の心残りだ」
「わ、悪い」暗簾は混乱していた。「つい、力が入って……」
 いくら謝られても、どんな言い訳をされても許せることではない。しかし、才戯は暗簾の気持ちが分からなくもなかった。それにもう、右腕も牙落刀も、あってもなくても状況は変わらないことを受け入れている。
「……余計なことをするな。俺は、もう動きたくもないんだよ」
「そ、そんなこと言うなよ。あいつ、めちゃくちゃ怖いよ。一人にするなよ」
「バカが……人を巻き込むのもいい加減にしろ」

 二人が消え、半壊した森では依毘士が異常な気迫を醸し出していた。
「……逃げたか」
 そう呟く依毘士に、鎖真は身震いを起こす。まずい。怒っている。
 依毘士の心中に代わるかのように、天竜が仰け反り、耳を劈くような奇声を上げた。
 始まる。鎖真は周囲で体制を崩している武神に向かって大声を出した。
「全員、森全体に大きな結界を張れ」
 何が起こるのか、ここにいる者は分かっているのだが、どれだけ心構えがあっても慣れることはなかった。
「いいか、死ぬ気でやれ!」
 そのために連れてこられたようなものである。厳選された三十人の武神は、同時に気を放った。

 魔界全体の四割近くを占める広大な森が騒ぎ出した。
 依毘士と鎖真の降臨で危険を察知した者は既に避難している。事が終わることを、それまでに自分に被害が及ばないことを祈りながら息を潜めていた。
 怯えていたのは妖怪だけではなかった。その大きさ、力強さ、そして四方に放たれる無慈悲な光。影響を受けるのは命あるものに、すべて。
 白金に輝く、視界に収まり切らない巨大な何かが森を突き進んだ。それに触れた木々や草が生気を奪われ、茶色に変色して頭を垂れていく。
 天竜が解放され、本来の姿で体を上下させながら浮揚していた。傍らにいる依毘士の思うがままに前進していく。
 触れるだけで生命を奪っていく天竜は、依毘士の肩に乗っていたときとは、とても同じものには見えなかった。勇猛で壮大な体と、捕われれば何もかもを奪われる深い眼と研ぎ澄まされた凶暴な牙。口を開けば、まるで地面の底から響いてくる餓鬼共の阿鼻叫喚のような鳴き声が轟き、地面を、空を振動させる。

 暗簾と才戯は、最初に森の空気が変わったことに気づいた。武神たちが命がけで作り出した結界なのだ。この厚さ、重さ、気づかないほうがおかしいほどのものだった。
 問題は結界ではない。これほどのものが張られた理由である。しかし、それを考えている時間はなかった。空が陰り、暗簾と才戯に闇を落とした。誘われるように二人は顔を上げる。
 空には、雲の代わりに鱗がびっしりと生えていた。そして、じわりじわりと動いている。
 暗簾はそれに目を奪われ、真っ青になっていた。
 理性のない天竜はつい上へ上へと昇ろうとするが、見えない結界に頭をぶつけては下降している。竜がぶつかるたびに結界には小さな傷が入り、術を行う武神の精神が苦痛で揺れていた。
 徐々に魂が削られていく部下の様子を伺いながら、鎖真は汗を流した。
(……依毘士の奴、相変わらず気遣いなしかよ)
 滅多にないこととは言え、毎度疲れる。だがそれも自分が選んだ仕事だと、今までに一度も文句を言う事はしなかった。

 ここからは問答無用である。
 天竜の大きな眼が暗簾と才戯を捕らえた。それと目が合った二人は、固まって動けなかった。
 天竜は大きく口を開け、空気を、木々を掻き分けて頭を落とした。
 暗簾と才戯はその牙に触れた。
 苦痛はなかった。

 そこから先は、何も覚えていない。



 それは夢から覚めたような感覚だった。
 森を包んでいた天竜は消えるようにいなくなった。いなくなったのでない。いつもの小型なそれに戻ったのだ。
 依毘士の腹の虫が収まったことを感じ取り、鎖真は武神たちに結界解除の指示を出す。武神はそれぞれに印を解き、ため息をつく者、激しい疲労で座り込む者がいる。続けて鎖真はそれらに解散を言い渡し、見送りもせずに依毘士の元へ向かった。
 暗簾と才戯が暴れた痕跡はそのままだったが、結界を張ってからの惨劇は再生を始めていた。黒く枯れた木々や草たちが生気を取り戻している。
 その中で、依毘士は小さな天竜を肩に乗せて森を歩いていた。暗簾と才戯の遺体を確認しに向かっていたのだ。そこに、鎖真が追いついてくる。
「二人は?」
「死んだ」
「炎極魂は?」
 問われ、依毘士は微かに目を揺らした。忘れていたのだ。私としたことが、と言葉にはせずに不安を抱いた。
 しかし、仮に炎極魂までもが壊れてしまっていても、関係ないというのが本心だった。宝を守って取り返して来いとは言われていないし、それは自分の仕事ではないのだ。
 依毘士と鎖真は足を止める。木々の間に、暗簾と才戯の死体が転がっていた。依毘士はそれに寄り、触れようとはせずにじっと見つめた。
 鎖真はしばらく黙って彼の様子を見守った。確実に二人は死んでいる。なのに、依毘士はいつまでもそこから動こうとしない。何かがある。その証拠に、肩の天竜が落ち着きをなくしている。
「どうした?」
 依毘士は眉を寄せ、悔しさで歯を噛み締めた。まだ問題は解決していないようだ。鎖真は心を重くした。
 依毘士は何も言わずに振り向き、鎖真の横を早足で横切る。
「おい、依毘士」
「逃げられた」
「え?」
「炎極魂に守られた暗簾の魂が、どこかへ逃げた」
 依毘士の後について行きながら、鎖真は息を飲む。こんなことは初めてだった。初めてだったからこそ、逆に冷静になる。
「どうするつもりだ」
「獲物をこの世から完全に抹消する必要がある」
「だから、どこに行くんだよ」
「地獄へ向かう。才戯の魂はそこにある。その処分もせねばならん」
「暗簾は?」
「探す」
 どうやって、とはもう聞かなかった。鎖真は足を止める。
「俺は、もう少しここに残る」
 意外な言葉に、依毘士も止まって振り向いた。
「なんのために?」
「後片付けだよ」鎖真は傷だらけの顔で笑った。「すぐに追うから、お前は仕事を続けろよ」
「…………」
 鎖真が自分についてこないことは珍しい。依毘士はしばらく鎖真を見つめたが、彼が自分の足を引っ張るようなことをしたことはない。信頼はしている。追求せずに再び背を向けた。
 鎖真は依毘士を見送り、静寂が包む森で腰を下ろし、少し休むことにした。