千獄の宵に宴を



 第十一場 魔界の森 


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(あー……気分悪い)
 暗簾は才戯の目を眩まして、何の気配も感じない森の片隅に座り込んだ。
 炎極魂を手にし、これを利用して才戯をからかえると軽く考えて逃げたのだが、それは持っているだけで彼の体に重圧をかけていた。炎極魂は魂である。本能のままに肉体を欲しているのだ。己の住処として暗簾と融合するためには先住の魂が邪魔だった。だからそれを吸収なり追い出すなりして居場所を作ろうとしているのだろう。
 先ほど虚空の調子が悪かった理由が、暗簾には嫌と言うほど分かった。こんなに苦しんでいた彼の隙をついたことが申し訳なくさえ思ってしまう。
(確かに、これじゃ逃げたくもなるな)
 暗簾はため息をつく。彼は別に、どうしても炎極魂が欲しいわけではなかった。しかしこれが才戯や虚空に渡り、本当に不死の体を手に入れてしまわれては面白くない。だから邪魔をしたかった。邪魔をしたはいいが、このまま自分の中に居座られるのもどうかと思う。捨てることはできないのだろうか。どこかに隠して、二人や他の妖怪に探させるのも楽しいかもしれない。
 そんなくだらないことを考えていると、周囲の木々が音を立てて倒れる。才戯は埃が舞うほうに顔を向ける。そこから、いつもよりも恐ろしい表情の才戯が現れた。
 かなり気が立っている。だが暗簾は顔色ひとつ変えない。彼の怒髪天は今まで何度も見てきたからだ。
「暗簾! 今日こそ、絶対に殺してやるからな」
 この台詞も何度か聞いた。なぜ今まで暗簾が才戯に止めを刺されることがなかったのか。それは、才戯はあまり過去のことを根に持たないため、その場を逃げ切りさえすれば数日後には忘れてくれる故だった。暗簾は彼のそういうところを知った上でちょっかいを出してきた。
 しかし、今回はいつもより厄介だと思った。この場を凌いでも炎極魂のことはさすがに忘れないだろうし、それ以前に逃がしてくれるとは思えない。さあ、どうしようか。暗簾が重そうに体を起こす。
「…………!」
 睨み合っていた二人は、同時に顔を上げた。暗簾と才戯は、上空から迫ってくる何かに気を取られる。それがなんなのか、意識を集中して辿った。
「……まずい」
 暗簾が呟く。才戯も同じことを考えた。どうやら喧嘩している暇はなさそうである。
 いつも人をバカにした笑顔の暗簾と、表情が貧困な才戯が緊張し、汗を流す。二人は今まで一度もなかった感情を抱いていた。

 二人に向かって真っ直ぐ向かってきている、強烈な気迫。それは魔界中の妖怪の誰もが恐れるものだった。常に名前だけはそこにありながらも、彼らが姿を現すことは滅多にない。滅多にないそれが、ここで起ころうとしていた。
 魔界の森が、暗簾と才戯を中心に淡く光った。
 その大いなる力の威力を魔界中の妖怪のすべても感じ取り、何が起こったのか分からないものさえ身震いを起こした。
 不自然に降り注いだ光に、二人は手を翳す。目を顰めて注意を払っていると、一度真っ白に染まった森が再び色づき始めた。そこはいつもの薄暗い魔界であることに変わりはなかったのだが、魔界にいるはずのない鎧姿の人種が、足音も立てずに二人を囲んでいた。
 重い静寂が森を包んでいた。暗簾と才戯はその光景に立ち尽くし、息を飲む。
 周囲は、武器を持つ三十二人の武神が木々の間に、所狭しと立ち並んでいる。それぞれが厳つい鎧を身につけており、その中でも特に異彩を放つ二人がいた。暗簾と才戯に一番近い位置にいる彼らは、天界でも特別な存在だった。
 背が高く、飲まれそうなほどの巨大な鉈に違和感を抱かせない男、鎖真。
 そしてその隣にいる竜を肩に乗せた男、依毘士。彼は線が細く、隣の鎖真よりは小さく見える。しかし依毘士には、そんな見た目の差などものともしない迫力と貫禄があった。彼らを知らない者さえも、初見でどちらか上かを間違えることはないほど、依毘士は異常な存在感を醸し出している。
 まさかと、暗簾と才戯は固まっていた。やりすぎたときには天部の者から注意を受けたり追われることもあった。今まではそれもやり過ごしてきたのだが、今回はまったく状況が違う。
「天竜使い」の依毘士と、「断罪神」の鎖真。魔界でも有名で、天上の暗部に位置する武神である。頭の中にその存在はあったものの、まさか本物を見ることがあるなんて考えたことがなかった。天界でも腕利きの武神は山ほどいる。それでも高等妖怪の暗簾と才戯はそれに匹敵する力があり、対等にやり合える自信があった。だが、彼らは別だ。
『天の禁忌を侵す所業に限り、依毘士と鎖真が出てくる』
 魔界ではそう言い伝えられており、二人はその言葉を思い出す。そうだ、炎極魂は特別な天の宝。今、それを奪い合っている最中だった。冷静に考えると、彼らが出てきてもおかしくない状況だということを、今更、理解した。
 依毘士は右手に持つ槍の柄で大地を突いた。
「暗簾。才戯。貴様たちは天の宝を穢した。許されざる罪深き妖怪。悔い改める必要はない。その肉体も魂も、すべてをこの世界から排除する」
 暗簾と才戯は気まずそうに目を合わせた。依毘士に狙われた者は魂ごと消滅させられ、輪廻転生の輪からも排除されて無に返されると聞く。死んだ後のことはどうでもいいとして、この場から逃がれる方法がないことが問題だった。
 固まる暗簾と才戯の都合など考えるはずもなく、依毘士は目を合わせずに鎖真に指示を出す。
「私は右を。鎖真は左だ」
 いつもの台詞である。依毘士の向かいの右は暗簾、左は才戯だった。大雑把な振り分けだが、誰が相手でも手こずった経験はない。問題ない、と鎖真は目を細めた。
「了解」
 依毘士と鎖真以外の武神たちが印を結んで静止した。彼らは戦うつもりはない。処刑に障害がないように見守る役に徹する。
 辺りの空気が冷たくなるのを感じ、才戯は覚悟を決める。
「暗簾」刀を構えながら。「貴様と一緒くたにされるのは生涯で最大の屈辱だが、どうやらここで終わりのようだな」
「え?」まだ逃げることを考えていた暗簾は目を丸くした。「戦うのか? 勝てるわけないだろう」
「逃げても無駄なら戦ったほうがマシだ。貴様ももういらんことは考えるな。腹を括れ」
「ええ……こんなことなら才戯にあげてればよかったよ」
「今更、遅い……!」
 才戯は目で捉え難いほどの速さで鎖真の懐に飛び込んだ。鎖真もまた、才戯に劣らぬ速さで巨大な鉈を傾け、それを受け止めていた。鉄と鉄のぶつかる、物凄い音が森に響いた。暗簾はその鈍く甲高い、神経を逆撫でするような響きに眉を寄せる。
 才戯と鎖真は僅かに腕を震わせて力比べをした。どちらも押しも押されもせず、ふっと笑った。
「あんた、やるね」鎖真が小声で。「腕も度胸も立派なものだ」
「ふん。無駄口とは余裕だな」
「刀も見事。あんた鬼神の血縁者だろ。勿体ないな。帝に頭下げればいい仕事が与えられたかもしれないのに」
「……帝が頭を下げれば、考えてやってもよかったがな」
 才戯は刀を振り上げて鉈を弾き、間合いを取り直す。鎖真も右足を軸に構え、両手で抱えるのも骨を折りそうな鉈を片手で持ち上げた。その迫力は相手を圧倒する。才戯も例外ではなく、背筋に武者震いのような寒気が走った。
 欺かれるでも逃げるでもなく、明らかな力の差の前に倒れることができるなら、悪くないかもしれない。
 才戯と鎖真は同時に姿を消した。再び鉄のぶつかる音がする。周囲の木々が揺れ、緑の葉が舞い散るだけでなく、枝が、大木が次々に地に落ちていく。
 未だ動かない暗簾は、二人の動きを目で追いながら汗を流した。才戯と鎖真は離れては寄り、武器を交えては弾き返すを繰り返している。
 今のところは互角。しかし、鎖真の大鉈を受けるたびに腕に大きな衝撃を受けている才戯では、いつまでも今の状態を維持することはできないだろうと思う。持久力にも既に差が出てきている。大鉈を木の枝かのように軽々と振り回す鎖真と、腕力よりも剣術に自信を持っていた才戯では元が違いすぎる。才戯の体に一つでも傷がつけば、そこで勝負が決まるだろう。
 依毘士も動かず、二人の戦闘にも興味を示さずに暗簾を見つめていた。そして、口を開いた。
「貴様はどうする?」
 暗簾は我に返り、依毘士に顔を向ける。依毘士は温度のない瞳、口調で続ける。
「かかってこないのか?」
 暗簾は、苦手な奴に当たってしまったと思う。できれば頭の悪そうな相手がよかった。そうは言っても、鎖真がそうだとは思えないし、あの豪腕で目も当てられない姿にされるのもお断りである。
「俺、喧嘩は好きだけど、真面目にやるの嫌いなんだよね」
 依毘士は答えない。自分から声をかけておいて聞いているのかどうかも怪しい。
「今ちょっと、体調悪いし……」
「……では、死ね」
 答えてくれたものの、取り付く島もない。
「あー、じゃあさ、炎極魂、返すから。それで見逃してくれない?」
「しないな」
「……さっきたまたま手にしただけなんだよ。俺は才戯や虚空をからかいたかっただけで、別にこんなもの欲しくないし」
「それで?」
「それで……」言うだけ無駄なのは分かっていつつ。「大体、最初に盗んだのは虚空だろ。あいつ、あの欠陥兄弟をめちゃくちゃ虐めて殺してたし……あいつの方がよっぽど」
 依毘士は槍先を暗簾に向け、続きを遮った。
「生憎と、私は妖怪同士の揉め事には関与しない。天の宝を穢した者に罰を与えるだけだ」
「だから、それなら虚空も同罪だろ。それに才戯は俺と一緒にいただけで炎極魂には指一本触れてないんだ。それでも殺すのか」
「どういう過程を経て宝が妖怪の手に渡ったかなど私には関係のないこと。今貴様がそれを持ち、この場に才戯がいた。この目には、貴様が主犯、才戯は共犯者にしか写っていない。それ以外の場所と時間で、誰が何をしようが知ったことではないのだ」
 これほど融通のきかない石頭を、暗簾は見たことがない。話し合えば合うほど精神的に疲れるだけのようだ。少しだけ、覚悟を決める。
「参る」
 先に動いたのは依毘士だった。暗簾は戸惑いながら槍の一突きを、体を捻って躱した。一歩足を引いただけの暗簾を、依毘士は更に追い立てる。彼の槍は速く鋭く、そして音もしないほどしなやかだった。暗簾はそれを同じ速さで除けていく。
 一歩、一歩と後ろに下がりながら、腰を折り、低く飛び、依毘士の突きや払いを流していった。しかし、大木に追い詰められた暗簾が背をつけて顔を上げると、それより早く槍の切っ先が眉間に突きつけられた。このまま依毘士が少し力を入れただけで、暗簾は致命傷を受ける。依毘士は姿勢を変えず、暗簾を鋭く見据えた。
「……やはり、貴様は鎖真たちの動きが見えていたのだな」
「……は?」
「先ほどの目の動き、ずっと奴らを追っていただろう」
 今も二人は森を徐々に破壊しながら、時には上空にまで飛び上がって武器を交わしている。そっちにも気を回しておかないと巻き込まれる恐れがあるのだ。
「別に、そのくらい当たり前だし」
 暗簾には依毘士の質問の意図が分からなかった。依毘士は少し目を細め、探るように暗簾を睨み付けた。暗簾は息を飲み、無意識に髪の先を揺らす。じわりと妖気が高揚する。これほど立場の違う相手にいくら見下されても悔しくはないが、できれば殺されたくない。
 もう少しだけ抵抗してみよう。前触れもなく、突然暗簾の髪が蜘蛛の巣のように広がった。
「!」
 針のように尖った暗簾の髪が依毘士を襲う。依毘士は未知の妖術に僅かに戸惑い、宙を舞って彼から離れた。暗簾の髪は次から次へと形を変え、着地した依毘士に休む暇を与えない。ただの毛束は絡み合い、伸縮し、獣の顔を象って牙を剥く。獣の眉間が槍に突かれれば、右からは大きな手の形になったそれが依毘士を握り潰そうと爪を尖らす。これも依毘士は飛んで躱し、上から一突きで大地に串刺しにする。
 すべて見切られているものの、暗簾は攻撃の手を止めなかった。その間にゆっくりと背中につけた大木に溶けていく。それに気づいた依毘士は暗簾めがけて槍を放ったが、刃が木に届いたときには暗簾の姿はもうなかった。
 しかし森の木を伝って髪の毛はあちこちから伸びてくる。纏わりついてくるそれを除けて依毘士は素早く槍を掴んで木から引き抜く。同時に、足を掴まれ、強い力で引かれて片膝を付く。土の中から暗簾が飛び出し、再び鋼の髪を依毘士に向けて伸ばした。
 依毘士は体の前で槍を回転させてすべてを弾いた、はずだった。針状になった髪が途端に硬度を失う。糸のように柔らかくなったそれは依毘士の槍に絡みついた。
「何……!」
 糸に破壊力はなく、引き千切ろうとした。だが、依毘士は暗簾の本当の目的に気づき、瞬時に武器を手放した。
 細い髪に絡まれた槍は、目に見える早さで木の部分が腐っていく。続けて鉄や金属部分は錆付き始めた。依毘士の武器は次第に細り、最後にはすべてを暗簾に吸収され、黒い粉になって消えていった。
 依毘士はその現象に驚いていた。
「……妖怪の力は、天にない珍しいものが多い」
 声に恐れている様子は一切ない。むしろ面白いとでも言っているように、口の端を上げた。
 暗簾は突然内側からの痛みに襲われ、目を揺らした。ゆっくりと後ずさりしながら胸を押さえる。
(……クソ。変なもの吸収したからか、炎極魂が暴れてやがる)
 何食おうが人の勝手だろうと思うが、魂と話し合いで和解できるわけはない。とりあえず武器は奪った。依毘士にとっては些細なことかもしれないが、この調子でいけばもう少し粘れるはず。再度妖力を高めようとした、そのとき。
 暗簾の斜め上空から大きな何かが落ちてきた。それは暗簾に体当たりし、近くにあった大木を巻き込んで大きな音を立てた。