第十六場 千年の夜
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千年目の夜。
天界の宮廷は緊張の糸が張り詰めていた。一体何が起こるのか知らない者も、その緊迫した空気に圧倒されて口数が減っている。
今宵の宮廷は人影が少なかった。武神のほとんどが重要な指示を受けて決められた場所に収集させられていたからである。
その場所とは、宮廷の北側に聳える、天界という煌びやかな世界には似合わない歪な黒い岩山だった。
宮廷よりも大きく高い岩山の名は「
武神たちはそれを長い時間かけて歩き続けた。
惣理の塔の頂上は広場になっており、武装した武神たちが整列していた。その中央には岩で縁取られた鏡がある。楕円の鏡は巨大で、誰もが体を反り返して見上げなければ全貌を眺めることができないほどのものだった。
鏡には、今は何も映っていない。虹色の靄が止まることなく蠢いているだけだった。
何も映っていない巨大な鏡を、錚々たる武神たちがじっと見つめているという光景は奇妙なものだった。彼らは、間もなく起こる千獄の時を、息を潜めて待っていたのだ。
実体化した皇凰は凶暴で、本能だけを剥き出しにした荒々しいものである。封印が解けたそのとき、戦いが始まるのだ。
武神たちの先頭に位置し、この「祭り」の指示を請け負っているのは最強の名を持つ依毘士だった。地獄に属する彼が天界で活動することは珍しかったのだが、天竜と皇凰は同格の力を持っていると考えられている。彼の力を借りることは自然の成り行きであり、依毘士にも断る理由はなかった。
指導力に欠ける依毘士のすぐ後ろには、彼の足りない部分を補う役目を持つ鎖真がいた。逆に、鎖真の真面目さに欠ける部分は、余るほど依毘士が補ってくれている。いつの間にか二人が番いとして扱われていることに、本人たちがどう思っているのかは誰も知らない。
ひとつに纏まっていた空気の中に異物が紛れ込んできたことを瞬時に感じ取り、依毘士が目線を動かす。
この場に相応しくない風貌の二人が姿を現した。早足で鏡に駆けてくる久遠と、その保護者である樹燐である。依毘士は彼女の顔を見るなり眉を寄せる。樹燐はそれに気づいていながらも依毘士に寄り、微笑んだ。
「ここへは飛雲が使えぬから疲れるな」
樹燐はまるで散歩にでも来たかのように緊張感がなかった。依毘士は彼女を睨み付けて。
「……貴様は謹慎中だったはず」
「相変わらず石頭だな、お前は」
「ここは女子供が立ち入る場所ではない。消えろ」
「久遠殿は関係者であり、私はその保護者だ。千獄の瞬間を見届ける権利がある。そなたの邪魔をするつもりはないのだから、いちいち突っ掛かるでない」
出会い頭に険悪な雰囲気を醸し出している二人には目もくれず、久遠は靄を映す鏡に両手を付けてそれを見つめていた。長時間霊魂のままで過ごした彼は次第に理性を失い、現世を彷徨う理由だけに捕われていっていた。瞳は光のない虚ろなもので、まるで小さな子供が玩具に夢中になっているかのように鏡に張り付いて独り言を呟いていた。
「……兄さん、お元気でいらっしゃいますでしょうか」
久遠の頭の中は斬太のことで一杯になっており、もうすぐ会えるという希望を抱き、返事をするはずのない鏡に語りかけている。
その様子は、誰が見ても奇妙なものに思えた。肉体のない霊魂なのだから仕方ないのは分かるが、鎖真は気になってしょうがなかった。
「樹燐、ひとつ聞いていいか」
久遠の背中を見つめたまま、鎖真は素直な疑問を投げかける。
「あいつ、頭おかしいのか?」
「意地の悪いことを言うな」樹燐は小さなため息をつきながら。「か弱き魂が苦痛を耐え忍んできたのだ。気が触れるほどの辛さ、寂しさ、察してやれ」
「つまり、おかしいってことだな」鎖真は依毘士に顔を向け。「で、あれ、邪魔じゃねえ?」
鎖真は、樹燐の「気が触れるほどの」という部分にしか耳を貸していなかった。依毘士は常に中立の立場でものを考える。今も例外ではなく、少し目を伏せて答えた。
「鏡を見ているだけなら邪魔にはならん。騒ぐようなら、つまみ出す」
結局のところ、居るだけなら構わないという意味に取れた樹燐は肩の力を抜いた。依毘士たちから少し離れた場所に突き出た岩に腰を下ろして久遠を見つめる。
魔界の森で起こった惨劇から、天界の暦では十年という月日が経っていた。
依毘士と樹燐の処分は思いのほか軽いものだった。それぞれに帝に呼び出され、同じような内容の話を交わした。
二人の失敗によって逃がした罪人、暗簾と才戯の魂は既に人間に転生していた。今後のことは、音耶の言うとおり、一度処刑に失敗した死刑囚は免罪となって再施行することは禁じられている。転生の方法が強引であったために過去の記憶や妖力を完全に浄化することはできていなかったが、罪を犯さない限り二人はただの人間である。直接は関わらずに様子を見るという判断が下された。
樹燐に関しては特別な処分が言い渡された。久遠の魂もそのまま保護することを許可された。ただし、千獄の時までという期限つきで。そして、霊魂を長い間現世に留めることは危険な行為である。そのことも考慮した上で責任を持つのであれば、という条件も課せられた。樹燐は最初からそのつもりであると、帝の恩恵に感謝した。
帝はもう一つ、頼むから他を刺激することも控えてくれるように樹燐に釘を刺した。樹燐に自覚はなかったのだが、上からの注意であるならと、自ら謹慎することを申し出た。
どうせ久遠もまともではいられないのだろうし、樹燐はしばらく口を慎み、そのときが来るまではと大人しくしていた。
久遠は鏡の奥にある、肉眼では捉えることのできない遠い世界の映像に目を凝らしていた。そこには、人間界にある麻倉家が映し出されていた。その中で起こっている出来事までを、久遠の見たいところを見たいように見せてくれている。自分のために強くなった兄の姿に感動し、久遠は涙を流した。
「兄さん、僕はここにいます」
どうか苦しまないで、これ以上悲しまないで。もうすぐ、一つになれるから――。
久遠の金色の瞳の中に映し出される麻倉の屋敷の一室では、倒れた智示とその隣で屈みこむ斬太の姿があった。
斬太が智示に与えた負傷は大きなものではなかった。すぐに目を覚ますだろうと、斬太は彼の様子を黙って伺っている。
智示の着物は床に散らばる死体と、自分が吐いた血で赤く染まり、織り込まれた模様も台無しになってしまっている。斬太は無意識に、彼の胸元から零れる十字架の首飾りに目を奪われていた。
智示の体が微かに揺れ、斬太は我に返った。意識が戻ったようだ。呻き声を漏らしながら智示は瞼を上げる。
何が起こったのか、一瞬記憶が途切れていた智示だったが、斬太の顔を見た途端にすべてを思い出す。内側から恐怖が甦り、悲鳴を上げて体を起こした。
「……う」
だが、全身に走る激痛に顔を歪め、胸を押さえて息を深く吐き出す。斬太はその理由を分かっており驚かなかった。
「無理するなよ。もう何もしないから」
先ほどの様子とは変わり、敵意のない斬太を智示は睨み付けた。
「……どうして殺さなかった」
「まだ憎まれ口を叩く余裕があるのか」斬太は目を細めて。「もっと傷め付けておけばよかったかな」
智示は再び恐怖を抱いて息を飲む。
「……一体、お前たちは何が目的なんだ」智示は震えを抑えるように拳を握った。「私が普通ではないことは、いつからか感じ取っていた。そして今宵、何かが起こることも。きっとすべてが分かるのだと思いながら迎えた。しかし、怖かった。すべてを知ることが……母のこと、兄のこと、私の中にある不吉な魂のこと」
項垂れ、強く瞼を閉じる。
「教えてくれ。私はどうすればいいのだ。殺すなら早く殺せばいい。死ぬ前にやらねばならぬことがあるのなら、教えてくれ。私はこの世に未練などないのだから……」
智示は涙を流し、血で汚れた手で顔を覆った。
斬太は姿勢を変えずにじっと智示を見つめた。智示という人間には恨みはない。だからと言って彼をこのまま逃がすことはできないし、救う方法も、ない。
「お前ってさ」斬太は昔の自分を思い出しながら。「どうしてそう後ろ向きで死にたがってるわけ?」
智示は涙で濡れた目を少し上げる。
「親に愛されていなかったからか? 自分じゃなくて、どこにいるかも分からない兄だけが大事にされていると思うからか?」
斬太の片目に、金色の淡い光が灯っていた。智示の心を、彼の中にある記憶の情景を見透かしている。
「じゃあ、どうして母親が命に支障を来たすほどの重病に侵されたのか。どうして名前も顔も知らない兄がここへ、危険を承知でお前に会いに来たのか、その理由は考えたことがあるのか?」
智示は想像もしていなかった言葉に戸惑いを隠せなかった。斬太の話に耳を傾ける。
「この屋敷の旦那はともかく、お前の本当の父親だって、ずっとお前を気にかけていたらしいぜ。だけど、会いたくても会えなかった。ただそれだけのことだ」
「……それだけの、こと」
「人にはできることとできないことがある。会いたくても会えない。一緒にいたくてもいられない。母親も父親ももう死んだ。一緒にいたくてもどうしても適わないんだ。でも、兄はまだ生きてる。生きて、お前に会いにきた。何が気に食わなかったんだよ」
「……それは」
智示は声を詰まらせる。こうして、今まで一度も人と本音で話したことがなかったのだ。もっと早く、斬太のように教えてくれる人と出会っていれば――そんなことを思った。
そして彼の言葉の意味を考えた。
母親が病に伏せた理由。まさか母親は、汰貴に会えない寂しさからではなく、自分に対して辛く当たっていたことが何よりの苦痛だったとでも? そうだとしたら、自分は一体何を恨めばいいのだろう。自分は一体、今まで何をしてきたのだろう。
智示の表情から、少しだけ鋭いものが消えた。斬太はそれにすぐに気がついたが、これ以上は時間を無駄にはできないと腰を上げた。
「まあ、もう手遅れだけどな」
「え?」