第十六場 千年の夜
3
智示は反射的に顔を上げる。その仕草はどこにでもいる少年のものだった。
「この結界の中にいる者はすべて死ぬ。お前も、俺も。残された時間はあと僅か」
斬太の無情な言葉に智示は焦りを見せる。
「私は何も聞いていない。教えてくれ。私はその僅かな時間の中で何をすればいいんだ」
遠くで何かがぶつかり合う音が聞こえた。その凄まじさは、この室内にまで届いた振動で想像がつくほどだった。智示は汗を流し、ふらつきながら立ち上がる。
斬太は智示に背を向けて、音がしたほうへ足を進めた。智示がその後についていくと、歩きながら斬太は口を開いた。
「お前を殺すことは簡単だ。だけど、それじゃダメなんだよ」
「……だから、何が」
斬太は振り向き、智示の眉間に人差し指を突きつけた。
「お前が武流にかけられた封印を解く方法を思い出さないといけないんだよ。殺して奪い返すことができるならとっくにそうしてる。でも、そうじゃない。どうすればお前は記憶を取り戻す?」
再び見せた金の目には怨念が篭っていた。智示はまたあのときと同じ恐怖を感じて寒気が走った。斬太が何を言っているのか、彼が敵か味方なのかも判断することができなかった。
「弟と会ってもダメ」斬太は苛立ったように早口で続けた。「妖力を使わせてもダメ。極限に追い詰めてもダメ。殺してしまうなんてしたら、すべてが闇に葬られることになる。だから生かしている。なのに、もう時間は迫っているっていうのに、お前は何も思い出さない。どこまで厄介なんだ、武流の法術は!」
斬太は言い捨てるようにして、戸惑う智示を置いて室を出て行った。智示はしばらく呆然としたが、一人でここにいても余計に不安が募るだけと彼の後を追った。
「どこへ行くんだ」
斬太に追いつくが、彼は見向きもしなかった。
「お前がダメなら汰貴に聞くしかない。ああ、クソ。せめてこの目が欠けていなければ何かが見えたかもしれないのに……!」
「タキ……」智示は足を速めて斬太の隣に並ぶ。「タキとは、兄のことか。兄は何か知っているのか」
「あいつも何も知らねえよ。お前以上に鈍いんだからな。とにかく、奴らのとこに行くぞ。言っとくが俺はお前を守ってる余裕はないからな。だけど勝手に死なれたら困る。自分の身は自分で守ってくれよ」
「守る、とは」智示の歩幅が小さくなった。「さっきのカラスの妖怪が私を狙っているということか」
「あいつだけじゃない。ここに味方はいない。それを忘れるな」
智示は一度覚悟を決めたつもりだった。だが、やはり想像を超える恐怖を前にしては冷静ではいられないことを思い知った。怖くないとはもう言えない。
逃げたい。強い衝動に駆られながらも、智示は汰貴の顔を思い浮かべた。彼のことは何も知らないのだ。好きにも嫌いにもなれない。それが正直な気持ちだった。だけど、もう一度だけ会いたい。会ってどうしたいという明確なものもなかったのだが、そう思った。だから留まらなかった。
どうせ死ぬのならば、最後くらいは正直になってみよう。智示は気を引き締めて斬太の後を追っていった。
二人はいくつもの広い部屋を早足で通り過ぎる。その途中、西側の渡り廊下に出たときに激しい振動に襲われ、家屋の一部が倒壊する様を目の当たりにした。土煙の上がる方向に目を向けると、そこには細い月の浮かぶ闇を背に、赤坐と虚空が空中で舞っていた。
陰る赤坐の瞳が、燃える炎を灯しているかのように赤く光って見える。斬太は彼の心を探る。だいぶ才戯の力に近付いてはいるようだが、まだ完全には支配しきれていない。体の負傷も著しく、このままでは、人間の体である赤坐はあまり長くは持たないだろうと思った。
汰貴も智示も今は使い物にならない。赤坐が戦えるうちにと、斬太は中庭を突っ切って彼らのもとへ走った。
息を切らしている智示も、気が遠くなりそうな情景に目眩を起こしながら必死で体を動かしていた。
刀を振る赤坐の表情は尋常ではなかった。まさに「鬼」そのもの、才戯という鬼神が見せていた「破壊」を象徴する、血と殺戮が似合うそれだった。
(……まだ、足りない)
赤坐は自分の中の感情や理性を消そうとしていた。そう思っているうちはまだ自分がここにいるのだと自覚するしかなく、腹立たしくて仕方がなかった。
(早く、消えろ。俺の中の鬼、早く俺を殺せ。そして、出てこい)
いつの間にか牙落刀が黒い霧に包まれている。妖力が具現化したものだった。赤坐がもうすぐだと思う反面、虚空が焦りを抱く。
もしも才戯や暗簾が出てきたときのためにと、虚空は全力を出し切っていなかった。だがそれが仇となって自分の立場を悪くしてしまうわけにはいかない。
赤坐はただの邪魔者である。どうせ後は、記憶のない暗簾の転生しかいない。彼を排除してしまえばこっちのものだと、羽で自分の体を包んで闇に紛れた。
虚空の姿を見失った赤坐は瓦礫に着地して辺りを見回した。風もないのに髪が微かに揺れている。赤坐の全身から湧き出る妖気が起こしている現象だった。受けた傷から流れる血も、足元に落ちる前に妖気に触れて掻き消えている。
「カラス野郎、出てこい!」
赤坐は夜空を仰いで大声を上げた。辺りは静まり返り、虚空の気配は消えている。このままではまた正気に戻ってしまう。せっかく上げた闘志に水を差され、赤坐は苛立ちで歯を剥き出す。
深い傷を負い、流血が止まらない汰貴は、足を引きずりながら赤坐の元へ向かっていた。それほど遠くへ行ってないことは、建物から伝わってくる衝撃で分かる。今自分が赤坐の傍にいても何もできないことも、邪魔でしかないことも分かっているのだが、じっとしていることができなかった。
赤坐が最後に見せた優しい笑顔を忘れることができなかったのだ。いつも当たり前だと思っていた。いつも当然のようにそこにあるものだと思っていた。なのに、たったひとつのそれがこんなにも手に入り難いものだったなんて。汰貴は後悔したくなくて、重い体を引きずり続けた。
汰貴は暗闇の下に立つ彼の姿を見つけた。離れたところからでも、赤坐から放出している異常な何かが目に見える。それは先ほどのものとは比べ物にならないほどだった。汰貴は迷った。自分が声をかけてしまえば、取り返しのつかないことになるのではないかという不安を抱いたのだ。
戦うために赤坐は自分に背を向けた。彼の気持ちを汲むべきか、自分の気持ちに素直になるべきか。汰貴はどちらも選べなかった。じっと赤坐の背中を見つめていた、そのとき。瓦礫の影に何かが見えた。
金の光、小さな影――斬太だ。彼は物陰に隠れて赤坐や周囲の様子を覗いていた。
「……あ」
その隣に見えたもう一つの影の存在に気づき、汰貴は声を漏らした。血で薄汚れている智示だった。
汰貴が弟に気を散らしている間に、赤坐に変化が起きた。赤坐だけではない。屋敷の敷地内のすべての温度が上がったような気がした。汰貴は戸惑いながら近くの柱に掴まって座り込んだ。彼の足元にあったもの、屋敷中に散らばっていた死肉が動いて見えた。
赤坐は眼球を左右に揺らしながら気を高めた。見えない糸に操られているかのように、カラスの死体が浮遊し始めた。潰れたもの、千切れているものもすべてが瓦礫の上の一箇所に集まっていく。滴る血肉からは嫌な匂いが漂ってきた。
虚空の妖術が起こしている現象であることは明白。赤坐は怯えもせずに刀を構える。
死骸の塊の中心に、虚空が顔を出した。次に、黒い血肉は溶けるように一つになり、虚空の翼を描いていく。それだけではなかった。虚空の両腕も翼と同じ形に変化していき、四つになったそれはどこまでも長く、鋭く伸びていく。更に黒く光り始め、翼や腕とは呼べないものを象っていった。
美しい曲線には、先ほどまでカラスの死体だったものが残した鮮血が滴っていた。それを弾くほどの滑らかな刃に流れる赤い液体は、刀と化したそれをより妖艶に彩り、残酷さを演出している。
その芸当に見とれている場合ではなかった。今までの鋼の翼とは比にならないであろうことは見て取れる。四つもある刃に当たりでもしたら、その部分は斬り落されてしまうのだろう。牙落刀だけで防ぎ切れるかどうか、さすがに自信がなかった。
乱れる心を隠すことができない。それを見透かしたかのように、虚空は微笑んだ。
赤坐の額に嫌な汗が流れた。そのとき、どこか遠くから声が聞こえた。辺りを見回そうとした寸前、声は強く頭の中に響いてきた。
『そのまま、動くな』
その声は聞いたことのある者のものだった。斬太だ。斬太が声にせず、赤坐の心の中に語りかけてきていた。視界に映る範囲には彼の姿も気配もない。どこかに隠れているのだろうが、近くにいることは間違いない。
『黙って聞け。虚空の刃は危険だ。まともにやりあっても勝ち目はない』
届くかどうか分からなかったが、赤坐は心の中で返事をする。
(じゃあ……どうしろって言うんだよ)
『勝ち目はないが、戦ってくれ』
声は届いているようだが、斬太の言い分には納得がいかない。
(はあ? 大人しく八つ裂きになれってことかよ)
『八つ裂きになる可能性はあるが、大人しくしろとは言ってない。信じろ。お前の刀とその持ち主は、神に匹敵するほどの力がある』
「…………!」
斬太の声が途切れると同時、虚空の四つの刃が赤坐を襲った。一太刀目は避けたものの、硬い瓦礫がまるで野菜でもあるかのように黒い刃は深く刺さっていた。抜き取るにも力を要さず、虚空が体を起こすだけでするりと細い音を奏でる。
見事なのは認めるが、感心している場合ではない。
(……信じろ、って、ねえ)
難しい注文だと思った。信じて裏切られたときのことを考えると背筋が凍る。
(だが、やるしかないか)
斬太の言葉からは、あの黒い刃でも牙落刀の頑丈さには劣るのかもしれないという期待が持てる。残る不安は、刀はともかく、現在の持ち主である自分が神に匹敵するほどではないということだった。
(と、言うか)腰に力を入れながら。(斬太の奴、いたのか)
隠れて何を企んでいるのだろう。頭の隅に疑問を残し、赤坐は覚悟を決めて虚空に向かった。
斬太の背後から赤坐と虚空の戦いに目を奪われていた智示は、視界の隅で蠢く影を見つけた。反射的に顔を向けると、渡り廊下の柱の傍で、血塗れで苦しんでいる汰貴の姿があった。
智示の胸が痛んだ。酷い怪我をしている。今にも倒れそうなほど苦しんでいるのが分かる。智示は困惑したままの状態で、自然と彼の元へ駆け寄っていた。
斬太は動き回るなと止めようとしたが、彼も負傷した汰貴の姿を見つけ、それを心配する智示の背中を黙って見送った。
汰貴は歩くだけで精一杯で、駆けてくる智示にすぐ気づくことができなかった。足元の血で滑り、床に倒れる。
「……だ、大丈夫か」
もう立てないと挫けそうになったそのとき、予想もしていなかった声を聞いて汰貴は目を見開いた。顔を上げると、そこには戸惑いながら手のやり場に困っている智示がいた。
信じられなかった。もう二度と会わないつもりだったし、彼からは一生恨まれ続けるのだろうとしか考えていなかった。
しかし、彼は自らここに来てくれていた。途端に、汰貴の中に温かいものが流れ込んできた。傷の痛みが少しだけ和らぐ。
汰貴の苦痛の表情が柔らかいものに変わったことに気づき、智示は照れを捨てて汰貴の体を起こした。生き別れの兄弟である前に、汰貴は重傷を負っているのだ。怪我人に手を貸すことに抵抗はない。
「隠れましょう」智示は目を合わせることができなかった。「ここにいては危険だ」
汰貴も同じく気まずかった。だけど、嬉しくて、温かくて、涙が溢れそうだった。
「……うん。ありがとう、な」
手を取り合っても、やはりどうすればいいのか分からない。仮に生き延びても一緒にいることは不可能なのだと、二人は間にある見えない距離を感じ取った。
それでも、構わない。ここに、隣に、血の繋がったたった一人の兄弟がいる。我慢できず、汰貴は熱い涙を零した。
「ありがとう」
それしか言えなかった。釣られるようにして、智示も涙を流した。
血に塗れ、現実か悪夢か区別し難いこの空間で、二人は同じ思いを抱いていた。
虚空の四つの刃が交差し、その中心を牙落刀が押さえ込んでいた。牙落刀が切れたらそのまま自分も、と赤坐は不安を拭いきれなかったが、刀を信じてぐっと腕に力を入れた。
押しも押されもしなかったが、刀が僅かに軋んだ。
まずい。赤坐は瞬時に虚空の刃を弾き返して後方に飛んだ。急いで牙落刀を確認すると小さな傷が入っていた。やはり自分ではこの名刀の力を発揮できないのか。
確かにあった手応えを虚空が見逃すはずがなく、自信を失っていく赤坐をさらに攻め立てた。刀が交わるたびに火花が散る。一つ一つの刃なら受け返すことはできるのだが、四つまとめての攻撃は避けたかった。赤坐は上下左右にできるだけ動き回り、虚空の狙いを定めさせないように努める。
いくつかの弱点としては、翼が刃と化したために虚空が今までのようには飛翔できないことと、大きな刃を四つも振り回すためか、少々動きが鈍いということだった。一振りも大きく、目で捉えるのもそんなに難しくはない。避けることは可能。
しかしそんな小細工がいつまでも通用するとは思っていなかった。いずれ体力はなくなるし、一太刀でも浴びればそこで勝負は決まるのだから。
(……クソ、斬太)赤坐は姿の見えない彼に語りかけた。(早く、なんとかしろよ!)
斬太がなんとかしてくれるという約束も保障もなかったのだが、今の赤坐には彼だけが頼りだった。牙落刀が折れたら終いである。死ぬだけとは言え、ここまで来て犬死にというのは気に入らない。
いくら待っても斬太の気配さえ感じなかった。赤坐に苛立ちが募り始める。集中力に欠ける赤坐に対し、虚空は攻撃の手を休めない。じわじわと嬲り殺しにするつもりなのか、憎たらしい薄笑いを浮かべている。
『赤坐』再度斬太の声が届いた。『手を抜いてないで真面目にやれ』
赤坐は十分に必死だった。なのに、身勝手な斬太の言葉に怒りを覚え、顔を赤くした。
「……ふざけんな!」
つい、赤坐は声に出してしまった。
「俺は真剣だ。てめえはコソコソと何やってんだよ!」
虚空が笑みを消して動きを止める。赤坐は我に返って口に片手を当てたが、もう遅かった。物陰で斬太は「バカ」と呟く。
刃を下ろし、虚空は赤坐を探るように見つめた。
「貴様……誰と話してる?」
虚空の胸元にある金の眼球が熱を抱いた。その力を感じ取り、斬太は目を細めた。
『赤坐、いいから、止めを刺せ』
赤坐の怒りを知りながら、斬太は要求を続ける。どいつもこいつもと、赤坐はもう自棄になって全身の血をたぎらせた。
「ああ、もう、どうにでもなれ!」
刀が折れても、切り刻まれても構わない。赤坐の目は釣りあがり、湧き出る黒い靄が蒸気のように湧き上がった。そこに理性はなかった。赤坐は無意識のうちに、今までで最も「才戯」に近い妖力を噴出していた。
虚空の顔色が変わった。赤坐が誰と話していたのかも気になるが、これ以上先延ばしにはできない。虚空が四つの刃を持ち上げた。
二人の姿が同時に消えた。瞬きをしている間に、赤坐と虚空は刃を交わらせていた。冷たい金属音が、細く長く空気を裂いた。
赤坐と虚空は肩を震わせ、どちらの刃が先に折れるのかを見守った。じわりと、牙落刀に黒い刃が食い込む。それだけではなかった。虚空の刃にも亀裂が入り、小さな欠片が落ちる。一瞬でも力を抜くことはできない。もう間合いを取り直そうとも考えなかった。これで終わらせると、二人は惜しみなく妖力を刃に流し込んだ。
どちらが勝ってもおかしくない状態だった。虚空の最終的な目的は別のところにあったのだが、いい勝負だったと、密かに「赤坐」に敬意を払っていた。
互いの刃が相手の懐に届く瞬間、その隙間に何かが潜り込んだ。
赤坐と虚空は同時に離れ、宙を舞う。同じくして、牙落刀の、虚空の黒い刃のすべてが、無残に砕け散った。
虚空は体制を整のえながら空中で回転する。すると、刃だったそれが元の両腕と、黒い翼に戻った。
赤坐は強い衝撃に耐えられずに瓦礫の上に体を強く打つ。息を上げながら顔を上げ、右手に掴んだままの牙落刀に目を移す。そこにあったのは、刃を失った、柄だけの虚しいものだった。
赤坐は絶望した。牙落刀がなければ戦えない。虚空は刃をなくしても今までの羽や妖術を持っているのだ。もう敵わない。腕が震え、青ざめる顔から大量の汗が流れ出した。
虚空はそんな赤坐を見下してはいなかった。赤坐ではなく、別のものに意識がいっていたからである。
「……貴様」虚空はそれを見つめて。「生きていたのか」
虚空の目線の先には斬太がいた。赤坐は何が起きたのかと、体を起こして虚空と同じ方向に目線を向ける。やっと姿を見せた斬太を確認したが、赤坐にはもう彼を怒鳴りつける元気はなかった。
斬太は牙を見せて笑っていた。先ほど、二人の勝負の邪魔をしたのは、他でもない彼である。斬太の笑みの意味が分からず、虚空は眉を寄せる。
「なんのつもりだ。無力なネズミが、妙な真似を。また俺にいたぶられたいのか」
あの時と、魔界の森で無残に傷つけられた時と同じ凄みを利かされても、斬太に恐怖はなかった。月と同じ色の光りを放つ目を細め、握った拳をゆっくり突き出す。
「これ、なーんだ」
言いながら、斬太は拳を裏返し、指を開いた。
「……それは!」
虚空は咄嗟に自分の胸に手を当てた。ない。そこに隠し持っていた金色の眼球が。
斬太はずっと虚空の隙を伺い、奪われた片目を取り返す機会を狙っていたのだ。赤坐には申し訳ないが、虚空の羽が重い刃に変化する術を使うことは斬太にとって好機だった。虚空の動きが鈍く大振りになる上に飛翔も不可能。刃さえ避ければ彼の懐から小さな目玉を盗み出すのは容易い。斬太の思惑通りだった。
斬太は眼球を放り投げ、まるで飴玉のように口に含んだ。それを口中でしばらく転がしながら目を閉じる。ゆっくりと片手で左目を押さえ、再び、口の端を上げた。
「やっと……戻った」
斬太は当てた手で前髪をかき上げ、醜い傷跡に縁取られた左目を輝かせた。瞼は食い千切られたままで瞬きすることはできなかったが、肉眼でものを見ることが目的ではない。宿る力さえ手に入れられれば満足だった。
虚空は次から次へと現れる思わぬ邪魔者が疎ましかったが、赤坐の刀は奪い、斬太は元々欠陥妖怪である。敵ではない。そう思った。
しかし、斬太から溢れ出る妖力は虚空が記憶している脆弱な彼のそれとは比べ物にならなかった。この数年の間に何があったとしても、これほどの力、簡単に手に入れられるものではない。虚空は自分の目を疑った。
「どうした?」
挑発的な斬太の言葉を聞き、虚空は戸惑いの表情を隠した。
「あの時、ちゃんと殺しておけばよかったと後悔してるのか?」
「……いや」
おそらくは付け焼刃の雑な妖力だろう。虚空は高を括って鼻で笑った。すると斬太も同じように鼻で笑い。
「じゃあ」爪を尖らせて、虚空に向かって地を蹴った。「後悔させてやるよ!」