千獄の宵に宴を



  第十六場 千年の夜 


7


 胸糞が悪い――才戯は眉を寄せて、無意識に刀を持つ手に力が入っていた。あまりにも残酷すぎる。才戯も優しい人格ではないのだが、虚空のやり方にだけは何一つ共感できるものはない。
「……いい加減にしろよ!」
 無駄なのはどこかで分かっていながら、じっとしていられずに才戯は飛び出した。斬太に気を取られていた虚空は牙落刀の薙ぎを背中にまともに受け、一瞬息を止めた。
 虚空の翼が、背中の肉と一緒に一文字に切り裂かれた。翼の一部は血を流しながら地面に落ち、切り口から生温かい鮮血が噴出した。
「もういいだろ!」才戯は警戒しながらも虚空を怒鳴りつける。「そいつは戦う意志を失っているんだ。殺すならさっさと殺してやれ」
 虚空は返事をせずに斬太を掴んだまま棒立ちしている。背中からは血が流れ続けていたのだが、その勢いが、緩やかになっていった。
 才戯ははっと顔を上げる。虚空の傷が、目に見える早さで癒えていく。そして翼の切り口から同じ色の羽が生えてきた。僅か数秒で、虚空の背は何もなかったかのように元に戻っていった。
 そこに苦痛はなく、熱いほどの熱が篭ったことは感じた。虚空には心地よい現象だった。目を細め、肩越しに才戯を振り返った。才戯は彼の目線に飲み込まれた。
「……雑魚が」虚空に彼の言葉は届いていなかった。「お前とは後で遊んでやるから、引っ込んでいろ!」
 虚空の翼が大きく開き、背後にいた才戯を吹き飛ばした。才戯は離れたところに転がる岩に体を強く打ち、その場に崩れ落ちた。
 虚空に首を絞められたままの斬太は、両目から血を流しながら呼吸を乱していた。何も見えない彼の頭の中は、弟の無念で一杯になっている。
「……久遠を」蚊の鳴くような声で繰り返した。「返せ」
 虚空はそれを嘲笑った。自分に楯突かなければここまで惨い目にも合わなかったのだと、自業自得だと、斬太を更に締め上げる。
 斬太が苦しみもがく中、今度は足元から声が聞こえた。
「……虚空」暗簾が、倒れたまま目を細めていた。「早く、そいつを殺せ」
 虚空は笑みを消す。今の彼にとっては暗簾も雑魚以外のなんでもない。しかし、ふっと疑問を抱いた。
 どうして暗簾は、自身にではなく、虚空に炎極魂を与えたのか。
 言われなくても斬太は殺すつもりである。それより先に暗簾に理由を問いただそうか、そんなことを考える間に、暗簾が残る妖力を振り絞って髪を一房、鞭のように伸ばしてきた。
「…………!」
 牙のように尖ったそれは、瞬時にして彼の心臓を貫いた。
 虚空も、目を見張っていた才戯も、暗簾の行動を疑った。暗簾は、確実に斬太を狙っていたのだ。虚空の手の中で斬太の呼吸が止まり、手足が垂れる。
 何のつもりだと考える前に、虚空の心臓が大きく、脈を打った。

「兄さん……!」
 鏡の前ですべてを見ていた久遠の顔は涙で濡れていた。
 虚空のやり方に気分を害しているのは依毘士や鎖真も同じだった。しかし彼らはまだ動かず、じっとそのときを待ち続けていた。
 そして、その時が、始まる。
 依毘士が冷静だった表情を険しくした。それに気づき、鎖真も気を引き締める。樹燐も何かに気づいて腰を上げた。
 突如、鏡が滲んで見えた。
 熱だ。鏡が熱を孕んだのだ。近付くだけですべてを溶かしてしまいそうなほどのそれは、みるみる温度を上げていく。
 久遠はそれでも鏡から離れず、それどころか体を寄せて鏡に縋りついた。
「兄さん。僕はここにいます。早く気づいて……早く、鍵を開けて!」
 熱を上げた鏡に火が灯った。それは虹色に揺らめく、ここではない違う次元から湧き出しているものだった。炎の花びらは上空高くに立ち上りながら勢いを増していく。
 久遠の身が心配になった鎖真が飛び出そうとしたが、足を出す前に炎は久遠を包み込んだ。
 虹色のそれに身を任せる久遠は、静かに微笑んだ。揺れる鏡面につけた両手が吸い込まれていく。
「ありがとう……」
 心からの言葉を残して、神々の見守る中、久遠は炎とひとつになる。そして水に落ちていくように、鏡の中へ姿を消した。

 そのとき、地上で悲鳴を上げたのは虚空だった。
 斬太が息絶えた瞬間、虚空の胸にあった魂が燃え上がったのだ。その熱は尋常ではなく、虚空は内側から焼かれる苦痛に襲われていた。斬太から手を離し、頭を抱えて悶え苦しんだ。
 彼に何が起こっているのか分からずに暗簾と才戯は息を潜めた。
 虚空は胸を掻き毟り始め、自分で自分の体を傷つけていく、しかしその都度体は再生を繰り返し、熱を発する心臓まで手が届くことはなかった。
 虚空が我慢の限界に達したとき、彼の体に淡い虹色の光が灯った。同時に彼は目と口を大きく開き、息が止まる。
 次の瞬間、虚空の体から鏡から発せられたものと同じ不気味な炎が燃え上がった。虚空は生きたまま全身を焼かれていく。
 虹色の炎は、虚空を中心に波紋を描いて広がっていく。その炎は地面に転がっていた斬太を巻き込み、彼の小さな体を包み込んだ。

 斬太の魂は、炎の中で血の涙を流していた。
「久遠……久遠、ごめんな」
 結局何もできなかった斬太は、何度も久遠に謝っていた。弟を見るための両目も、守るための片腕も奪われた斬太は悲しみだけに捕われて、もう謝ることしかできないと信じて疑わなかった。
「ごめん、ごめん……俺、やっぱりお前を守れなかった」
 だが、彼を包む炎は優しかった。こんな不甲斐ない自分が許されることなどないはずなのに、誰かの温かいそれは斬太の絶望を和らげようとしている。
 このまま消えてしまいたい。斬太は力をなくし、最後にもう一度だけ久遠の顔を思い出した。
「……兄さん」
 思い浮かべた弟の声が聞こえた。あの時のままの、心地いい声だった。
「兄さん」
 不思議と、その声が近くで聞こえたような気がした。まるですぐそこにいるようで、目の見えない斬太は片手を揺らして周囲の炎を探った。
 その小さな手を、誰かが掴んだ。斬太は何も考えずに、無意識のうちにそれを握り返していた。
 その感触が、ずっと会いたいと思っていた久遠のものに似ていたからである。
 似ているのではない。久遠の手だ。間違いない、間違えるはずがない。
「兄さん」
 どうしてと思う間もなく、今度ははっきりと久遠が自分を呼んだ。
「僕です、久遠です」久遠は斬太を引き寄せ。「お会いしとう……ございました」
 血塗れで無力な斬太を抱きしめた。
「ずっと、ずっと……この時を待っていました」
 斬太の頬に久遠の涙がいくつも落ちてくる。
「これでやっと、僕たちは救われます。僕たちは自由です」
「……ほ、ほんとに……そんなことが」
「ええ。もう悪夢は終わりです。どうか、この炎の揺り篭でお休みください」
 もう悪夢は、終わり――その言葉は斬太の全身に染み渡った。優しい炎と久遠の腕に抱かれ、斬太は体の力を抜く。
 炎極魂は一つを箱とし、一つを鍵として番いに宿る。鍵を開けなければ箱が解放されることがないために、神々は箱を隔離し、鍵に自然な死を先に与えるように操作しているのだ。
 斬太と久遠は、箱だけが先に死んでしまうという今までにない例だった。鍵がかかったままの炎極魂はこの兄弟から離れることができず、別の入れ物に宿ることになってそのことが混乱を引き起こした。
 しかし今、炎極魂の迷走によって伴った不幸と、皇凰の加護によって導かれた運命が終焉を迎えようとしている。

 地上で炎を放つ虚空の前に、揺れる人影が現れた。生きたまま灼熱の炎に焼かれる虚空は死ぬことも許されずに苦しみ続けていた。人影は、斬太を抱いた久遠だった。
 虚空は目を見開き、二人を見つめる。
 久遠は安らいだ表情で斬太に頬を寄せている。あれだけ苦しめた兄弟が虚空の目の前で、幸せそうに微笑む光景は彼の心に突き刺さった。
 斬太に顔を寄せたまま、久遠がふと目を細める。虚空に向けられたその視線は、まるで刃物のように鋭いものだった。久遠が虚空を睨み付けると、炎は連動するように勢いを増した。
「……あなただけは、許さない」
 目元を陰らせた久遠は、虚空が今まで見てきた中で何よりも恐ろしいものに映った。
「僕たちの恨みを、復讐を受けよ」
 久遠の背中から原色で鏤められた極彩色の翼が開いた。まるで二人を抱くように優雅に羽ばたき、その中心から華麗な首を擡げる。巨大な鳳凰が全貌を現し、深い瞳で虚空を見据えた。
 これが神。これが、皇凰。
 虚空は一瞬にしてそれに飲み込まれ、初めて自分のしたことを後悔した。
 久遠の金の目が光を放つ。
「地獄の業火に焼き尽くされて、永遠に苦しむがいい……!」
 その怨念の篭った声に乗り、嵐のような炎が虚空を襲った。
 虚空は最後の悲鳴を上げ、燃え上がる炎に掻き消されていった。

 惣理の塔全体を包む熱に誰もが眉を寄せていた。
「……来る」
 依毘士が呟くと、武神たちは一斉に武器を構えた。
 巨大な鏡が嘶いた。耳を劈くような鳴き声は鏡の中から響いてくるものだった。
 千年目のその瞬間が訪れた。
 虹色の炎は生き物のように固まり、上空に昇り始めた。次第に炎はいびつな十字に形を変える。左右に伸びる二つの腕が華のように開き、鳥の翼を象った。炎は色とりどりの羽に変化していき、それを揺らしながら皇凰は再び啼いた。色づき始める長く鋭い嘴と遠くを見つめる無垢な瞳、ピンと立った立派な尾。
 鏡から抜け出した皇凰は色彩鮮やかで、燃えるような生命力に溢れた姿を神々の前に現した。
 樹燐はその姿に目を奪われた。
「……美しい」
 千年に一度、無限地獄に堕とされた許されざる罪人の魂を解放して慈悲を与える奇跡の神。
 皇凰が宙を舞うと、翼が揺れるたびに虹色の淡い炎の欠片が降り注いでくる。冷たい黒岩だけだったその場所さえも鮮やかで暖かい空間になっていく。
 嘶きながら円を描く皇凰に、小さな光が集まり始めた。蛍のような光は低いところからいくつもいくつも、皇凰を囲んで飛び交っている。
 それは罪人たちの魂だった。地獄の釜の蓋が開き、千年もの間、無限地獄に閉じ込められていた哀れな魂が皇凰の羽に触れて浄化されていく。
 皇凰は罪人の魂の感謝の気持ちに包まれていき、どこまでも輝きを増していく。あまりの温かさと優しさに感極まった樹燐の頬に、涙が伝った。
 依毘士はその奇跡から目を離さず、皇凰の仕事が終わるときを冷静に伺っていた。役目が終わった皇凰は再び体と力を封印してしまう必要があったのだ。そうしなければ地獄に落とされた魂のすべてが浄化されてしまうからである。その為に、無礼を承知で彼を追わなければいけないのだ。皇凰の体は灼熱であり、ヘタに触れれば武神でさえ浄化されてしまう恐れがある。傷つけず、近寄りすぎずに皇凰を捕らえるのは決して容易いことではなかった。天竜ならば動きを止めることができるかもしれないと、依毘士の腕に大きな期待が寄せられていた。
 皆が依毘士の合図を待つ中、皇凰が高い声を上げ、蛍火を纏いながら空高く舞い上った。依毘士の目が揺れ、肩の天竜が吠える。
 選ばれた武神たちが依毘士を先頭に、皇凰を追った。

 麻倉の屋敷は奇妙な炎で包まれていた。
 暗簾と才戯は幻のように感じた。散らばる死体や家屋、岩や樹木も形をなくしているのだが、煙は立たず、焼けているかのようなものは炭になるのではなく、炎の中に溶け消えていっているように見えたのだ。
 しかし結界内に熱気は篭り、息苦しい。このまま自分も炎に包まれて消えてしまうのだと察する。すべてが無に返るのだ。
 それでいいのかもしれないと、才戯は思った。
 もう虚空の姿も、斬太と汰貴の死体は消えてなくなっていた。後は、命のある暗簾と才戯だけが意識を持ってすべてを見届けようとしている。
 結界も解かれる気配はなく、今更逃げる気も起きない。才戯は諦めて、炎の中で歩を進めた。
 血塗れのままで横たわり、ぼんやりしている暗簾の隣に才戯が立った。暗簾が顔を向けると、才戯がため息をついて見下ろしている。
「……よりにもよって」暗簾は立ち上がろうともせずに微笑んだ。「最後に見る顔がお前だとはな」
 それはこっちの台詞だと、才戯は頭を垂れてその場に屈みこんだ。暗簾は炎の空間に目線を戻して呟いた。
「まあ、面白いもの見れたし、俺は結構楽しかった。だから、いいや」
 暗簾らしい答えだと思う。同感というほどではなかったが、才戯も特に後悔することはなかった。
 才戯の足元に虹色の火が燃え移った。思いの他、熱さはない。隣の暗簾の着物にも炎が揺れ始めた。触れてみると、それが優しいものであることが分かった。苦しみながら死ぬわけではなさそうだと、才戯は目を閉じた。
 その脳裏に、ふと誰かが映った。知ってる。見たことがある。武流だ。そう言えば、彼は一体何者だったのだろうと思い、再び瞼を上げた。
 すると、足元に灯っていた炎が消えていることに気づいた。
 暗簾の着物のそれも消えており、彼も変化に気づいて体を起こした。
 二人を囲むように、地面に光の円が浮かび上がった。それに包まれた暗簾と才戯は、心なしか体が軽くなったような気がした。不快感は一切ない。もう驚くことをやめてじっとしていると、二人にあった傷が癒え始める。その内に体が浮いた。ゆっくりと、大きな手に持ち上げられるように。
 二人は離れていく地面を、屋敷を見下ろした。
「……あ」
 暗簾が声を漏らす。目線の先には、目を閉じて口元に人差し指を当てている武流の姿があった。
 あれは、武流の残留思念。
 何がこの場に彼を呼んだのか、二人には分かった。
 汰貴と赤坐、そして、智示。自分の中にある魂が起こした奇跡だと、それしか考えられなく、素直に受け入れる。
 二人の視界から、炎に包まれた屋敷が遠のいていく。頭上に浮かぶ月は、何も見ていないかのように、見なかったことにしようとしているかのように黙って光を放っているだけだった。
 いつの間にか暗簾と才戯は、破ることは不可能なはずの特殊な結界を超えていた。見えない力に守られながら。

 縁とは奇妙なものだと思い知り、二人は光の中で意識を失った。