第十七場 終幕
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突き抜けるような青空の下、城下は誰もが穏やかな気分だった。
起きて食事をし、仕事や勉学に励んで食事をして寝る。いつもの毎日がそこにある。すぐ近くで恐ろしい妖怪による殺し合いがあっただとか、名も知らぬ巨大な鳳凰が空を舞い踊っただなんて思いつきもしないほど長閑な空気に包まれていた。
惨劇の繰り広げられた麻倉家の屋敷もいつもと同じく、華やかで多忙な時間が流れている。
あの日、結界が解除された朝方には、皇凰の炎に浄化されたすべての人や家屋、樹木や小さな虫までもが、まるで何もなかったかのように元に戻っていつもの夜明けを迎えていた。
城下の外れにある小さな神社の境内に、一人の青年の姿があった。
彼の名は才戯。かつての赤坐である。半分人間、半分妖怪として千獄の時を生き残った者の一人だった。
才戯は祠の正面にある賽銭箱に腰を下ろして空を眺めている。境内に人は少なく、近道として横切っていく者をたまに見かける程度だった。正門から城下の大通りへ続く細道が続いている。商売の栄えるこの町は人口も少なくない。その中でこの神社はいつも静かだった。大通りの突き当たりには名家である麻倉家が支援する立派な神社があるためだと思う。
もしかすると、何か妙な曰くがあるのかもしれないが、家族も友達もいない孤独を好む才戯には落ち着ける場所だった。
千獄の時から十日以上が過ぎていた。それまで行くところもやることもない才戯は、ほとんどの時間を一人でぼんやりと過ごしていた。隣に汰貴の姿がないことを、寂しいとは思わなかった。姿は赤坐のものだが、中身はもう赤坐ではないのだから当然のことだった。
「ご機嫌麗しゅう」
突然、背後から声をかけられた才戯は途端に不機嫌な顔になった。どこから、いつの間に現れたのか、賽銭箱の陰から一人の少年が顔を出す。
目立たないように地味な着物を身につけた、この土地の地主の一人息子、麻倉智示。才戯は声を聞いただけですぐに分かった。赤坐だった頃によく聞いていた汰貴と同じものだったし、何よりもそのふざけた口調は前世からの付き合いなのだから。
「なんだそれは」才戯はつまらなそうに。「新しく教えてもらった金持ちの言葉か? バカの一つ覚えほど恥ずかしいものはないな」
智示の中身は暗簾だった。彼もまた、才戯と同じく半妖として人間界に身を置くことになっている。
元々流浪の身だった赤坐は自由だが、名家の一人息子である智示はそうはいかない。どこかに逃げることも可能だったのだが、暗簾も別段行くところも目的も何もなければ、いちいち周囲を騒がしてまで逃げる理由もない。暗簾は夜が明ける前に屋敷に戻り、頭を打って少々記憶を失ったことにして麻倉家に居ついていたのだった。
そうして暗簾は、嫌なら逃げようと軽く考えて、しばらくは屋敷の様子を伺う日々を送っていた。
自由奔放でいい加減な暗簾の性格からして、麻倉家の面倒なしきたりだとか教育だとか、ややこしくて重い人間関係になど絶対ついていけないと才戯は思っていたのだが、意外にも彼は二つの面を使い分けて周囲をうまく騙しているようである。一つは狡賢く、人をからかうことが好きな性格の悪い暗簾の面。もう一つは大人たちから制圧され、自我を殺していい子を演じる薄幸の少年の面。
今の状態がいつまで持つか分からないが、才戯は暗簾がどこでどう生きようが興味はない。本人が楽しいならそれでいいと、たまに話に付き合ってやることにしていた。
暗簾は賽銭箱に乗りあがって膝を抱えた。
「お前はまだ宿なしか? 仕事するなり、昔みたいに腕を磨いたりとか、何か始めないのか」
先に賽銭箱に腰掛けていたのは才戯だが、暗簾の行儀の悪さはとても金持ちのお坊ちゃんとは思えなかった。神主が見たらとんでもない罰当たりだと腰を抜かすだろう。
「それとも」暗簾は意地悪な表情を才戯に寄せてくる。「弟がいなくなって寂しいのかな? なんなら俺がお兄ちゃんって呼んでやろうか?」
才戯は顔色も変えずに暗簾の顔を肘で押し返す。
「気色悪い」才戯は深いため息を漏らしながら。「……でもさ、汰貴と言えば、あいつは一体どこへ行ったんだろうな」
「何言ってんだよ、頭悪いな、才戯は」
ムッとして暗簾を睨みつけると、彼は自分に指を差していた。
「ここにいるじゃないか」
「お前は智示だろ?」
「言わなかったっけ? 汰貴と智示は元々双子じゃなかったんだ。武流が俺と炎極魂を封印するために勝手に分けたんだよ。つまり二人は双子じゃなくて、片方は、って言うか、汰貴はただの複製品だったってこと」
「そんな話、初耳だよ」
「そうだっけ。ま、それにしても汰貴が存在しなかったら赤坐は戦火で死んでたし、智示は不幸街道まっしぐらだったんだよな。変な話だよな」
「智示のことは今も同じだろう。状況が変わったわけじゃないんだから」
「そんなことないぜ」
暗簾が大きな口を開けて笑うと、不自然な八重歯が見える。妖気の影響で中途半端な牙が伸びてしまったのだろう。才戯にも似たようなものがあり、妖気が高まったときは爪も尖る癖があった。
「俺、決めたんだ」暗簾は人目も気にせずに賽銭箱の上で立ち上がった。「麻倉家をもっと大きくして、誰も頭が上がらないほどの大金持ちになってやるってな」
「……はあ?」
才戯が呆れた声を出すと、暗簾はすぐに屈む。幸い人は誰も通らなかった。
「意外と商売って面白いんだよ。駆け引きとか騙しあいとか、俺に合ってる気がするんだ」
暗簾は浮かれているが、今だけじゃないのかと才戯は話し半分で聞くことにした。
「せっかく人間になったんだし。楽しんだほうが得だと思うぜ?」
ヘラヘラと笑っているかと思えば、今度は顔を覆って嘆きの真似事を始める。
「最近さ……前妻の後釜を狙って変なオバサンが出入りしてるんだけど、そいつが俺を虐めるんだよ。後妻になれたら自分の子供を跡継ぎにしたいらしくて、あくどい計画立ててるんだ。だから、母親が死んで味方のいない俺を邪険にして、自分が悪者にならないように陰湿な方法で嫌がらせをしてくるんだ」
「……で、そうやってお前は泣き真似しているのか?」
暗簾は顔を上げて。
「そうそう。最初は仕返ししてやろうかと思ったけどさ、俺、一応まだ子供だし、大人しく我慢してるほうが周りが同情してくれるって分かったんだ。面白いよな、人間関係って。魔界は一人の妖力がどれだけ強いかで上下が決まるが、人間はそうじゃない。組織力がものを言うんだ。だからまだ若いうちに味方をたくさん作っておいて、周囲を固めながら権力を手に入れていけば絶対勝てる、と思う。それが今の俺の人生計画」
積極的に人間に馴染もうという気のない才戯にはよく分からないが、暗簾は昔から人の性格や特性を見抜き、それに合わせて周りを振り回すのが得意だった。冷静に考えれば自分もそのうちの一人であり、昔を思い出すと腹立たしいことも多い。しかし今更怒ろうと思わない。そのことも暗簾は分かっているのだろう。
暗簾が記憶を持ったまま麻倉家の嫡男に転生したことは神の悪戯だと思った。末恐ろしいとはこのことだ。計算高い上に、いざとなれば身内も仲間も平気で殺せる冷酷な部分が本性であり、表面はただ楽しく遊んでいたいだけの「わがままで憎めない子供」である。才戯はそれに何度も騙されてきた。騙され果てて、今こんなところで立ち往生しているのだ。それでもやはり、なぜか暗簾を許してしまっている。できれば関わりたくない。その気持ちが憎しみを払拭しているのだろうと、才戯は思った。
そんな彼の気持ちにお構いなく、暗簾は明るい声で話を続ける。
「ところで、牙落刀はどうしたんだ?」
「ああ。人間界で持ってても仕方ないし今の俺じゃ持ち歩くのも大変だから、どこかの枯れ井戸に放り込んできた」
「ええ? あんな名刀を? 大雑把な奴だな」
暗簾には言われたくない言葉だった。
「どうせ俺しか使えない代物だ。盗られやしないよ」
「必要になるかもしれないぜ? お前さ、本気で泥棒になれよ」
「?」
今度は何を、と才戯は肩を竦めた。
「コソ泥じゃなくて、真面目な大泥棒。それで麻倉家の財産を狙えばいい」
「何を言い出しているんだ。お前は麻倉家を大きくするのが目的なんだろう? それを俺に邪魔させてどうする」
「いいんだよ。俺は別に麻倉家を繁栄させたいわけじゃないんだからさ。予定では、最後には俺が財産食いつぶしてやるつもりだし」
暗簾の考えが読めた。暗簾はただ金稼ぎをして、目に見える形で「勝ち」を手に入れて快感に浸りたいだけなんだろう。長年、商売の神様として栄えてきた麻倉家ももう終わりだと、才戯は気の毒にさえ思った。
「俺が大金持ちに、お前が大泥棒になってさ、勝負しようぜ。どうだ? 面白そうじゃないか?」
呆れる――が、悪くないかもしれないと才戯は思う。暗簾のように人生計画を立てるつもりはないが、考える余地はある。
「でも」やっと才戯は少しだけ笑った。「言っとくが、俺が本気になれば人間如き、簡単に叩き潰せるぞ。いいのか?」
「いいね」暗簾は余裕の表情を見せ。「こっちも言っとくけど、麻倉家には俺がいるってこと、忘れるなよ」
この世界には人間以外の生物が存在する。神や妖の類である。それらが大人しく自分の世界に留まっているとは限らない。もしかするとこの二人のように、人間の皮を被った人外が潜み、悪巧みをしていることはよくあることなのかもしれない。