千獄の宵に宴を



 第十七場 終幕 


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「――こら、悪人ども」
 祠の影から、聞きなれない声が届いた。
「神を侮るな。悪事を働けば必ず報いがある」
「…………!」
 声の主が見せた意外なその姿に、二人は目を見開いて注目した。
 そこには、人間離れした強烈な美しさを持つ女性がいたのだ。誰もが目を眩ませるほどの輝かしさは、閑散とした境内にはあまりにも不釣合いだった。
 それほどの神々しさも当然である。彼女は本物の女神なのだから。鬼子母神の眷属・樹燐は、忍ぶこともなく扇子を揺らしながら二人に歩み寄ってきた。
 才戯は腰を上げて、樹燐に人差し指を突きつける。
「て、てめえは、鬼バ……!」
 最後まで言わせずに、樹燐は目にも止まらぬ速さで才戯に平手打ちを食らわす。その力は、相変わらず女とは思えないほどのものだった。才戯は頬を押さえて涙目になる。
 才戯に暴力を振るう女を、暗簾は初めて見て驚かずにはいられなかった。
「才戯、知り合いか?」少し声を潜め。「美人だけど、怖いな」
 樹燐の地獄耳には余裕で届き、暗簾は無言で睨み付けられた。
「……お前な」才戯は眉を寄せて体の力を抜く。「いくらなんでも目立ちすぎだろ。時と場所も選べないのか」
「神は人間の目には映らん」
「あっそ。で、何しに来たんだよ」
 樹燐は彼にしたことを忘れたかのように頬を緩めた。
「運命の相手に会いに、わざわざこんな辺鄙な場所へ来てやったのではないか。素直に喜べ」
 才戯の顔が青ざめる。まだそんなことを言っているのかと目を逸らした。
 それを聞いて、暗簾がニヤニヤと才戯と見上げる。
「へえー。運命の相手なんだ。羨ましいなあ」
 暗簾は他人の不幸が好物である。嫌な奴に見られてしまったと才戯は落ち込んだ。そんな彼に追い討ちをかけるように、樹燐は才戯の隣に立って肩を寄せてくる。
「ずっと可愛がっていた久遠殿がいなくなって、私の心には穴が開いてしまった。一人がこんなに寂しいなんて今まで考えたことなどなかったのに……毎日そなたのことを思い出しては切なくなって、もう私は待っていられなくなったのだ」
 才戯は寒気が走り、体を傾けながら樹燐を押しのける。暗簾はその様子を楽しそうに眺めていた。
「そう言えば」暗簾は門の向こうの城下町に目を移し。「斬太と弟、こないだ見かけたな」

 斬太と久遠は妖力も昔の記憶もなくし、ごく平凡な人間として城下で生活していた。サトリ特有だった金色の瞳も奇妙な模様も、斬太にあった傷跡のすべてが消え、見た目も性格もまったく似ていないというところ以外は、何の変哲もない兄弟として幸せな毎日を送っている。
 少々極端な容姿のために起こるいざこざはあるものの、それは二人の性格や特性を生かしたままやり直して欲しいという、皇凰の願いと慈悲の一つだった。
 暗簾が二人を見かけたのは先日のことだった。
 久遠が町で買ってきた反物が三流品だったにも関わらず、何倍もの金額を騙し取られたことで斬太が怒って、店に返してこようと家を飛び出してきたところだった。
 綺麗な花柄の反物を手にしている斬太を、久遠が半泣き状態で追いかけてきていた。
「兄さん、いけません。僕が悪いんです。だから……」
「バカ! お前がそんなんだから騙されるんだよ」
「今度から気をつけます。だから止めてください」
 斬太の怒りは別のところにもあった。乱暴に掴んでいる反物を久遠に突きつけ。
「大体、こんな女物、何のために買ってくるんだよ」
「ご、ごめんなさい……綺麗だったから、つい」
 端から見ていた暗簾は久遠に女でもできたのかと思ったが、単なる彼の趣味らしい。これは怒られて当然だと笑いを堪えた。
「こんな腹の足しにもならないもんに大金払いやがって。いつも女に間違えられて悔しいと思うなら、こんなもんに興味持ってないで剣術でも習いにいけよ」
「ええっ……僕はいつも女性だと思われているんですか?」
 久遠の見た目だけでなく、仕草や考え方も女々しいために周囲に誤解されやすいのは無理もないのだが、本人に自覚がないということが斬太の一番の悩みだった。
「こないだもお嬢さんって言われて不貞腐れてたじゃないか。もう忘れたのか」
「そ、それは、たまたま……明るめの色の着物を着てたせいで……」
「一日に三回も言われたら、自分に問題があるってことに気づけ!」
 噛み合わない兄弟のやり取りが暗簾はおかしくて、これ以上は我慢の限界だとその場を立ち去った。

 才戯も一度だけ、二人の姿を遠くから見かけたことはあった。一瞬斬太がこちらを向いたような気がしたが、彼らは自分を見てももう誰だか分からないのである。おそらく、二度と関わることはないのだろうと才戯は近付くことをしなかった。
「それにしても」面白くなさそうに。「なんであいつらだけ人間で、俺たちは半妖なんだよ。妖怪に戻すか、妖怪のときの記憶なんか消してしまえばいいのに」
「あの二人は特別だ。皇凰と言う偉大な神から直接加護を受け賜っているのだからな。そなたたちはついでなのだから文句を言うでない」
「ついでだと?」
「手違いで転生しただけではないか。消滅しなかっただけ有難いと思え」
「お前の横暴だろうが。威張って言うな」
「だから」透かさず、才戯に顔を寄せて。「こうして責任を取りに会いにきたのではないか」
 才戯は余計なことを言ってしまったと後悔した。
「俺は別に、これでいいと思うけどな」暗簾は賽銭箱から飛び降りる。「じゃ、用があるから俺は帰るよ」
「えっ」
 才戯は樹燐と二人きりにされたくなく焦るが、暗簾は敢えて嫌がらせの言葉を残して背を向けた。
「祝言挙げるときは一報くれよ」
 樹燐の機嫌がよくなると才戯の生気が奪われていく。
 魂の抜けたような彼に、樹燐は空を仰ぎながら語った。
「……昔、ある天界の武神が人間界へ降りた。そして武神は出会った一人の人間に恋をしたそうな」
 何の話だろうと、才戯は顔を背けたまま黙って聞いていた。
「彼は天界の神、女はただの人間。身分はおろか、人種さえ違う二人が愛し合う手段はなかった。武神は女を忘れることができないまま、一人で天界に戻った。二度と会うことはないはずだった。しかし、人の想いとは驚くほど強いもので、時に奇跡を起こすことがある。人間界に残った男の気持ちは人の形になり、許されなかった相手へ思いを伝えることができた」
 才戯は何かに気づく。脳裏に、ある人物を思い浮かべた。
(……まさかな)
「ただ、幸せにはなれなかったらしいが……それでも、私は美しい話だと思う」
 思いを馳せ、いい雰囲気を漂わせて語っている樹燐だったが、才戯は別のところに意識がいっていた。
(神出鬼没で正体不明の人間……見えも触れもしない業を浄化し、神の魂を封印するほどの神通力。普通じゃないことは確かだが……)
「幸せと引き替えに、身分や人種を越えて愛を貫いたのだ。いつかきっと二人は違う形で結ばれるのだと、私は信じている」
(まあ、そうだとしても、もうどうでもいいことだけどな……)
「なあ、才戯、お前はどう思う?」
 樹燐は何かを期待しているかのような声で才戯に問うが、彼はそっぽを向いて返事をしなかった。
「聞いているのか!」
 怒鳴られ、才戯は肩を揺らして我に返った。
「は? ああ、途中までなら」
「もう、何なのだ、お前は。無神経な男だな」
 才戯には樹燐が苛立っている理由も、結局何が言いたかったのかも理解できない。
「まったく、お前はまだ修行が足りぬのかもしれないな」
 樹燐が声を低くして目を細めると、才戯はあのときのことを思い出して後退さった。
「な、何考えてるんだよ」
 樹燐はつんと顔を背ける。
「これでも帝に説教されたのだ。結果としては悪いことにならなかったから許されたが、もう掟を破ることはせん。安心しろ」
 それなりに反省しているようだ。才戯は胸を撫で下ろす。しかし。
「だが、私はそなたを諦めはせぬぞ」
 懲りてはいないようだ。ニコリと微笑む樹燐を見て、なぜか才戯は般若の面を思い出した。
「初めて本気で惚れた男だ。今生は人間界で腕を磨け。そして来世、私がそなたを神にしてやる。そのときは……言わなくても分かるよな?」
 脅されている。才戯はそうとしか思えなかった。
「……べ、別に、俺は、神になんかなりたくねえよ」
「そうか……では」途端に、樹燐の眉間に深い皺が寄る。「カエルになっても、文句はないな」
 それは辛いかもしれないと、汗が流れ出す。しかし脅されて頭を下げるつもりはなかった。次の転生では記憶をなくすのだ。そのときはそのときと、才戯は開き直って舌を出した。
「どうぞご自由に」
 可愛げのない才戯の態度に樹燐は口を曲げる。その表情が珍しく素直なものに見え、もしかしてと探りながら、一度彼女への偏見を捨ててみる。そうすると意外なものが見えた、ような気がした。
 才戯はその一瞬にして彼女の弱点を読み取った。横目を向けて、不適な笑みを浮かべる。
「どうせ、お前はできないんだろ?」
 樹燐は彼の言葉を正確には理解できなかった。
「何を。正式な権限はないが……」
「違う」才戯は遮って。「お前はそういう酷いことを、できるけどしないってこと」
「…………!」
 樹燐は顔を赤くして言葉を失った。どうやら図星のようだ。ささやかではあるが、才戯は今までの仕返しをしてやろうと樹燐に顔を近づけた。
「本当は優しいんだよな? じゃないとあんなキチガイ兄弟の面倒なんか辛抱強く見れないよなあ?」
「……な、何だと」
「鬼ババアっていうの、撤回してやるよ。見返りを求めないってのは、口では簡単に言えるが、本当にできる者は少ない。相当懐が深くないと無理な芸当だ。寂しいって言うのもさ、実は本音なんじゃねえの? 素直になれば可愛いと思うぜ。俺だって、ちょっとくらいは迷うかもしれないのにな」
 樹燐は赤くなった顔を扇子で隠し、じりじりと寄ってくる才戯を押し返した。
「ぶ、無礼者! バカにしおって」数歩、早足で離れて。「神を侮辱する不届き者が。貴様なぞ、私が手を下さんでもどうせ碌なものには転生できぬわ。どこぞで野垂れ死ぬがいい!」
 そう言い残し、逃げるように樹燐は姿を消した。
 途端に境内は静かになる。まだ言ってやりたいことがあったが、きっと、そのうちまた出てくるだろうという予感を抱く。これで怖いものはなくなったと、才戯は目を伏せて薄く笑った。


 千獄の時、天竜と皇凰の戦いは三日三晩続いた。
 仕事が終わり、疲れ果てた武神たちは倒れるように体を休め、鎖真が依毘士と酒を飲めたのは、更に数日後のことだった。
 二人が酒を酌み交わしながら何を話したのかを知るものはいなかったが、大体は誰もが予想できていた。きっと、鎖真が一人で喋るのに対して依毘士は相槌さえ打たず、鎖真の間が持たなくなったところでお開きなのだと官女は噂していた。官女の噂はデタラメが多い中、そのことだけは鎖真本人の証言により立証されてしまうことになった。
 だが鎖真はそんな虚しい時間でも、僅かながら依毘士の別の一面を見ることができたらしく、懲りずに彼を誘おうと隙を狙い続けていた。
 いつか依毘士を笑わせてやるという、大きな野望を胸に抱いて。


 音耶の仕事は当然終わることはなかった。終わるどころか、皇凰によって浄化された魂の数さえいまだに把握しきれていない。音耶が崩れ落ちてきた台帳の下敷きになったときは大騒ぎになり、逃亡していた父親が手伝いに戻ってきてくれることになった。
 父親が助けてくれたことは嬉しかったが、いくつもの病気で苦しんでいるはずの彼がどこも悪そうにしていない様子に、音耶は人を疑うということを少しだけ学習した。
 今は親子で仲良く机に並んでいるが、引退した父親がいつ逃げるか分からないと音耶の神経は日々磨り減っている。音耶を補佐する手下たちもまた、そんな緊迫した毎日に神経を磨り減らしていた。


 斬太と久遠という風変わりな兄弟はこの後数十年、誰にも引き離されることなく平凡な人生を送ることを約束されており、その通りの退屈な道を二人で、のんびりと歩き続けていった。

 ある日二人が露店で買い物をしているとき、人混みに紛れて才戯が背後を通り過ぎていった。
 ふっと、まるで細い糸に引かれるかのように、久遠が振り返った。そして小さくなっていく才戯の背中を見つめ、穏やかな微笑みを浮かべた。
 そのとき久遠が何を思ったのか、それは神のみぞ、いや、神でさえ知るところではなかった。


 今日の話はこれでお終い。
 次に会う日は千年後、地獄の釜が開くとき――。


- 了 -


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