千獄の宵に宴を



  第四場 祠 



 二人がその場所にたどり着くまでに二日かかった。山を降りるのは早かったのだが、肝心の三河までの道のりが予想より長く、一泊する必要に駆られたのだ。
 だけど、やっと着いた。帰ってきた。汗と埃で汚れた二人はそれを見つめて思いを馳せた。
 それは人里離れた森の中にある、壊れかけの大きな祠だった。人が数人寝泊りできるほどのそれは、昔はさぞ立派なものだったのだろう。壁や柱の端々にはくすんだ朱色の塗料や金箔が残っている。本来の姿を失ってどれくらいの時間が経ったのかは解らないが、二人が知る数年前から、そのまま変わりない姿であることは間違いなかった。ここは汰貴と赤坐が、育ての親である武流と一緒に暮らした思い出の場所だったのだから。
「懐かしいな」
 二人はまるで宝箱でも見つけたかのように心躍っていた。長年雨風に晒されていたせいで建物は僅かに傾き、戸を開けるにも労力を要する。ギギと木の軋む音とともに砂が降ってくる。それを頭から被り、汰貴は咳き込んだ。
「相変わらずボロだな。いつ崩れるか解ったものじゃない」
「壊れるならとっくに壊れてるだろ。大丈夫だ。この柱は見た目よりしっかりしてる。俺たち二人くらい、なんとか守ってくれるよ」
「そっか」
 やっとこじ開けた戸を潜り、二人は中に入った。埃臭く、蜘蛛の巣が張り放題だった。分厚いそれが顔にかかり、汰貴は慌てて手で振り払う。
「きったないなあ」
「当たり前だ。さあ、掃除だ。夜までに済ませないと今日も野宿だぞ」

 二人は夕方までに一通りの掃除を済ませた。
 ここから一番近い町は城下であり、かなり栄えたところだった。しかし祠までは距離があり、人々の声も足音も届かない。森の中に流れる川への道もなかったのだが、二人が何度か往復しているうちに繁った草は折れ、小さな獣道が出来上がっていた。
 静寂と、安心。数年空いたにも関わらず、すべてが昔のままだった。汰貴はすっかり綺麗に磨かれた床に寝そべり、思い出に浸った。
「懐かしいなあ」
 赤坐も日干しした古い座布団に座り、開けっ放しの扉の向こうの、暮れに染まる木々を眺める。
「そうだな」
『父ちゃんがいなくなったときの汰貴の泣き顔は今でも忘れられないよ』
 赤坐がそんなことを思い出していると、汰貴は笑顔を消して体を起こした。
『俺も死ぬなんて言い出してさ、泣きながら川に飛び込んで……結局溺れて助けてーとか騒いでたよな。ほんとに手のかかる弟だ』
 赤坐は意地悪な笑みを浮かべる。それを見て、汰貴は眉を寄せた。
「な、なんだよ! お前だって泣いてたじゃないか」
「……え?」
 赤坐は汰貴の意外な反応に驚くしかなかった。
「俺、今声に出して言ったのか?」
 心の中で思ったつもりだった。しかし冷静に思い出してみると、声になっていたような気もする。
「おかしいな」
 赤坐の額に汗が流れ、これ以上変なことを言わないようにと口に片手を当てた。汰貴は幼い頃のことをからかわれて機嫌を損ねてしまい、つんと顔を逸らした。
『赤坐だって、嫌いな野菜があったときは俺の皿に移して知らん顔してたくせに』
 赤坐の顔が真っ赤になる。汰貴は口を尖らせたまま続ける。
『俺がまだ小さかったから、お父ちゃんが許してくれることを解っててやってたんだ。赤坐は昔からずるいよな』
「た、汰貴!」赤坐は堪らずに立ち上がった。「そういうことを今更言うか?」
 汰貴は大声を上げる赤坐に首を傾げる。
『あれ……? 俺、今声に出したか?』
「とぼけるな。普通に聞こえてるよ。お前だって夜に一人で厠にいけなくて泣いてたくせに。誰がいつもついていってやったと思ってるんだ」
 汰貴の顔も赤くなる。
「な、なんで……」
 動揺した二人は顔を合わせ、何かがおかしいことに同時に気づいた。
『思ったことが声になっているんだろう……? ねえ』
 二人は同時に、開け放たれた扉の向こうに目線を投げた。そこに、小さな子供の人影があった。
 それはゆっくりと近付き、姿を現した。
 子供ではなかった。体格は汰貴より小さいが、顔が老けているわけではない。大人にも子供にも見えない。彼には説明できない違和感があった。彼は長い前髪を横に流し、顔の左半分を隠している。そうだ。出ている右の目に異常を感じるのだ。大きなそれの色は、金色。人間でそんな色を持つ者など、二人は見たことがなかった。
 その金の目の下に描かれたおかしな模様も不気味である。堅気の人間でないことは間違いない。こんな姿で人前に出れば、芸人でもない限り、誰も素直に受け入れてくれるはずがない。彼は強く警戒する二人に構わずに、祠に上がりこんできた。
「脅かして悪かったな」
 少年は大きな口を開けて笑った。今のところ敵意は感じないが、その笑顔さえぞっとさせるものがあった。口の中には、ギザギザに尖った牙が並んでいたからである。滑らかで鋭く、脆く欠けてそうなるとは思えない。始めからそうだったのだ。彼は尖った牙が自然に生えてくる体質、そしてそれを必要とする環境に生まれた者なのだ。
 小さな体から放つ異様な迫力、金の瞳に細い瞳孔。そして、尖った牙。まるで動物――しかも野生――のようだと思った。
「俺は斬太ざんた」少年は軽い口調で。「人の心を読むことができる妖怪だ」
 汰貴と赤坐は沈黙した。
 妖怪。聞いたことはある。しかし、見たこともなければ本当に存在するなんて考えたこともなかった。ただ、妖怪という類はそれは恐ろしく、人間など簡単に食い殺してしまうものだと認識している。幼い頃に父に聞かされた童話では、いつも悪役だった。無条件で人を襲う獰猛な種族ゆえに、作り話では必ず、正義の味方がそれらをやっつけるのだ。妖怪は「悪」の象徴だった。人が恐れて当たり前なのだ。
 彼が本当に妖怪なのかどうかは、先ほどの不可思議な現象が説明してくれる。どうやら汰貴と赤坐が心の中で思ったことを、斬太が読み取って言葉にしていたようだ。そう言われてみれば、声が二人のそれとは違っていた。彼がやったのだ。信じる信じないを自分で選べる状態ではなかった。それ以上の話を聞く気力が、未知なるそれへの恐怖へと変わっていった。
「よ……妖怪!」
 先に悲鳴を上げたのは汰貴だった。釣られるように赤坐は後ずさり、壁に背を付けた。
「ば、化け物! 俺たちなんか食ってもうまくないぞ。消えろ!」
 途端に二人は取り乱した。汰貴は赤坐に駆け寄り、彼の背中に身を隠した。
「ちょっと、落ち着いてくれよ」何もしないと、斬太は両手を上げて見せた。「脅かしたのは確かだが、別に取って食おうなんて思ってない。話をしようぜ」
「妖怪と話すことなんかない」赤坐は汰貴を庇いながら震えていた。「ここは俺たちの家だ。さっさと出て行け」
「そう邪険にしないでくれよ。俺はあんたたちを待っていたんだ」
「……待ってた?」
「そう。いつかここに来ると分かっていた。だから、待ってた」
 赤坐の振るえが次第に収まり、吸い込まれるように斬太の金の目に見入った。
「どうして」
 斬太はすぐには答えなかった。じっと赤坐の目を見つめ返している。赤坐は危険を感じたが、逸らすことができなかった。赤坐も結構な根性を持っている。相手が妖怪とは言え、これ以上恐怖を晒すことに抵抗した。
 斬太はそんな彼の態度も分かっていたかのように、目を細めた。同時に赤坐の肩が揺れる。
「鍵だ」
 斬太のその一言は重く感じた。意味などさっぱり分からないが、なぜか二人の心に響いた。
「ここに鍵がある。お前たちもそれを求めている。だから、ここへ来た」
「な……なんのことだ」
「そして俺も鍵が欲しい。だからここへ来た。他にも欲しがっている者がいる。それも、いずれここへ来るだろう」
 もう何から尋ねればいいのか分からない。息を飲む赤坐の影から、汰貴が顔を出した。斬太は怯える汰貴の顔に一度目線を移し、すぐに赤坐に戻す。
「そのうち分かるよ」笑顔を歪ませ。「ま、もしかしたら既に何か気づいているのかもしれないけどね……」
 まるで心当たりでもあるかのように赤坐は唇を噛み、拳を握った。汰貴だけはただ縮こまるばかりで、話についていけずにいる。
「赤坐……」
 小声で呼ばれ、赤坐は我に返った。緊張の糸は切れ、斬太は踵を返す。
「それじゃ、邪魔したね」
 斬太は背を向けながら手を振った。汰貴と赤坐は拍子抜けし、肩を落として彼を黙って見送る。
「また来るよ。今日はゆっくり休んで、思い出に浸るといい」
 そんなことを見ず知らずの妖怪に言われなくてもと、汰貴はむっとする。赤坐は立ち尽くし、闇の中に消えていく斬太からしばらく目を離せずにいた。
――もうすぐ、その思い出もなくなってしまうのだから。
 斬太は闇の中で一人、微笑んだ。

 彼は一体何者だったのだろう。そんな疑問は平和な数日の間に薄れていった。最初は、あれは何だったんだ、何を言いたかったのか、いつか襲ってくるんじゃないのかと騒いでいた汰貴も、次第に話題に出さなくなっていった。
 時に思い出しては「あれは夢だったんだろうか」と、とぼけた顔をして笑う程度である。
 しかし、赤坐は忘れることができずにいた。胸騒ぎがしたのだ。理由は分かっていた。汰貴には悟られないように、一人で考えるたびに胸が大きく脈打っていた。これは錯覚などではない。
 自分の中に、何かがいる。
 それが何かは分からなかった。そしてその何かと斬太との関係も繋がったわけではない。何かは確実に大きくなっていっていた。それでも、いくら考えても、何かは鮮明なものにはならなかった。だから考えずにはいられなかった。
 不安で仕方なかった。いつものように盗みを繰り返しては食いつなぎ、隣には当たり前のように笑う汰貴がいた。
 今赤坐が持つ、ささやかで数少ないものは、どれも掛け替えのない大事なものなのだ。欲張った覚えはない。ほんのいくつか、片手で数えられる程度の「宝」。失いたくなかった。だから、怖かった。