千獄の宵に宴を



 第五場 庭 



 木漏れ日の注ぐ庭で、二人は薪を割っていた。一つ割るごとにどちらかがふざけて棒を振り下ろしてくるもので、なかなか作業は進まない。
 汰貴はいつまで経っても赤坐の腕には適わなかった。元々赤坐は汰貴より体が大きいうえに、常人よりも腕が立つ。汰貴も当然、歳を経るごとに成長しているのだが、どちらも同じように腕を磨いているのだ。よほどのことがない限り、汰貴が赤坐に追いつくことはないのだろうと思う。
 それでも汰貴は悔しくはなかった。赤坐はいつも自分の味方で、危なくなれば必ず助けてくれる。だから汰貴は、赤坐が強ければ強いほど嬉しかった。
 勝とうという気もなく、汰貴は懲りずに薪を一本拾って背後から赤坐に襲い掛かった。それでもやはり赤坐は軽く受け流す。
「しつこいな。ほら、あんまり遊んでいると終わらないうちに日が暮れるぞ」
 勢い余って転んでしまった汰貴は腰を抑えて笑った。
「赤坐が何度も俺を殴るからだろう。痣ができたじゃないか」
「それはお前が転んでできた痣だ。いいから、早く次の薪を持ってこい」
「はーい」
 汰貴が立ち上がって赤坐に背を向けた。
 その時だった。
「!」
 頭上から、目に見えない速さで何者かが赤坐を襲った。彼の近くにあった丸太が裂けたような音に、汰貴は足を止めて振り返る。
「赤坐!」
 汰貴は目を疑った。さっきまでそこにいた赤坐の姿がなかったからだ。彼がいたはずの場所には、太い丸太が、まるで潰されたかのように粉々に崩れている。それは決して斧で割った切り口ではない。何が起こったのだろう。汰貴は蒼白して辺りを見回した。
「あ、赤坐……?」
 彼は少し離れたところの大きな木に背を貼り付けていた。手には斧を持ったまま、今まで汰貴が見たこともない恐ろしい形相で気を張り詰めている。
 汰貴は不安に襲われ、すぐに彼に駆け寄ることができなかった。
「汰貴、来るな。じっとしていろ」
 赤坐は目を左右に動かして何かを探していた。汰貴は何が起こったのかまったく分からず、言われたとおりにその場に立ち尽くす。
 ザッと木の葉の揺れる音がした。その瞬間、赤坐は襲ってきたそれを、斧を構えて受け止める。跳ね返したその反動を利用して、人間とは思えない動きで祠の屋根に飛び上がった。
 姿を現した「敵」は、あのときの妖怪、斬太だった。刀を手に牙を見せて笑い、赤坐を目で追いながら、地を蹴って祠の屋根に乗る。赤坐は斬太に向き合い、鋭い目から凄まじい殺気を放った。
 汰貴は腰が抜けたようにその場に座り込んだ。これは夢か。目の前で起きていることが現実のものとは思えなかった。
 突然現れて襲ってきた斬太のことも理解できないが、何よりも赤坐の行動である。人よりも強く、盗人だけあって器用で身軽だとは思っていたが、まさか、これほど常人離れした技を持っていたなんて。いや、違う。そんなものではない。彼は自分と同じ人間。鍛えて、訓練してできる範疇の動きではない。汰貴でもそのくらいのことは分かる。
 だが、彼に分かる事はそれだけだった。二人はなぜ戦っているのだろう。このまま戦って、本当に殺しあうつもりなのだろうか。それほどまでに緊迫した空気があった。
 斬太はニヤついたまま刀の切っ先を赤坐に向けた。
「……へえ。やっぱり、あんたは結構できるようだね」
 赤坐の額に汗が流れる。必死で平静を装うとしているが、内心では自分でも驚ろかずにはいられなかった。
「俺は、これでも盗賊だった。多少の訓練は受けている」
「阿呆。盗賊如きが妖怪と張れるか。そんなこと、あそこにいるガキだって分かるぞ」
 汰貴のことだ。赤坐は我に返った。
「汰貴には近付くな。殺すぞ」
 まるで獣のように威嚇する赤坐を見て、斬太は肩を揺らして笑う。
「いいね、美しい兄弟愛。だが……滑稽過ぎるぞ、お前たち」
「なぜ笑う。汰貴は、俺の恩人である武流の形見だ。俺が守ると誓った」
「……知らないっていうのは怖いねえ。いいね。『その時』が来れば、きっとお前は己の言動を恥じるだろう」
「……何を」
 ふっと、斬太は刀を下ろした。そして今までの殺気を解放し、手をヒラヒラと揺らす。
「悪い。冗談だよ。またからかっただけだ」
 赤坐も、切れた緊張の糸に釣られて体の力を抜いた。どうして自分がこんなことをしたのか、こんなことができたのか――急に恐ろしくなって目眩が起きた。
(……一体、何が起こった?)
 顔を片手で覆い、指の隙間から汰貴に目を移す。へたり込んだ彼は呆然と自分を見上げていた。
 気まずい空気の流れる中、斬太は何もなかったかのように屋根から軽やかに飛び降りる。
「ま、待て」
 その後を、同じようにして赤坐が追いかけた。斬太は逃げるでもなく、汰貴に向き合った。汰貴は斬太ではなく、赤坐から目を離せずにいる。その目は怯えたもので、赤坐には辛い視線だった。しかし竦む汰貴に近寄っていく斬太を放っておくわけにはいかなかった。何を思われようと彼だけは守らなければいけない。赤坐は駆け出し、汰貴の前に立った。斬太は足を止めて、微笑んだ。
 汰貴は赤坐の背中を見上げて呟く。
「赤坐……」
 その弱々しい声に、赤坐は振り向いた。
「赤坐、お前、本当に赤坐か?」
 問われ、赤坐は即答する。
「当たり前だ」
 汰貴の目に涙が浮かんだ。汰貴はそれが零れ落ちないように必死で我慢した。
「本当か? お前は、化け物なんかじゃないんだよな」
「当然だ。さっきのことは……自分でもよく分からない。でもお前を傷つけることだけはしない。だから、怖がらないでくれ」
「本当だよな」不安を抑える汰貴の声は震えていた。「お前は、俺の兄ちゃんだよな。何も変わってないんだよな」
「ああ。きっと、あの妖怪の仕業だ。だから……」
 そこで、小声でやり取りする二人を見つめていた斬太が声を上げて笑い出した。二人は同時に体を揺らす。
「バーカ」腹を抱えて。「俺は何もしてねえよ。化け物のせいにすれば誤魔化せるとでも思ってんのか」
「……なんだと」
 赤坐は苛立ちで顔を歪めた。
「千獄の時が近付いてきているんだ」斬太は上げた口の端から牙を覗かせる。「それに連動して力が甦っているだけのこと。俺はそれを、ちょっと確かめただけだよ」
「……せんごくの、時?」
 聞いたことのない言葉に二人は戸惑った。斬太が何を言っているのか分からないが、どうしても引っかかる。
「ま、そのことは今はいいんだけど……」
 斬太は態度を改め、背を伸ばして目線を汰貴に移した。
「今日の本当の目的は、あんたらを誘いに来たんだ」
「はあ? 何のことだ」
「明日、城下で祭りがある。それに行かないか?」
「…………?」
「行ったほうがいい。面白いものが見れる」
 二人は顔を見合わせる。祭りがあることは知っていたが、それほど興味はなかった。しかし混雑する城下は盗みがしやすい。どうしようかと話し合っていたことは確かだった。
 赤坐は斬太に向き合い、睨み付ける。
「なんでお前にそんなことを指図されなきゃいけないんだ」
「指図じゃないよ。お誘いだってば。だってさ、探してるんだろ?」
「……何を」
 嫌な予感がした。だが斬太は構わずに続ける。
「汰貴の親」
「!」
 二人の背中に寒気が走った。
「城下を調べればすぐに分かる」
 汰貴の心臓が、音が鳴りそうなほど強く脈打ち始めた。
「ほ、本当か」
 妖怪の言葉になど乗せられないつもりだったのだが、どうしても聞かずにはいられない。赤坐は斬太を睨んだまま汗を流す。斬太はその表情の意味を読み取り。
「どうして兄貴が、あんたを城下に行かせたがってなかったのか、その理由も分かるだろう」
「……え?」
 まだここに来て数日しか経っていなかったが、汰貴はあまり城下には寄り付いていなかった。赤坐の指示だった。ここの城下町は今までの小さな町とは違う。人も多ければ取り締まりも厳しい。捕まれば、子供のいたずらと笑って許してくれる者はいないだろう。だから赤坐は、しばらく自分が下調べをして、城下町の様子を把握してから動くようにと、汰貴の行動を制限していたのだ。汰貴はそれを疑うことはなかった。今回のことだけではない。今の今まで、赤坐はいつも自分のことを考えて、いつも最善の方法で守ってくれているものだと信じていた。今、このときまで。
「赤坐、どういうことだ?」
 赤坐は答えず、じっと斬太を睨んでいた。
「なあ、あんな妖怪の言うこと、関係ないって言ってくれよ。何も隠してなんかないんだろ? なあ」
「…………」
「……どうして」
 赤坐は汰貴の顔を見ることができなかった。いつの間にか斬太を睨み続けることが、重い空気に背を向けるためという理由に摩り替わっている。
 汰貴にはその背中が遠く見えた。妖怪のことも、目の前で起きたこともすべてが不可解なのに、心の拠り所である赤坐さえ、初めて自分に後ろめたさを見せている。こんなこと今まで一度もなかった。赤坐が嘘をついているとしたら、自分は一体誰を、何を信じればいのだろう。汰貴は大きな不安に包まれた。
「じゃ、また来るよ」
 すべてを悟りながら、斬太は無責任に片足を引いた。
「待て!」
 赤坐が慌てて大声を出すが、斬太は瞬間的に姿を消す。その直後に、森の木の葉が不自然に揺れる音がした。斬太が人間の目では追えない速さで木々を伝って行ったのだろう。赤坐は彼の気配が消えていくほうを黙って見つめた。
 なんなんだ、あいつは。赤坐は苛立ち、斧を持つ手に力を入れた。その背後で、汰貴が膝の泥を払いながら立ち上がる。赤坐ははっと息を吸いながら振り返った。
「た、汰貴」
 汰貴は俯いて暗い顔をしていた。赤坐には当然、その理由が分かる。汰貴は赤坐と目を合わせることができないまま、黙って祠の中へ姿を消していった。