第六場 縁日
三河の町は色とりどりの飾りや灯りで賑わっていた。大通りを中心に出店が並び、子供も大人も誰もが日常を忘れてはしゃいでいる。
今日は縁日であり、大通りの突き当たりにある大きな神社を祝う祭りだった。
人混みの中に汰貴が紛れていた。祭りは初めてではなかったが、いつもは赤坐に連れられていた。しかし今日、彼は隣にいなかった。
前日、夜になって汰貴から赤坐に声をかけた。どうしても気まずい空気は払拭できなかったが、改めて祭りに行こうと誘ってみたのだ。このまま何もなかったことにできればいいと汰貴は願ったが、赤坐はそれを受け入れなかった。
笑ってくれてはいたが、行きたいなら一人で行くようにと突き放されてしまった。
「……でも、昨日まで一緒に行こうかって話してたじゃないか。それに、今までは俺にあんまり城下には行くなとも、赤坐が言ってただろ?」
とは言うが、やはり斬太のことが原因なのだろうと思う。汰貴も気になってはいたが、自分たちの仲は今までと変わらないでいられるはずと信じたかった。
赤坐はできるだけ優しく、諭すように口を開いた。
「俺は行かない。そう決めた。でもお前が行きたいなら行けばいい。ただ、念のためにあまり目立たない格好をしていけ。盗みは絶対に働くな。お前が見たいものを見てくればいい」
「どうして……」
「お前は祭りが好きだろう。だから行くなとは言わないし、その理由もない。だが俺は行かない。それだけだ。一人が不安なら、別に無理して行く必要もないんだ。好きにすればいいよ」
汰貴は言葉を失った。怒っているとは思えないが、祭りに行って、その後はどうすればいいのか、どうなるのか、不安で仕方がなかった。行かずに済むのなら行きたくない。できることなら、自分がどうすべきか赤坐に決めて欲しかった。
自分から尋ねるのは抵抗があるが、赤坐から答えを言って欲しいと思う汰貴の思いを、赤坐は悟った。
「……お前に話そうと思っていたことがあったのは、確かだ」
「え?」
「それは、明日話すよ。だから、祭りには行けばいい。そこでお前が何を見ようと、俺はここで話しをするから」
やはり、赤坐は何かを隠している。汰貴は怖くなった。彼の言葉からは、祭りに行こうが行くまいが言いたいことは変わらないということは伝わるが、汰貴の中の疑問は消えなかった。
どうして、明日なんだろう。
しかし、汰貴はそれ以上聞けなかった。
そして当日。結局汰貴は一人で城下に紛れ込んでいた。赤坐に言われたとおりに首周りに古い反物を巻き、目元以外の顔を隠した格好だった。
楽しんでこいと言われても、そんな気分ではなかった。城下は賑わっており、金子も少々あるのだが出店に立ち寄るどころか興味さえ湧かない。目的もなく出てきてしまった汰貴は、神社の境内へ足を踏み入れた。縁日は本来、仏を参詣してご利益にあやかるものである。まずは参ろうと、汰貴は人の列に並んだ。
参拝所にたどり着くまで一時間近く経った。そして参った時間はほんの数秒である。汰貴は人の波に押されながら、願い事をする前に賽銭箱の横に押し出されてしまった。
少し人に酔い、汰貴はため息をついた。とりあえずここを出ようと体を捻ったそのとき、背後から自分を呼ぶ声が聞こえた。
「汰貴」
「?」
汰貴は足を止めて辺りを見回した。
「ここだよ」
再度聞こえた声の方に目をやると、人の隙間から手を振る斬太の姿があった。
「……うあ! よ、よ」
汰貴は驚いて慌てるが、横にも後ろにも人が詰まっており、逃げることができなかった。つい大声が出そうになるところに、斬太が急いで近付いて汰貴の口を両手で塞いだ。
「おい、こんなところで大声上げるな。何もしないから、落ち着け」
「…………!」
汰貴は混乱する。こんな人の多いところに現れた妖怪に、馴れ馴れしく声をかけられ、しかも力尽くで口を押さえられているのだ。しかし、身の危険は感じなかった。今の斬太には赤坐を襲ったその時の迫力はまったくなかった。しかも彼は汰貴より背が低いために、背伸びをして手を伸ばしている。慌てる表情も素直なそれで、まるで子供のようだった。
汰貴が警戒を解いて体の力を抜くと、斬太は手を離して無邪気に笑った。
「やっぱり来たんだな」
「な、なんだよ。お前が行けって行ったんだろ」
「そうだけどさ。ところで、兄ちゃんはどうした」
汰貴は眉を寄せた。そもそも斬太があんな変なことをしなければこんなことにはならなかったのだ。それを、まるで他人事のような顔で尋ねてくる彼の神経が信じられなかった。汰貴がそんなことを考えていると、斬太は目を細めた。
「……ふうん。そっか」
汰貴ははっと息を吸った。そうだ、彼は人の心を読める妖怪。自分の考えたことを悟られたことにすぐに気づく。斬太はニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて背を向けた。
「ま、別にいいんじゃないの? お前ももう十五だろ。兄ちゃんなしで遊びに行けるようになるいいきっかけかもしれないじゃないか」
汰貴は更に気分を害した。ただでさえ兄弟の仲をかき乱す妖怪に、どうして私生活のことにまで口出しされなければいけないのか不愉快極まりない。
「何だよ。お前は何しに来たんだ」
「暇だから遊びに来たんだよ。一緒に回ろうぜ」
「な……」
「一人じゃつまらんだろ?」
言いながら、斬太は人混みを掻き分けていく。汰貴は冗談じゃないという言葉を飲み込み、なぜか無意識に彼の後を追っていた。決して斬太は友でも仲間でもない。敵なのだ。それなのに、汰貴は自分を責めながらも彼を見失わないようについていっている。結局、一人ぼっちで心細かったところに知った者が声をかけてきただけで、僅かでも安堵してしまっていたのだ。
いずれにしてもこの窮屈な場からは早く抜け出したかった。体の小さい斬太は周囲に子供に見られがちなため、多少手荒に人を押しのけても文句を言われない。彼の後をついていけばあまり苦労せずに鳥居を潜ることができた。
二人は横道に逸れたために、境内から抜け出た先は細い裏道だった。そこも人は多かったが、大通りほどではない。汰貴は壁に背中をつけて深呼吸した。斬太はまるで友達のように彼の隣で周囲の賑わいを見回していた。改めて彼を見ても、やはり奇妙な姿をしていると思う。しかし今日が祭りで、派手な衣装や化粧で様々に化けた大道芸人なども多いせいか、さほど違和感はなかった。きっと斬太本人もそれを分かってて堂々と顔を出しているのだろう。
「お前」汰貴は怪訝な目線を向け。「変な奴だな」
「何が?」
斬太はとぼけるように首を傾げる。
「昨日はあんな怖い顔して兄ちゃんを襲ったくせに、今日はそうやって子供みたいに笑ってる」
「悪いか」
「どうして俺たちを振り回すんだ」
「振り回してない」斬太は笑い声を上げた後、ふっと目を細めた。「操ってるだけだ」
「だから、何のためにそんなことをするんだと聞いてる」
「だから、そのうち分かる」
汰貴は唇を噛んだ、話にならないと苛立ちを募らせる。そんな彼の心中を察しながら、斬太は一人で歩き出した。
「今日は祭りなんだ。せっかくだから楽しもうじゃないか」
「な……ちょ、ちょっと待てよ」
汰貴は、話は終わってないと斬太を追う。こんな妖怪など無視すればいいのにと自分でも思うが、ここで一人になる意味はない。今、斬太から危険なものは感じないのだ。あまり自信はなかったが、何か聞き出してやりたいと考えた。しかし、斬太はそんな汰貴の浅い考えなどとっくに悟っていた。それに汰貴は、兄に甘えてきただけのただの子供である。彼の企みを読めなくてもどうこうされることはなかった。
それに、と斬太は僅かに金の瞳に怪しげな光を灯した。この祭りに彼を呼んだわけは別のところにある。それ以外のことなど、斬太は興味なかった。
二人は少し歩いて再び大通りに出た。汰貴は次第に祭りの賑わいが気になり始め、大人しく斬太に着いてきてはいたが、派手に呼び込みをする出店に目を奪われていた。
「おい」斬太は歩きながら声をかける。「遊びたいなら遊んだらどうだ」
「……うるさいな」汰貴は斬太を睨み。「子供扱いするな」
「子供だろ?」
「お前だって、俺より小さいくせに偉そうな口を利くな」
「確かに小さいけど、俺はお前の十倍以上生きてるし、比べ物にならないほど強いぜ」
「十倍?」汰貴は素直に驚いた。「長生きだな……って、百年以上生きてるのか? やっぱりお前、人間じゃないんだな」
「今更、何を。妖怪の世界では俺よりも長生きしてる奴なんかざらだよ」
「そんなに生きて何をするんだ」
「好きで生きてるわけじゃない。寿命が長いんだ」
「退屈にならないのか」
「バーカ。そもそも生きてる世界が違う。説明してもお前には分からないよ」
汰貴はむっと口を尖らせる。そこまで言われて説明してもらおうとは思わない。そっぽを向いて話題を変える。
「大体、なんで妖怪は人を襲うんだ」
「襲う奴は一部だよ」
「お前も襲うんだろ」
「理由もなしに襲わねえよ。人間も邪魔なものは退けたり壊したりするし、気に入らないものに危害を加えることがあるだろう。それと似ている」
「なんだよ、それは」
「ああ、うるさいな。自分の知らないことを片っ端から教えてもらおうと思うな。甘ったれのガキが、鬱陶しい」
汰貴は恥ずかしいのと腹立たしい気持ちが同時に湧き、少し顔を赤くした。それを隠すように俯いて首元の反物を片手で押さえる。
「……ふん。ガキで悪かったな」
そう呟く汰貴の声は、斬太の耳には届いていなかったが心で読み取っていた。いじける彼を斬太は振り向きもしないで歩き続ける。
会話が途切れ、汰貴は気まずくなった。これ以上妖怪のことを探ってもまた馬鹿にされそうだし、かと言って世間話を振れる相手ではない。
つまらない。汰貴がもう帰ろうかなどと考えていると、斬太は急に足を止めた。その理由は、聞く前にすぐに分かった。周囲の人々の動きが変わったからだ。
ざわつき始め、ただでさえごった返している道が更に密度を増し始めた。人々が暗黙で、神社へ続く道を開け始めている。次第に誰もが言葉を控え、遠くから聞こえてくる騒音や、太鼓や笛の囃子だけが残った。
汰貴は人に押されながら、斬太に近寄って身を屈めた。
「一体、どうしたんだ?」
二人も声を潜めた。
「ここの大地主様がお通りなんだよ」
「大地主? そんなに偉いのか」
「地主は偉いさ。それに商人の神様とも言われるほどこの城下の商売に貢献してるらしい。神社にもかなりの寄付を出してるらしいから、今日はまた特別なんだろうな」
「ふうん。そりゃ凄い金持ちなんだな」
囃子に紛れ、透き通るような鈴の音が聞こえてきた。汰貴は頭を低くして前の方へ潜り込んでいく。さすがに最前列には出られなかったが、途中で背伸びをするとその行列が見えた。先頭には控えめで厳かな黒装束の徒士や小姓が数人、鈴のついた毛槍を持ち、駕籠や輿こそ見当たらないものの、まるで大名行列のように大仰だと思った。その歩みは亀のように遅く、汰貴は大地主様とやらを早く見てみたいのと、この狭苦しい状況から抜け出したい気持ちで「もっと早く進めよ」と心の中で呟いた。
行列の中盤辺り、人の影から少々派手な着物の端が見えた。きっとあれが地主様だと思う。もう少しと、必死で汰貴は爪先立った。
シャン、と涼しい鈴の音が、汰貴には遅く聞こえた。いや、そんなささやかな音など彼の耳には届いていなかった。
汰貴の目の前を、「彼」はゆっくりと通り過ぎていく。
彼は大人ではなかった。自分と同じくらいの年――違う。同じ年。同じ背丈、体格。同じ髪と瞳の色。そして、同じ目鼻立ち。少年は、まるで鏡に映したかのように汰貴と瓜二つだったのだ。
美しい着物に身を包み、正しい姿勢で歩む表情のない少年は人形のようだった。汰貴は、その少年に意識のすべてを奪われてしまっていた。信じられず、目を離せず、瞬きをすることさえ忘れてしまっていた汰貴に見つめられながら、少年は神社に向かってゆっくり、ゆっくり小さくなっていった。
行列が通り過ぎた後は、人々は再び祭りを堪能するために散り始めた。かかとを下ろした汰貴は、その場から動けずに立ち尽くしていた。斬太は少し俯き、陰る目でそんな彼の背中を見つめていた。
汰貴の頭の中は真っ白になっていた。体に力が入らず、僅かに震える指先さえ制御できないでいる。
その時、汰貴の隣を通り縋る二人の女性が噂話を口にしていた。その会話が、無意識に汰貴の耳に入ってくる。
「……今日も父上様はいらっしゃらなかったわね」
「お忙しい方だからね。智示様も不憫なお方だわ」
「そうねえ。いくら地主でも、父親の顔も知らないほど構ってもらえないんじゃ、寂しいわよね」
「まだ御年十五だったかしら。きっと、今が一番お辛いのでしょうね」
「それに……母上様も病死なされたのでしょう」
「ええ。まだ一年ほどしか経ってないはず」
「ご家族とのご縁が薄いのかしら……」
「この縁日も、智示様にとっては皮肉なものね。父上様の代わりとは言え、よくお顔を出されたものだわ」
「いずれは麻倉家を継ぐお方だから……その為の教育しか受けていらっしゃらないのかもしれないわね」
「お可哀想に」
「でも、人の幸せはそれぞれだから……」
二人の声は汰貴の耳から遠ざかっていった。汰貴はまだ動けなかった。次第に震えが大きくなってきていた。やっとそれに気づき、汰貴は抑えるために両手を強く握った。
まだ理解できない。理解など、したくなかった。傍で自分を見つめる斬太の存在など忘れ、汰貴は重い足を引きずるようにして歩きだした。
その弱々しい背中を、斬太は黙って見送った。
――「二人」は出会った。見えない歯車が噛み合い、確実に動き始めた感触を受け取り、斬太もその場から姿を消した。