第七場 祠
汰貴の衝撃はそれだけでは終わらなかった。
祭りを後にし、汰貴は一人で祠へ帰った。
いつもの薄暗いそこに赤坐の姿はなかった。汰貴は呆然と、体の力が抜けたように座布団に腰を下ろす。俯き、虚ろな目で床を見つめた。
赤坐が隠していることが、自分を城下町へ行かせたがらなかった理由が分かった。大金持ちの地主の嫡男と、自分が同じ顔をしているからだ。似ているのではない。同じだった。
なぜ自分と同じ姿をした者が存在しているのか。信じることができないまま汰貴は皮肉に、小さく笑った。
(……当然だな。地主と同じ顔した俺が、こんな汚い格好で町をうろついてるだけで変な噂がたつだろうし……盗みなんかすれば、そりゃあ大騒ぎであっと言う間にお縄にかかる)
だけど、赤坐はどうしてそのことを教えてくれなかったのだろう。
(言ってくれれば、そんな「偶然」もあるんだと、俺だって大人しくしたのに)
やはり、他に理由があるのだろうか。再び汰貴に不安が襲った。
それを今日、話してくれるのだろうか。
汰貴は強く目を閉じ、頭を抱えた。どうしても嫌な予感が離れない。怖い、怖い。その恐怖の理由は、まだ分からない。できれば分からないままでいたかった。自分の身に何があったとしても、このまま知らないで過ごしていきたい。今までそうしてきた。何も知らなくても十分に幸せだった。それでいいはず――。
「!」
背後に人の気配を感じ、汰貴は大きく息を吸って顔を上げた。振り向くと、そこに赤坐がいた。無表情で、肩には見慣れない大きな袋を抱えて祠に上がってくる。
「おかえり」
赤坐は汰貴から目を逸らしながら呟き、持ち込んだ袋を彼の近くに乱暴に置いた。
「あ、赤坐」汰貴は必死で笑顔を作った。「どこ行ってたんだ?」
赤坐は隣に座ろうとせず、汰貴を見下ろしていた。汰貴の背中に寒気が走った。いつもと様子が違う。どうして? もう、これ以上は何も変わらないで欲しい。
しかし、汰貴の願いは誰にも届かない。赤坐は冷たい目線で袋を指し、言葉にはせずに中を見ろと伝えた。
汰貴は震える手で袋を開け、中のものを手に取った。
「これ……」汰貴の息が上がる。「なんだよ」
中から高価な装飾品や小判が出てきた。盗人とは言え、今までこれほどのものは狙おうともしなかった。間違って高価なものを盗ってしまったときは、再びばれないように返すことさえしてきた。それも赤坐からの教えだった。自分たちの生活に必要な分にしか手を出すなと。そうでなければ重罪人として捕まり、ヘタすれば死刑にもなり兼ねないからだ。ずっと楽しく、気楽に生きていくために二人で約束したことだった。なのに――。
「赤坐、これ、どうしたんだ。なんでこんなものがここにあるんだ」
赤坐は表情を変えずに淡々とした口調で話し出した。
「もちろん、盗んできた」いつもより低い声で。「今日は祭りであちこち手透きだからな」
「ど、どうして……こんなもの、いらないだろ? なんのためにそんなことするんだよ」
「当然、警護も厳しく、中にはどこかの家宝ものも混じってる。でも別にそのくらい、なんてことない。俺は、盗賊だからな」
赤坐は怯える汰貴に、残酷な笑みを見せた。
「簡単だったよ。多少鍛えた侍が数人くらい、俺の敵じゃねえし。重い鍵も凝った仕掛けもちょっと調べればすぐに解けるほどの茶番で、笑いが出たほどだ」
「…………」
「今日、お前いなかっただろ? 久しぶりに一人になって、突然気が楽になったんだ」
その言葉で、汰貴の胸が潰れそうなほど痛んだ。それ以上聞きたくなかった。しかし赤坐は間も置かずに続ける。
「今まで我慢してた鬱憤を晴らしたくて俺も町に出た。そして、思い出した。この世界は宝物だらけだってことをな。体が、腕が疼いて我慢できなかった。一つ成功したらまた欲しくなった。僅か数時間で、これだけの宝が俺のものになった」
汰貴は青ざめ、「宝」を見つめた。
「楽しかった。やっぱり俺は生まれついての賊なんだってことを知らされた。分かるか?」
問いかけられ、汰貴は肩を揺らして顔を上げた。
「俺がその気になればこれだけの大業を為すことができる。だけど、今までそれをしなかった。できなかったんだ。なぜか、分かるか?」
汰貴の額に汗が流れ、顎を伝って床に落ちた。息苦しくて、気を失ってしまいそうだった。
「お前がいたからだ」
声を出そうとするが、喉が振動しない。汰貴は何かに祈るように、胸元の十字架を握った。
「武流には恩がある。だからお前の面倒を見てきた。だが……もう限界だよ」
それは、汰貴が一番聞きたくなかったことだった。目眩を起こしながら目を見開くと、涙が零れた。
「お前ももう十五だ。そろそろ解放してくれてもいいんじゃないのか?」
「……いっ」
汰貴は必死で声を絞り出したが、言葉にはならない。
「生き延びていくための最低限の知識は教えたはず。それに従うか、逆らうかはお前の人生だ。自分で決めればいい。別にお前のことが嫌いになったわけじゃないが、お前がいると俺は自分のやりたいことが何もできないんだ」
涙を堪えようとすれば逆に嗚咽が込み上げてくる。もう聞きたくない。しかし、今話さなければ赤坐がいなくなってしまう。言いたいことを伝えなければ。
「……あ、赤坐。お前のやりたいことって、なんだよ」
やっと言葉を発した汰貴に、赤坐は冷静に答える。
「腕を磨き、いい女を連れて、誰からも一目置かれる男になることだ」
「そ、それが……お前の幸せなのか?」
「そうだ」
「じゃあ……」汰貴は涙を拭い。「ずっと、俺と家族でいて、一緒に幸せになろうなって。そう言ったのは……嘘だったのか」
汰貴の中に赤坐との思い出が溢れ出してきた。
「俺は確かに甘ったれで、賢くもないし、頼りないけど……だから、お前が傍にいて守ってやるって、俺を虐める奴はやっつけてやるって、言ってくれて」
言うほど辛さが増していき、汰貴の頭は床につくほど落ちていった。
「何度も父ちゃんに、一緒に手を合わせて、俺が父ちゃんの代わりになるから、安心しろって言ってくれてたじゃないか。俺は、お前を信じてたし、お前しか信じられる人がいないんだよ。なんで、こんな急に、そんなこと言うんだよ」
赤坐は揺れる汰貴を見つめ、僅かに眉を寄せた。
「徐々に伝えれば、納得してくれたのか?」
その冷たい言葉は、汰貴の胸を貫いた。その痛みを知りながら、赤坐は止めを刺す。
「お前が、足手纏いだってことを」
「――――!」
「邪魔なんだよ。どうして血の繋がらない、頭の弱いガキ一人のために自分の人生台無しにしなきゃいけないんだ」
もう汰貴は何も言えなかった。これ以上は彼が嘘だと言ってくれるまで、ただの暴力でしかないのだ。汰貴は抵抗せずに、今まで受けることのなかった痛みを感じた。
「お前は一度でも人の立場になってものを考えたことがあるか? お前は俺を本当の兄貴のように信頼してたかもしれないが、それもどうなんだろうな。お前はずっと、その十字架を後生大事に身につけ、自分の親を探し続けていた。そんなもの探してどうするつもりなのか知らないが、結局はお前にとっての大事なものは血の繋がりだったんじゃないのか? これまで俺がお前を慕ってきたのは嘘じゃない。俺だってお前を本当の弟のようだと思った事は何度もある。だけどな、その傍らでどこにいるかも分からない親を思うお前を守る俺の気持ちを、少しでも考えたことがあったのか?」
汰貴はつっぷしたまま唇を噛んだ。突然と思える赤坐の言動にも理由があったことを知り、悲しくて、自分が情けなくて、居た堪れなくなる。
「所詮、俺たちは他人なんだよ」赤坐は足元の袋を掴みながら。「お前が何を思い、願うかは自由だ。そして、俺にも自由がある。お互い意志の疎通がもっとうまくいってれば別れずに済んだかもしれないが……もう、お仕舞いだよ」
宝を肩に抱え、赤坐は汰貴に背を向けた。
「じゃ、元気でな」
最後まで顔を上げなかった汰貴を置いて、赤坐は祠から姿を消した。汰貴はその現実を受け入れたくなく、空が暗くなるまで動くことができなかった。
夜が更けて、汰貴は灯りも点けずに床に寝転がっていた。あれから水一滴口にしないまま、まるで死人のように横たわっていた。
何時間も、今まで楽しくてしかたなかった赤坐との出来事を思い出していた。もしかしたら彼が戻ってきてくれるかもしれないと、どこかで期待しながら。そうでなければ、このまま死んでしまいたかった。
涙は収まったものの、瞼は腫れ上がり、時々息がしゃくり上がっていた。頭に敷いた座布団は未だ乾かない涙で濡れている。汰貴は今までのことを思い出すばかりで、それ以上のことを考えることができなかった。これから一人でどうすればいいのだろう。赤坐に教えてもらったことがあれば地道に生きていけるのかもしれないが、生きていく目的がまったくなかった。
もう親を探そうという気持ちも失せている。自分には、赤坐しかいないのだ。彼がいない人生なんて意味がない。捨てるくらいなら、彼の手で殺してくれればよかったのに。
そう思うと、じわりと涙が流れ出す。
どうしてこんなことになってしまのだろう。赤坐の言ったことも理解できる。言われるまで気づくことができなかったが、確かに自分は赤坐のことなど考えられなくて甘えてばかりだった。だけど、一度でいいからやり直させて欲しかった。限界を迎える前に言ってくれれば、努力したのに。自分も赤坐のために考え方を変えたのに。
それでもダメならば諦めもつく。だけど、こんなのはあまりにも突然すぎる。また一つ、汰貴の目から雫が落ちた。
ああ、そうか。赤坐は自分のこういう身勝手なところに嫌気が差したのだろうと、汰貴は思った。突き放された今でも、まだ彼のせいにしようとしているなんて。自分はもう十五なのだ。考えようと思えば考えられたはず。なのに、いつまでも赤坐に甘えて楽ばかりしていたのだ。
せめて謝りたい。許してくれなくても、戻ってきてくれなくても、今まで彼を苦しめてきたことを謝りたい。汰貴は強く思った。しかし、もう手遅れだった。
「う……」
寂しさと悲しさ、そして悔しさで声が漏れた。もうどれだけ泣いても赤坐は慰めてくれない。誰も、自分を守ってなどくれない。そして自分で立ち上がる気力もなかった。汰貴は絶望し、膝を折って胎児のように体を丸めた。
その時、月の光の差し込む窓から彼を覗く者がいた。汰貴の情けない姿を見て、ため息を漏らして中へ進入してくる。汰貴はその存在に気づいたが、反応しなかった。
汰貴に近寄ってきたのは斬太だった。何があったのかを知りながらも、気遣いなしに彼の隣に胡坐をかいた。
「……出て行け」汰貴は蚊の鳴くような声で呟いた。「この、クソ妖怪」
斬太は無神経に汰貴の肩を叩き。
「なんだ、そんな口利けるんだな。思ったより元気そうじゃないか。安心したよ」
「……ふざけるな。お前が来てからだ。お前が来てからおかしなことばかり起こる。疫病神め。死ね」
斬太は笑いながら目を細める。
「そうはいかない。まだやることがあるし。それに、おかしなことはまだ終わってないぞ」
「……なんだと」
汰貴は重い体を起こし、斬太を睨み付けた。
「これ以上、俺に何をするつもりだ」
斬太はにやついて、横目で汰貴を見つめた。
「ここから先は、お前次第だ」
「何を言ってる。もう御免だ。これ以上辛い思いなんか耐えられない。今でも、赤坐を失っただけでも俺は死ぬほど苦しい。これほどの不幸がどこにある」
「は。兄ちゃんがいなくなっただけでどれだけだよ」
「お前に何が分かる!」
汰貴は怒りと憎しみで顔が紅潮する。今にも殴りかかってきそうな彼の気迫を、斬太は指を指して止める。
「お前には、本当に血の繋がった兄弟がいるじゃないか」
「!」
「ずっと探してたんだろ?」
「……な」汰貴は目を逸らした。「何のことだ」
「あいつの名前は智示。お前の双子の弟だ」
汰貴は目を見開いた。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「……嘘だ!」
必要以上に拒絶する汰貴に、斬太は容赦なく真実を語る。
「お前の親父、武流は子を作ったことで仏道を破門された破壊坊主だ。智示の母親は麻倉家に嫁いでいながら武流と情を交わし、この祠でお前たちを孕んだ。しかし地主の嫁がそんなことを許されるはずがない。即死刑だろうな。だから真実を隠した。お前たちを地主の子と偽って生んだんだ。生まれた子が双子と知り、女、月子は双子の片割れを武流に捧げた。立ち会った産婆にも金子を握らせ、生まれたのは一人であると世に知らせ、それだけで疑う者はいなかった」
「そんなの……信じ……」
「その時に一緒に渡されたのが、その十字架の首飾り。十字架は異端の象徴だ。月子は切支丹ではなかったが、この世の秩序に逆らったという意味でお前の首にかけたんだ。智示の首にも同じものがある。それは武流から渡されたものだ。その十字架は、交わってはいけない二人が罪を犯した証。そして、お前たち二人を繋ぐたった一つの絆でもあるんだ」
「嘘だ!」
堪らず、汰貴は斬太を怒鳴りつけた。しかし彼の目を見ることができずに頭を垂れる。俯いて、嘘だと何度も繰り返した。
斬太には、汰貴が受け入れない理由が分かっていた。
「……そうだよ」心を読み、答える。「お前の親は、もうこの世にはいないんだ」
「……嘘だ」
もう枯れるほど泣いたはずなのに、汰貴は再び声を上げて泣いた。
「嘘だ。だったら、なんで父ちゃんは俺を自分の子じゃないって言ったんだよ。本当の親なら、隠す必要ないじゃないか」
「そんなの、誰にもばれないために、我が子にさえ隠し通したに決まってるじゃないか。麻倉の息子と、浮浪坊主の実の子が同じ顔してたらおかしいだろ。まあ、月子さえ死んだ今、証拠はもうどこにもないが」
「そんなこと……」
「元々月子の旦那は多忙でほとんど家におらず、嫁にも子供にも愛情なんか注いでいなかった。麻倉の名を守っていくための道具としての嫁と、跡継ぎがいれば十分だった。仮に智示が自分の子でないと知っても、冷静に対応できるような冷血漢だ。もしお前が見つかったら殺されて、それで終わり。だから武流はこの地を離れた」
なのに、二人はここへ戻ってきた。その理由を、斬太は知っている。
汰貴には悲しみだけでなく、困惑もが取り付く。分からない。今まで、貧しいながらも何も不自由せずに楽しく生活してきた汰貴には理解できるはずがなかった。
「そんなこと、知らなくても俺は生きていけるじゃないか。どうしてそんなことを知らなくちゃいけないんだ。もう聞きたくない」
汰貴は涙を拭っていた両手で耳を塞いだ。
「血が繋がっていようといまいと、俺の父ちゃんは父ちゃんで、赤坐だけが兄ちゃんなんだ。ここにいなくても、もう会えなくてもいい。それだけが俺の家族だ」
だが斬太はそれを許さなかった。汰貴の腕を掴み、顔を寄せる。
「じゃあ、智示が、たった一人のお前の弟が、凶暴な妖怪に命を狙われているとしたら?」
「…………!」
「もうすぐだ。もうすぐその時は訪れる。その時、智示は確実に殺される。それでも、お前は他人のふりをして逃げるのか?」
汰貴は泣くことも、抵抗することも止めて耳を傾けた。
「……どういうことだ」
斬太は手を離して座りなおし、改めて汰貴に向き合った。その真剣な表情に月の灯りがかかった。斬太は一度金色の目を閉じ、鋭い光を灯して瞼を上げた。汰貴はその深さに一瞬、飲み込まれた。やはり彼は妖怪であると思う。姿は子供のようなのに、その目に睨まれただけで得体の知れない恐怖に包まれて逃れることができなかった。
「俺はサトリ。人の心を読み、魂を食らう妖怪だ。その力は、この目に宿っている」
汰貴は恐ろしいと思いながらも、金のそれから目を離せない。
「俺の目は千里眼だ。人の心だけじゃなく、目に見えない、様々なものを見透かすことができる能力がある」
斬太はゆっくりと自分の片手を持ち上げ、長い前髪をかき上げ、今まで隠れていた左目を見せる。
「……っ!」
汰貴は悲鳴を上げそうになった。
彼の前髪の下にあったのは輝かしい金の瞳ではなく、中身を抉り取られて空洞となった、醜く、大きな傷跡だったのだ。
汰貴は震えながら、床を這うようにして斬太から少し離れた。斬太は汰貴を見つめたまま手を降ろし、再び傷を隠した。
「智示を狙っている妖怪は俺の左目を持っている。その力であいつの存在を突き止めているんだ」
「な、な、何のために、狙うんだよ」
「智示の体にはあるものが封印されている。妖怪・虚空はそれをずっと欲しがり、追い続けている」
「あ、あるものって……封印って」汰貴は混乱し。「どうして、そんなものが封印されているって言うんだ。あいつは、智示は人間だろ?」
斬太は頬を緩めて体を起こした。
「それは、今説明することじゃない。それに、関係ない者には知る必要のないことだから」
汰貴は胸を押さえて呼吸を整えた。震えは止まらないが、残る気力を振り絞って斬太を睨んだ。
「な、なんだよ。関係ない者って。お前が言ったんだろ。俺と智示は血の繋がった兄弟だと」
「そうだ。だけどお前がそれを信じない。関わる気がないなら、お前は『関係ない者』だ」
「そんな……」
汰貴は睨むのをやめ、目線を落とした。もう何がなんだか分からない。何をどう受け入れればいいのだ。そして、自分は何をすればいいのだ。
斬太は目を伏せて腰を上げる。
「件の、千獄の時は、今から七日後だ」
「……え?」
「自分で来るべきだと判断するなら来ればいい。そうでないなら、一人で生きていけばいい」
言いながら踵を返す斬太の背中が、闇の中に溶けていく。
「ま、待てよ」
「お前は必ず来る」斬太は言葉を残して。「待ってるぜ」
月の光の届かないところへ消えていった。