千獄の宵に宴を



 第九場 麻倉家 


1


 その日の上弦の月は赤く見えた。
 こんな日はお化けが出るぞと大人に脅かされ、子供たちはできるだけ早く灯りを消して静かに眠りについていた。
 夜が深くなった頃、月は高い位置に上り、いつもの白い光を放っていた。一人のほろ酔い侍が、風流とそれを見上げた。
 そのとき、月が、空が突如陰った。さっきまで雲ひとつなかったのに。それに、この黒さは異常だ。侍は寒気を感じて足を引く。
 侍は目を凝らして空を見つめた。巨大と思った黒いものは、小さい何かの塊だった。それらは空を裂かんばかりに一直線に駆け抜けていき、まるで繰り返しているかのようにいつまでも途切れようとはしない。信じられないその光景に侍の酔いは冷め、言葉にならない声を漏らしながら腰を抜かす。侍が恐れたわけは、それらが「不吉の象徴」として忌み嫌われている凶暴なそれだったからだ。集団でいるだけでも気味が悪く、おかしな動きをしたときには誰かが死ぬという縁起の悪い迷信を持つもの。
 カラスである。今までみたことも聞いたこともないほどの大量の黒い鳥が、何に向かって真っ直ぐに、大きな翼を広げて頭上を覆っていたのだ。なぜそんなことが起こっているのか、侍にも、数少ない他の目撃者も誰も知らない。ただ、それを目にしたもののすべてが恐れずにはいられないほどの数と不気味さだった。侍は這うようにして夜道を逃げ惑った。
 カラスの集団の中央に、人の形をしたものが紛れていた。
 カラスの生首を象った兜を被り、生き血で染めたような鈍い赤色の着物に身を包んだ彼は妖怪・虚空こくう。獲物を鷲掴み、逃さないための大きな手。そこからのびる指に皮膚はなく、鳥の足のように甲殻で覆われており、尖った爪は触れるものをすべて傷つけるためだけのもの。背負う黒い羽はカラス特有の力強さ、雄々しさで宙を舞い、空を斬る。
 虚空は生まれ持った妖力で野生のカラスを操り、空を黒く染めてそこへ向かっていた。
 汰貴の弟、智示の元へ。



 名家麻倉の屋敷は、敷地面積四千坪という大邸宅だった。庭に立ち並ぶ倉の数は年々増え続けている。
 智示は屋敷の奥にある自室で一人、鏡台の前で正座をして目を閉じていた。派手な絵が描かれた障子や屏風に囲まれた広いそこは、重苦しいほどしんとしている。いつもならこの時間は既に御簾の奥で就寝しており、屋敷内のほとんども、見張りや警護以外は寝静まっている時間である。
 しかし今宵、千獄の時。
 智示は身を清め、何かを受け入れる覚悟を持って腰に刀を差していた。あごを引き、黙想しながら神経を研ぎ澄ませている。冷たく、感情のない瞳を、薄く開ける。
 屋敷を包む空気が凍った、ような感覚が落ちてきた。目には見えないその変化に、屋敷内で起きていた見張りの数人も同時に顔を上げる。しかし、普通の人間にはその異変がなんなのか分からない。それでも本能が危険を察知し、刀や槍を持つ手に自然と力が入った。
 敷地内にある大きな杉の木の天辺に、翼を収めた虚空が直立していた。背後に輝いていた月が再び真っ黒に陰ると同時に、不自然な風が下から上へ流れ、虚空の羽と杉の枝を揺らした。
 その光景を目にした者は咄嗟に武器を構えたが、健闘することもできないまま数え切れないカラスの嘴に切り刻まれ、一瞬にして絶命していった。
 敷地を球状に囲む透明な結界が発生した。空間が完全に封じられたことを確認し、虚空は空を仰ぐ。
「……ふうん」動じることなく、目を細めた。「天上の仕業だな。罪なき人間を見殺しにして高みの見物とは……いいご身分だ」
 自室でじっと座る智示もまた、閉じ込められたことを感じ取っていた。カラスの羽ばたきで揺れる空気が大きくなっていく。騒ぎに気づき目を覚ます「部外者」たちの恐怖と困惑で、結界内の温度が上昇し始めていた。
 智示はゆっくりと腰を上げ、鏡に背を向けた。



 麻倉家の敷地内を飛び交っているのはカラスだけではなかった。その嘴に啄ばまれて千切れ飛ぶ人間の血肉と混ざり合っていく。足元には生々しい肉と鮮血、そして人間の抵抗によって落とされていくカラスの羽と死体もあった。
 いくら斬っても刺してもカラスの数は減ろうとしなかった。人間たちは恐怖だけに支配され、まともでいられる者は一人としていなかった。理由も分からずに惨劇に巻き込まれていく人間たちは、どれだけ叫んでもいくら走っても逃げることは適わずに次々と倒れていく。
 屋敷の外へ出ようと試みた者も少なくはない。しかし、なぜか敷地を囲む塀の扉はどこも開けることができなくなっていた。叩いても叩いても、それは鉄よりも堅いもので覆われているかのようにピクリともしない。塀によじ登るが、そこから先は透明な壁で覆われており、その現実とは思えない現象に錯乱している間にカラスに襲われて命を奪われていった。
 人々の恐怖は極限に達した。信じられない光景と現実に悲鳴を上げてもその声は誰にも届かず、神への祈りも、結界に遮断されて虚しく掻き消されていく。
 必要な人物を除いて、すべての命が奪われるまで、それほど時間はかからなかった。その頃にはカラスの死体も増え、今までの地獄絵図がまるで夢だったかのように静かになった。いや、夢などではない。麻倉の屋敷はまさに一つの嵐の過ぎた後。結界の中だけが別世界かのように惨い色に染まっていた。
 準備が整ったと、虚空は地上に降りた。着地と同時にビチャリと嫌な音がした。足元で跳ねた血液など、慣れた様子で気にも留めない。それらを踏みつけながら屋敷内へ進んだ。



 塀の上に一人、誰かが顔を出した。外からの進入も不可能なはずなのだが、彼はそのことも知らずに中を覗く。彼に結界の効力はなかった。なぜなら、彼のまたこの場に必要な人物だったからだ。
 汰貴である。仏壇の下にあった武流の残した脇差を腰に、斬太に言われたとおりこの夜に智示の元へ向かったのだ。しかし、何が起こるのかも予想できなかった汰貴は、目に映った光景に足が震えた。顔は青ざめ、息を乱して塀から落ちる。腰を打って手をつくが、真っ赤に染まった血に塗れ、恐怖に怯えて後ずさった。しかし、どこに逃げても死体しかない。混乱し泣きそうになるが、あまりに静かな空間に悲鳴を上げることさえ恐ろしく感じた。
「……な、なんなんだよ……これ」
 漂う血の匂いに汰貴は吐き気に襲われた。反射的に口を抑えながら、ここにある赤いものが、疑う余地もなく本物であると脳が認識する。その途端、更なる恐怖が押し寄せてきた。逃げよう、逃げなければ。
 殺される。ここにいるものは人間ではないのだ。自分などいても何の役にも立つはずがない。そうだ、逃げなければ。
 そう決心した汰貴の見開いた目に、智示の姿が映った。一瞬、呼吸が止まった。
 ここに、この赤い世界に、自分の弟がいる。生きているのか、殺されたのかは分からない。しかし、彼はこの中にいる。
 そう思うと、逃げようとしていた自分が嘘のように小さくなっていった。逃げている場合ではない。殺されてないと信じ、彼を探さなければ。ここで何が起きているのか分からないが、そんなことは関係ない。智示に会いたい。今度こそは後悔はしたくない。親を、赤坐を失い、そのたびに深く後悔してきた。そのたびに自分など死んでしまえばいいと責めた。きっと、これが最後の機会。例え惨めな結果になったとしても、死ぬまでは走ろう。
 どうせここを出て逃げても、行くところなどないのだ。汰貴は、震える足を無理に立たせ、できるだけ何も考えないようにして前へ進んだ。



 血で染まった屋敷内で、智示は冷静に廊下を歩んでいた。足元は血肉で汚れてしまっているが、気にせず、周囲の死体を横目で眺めながら神経を集中させている。
 普通の人間の感覚ではなかった。歩きながら、心臓の部分が大きく脈打っていることを意識している。ドクン、ドクンと鳴るたびに、薙がした長い黒髪が上下に跳ねている。その動きはまるで意識のある蔦のようだった。
 智示はそれも気にせず、自由にさせていた。一年ほど前から徐々に起き始めていた現象だったからだ。最初は恐れたものだが、誰にも相談できずに秘めているうちに、その動きは頻繁に起こるようになっていった。いつしか、智示は自分が普通でないことを認めた。それでいいと、それがいいと、抵抗することをやめた。
 今宵の出来事も、どこかで予感していた。それがなんなのかまでは分からなかったが、その時が来れば分かると待ち続けた。そして、今がその時。智示は死を恐れずに、すべてを知ろうとそれを迎え入れていた。



 大広間に足を踏み入れた智示は、ふと立ち止まった。室内に風が起こり、黒い羽が舞った。数枚の羽は回転しながら人の形を造っていく。智示はじっと、それに見入った。
 羽は黒い塊となり、絵の具を溶くように色をつけていく。それはカラスの羽を持つ妖怪、虚空の姿に変化した。
 智示は初めて見る妖怪変化に息を飲んだ。いくら死を覚悟しているとは言え、妖怪は人間の心に恐怖を植えつけるものである。智示に寒気が襲った。そして、脈打つ心臓が激しく踊り出した。
「……見つけた」
 虚空は兜の下で呟き、口の端を上げる。押し寄せる殺気に智示は汗を流した。
「……妖、物の怪の者か」
 そう尋ねる智示に、虚空は目を細める。
「面白い質問だ。人の獲物を横取りしておいて、今更それはないだろう」
「な……何を言ってる」
 殺気に混ざって突きつけられる怨念に、智示は僅かに怯えた。それを隠そうとするが、青ざめていく顔色までは偽ることができない。
 それ以上虚空は語ろうとせず、音を立てて翼を広げた。その風圧だけで智示が倒れそうになった。
 その時、頭上でもの凄い破壊音が響いた。
 二人が同時に顔を上げると、屋根が崩れ、破片と一緒に人影が落ちてきた。埃が収まりそこにいたのは、背を丸めた一人の青年、赤坐だった。
「お前は……」
 虚空は、見たことのない人間に目を奪われた。どうしてここに生きた人間がいるのかという疑問と、人間にはないはずの妖力を彼から感じる。あり得ない、が、その理由はすぐに分かった。赤坐の手には、妖怪の世界・魔界ではよく知られた刀が握られていたからだ。
 積年の呪いで黒く染まった、奇妙な形をした妖刀。近付くだけで魂を毒し、触れれば正気を保つことができず、どんなに強い妖力を持った者も発狂していったもの。そうして誰にも手にすることができずに何百年も魔界の奥深くで眠り続けていた、あまりの凶暴さ故に存在価値がないと言われたものだった。だが、それを扱うことのできた妖怪がただ一人だけいた。その者の名前も顔も、そして、持つ力も、虚空は知っている。
 しかし、と虚空は戸惑った。彼は死んだはず。ここにいる者が別人だったとしても、人間如きにその刀を持つことなど不可能。
「……あー」
 赤坐は体を揺らしながら、頭を抱えた。
「アタマ、痛い」
 人間の腕力では抱えることさえままならないはずの刀を、赤坐は畳に刺してそれで体を支えた。
「なんだよ、これは」苦しそうに呻きを交え、独り言を呟く。「持った途端に頭痛がして、体が焼けるように熱くなった……手ぇ放しても治らないし……」
 赤坐は、まるで思い出したかのように顰めていた目を大きく開いた。そのとき初めて、ここに人がいたことに気づく。頭痛に悩まされながらも、両端で自分に注目している智示と虚空を交互に見た。
「……汰貴?」
 智示と目が合って、つい呟く。しかし、自分の知る彼とは表情が違うとすぐに分かる。
「違うな……そうか、あんた生きてたのか」
 次に虚空を見て、首を傾げる。
「あんたは、えっと……とりあえず、妖怪だな。ここの死体、全部お前の仕業か? こいつを殺して、どうするつもりだ?」
 虚空は答えなかった。赤坐の中で起きていることを、鋭い目で探っていた。赤坐の話など聞かず、その答えを出す。
「……その妖気、その刀。お前は」
「……何?」
 虚空は突然、羽を躍らせ宙を舞う。苦痛で顔を歪める赤坐に羽の刃が襲った。赤坐は戸惑いながら反射的に刀を両手に持ち、自分でも信じられない速さで弧を描いた。黒い羽はすべて音を立てて弾き返される。なんとか傷つかずに済んだものの、弾かれた羽は畳や床に深く突き刺さっていた。赤坐は、あんなものが当たっていたらと思い、ゾッとした。
 その凄まじい光景に、智示は息を上げた。とても人の及ぶところではない。敵うことも、逃げることもできないかもしれないが、そのままじっとしていることもできなかった。
 虚空が赤坐に気を取られている隙に、智示はその場から走り出した。虚空はすぐに追おうと足に力を入れるが、赤坐の刀に行く先を遮られる。
「……あいつのことはよく知らねえけどさ」内側の熱さを飲み込みながら。「とりあえず、俺がどうなってるのかだけでも、教えてくれないかな。ここに来れば分かると思って、急いで来たんだ。頼むよ」
 虚空は意外な邪魔者を一瞥し、舌を打った。



 智示は形振り構わずに走った。彼の心は恐怖に捕われ、平静を欠いてしまっている。散らばる死体の欠片に足を掬われながら走り続け、胸が苦しくなったところで膝をついた。
 智示の頭の中は恐怖だけだった。何がどうしてだとか、どこへ行けばいいのかだとか、そんなことも考えられなかった。今まで経験したことのないほどの怯えに支配され、完全に行き場を失ってしまっていた。
 刀を持った男のことは知らない。しかし黒い妖怪は必ず自分を追ってくるだろう。あの姿を思い出すだけで胸が潰れそうなほど恐ろしかった。殺すなら、さっさと殺して楽にして欲しかった。
 その時、足音が聞こえた。智示は体を起こして震える。隠れよう、そう左右を見回すが、隠れてどうするという葛藤が起き、混乱するしかなかった。
 足音は近付いてくる。時々止まりながらも、確実に。すぐそこの廊下の角まで来ている。智示は目を見開いてそれを待った。角の柱から、人が現れた。それは血で汚れた智示を見つけ、足を止めた。
 まるで鏡を見ているようだった。二人は、妖怪と対峙したときよりも奇妙な感覚を覚える。敵ではないはずなのに、決して恐ろしい姿ではないのに、二人は言葉を失った。
 汰貴と智示は、生まれて初めて、血の海の中で向き合った。