1 古い祠の佇む森の中にも薄い緋色の花びらが舞い散っていた。 近くに桜の木はなかったが、森を抜けた先にある大きな町のあちこちには燃えるように開花したそれらが一年の始まりを彩っている。風に追われて枝から引き離されても花びらのほとんどは瑞々しい。散って尚、道や人の衣を美しく色付けては、まるで嵐のように風と共にどこかへ姿を消していく。 優しい太陽の光が注ぐ穏やかなある日、戸も窓も締め切った薄暗い祠の中で一人の青年が呻いていた。長身の体を丸めて頭から布団を被っている様子は普通ではなかった。体調が悪いのか気分が悪いのか、もしくは両方なのかは分からないが、その姿はすべてのものを拒絶しているように見えた。 彼は妖怪の魂と人間の体を持つ半妖、才戯。妖力の宿る体は普通の人間よりは強くできている。元は魔界で一目置かれるほどの高等妖怪だったのだが、今彼の中にある妖力はそのときの半分にも満たなかった。強靭な肉体を持っていた頃はいろんなことが思い通りになり、ましてや病気になど無縁で過ごしてきた。 しかしここは人間の世界であり、才戯もまた、一見は普通の人間として生活している。菌に体を侵されて苦しむことがあってもおかしくないのだ。 彼は今、無縁のはずだった病気に苦しんでいた。しかも魔界にはなかった人間特有のそれに。普段強い者は、いざ自分が病気になると途端に気が弱くなる。初めての苦痛、初めての症状にどう対処していいのか、その経験も知識もないために混乱状態に陥るのだ。 才戯も例外ではなく、目に見えない敵が疎ましく、情けないやら恥ずかしいやらで伏せってしまっていた。 どうすればいいのか分からない。それがすべてに先立ち、彼は医者にかかろうとしなかった。薬師に相談することなども思いつかない。何よりも自分が病気であること、その症状や原因を他人に話すことに抵抗を感じていた。魔界にいた頃も家族や友などいなかったのだが、人間界ではそのとき以上に孤立している。神の手違いで今や人間とも妖怪ともつかない中途半端な生物になってしまっているのだ。理解者などいるはずがなかった。ただ、一人を除いては。 人間界には才戯と同じ立場にある者がいた。彼と同じく神の手違いで昔の記憶を持ったまま人間になった半妖の暗簾である。彼は今、商人の跡継ぎとして逞しく世界に順応しつつあった。 暗簾と才戯は昔は敵だった。今も決して仲がいいわけではない。人間の言葉で表すと、「赤の他人」である。しかしお互いに同じ道を歩み、歩んでいく者、素性を知る者同士として無視できない存在だった。 病気に苦しみ、悩み果てた末、才戯は断腸の思いで暗簾に相談していた。才戯は暗簾のことを毛嫌いしており、信用などしてはいけない人物だと認識している。 なのに、どうして才戯は彼に話したのか。理由は単純なものだった。まずは、暗簾もまたこの世界で生きていくために隠していることがたくさんあることだった。秘密は才戯よりも多く抱えている。現に暗簾は、家族にさえ名前も別のもので呼ばれ、人格も妖怪だった頃とは真逆と言っていいほど違うそれを演じ続けて生活している。自分が半妖であることは当然、才戯という身寄りのない盗人と知り合いであるなど人に言えるわけがないのだった。 二人はそれぞれに孤独だった。だから才戯は「恥」を偲んで話すことができたのだ。 それともう一つの理由は、今の暗簾の立場にあった。彼が潜伏する麻倉家は商人の名家である。暗簾も才戯と同じく病気には無縁の妖怪であったために的確な助言をしてくれるとは思わなかった。あの歪んだ性格では心配して気遣ってくれるなどあり得ないのも分かっている。だが半妖になってからの暗簾は、立派な商人になるために周囲から様々な分野の勉強を強いられている。見た目は子供ではあるが、顔が広く、財力もある。当然、金の動く医師や薬師とも取引しているのだ。 バカにされて笑われるのは目に見えていたが、ヘタすれば死に至るこの病をいつまでも抱えて苦しんでいるよりは、一時の恥を捨てて手を借りようと才戯は決意した。 最初は予想通り、暗簾は指を差してからかい、人を汚物かのように扱った。腸が煮えくり返るほど才戯は苛立ったが、敵を翻弄するのは暗簾の得意技である。病について周囲に疑われないように調べて、可能であれば薬を入手してきてやると、見下しながら才戯に伝えた。治ったときに仕返ししてやると思いながら、才戯は大人しく彼の知らせを待っていた。 それから三日が経っている。暗簾は周囲からの干渉が多い立場にある。簡単ではないのかもしれないが、早く何とかして欲しいと願いながら才戯は毎日を悶々として過ごしていた。 しかしそんな彼の元に訪れたのは、思いも寄らず、そして最も知られるべきではない人物だった。ここに足を運ぶ者がいるとすれば、何か用がある時の暗簾くらいのものであるが、その暗簾でさえ日々忙しくてあまり自由な時間がない上に、用と言っても普段はないに等しい。そんな寂れた空間への来客は珍しいものだった。 いつか、そのうち出てくるかもしれないという不安は頭の隅にあったものの、何もわざわざこんなときに来なくてもと、才戯は布団の中で顔色を更に悪くした。 足音も立てず、風のように現れたその者は人間ではなかった。妖怪でもない。昔の才戯に一目ぼれをして、彼が転生して姿を変えた今も思いを寄せている美しい女神、樹燐だった。顔を見なくても彼女が漂わせる気配と、繊細な装飾品の揺れる時に奏でる透き通った金属音で、才戯はすぐに誰だか分かる。 確かに彼女は美しい。見た目だけなら申し分ないほど完璧である。万能と言われる神だけあって樹燐の存在感は大きくありながらも優しさも兼ねていた。そこにいるだけでふわりと流れてくる心地よい暖かさと華の匂いは自然と心を安らげてくれる。そんな魅力的な女性に愛されて拒絶する男はいない――はずだった。 二人の間にある問題は中身だった。樹燐の男勝りした気の強い性格は並ではない。女を意識した姿は過剰なほど派手で、醸し出す色気は相手を圧倒する。彼女のそういう強烈な部分を才戯が素直に受け入れられないのは当然あったのだが、それ以前に彼には恋愛感情というものがほとんどなかった。決して女が嫌いなわけではない。それらの内面と外面の美しさを判断する目も持ち合わせている。しかし才戯にとって女は単なる娯楽の道具にしか見えなかった。 その感覚は才戯だけに限ったことではなかった。本来男の本能には、複数の異性をできるだけ多く獲得することで自分の価値を高めたいという欲求があった。人間は愛情が深く、理性も強い。長い時間をかけて受け継がれてきた道徳が強く根付いているために、浮気や不倫などの不貞行為は悪であるというのが常識として定着している。 しかし妖怪は違った。特に才戯ほどの高等妖怪となると尚更、何か一つのものに拘束されるのは恥だとさえ考える。人間の体になった今でもその志向は変わらなかった。 据え膳を食うことに抵抗はない。が、見るからに毒が盛られているような膳に箸をつける勇気も、冒険心も才戯は持ち合わせていなかった。彼女と普通に会ったり話したりするくらいなら構わない。それでも、今だけは勘弁して欲しかった。病のことを知れば絶対に大騒ぎするに違いない。その上、暗簾以上に酷い反応を見せることが予想できたからだ。 とにかく、できるだけ早く帰らせよう。それしか考えていない才戯のことなどお構いなく、樹燐はにっこりと微笑む。 「暇だから遊びに来てやったぞ」 相変わらず無神経で、偉そうな口調だと才戯は思う。来てくれなんて誰も頼んでいないし、はっきり言って迷惑である。 樹燐は薄暗い祠の中を見回して窓へ向かった。 「なんなのだ。こんなに天気のいい日に窓を閉め切って」 言いながら勝手に窓を開け始める。そこから柔らかい光が射し込み、風とともに桜の花びらが迷い込んできた。 「人間の世界は春」樹燐は目を細めて。「見事な桜が咲き誇っている。花見にでも行かぬか」 たまには女らしいことを口にするのだが、今の才戯にはあり得ないお誘いであり、返事もせずにじっとしていた。当然、樹燐はその態度が面白くない。 怒鳴りつけ、無理やり連れ出そうと考えたが、ふと何かの異変に気づいた。 才戯を中心に漂う不吉な何かを感じる。神である樹燐にも無縁な、病の気配だった。彼が人間の体であることを思い出し、途端に心配になった。 「そなた、もしかして病気なのか」 彼の隣に膝を折って声を落とす樹燐に、才戯は僅かに肩を揺らした。 「そうなのだな。どうした。どこが悪い?」 樹燐ならどんな重病も治せるのかもしれない。しかし、才戯は決して彼女を頼りたくなかった。頼れば後が怖い。それ以前に、今回ばかりは力になってくれるどころか、話せばいらぬ暴力を受けるだけであることが確実だと分かっていたのだ。 「……帰れ」 才戯は布団の中から呟く。聞こえていたのだが、そんなことで引き下がる樹燐ではなかった。 「どこか痛いのか? 熱でもあるのか? 言ってみろ。私が治してやる」 「うるさい。帰れ。どうしてもって言うなら今度付き合ってやるから、今はとにかく帰れ」 「治してやると言っているのに。なんだその態度は」 樹燐はムッとして布団を引っ張り出した。才戯は慌てて引っ張り返す。 「やめろ。俺は具合が悪いんだ。頼むからほっといてくれ」 「だから治してやると言っているではないか。せめて顔くらい見せぬか」 「余計なお世話なんだよ。こっちはお前の顔なんか見たくない。帰れ」 「なんだと、この無礼者が!」 無駄に腕力の強い樹燐は、無理やり布団を剥ぎ取った。やっと姿を見せた才戯の顔色は悪く、汗を流しながら後退さった。樹燐は布団を投げ捨てて彼を追う。 「どうしたのだ。そんな弱々しいそなたを見ているのは私も苦しい。すぐに治してやる。どこが悪いか言うのだ」 「いいから! 俺に近付くな、クソ女!」 才戯は壁に張り付いて樹燐を足蹴にする。負けじと樹燐が腕を伸ばしたそのとき、祠の戸から声が届いた。 「お待たせ、っと」 現れたのは暗簾だった。揉めている最中だった二人は同時に彼に注目した。 「あれ、お客さん?」樹燐に気がつき。「ああ、あの時の綺麗な姉ちゃんか」 険悪な空気に気遣いなく、暗簾は笑顔で祠に上がりこんでくる。手には小さな紙袋が握られていた。 才戯は、心から焦った。今まで待たせていたくせにどうして今なのだと、暗簾の間の悪さには恐怖さえ抱く。しかも彼は人の都合など気にしてくれる性格ではない。今はその話はするな。しても決定的な言葉は避けてくれと才戯が祈る中、暗簾は袋を差し出して喋り出した。 「人の目を盗んで調べるの、大変だったぜ」樹燐の隣に胡坐をかいて才戯に向き合い。「残念ながら特効薬はないんだが、死亡率は高くないってよ。でもやっぱり流行ってるんだな。 暗簾が才戯の薬を持って来たのだろうということは、樹燐にも分かった。じっと耳を澄ましながら、聞いたことのない言葉に反応を見せた。 「……山帰来?」 まずい。才戯は今すぐどちらかを追い出そうと考えた。彼が行動を起こす間もなく、暗簾は樹燐の疑問に軽く答える。 「ああ、漢方だよ」 才戯の背筋が凍った。それ以上は言うなと大きな声を出そうとした寸前、暗簾は才戯に向き直った。 「でももう安心しろよ。腕のいい薬師を見つけて特注してやったんだ。闇専門の怪しいジジイだけど腕は確か。初期ならこれで治るってさ。たぶんな。医者にかかる必要もないだろう。薬がなくなったら俺が取りに行ってやるから、お前は誰にも会わないで、じっとしてればいいようにしてやるよ」 「……そ、そうか。悪いな」 どうやら、才戯の一番の不安である「人には喋るな」という気持ちは、一応理解してくれているようだと少しだけ気持ちが解れた。このまま暗簾を帰して、樹燐には風邪をひいたとか言って誤魔化してしまおうと、そう思ってほっと息を吐いた、次の瞬間だった。 「お前の鼻が落ちる姿なんて、俺だって見るに耐えないぜ。別に恩に着せるつもりはないから、これに懲りて二度と変なものを拾い食いするんじゃないぞ。まったく、この俺が敵と認めた男が、梅毒で醜く爛れるなんて……」 途端、才戯は目をかっと見開いた。 「喋ってんじゃねえよ、ボケ!」 反射的に腕を振り上げ、暗簾の頭を掴んで床に叩きつける。齢を重ねた床は軋み、暗簾の額を中心に亀裂が走った。暗簾は頭から血を流して沈黙したが、才戯が最も避けたかったことは避けられていなかった。 外の麗らかな天候とは裏腹に、室内の空気が目に見えるかと思うほど冷たく凍った。樹燐は才戯を見つめたまま動かない。動かないのではなく、動けなかったのだ。暗簾が口にしたある言葉を耳にした途端、頭の中が真っ白になり思考回路がまともに働かなくなっていたのだった。虚ろになった瞳は瞬きもせず、震える唇からは、信じることができないその言葉が無意識に零れていた。 「……ば、ば、ばい……?」 やはり聞き逃していなかったようである。それは、身近にはないが、樹燐の知っている言葉だった。いつからか人間界に広がり始めた恐ろしい病である。天上界でも女官の間では十分に話題になっているものだった。当然、噂好きな樹燐の耳にも入っている。 ただの病ではなかった。暗簾の言った「梅毒」とは性病のことだった。自然に発症することはなく、性交、またはそれに類似する行為でのみ感染する。今や遊女の一割から三割は感染していると言われ問題視されている深刻なものだった。逆に、その疑いのない相手とのみ接触していれば恐れる必要のない病である。 樹燐は纏まらない頭で必死で考えた。暗簾の言ったことが本当だとするならば、才戯は病気を持ったどこぞの女と交わったということになる。自分以外の女に近付くことさえ腹立たしいのに、しかも、その相手が――そう思うと血管が切れそうなほど、樹燐の血が頭に上った。 「……いやあっ、汚らわしい!」 真実を確認する冷静さも、事情を聞く余裕もなかった。金槌並みの樹燐の拳が才戯に炸裂し、今度は彼が血を流して壁に叩きつけられた。 「き、貴様はっ」樹燐は顔を真っ赤にして目に涙を溜める。「私というものがありながら、なんということを!」 殴り倒された才戯は痛みで起き上がる気力も、言い訳するつもりもなかった。樹燐に彼の行動をとやかく言う権利はないのだが、彼女は自分中心にしかものを考えない。興奮したまま喚き続けた。 「貴様は、その汚れた体で私ほどの高貴な女を娶ろうと思っていたのか」 意識が朦朧とする中、才戯はさすがに「思ってないし、思ったこともない」と心中で反論する。しかしそれは樹燐に届かない。 「見損なったぞ! どれだけ悪事を働こうと、鬼神の血に宿る高潔な心は確かなものだと信じていたのに。よりにもよって、病気持ちの下品な女に騙されるようなつまらぬ男だったとは……!」 樹燐は涙を流しながら憤慨し、立ち上がって背を向けた。 「もう貴様など知らん。鼻でも何でももげ落ちてしまえ。醜い姿になって、一人で生き地獄を味わうがいい。自業自得だ!」 そう言い捨て、泣き声を上げながら樹燐は姿を消した。 風の吹き抜ける祠の中には、血を流しながら倒れる二人の男だけが残り、舞い込んでくる優雅な桜の花びらもその虚しさを払拭することはできなかった。 |