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 次の日の夜。
 満月の下で踊る桜の花びらは、誰もが心を癒される風流なものだった。
 夜は更け、暗簾は麻倉家の自室にある御簾の奥で、就寝しようと灯りを消した時だった。
 彼の頭には包帯が巻かれており、頬の辺りにも痣がある。昨日、あの後も才戯に酷く怒られ、殴られてできたものである。怪我の理由を人に話せるはずがない暗簾は誤魔化すのに苦労した。せっかく協力してやったのにと、多忙な時間の中でも才戯への恨みはまだ消えていなかった。
 また明日も朝が早い。時間ができるまで彼のことは忘れようと寝床に体を倒した、倒そうとした。
「おい、暗簾」
「うわ」
 気配もなく背後から声をかけられ、暗簾はつい出そうになった大きな声を慌てて抑える。反射的に上半身を捻ると、そこには目の据わった樹燐が、枕元で正座をして暗簾を睨み付けていた。
「な、なんだよ。こんな時間に」
 暗簾は鼓動が早まる胸を押さえる。神妙な表情を浮かべた樹燐の話したいことが、彼には分かった。才戯のことだろう。それは間違いないのだが、樹燐は俯いたまますぐには口を開かない。結局気になって仕方ないにも関わらず、気の強い彼女はそのことを素直に尋ねることができずにいたのだ。
 樹燐のことはあまり知らないし興味もないのだが、これは面倒な女だと暗簾はため息を漏らす。仮にも男の寝室に忍び込んでくる度胸があるのなら、せめて言いたいことくらい纏めて来いと、呆れる。
 きっと気が気ではなく、じっとしていられなくて行動したのだろう。しかし、樹燐がいくら足掻いても、才戯が他の女と関係を持ったのは事実で、こればっかりはどんな言い方をしても変えられるものではなかった。
 それに、暗簾は実際に詳しいことを知らない。実は薬のことを調べている合間に、面白半分で少々探ってみたのだが、その中で見たものは「才戯がバカな女に騙されて痛い目を見た」というものではないことだけだった。暗簾にとってはつまらない話だった。だから今回は、せっかく彼の数少ない弱味を掴んだとはいえ、つけこんで茶化すのはやめておこうと、これ以上は触れないでいようと思って手を引いていた。
 その気持ちは変わっていない。樹燐が知りたいと思うなら知ればいいと思う。知った後に何を考えるか、何を思うのかは暗簾にはどうでもいいことである。いつまでも隣で言葉を選んでいる彼女に、暗簾は小声で話し出す。
「……夜鷹だよ」
「え?」
 夜鷹とは、夜道に立って客を引く売春婦のことだった。
「少し前から、どこからかから流れついた一人の夜鷹が東の大橋辺りに立っている」
「……それが、才戯を騙した女なのか」
「さあ。そうだという確証はない。が……気になるなら会ってみればいい」
 樹燐は複雑な表情を浮かべて俯く。暗簾は横になって樹燐に背を向けた。
「念のため」暗簾は目を閉じて続ける。「俺は会いに行けとは言ってないからな。行くも行かないも、行ってそこで何を見ても、自分で決めて答えを出せよ」
 どういう意味だろう。早く消えてくれという暗簾の気持ちを理解しながらも、樹燐は続けた。
「……才戯は、売春婦などといつも会っているのか?」
「そんなこと俺が知るかよ」
「才戯は病気に気づかなかったのか? いいや、あいつがそんな病気を持つような女に騙されるなど、私はどうしても信じられない。なあ、お前もそう思わないか?」
「はいはい、そうだね」
 必死で同意を求めようとする樹燐に、暗簾はため息を漏らす。
 暗簾自身も今回のことで調べて初めて認識したことだが、今の時代、梅毒など珍しいものではなかった。対抗策もないまま蔓延した今、男は梅毒にかかってこそ一人前と揶揄されている。病気などに縁の薄い神や妖怪には理解し難い感覚だった。
 遊女、売春婦という存在もまた、梅毒を武器に変える考え方を持っていた。しかし死亡率が低いとはいえ、放っておけば病気は進行する。いずれ顔が崩れ、商売価値がなくなってしまえば酷い扱いを受けることになる。そういった行き場を失った女こそが夜鷹となって暗闇を彷徨っているのだ。つまり、夜鷹のほとんどは何かしら事情のある、まともではない女だと思って間違いはない。
 そんな女に、あの才戯が手を出すなんて、彼を知るものには考えにくいことだった。樹燐はいつも彼の傍にいて見張っていられる関係でも、立場でもない。才戯が女と遊ぶことは、不愉快だが、仕方のないことだと思う努力はできる。だが、よりにもよってどうして夜鷹という下層の女と? 樹燐の疑問と不快感は更に深まっていく。
「……どうしてなんだ」樹燐は悔しそうに声を曇らせ。「人間の女とは妖怪を騙せるほど賢いのか? 遊女たちの技は巧みだとは聞くが、そんなことを才戯が知らないとは思えない」
 暗簾は見向きもしないで答えた。
「だから、騙されたんじゃなくてさ、惚れたんじゃねえの?」
「――――!」
 考えもしなかった言葉に、樹燐の胸に引き裂かれたような痛みが走った。
「そう思ったら納得した。だからそう思うことにした――俺はね。本当のことは分からないし興味もない。知りたいなら自分で調べな」
 樹燐は眉を寄せて黙りこみ、暗簾はそれ以上口を開かなかった。彼が眠りについたのと、樹燐が音も立てずに姿を消したのとどちらが早かったのかは、確かにならなかった。



 やはり樹燐は耐えることができなかった。
 人間の目には映らない彼女はいつも普段の派手な格好で降りてくるのだが、何を思ったか、樹燐は人間の女の着物を身につけ、髪も高島田に結った姿に変装していた。どうやら件の女性に会いにいくつもりのようである。
 物珍しくないようにしたつもりなのだろうが、やはり女神という高貴な雰囲気は隠しきれていない。
 樹燐は、その女が例えどれだけ美しかろうと、自分には敵わないと信じて疑わなかった。だから、一度才戯と情を交わしただけで調子に乗るなということを見せ付けてやりたかったのだ。そんな気迫での変装である。目立たないようにと思いつつ、どうしても自分の美しさを強調せずにはいられなかった。
 樹燐は今まで、女どころか男にさえ負けたことがない。経験で積み上げてきた確固たる自信に揺るぎはなかった。見た目だけではなく、内に流れる血も身につけた気品もすべてが本物。敵はたかだか人間の女、しかもただの売春婦。負けるはずがない。きっと天狗のように鼻を高くしているであろうしたたかな女狐を、叩き潰して悔し涙に溺れさせてやると意気込んでいた。

 暗簾に聞いた東の大橋が見えてきた。
 時間は丑の刻。人の気配などないほど夜は深くなっていた。樹燐はあまりの静けさに冷静になり、ちゃんと時間を考えて出てくればよかったと後悔した。少し肩の力を抜いて橋に近付く。
 東の大橋は、町を横切る大きな川に架かる立派な建造物だった。真っ赤に塗られたそれは町の見所として観光客がよく立ち寄る。しかし夜になると橋の下の河川敷は、夜鷹を漁る貧乏人が寄り付くという、下賤な空間に変化する場所としても有名だった。
 天上界で生まれ育った樹燐は、できればそういうものは見たくなかった。彼女が用があるのは一人の女性である。それ以外には関わりたくないと警戒しながら橋を反れ、川なりに延びる道に足を運んだ。
 この場所が名所となったのは他にも理由があった。道に沿って植えられた見事な桜並木である。足元には花びらが積もり、そよぐ風に乗って限りないと思うほどどこかへ流れていく。樹燐は怒りを忘れ、足を止めてその風景に見入った。煌々と輝く月の光に照らされた満開の桜の花は、神の眼にも美しく映る。花はいつの時代もどこの場所でも世界を彩るというのに、人の心の卑しく、醜いこと。樹燐は自分も別ではないことに気づいて、少し眉尻を下げた。
 やはり止めようかと目線を落とす。
 そのとき、樹燐の視界に一人の女性の姿が飛び込んできた。一本の桜の木の下に佇む彼女は頭に手ぬぐいを被り、顔は見えない。こんな時間に一人で道に立つ女。夜鷹である。それが探していた者かどうか確認していないのに、樹燐はなぜか緊張した。
 いつからそこにいたのか分からないほど、女性の気配は静かだった。客を探している様子もなく、ただじっと降り注ぐ花びらに身を任せている、樹燐にはそう見えた。
 樹燐は息を飲み、キッと目に力を入れて女性に近付く。女性は人の足音が聞こえても顔を向けなかった。数歩前で立ち止まり、樹燐は勇気を出して声をかけた。
「……もし」
 一瞬の間を置いて、女性はやっと動いた。やはり手ぬぐいの影に隠れて顔は見えない。しかしその隙間から見える口元や鼻筋は整っている。髪は流したままで身なりも貧しいものだったが、器量好しであることは伺える。赤い紅がよく似合う唇や、落ち着いた仕草は確かに艶を感じなくはない。それでも、やはり樹燐にとっては人間並の美しさ止まりとしか思えなかった。この程度の女に――樹燐の恨みが再び甦ってくる。
 好意的ではない樹燐の表情を察しながら、女性は素知らぬ態度で向き合う。
「はて、こんな時間に上流と見受けられる美しい女性が一人で通りかかるとは、珍しいこと」
 女性の声は少々枯れていた。酒に焼けたか、麻薬にでも浸かっているのか。どこまで自堕落な女なのだと樹燐は嫌悪感を深めた。
「お客さんかい。悪いけど、あたしは女は相手しないよ」
 汚らわしい。樹燐はふざけた態度の女性の頬を張り倒したくなる。夜鷹のほとんどが病気持ちであることは周知されていることだった。才戯だってそのくらいのことは知っているはず。なのに、どうして。この女の何がそうさせたのか、樹燐にはまったく理解できなかった。
「お前、名は?」
「あたし? 名前、なんだったかな」女性は少し首を傾げる。「ああ、そうだ。昔は明乃めのって呼ばれていたかな」
 普通に答えればいいのに。樹燐の苛立ちは募るばかりだった。そう言えば、この明乃という女が、問題の相手であるかどうか確かではかったことを思い出す。そうでないのならばこれ以上話していたくない相手だった。
「お前は、数日前に才戯という客を取ったか?」
「え?」
 明乃は少し考えるように口を閉じた。そしてすぐに答える。
「ごめんなさいね。あたし、客の名前は聞かないんだ。あたしも名乗らないし。だから誰のことか分からないんだよねえ」
 とぼけているのか頭がおかしいのか。これでは話にならない。もしかすると無駄な時間と労力を費やしているのかもしれないと、樹燐は目を逸らす。そんな彼女を翻弄するかのように、明乃は続けた。
「……なんてね」
 樹燐は目を見開いて明乃に向ける。明乃は、夜桜を背に微笑んだ。
「あたし、滅多に客を取れないから分かってる。あの人のことでしょう? いい男だったから、よく覚えてるよ」
「……な」
 樹燐の内側に怒りの炎が灯った。やはりこの女なのか。できれば勘違いであって欲しかった。
「あんたは、彼の『いい人』? だとしたら、病気移って文句でも言いにきたってことかな?」
「そ、そうだ……」
 まだ半信半疑の樹燐の声は自信をなくしていた。
「なんだ、あの人やっぱり独りじゃなかったんだ。嘘つかれたな。しかもこんなに綺麗な人がいるのにさ、よりにもよってあたしみたいな夜鷹に身を落すなんて、どうかしてるね」
 樹燐の額に汗が流れた。やはり間違いではないのか。信じたくない。信じられない。信じられないからこそ、樹燐は真実を知りたかった。
 樹燐の姿を見ても怯まずに、余裕さえ感じられる明乃の態度は彼女に恐怖を与えている。
 少し強い風が吹きぬけたとき、恐れを知らない樹燐を怯えさせる何かを、明乃は月の光の下で曝け出した。
「だって」そっと手ぬぐいを引き。「これを見ても引き下がらなかったなんて、まともじゃないよ」
 そこに現れた明乃の容姿に、樹燐は言葉を失った。器量好しだなんてとんでもない。こんな顔を暗闇で見れば誰もがこう言うだろう。

「化け物」、と。



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