3 明乃の顔には額から右の頬の辺りにまで、赤紫に爛れた傷跡が広がっていた。瞼や目の周りの薄い皮膚は損傷が酷く、溶けたように流れ落ち、右目の形は変わっている。昨日今日できたものでも、菌に冒されてできたものでもない。これは、古い火傷の跡。なぜという樹燐の疑問は更に深まっていく。 「あの人はたまたま通りかかっただけ。稀に見る色男だったものだから、ふざけて声をかけたんだ。そしたら彼は幾らだって聞いてきてさ、たぶん哀れな女に金だけ渡して立ち去るつもりなんだと思った。だから、あたしも挑発に乗ってね、わざとこの顔を見せてみたんだ」 明乃は細めた目線を遠くへ投げた。 「このすかした男に悲鳴を上げさせてやろうか、なんてね。でも、彼は少しだけ驚いた顔をして、もう一度、幾らだって聞いてきた」 樹燐は震え出す指先を止められなかった。明乃は思いを馳せながら、桜を見上げる。 「驚かされたのはあたしの方だった。でも、金をもらった以上は仕事しないといけないからね。金子を受け取れば満足してくれるかとも思ったけど、彼は違った。病気のことも傷のことも、すべてを知っても彼は怖がらなかった」 樹燐は自分の目を疑った。なぜか、この醜女が夜桜よりも美しく見えたからだ。こんな感覚は初めてだった。今まで樹燐は輝かしく、秀麗なものばかりに囲まれて生きてきた。目の前にいる薄汚れた女一人など、天上では存在しないほど醜くて小さな人間でしかないはず。 (……そうか。私の世界にはいなかった。こんな堕ちた存在は神の国にあってはならぬもの。だから、理解できないのだ) 達者な口と強引な態度で相手を言い負かしてきた樹燐が、何も言い返せずに立ち尽くしている。 樹燐の予想では、人間の中では美しいと言われる女性がそこにいるものだとしか考えていなかった。傲慢な者の浅ましい性根や弱点を見透かして付け込むことが樹燐のやり方だったのだが、明乃にはそれができなかった。明乃は決して傲慢でもなければ、お世辞にも美しいとは言えない。貶すことは簡単である。しかし樹燐がしたいのはそんなことではなかった。今まで強者としか争ったことがなかった彼女は、何の取り柄もない弱者の扱い方を知らずに立ち竦んでしまっている。 明乃の浮かべる表情は、樹燐の困惑の理由を分かっているかのようだった。 「……完璧な美貌、蜜のように輝き潤う体……誰からも欲しがられ、人を思い通りに操る手管」 どき、と樹燐の胸が鳴った。唐突に語り出す明乃が何を言わんとしているのか分からないまま、樹燐は息を飲む。 目の前にいる女はただの化け物。しかし、明乃から目が離せないでいる自分には、まだ気づかない。 「……吐息をかければどんな男も思いのまま。欲しいものがあれば、顎を少し上げるだけで必ず誰かが差し出してくる。周囲の向ける羨望と嫉妬の眼差しもすべて、己の価値として受け入れる器。生まれてこのかた苦しんだことも挫折したこともなく、順風満帆な人生を送ってきた。きっとこれからもそうであると信じて疑わない、お目出度い女……」 自分のことだ――樹燐はそう思い、同時に、見下されていると感じた。 まるで体の中に泥水が渦巻いているような感覚に陥る。腹立たしい。こんな醜い女にどうして知ったふうなことを言われなければいけないのか。今までも皮肉を浴びせられた事は何度もある。慣れたつもりだった。ただの妬みであると相手にしなかった。 なのに、明乃だけは無視できない。怒り、違う、恐怖だ。会ったばかりの女にすべてを見抜かれているような錯覚に陥ってしまい、それから抜け出せずにいる。 樹燐がそう感じていることすらも分かっているかのように、明乃は微笑んだ。この圧迫感は何なのだろうと、怖いと同時、その正体を知りたくて樹燐は動けない。 明乃は再び口を開く。 「それが、昔のあたし」 そこから紡がれた言葉は、樹燐を罵るそれではなかった。 「今のあたしは人としてさえ扱ってもらえない下の下の生き物だ。だけど昔は、選ぶ権利があった……あたしは選ぶ側の人間だったんだ」 明乃は遠い目をして話を続ける。 「あたしはこれでもね、昔は結構人気のある遊女だったの」明乃は背後にあった策に腰を下ろし。「ね、これも何かの縁かもしれない。あたしの昔話、聞いていってくれるかい?」 いいとも嫌とも言わずに棒立ちしている樹燐に構わず、明乃は語り出した。 ――あたしに言い寄る男は数知れず、毎晩座敷を行ったり来たり。それは華やかで、色と金が飛び交う毎日が気持ちよくて仕方なかった。そんなあたしに本気で入れ込む男も当然いた。でもね、そんな存在は『誰のものにもならない』あたしには、鬱陶しいものでしかなかった。 あたしには あたしを独占しようとして、必死で金を掻き集めて通い詰める者、無理やり孕ませようと企むバカも結構いたよ。でもそういった煩わしさの全部、うまく躱して男を手玉に取ってきた。 何もかもが思い通り。思い通りになり過ぎて、あたしは調子に乗ってた。それに気づくのに、少しだけ、遅れてしまったんだ。 そんなあたしの地獄は、ある夜、突然訪れた。 あたしをずっと口説き続けてきたある客が、他の女からもらってきた梅毒を、黙って、移した。男は身元のしっかりとした役人だった。なのに、ほんとにバカだよね。一つのものを共有することであたしとの繋がりを持てると思い込んで、実行した。その後、そいつがどうなったかは知らないけどね。 梅毒は別にいいんだ。妊娠を恥と思う遊女にとってそれほど悪くないものだから。そのときは、別になんとも思わなかった。ああ、やられたなっては思ったけど……それから、あたしの人生は雪崩のように落ちていった。 男の独占欲って、知ってる? 色恋に関しては女のほうがおっかないものだと思われてるけど、そうだとは限らないんだね。あたしが思う以上に、想像もできないほどに、深いものだった。 あたしに梅毒移ったことを知ったある男が、必要以上に嫉妬に狂ったんだ。 あたしが人気の遊女であるだけで複数の客を取っていることは当たり前のことなのに、梅毒っていう、他の男と交わった事実が目に見える形となったことが許せなかったんだって。その男は、相手は誰だとかしつこく詰め寄り、逃げるあたしに暴力を振るい始めた。 あたしは、そのとき初めて人の想いを恐ろしいと思った。 男の異常な行動はすぐに周囲に広まった。今まで自分をちやほやしてきた男たちは助けるどころか、巻き込まれたくないと途端に避け始めた。あたしは次第に孤独と恐怖に捕われ、心も体も見てとれるほどにやつれていった。 そして男は、とうとう気が狂った。 ある日、どこからか入手してきた劇薬を持ち込んであたしと心中を図ったんだ。劇薬は抵抗するあたしの顔にかかった。そのときにできた傷が、これさ。 男はすぐに駆けつけてきた店の者に捕まった。だけど、あいつは、溶けて焼け爛れたあたしの顔をみて、笑っていた。あのときの男の顔は、まともじゃなかった。歓喜に満ちた、歪んだそれは人間のものとは思えなかったよ。今でも思い出したら身震いが起こるほど異常なものだった。 樹燐には縁遠い世界だが、同じ女として明乃の苦痛は想像を絶する。まるで自分のことかのように目を逸らす樹燐に、明乃は笑って見せた。 ――そうやって化け物になったあたしは、あっさりと遊郭から追い出されてさ、それから、どこへ行っても石を投げられる人生が始まった。 だけど、今まであれほどうまくいってたんだ。どうしても、何とかなるんじゃないのかって、ないに等しい希望を捨てることができなかった。まあ、今思えば、バカバカしいただの思い込みなんだけどね。人ってのはそう簡単に変われるものじゃないんだ。バカなのは分かっていながら、あたしを拾ってくれる男から、小銭をもらいながら食いつないできた。そうしながら、今ここに辿り着いたの。 同じだ。樹燐は、明乃と自分を重ねていた。今の自分こそが、昔の明乃。 では、今の明乃と自分は何が違うのだろう。 簡単なことだった。挫折と、苦労だ。明乃は天国と地獄の両方を見て、体で経験してきたのだ。誰からも愛される快感、そして、そこにいるだけで疎まれる孤独のすべてを。 ――美貌を一つ失っただけのあたしは、自分でも信じられないほど酷い仕打ちを受けることになった。 石だけじゃない。歩いているだけで水をかけられたり、棒で叩かれたり。 最初は何が起きているのか分からなかった。 だけど、少しずつ、それが当然なんだって受け入れ始めた。 だって、あたしだって人間だもの。ご飯を食べないと生きていけないんだよ。だから客を引こうとしてた。でも、こんな顔だもの。買ってもらえないのは基本。たまに仕方なく相手してくれる奴からでさえ、女としては見てもらえなかった。 顔を見なくていいように、息苦しいほど布を巻きつけられたり。 あたしの噂を聞いた金持ちがわざわざやってきて、金を投げつけて「お前は人じゃない。畜生、それ以下だ」と罵り、犬のマネをしろと四つん這いにさせられたこともあった。何時間も鳴き続けさせられたときは喉がカラカラに渇いて、それでも解放してもらえなくて、血を吐きそうなほど、苦しかった。 樹燐の顔が青ざめ、背筋に寒気を感じた。 もし自分がそんな目に合うことがあれば、生きてなどいけないと思う。それほどの屈辱、恥辱、とても耐えられない。 彼女にある傷も病気も治るものではなかった。つまり、未来に希望などあるはずがないことも分かっている。救いがないのなら死んだほうがずっと楽に決まっているのだ。樹燐はそうとしか考えられなかった。 しかし、明乃は生きてきた。今の醜い明乃が元々だったならば、それなりの生き方があると思えるが、どうして甘い蜜の味を知った者が、二度と取り戻すことができないと分かっていながら苦汁を舐め続けることができるのだろう。 ――でもね、これでもあたしはまだマシなほうだった。 何度も死のうと思ったよ、もちろん。生きてる意味なんかないんだもの。 辛いのは当たり前。問題は体だ。何日も食べ物にありつけなくて、歩くのもままならなくなって、草をかじった。それがあたったのか、酷い腹痛と嘔吐を繰り返して、早く楽になりたいとずっと祈ったこともある。なのに、目を覚ますといつもそこは「現実」。 だけど、もっと酷い目に合って、残酷に殺された夜鷹の死体を見たことがあるんだ。こんなあたしでさえ震え上がったほどの仕打ちだった。 明日はわが身……怖くて、怖くて逃げるしかできなかったけど、少し安心したこともあった。あたしは生きてる。顔はこんなだし、病気もあるけど、両手両足も、考える頭もちゃんと残ってるんだ。 そのときに、ああ、あたし、まだ生きてていいんだ、生かされてるんだって思った。 どうして? 何のために? 理由も価値もあるわけがないと分かっていたはずなのに、あたしは、もしも自分が生かされてる意味があるのなら、知りたいと思ったんだ。それだけを救いに、醜く足掻き続けてきた。 まるで口上のように、明乃はそこまでを語り、口を閉じてしばらく間を置いた。 聞き手はたった一人。樹燐は表情も変えずに、ましてや拍手などしてくれるような「客」ではなかった。しかし、明乃は嬉しかった。自分の話を聞いてくれる人が一人でもいることに心が満たされていたのだ。 明乃もまた、彼女と出会わせてくれた夜桜の不思議な魔力に迷わされているのだと、そう感じていた。 だから遠慮なく、素直に正直にすべてを語りつくそうと、心の埃を払う。 「あたしにはもう何にもないの。思い出だけ。美貌も、健康な体も、愛してくれる男たちも、名誉も誇りも、何もかもを失った。最初からそんなもの持ってなけりゃ口惜しくもないんだけどね。何かに奪われたと思ったら、今でも涙が出そうなほど虚しいよ」 何かに奪われた――樹燐にはその言葉が引っかかった。 「神様仏様っていうのは、無情だね」 やはり、その何かとは神。つまり自分を含む一族を指していたのだ。 「確かにあたしはたくさんの人を騙して傷つけた。いけないことだってのも忘れて、自分だけが楽しければいいって夢中になってた。それに罰が当たるのは当然かもしれない。でもさ、あたしはそれを受け入れたし、これでも凄く後悔してるんだ。もう二度としませんって深く反省してるんだよ。虐げられて、見下される者の辛さは嫌って言うほど味わったんだから。だからさ、もう一回くらいやり直させてくれたって、いいんじゃないのかなあって、ねえ、あんたもそう思わない?」 自分が責められているような気がして、樹燐の胸が痛んだ。 「どんなクズだって一生懸命、僅かでも幸せを感じたくて必死で生きているんだよ。それを踏み躙ることも、嘲笑うことも……例え神様にだって許されないことなんだ。あたしは自分のしてきたことが、どれだけ罪深かったのかが分かった。そして、何も持たないクズの健気さ、謙虚さってのは、報われなくちゃけないものだって思った。だからあたしはこんな体でも、何かを信じて、這いずり回っているんだよ」 嗤いたければ嗤えばいい。昔の自分のように。明乃は昔の自分の方がよほど醜いと、昔の自分と同じ人種を心で嗤っていた。それが精一杯の強がりだと自覚しながら。 しかし、それさえも無駄であることを、明乃は知ることができた。 「……でもね、やっぱり神様っていうのは凄いなあって、そう思った」 「……え?」 釣られるように樹燐が顔を上げると、明乃の弱々しい目に灯る光に捕らわれた。 「あたしは、幸せ者だ」 醜い顔でそう言い切る明乃の言葉の意味が、樹燐には理解できない。ただ、黙ってその続きを待った。 |