4 「不幸を知らなきゃ、本当の幸せなんか分からないものだね。昔の華やかな世界はただの虚栄だった。あんなものは一時の夢で、いつか泡のように消えてしまう儚いもの。その事実が、今もあたしにはよく見えるんだ」 樹燐は自分が否定されているような気がして仕方がなかった。悔しくないといえばウソになる。いつもならなんとでも言い返せる、言い返してきた。だが、言い返す言葉が出てこないだけではなく、言い返したいという思いが湧いてこなかったのだ。なぜ。その一言が樹燐の中で繰り返されていた。 「あたしね、見れば分かるかもしれないけど、あんまり目が見えないんだ。かろうじて左目で、ぼんやりと色を識別できる程度なんだよ。でも、そこに人がいること、それがどんな人なのか、なんとなく分かるんだよ。視力をほとんど失って、逆に肉眼では見えないものが見えるようになった。もちろん昔の経年で経た、体で覚えた感覚も助けてるんだけど」 明乃はしなやかに細い指を揺らし、人差し指を樹燐に向けた。 「だからあんたがどれだけ綺麗か、雰囲気と空気で、よく分かる」 樹燐は身構えるように、僅かに顎を引く。見ないで欲しかった。指摘しないで欲しかった。これ以上の自分の荒を。 「女ってのはね、男で変わるんだよ」指を下ろし。「あんたは確かにいい女だけど、足りてないね。あと一つかな」 「……な、なんだと」 「あんた、分かりやすいよ。たぶん、似てるんだね……昔のあたしと」 樹燐の顔が紅潮する。樹燐の中から込み上げてくる衝動を抑えこむように、明乃は隙を与えずに続けた。 「あんたは、今まで本気で人を好きになったことがないんだ」 「……なっ」 「あんたが欲しいと思っているもの、ごめんね、あたしが先に貰っちゃったみたい……それが何か、分かる?」 その問いの答えはすぐに出る。分からない。だからここにいるのだ。そんなことをいちいち聞くな、樹燐はそう心の中で反発しながら、彼女の話に耳を傾ける。 「それはね、本物の、愛ってやつだよ」 樹燐の頭の中が真っ白になった。一瞬倒れてしまいそうなほどの衝撃に襲われた、ような気がした。 「今まで数え切れない男に抱かれてきた。当然その中に、心を奪われてしまいそうなほどのいい男だっていたんだよ。本当にあたしに惚れていた男だっていかもしれない。でも、彼はそれとは違った。奴らはあたしを支配することに快楽を感じ、優越感に浸っていただけ。あたしのことを可愛いお人形さんだとしか思ってくれていなかった。その残酷な事実も、彼が体で教えてくれたんだ」 声は聞こえている。言葉の意味も分かる。ただ、受け入れたくない。否定したい。樹燐の中には抵抗できない葛藤だけに包まれて一歩も動けずにいた。 「そうやって造り物の愛で育てられたあたしは、ただの造り物だった。ほんとは、中身のないただの空っぽの女。なのに、何の権利もないのに人の心を踏み躙って不幸にしてきた。こうして醜くなり、使い物にならなくなった途端に迫害されて、当然なんだよ。この苦しみはあたしに相応しい罰――それを知ることができた。あたしは悪い夢から覚めたように、深い怨恨、苦痛から解放された」 細く息を吐きながら、神に感謝するように、明乃は少しだけ顔を下げた。 決して神である樹燐にそうしているわけではないことは、本人が一番よく分かっている。明乃が解放されたと言う醜い感情にこそ、樹燐は支配されてここへ来ているのだから。 「やり直したいなんて、浅はかな願望だった。そんな必要ない。あの不幸がなければあたしは彼に出会えなかったんだから。そうだ、あたしは、彼と出会うためにここまで来た、ここまで生き延びていなければ彼に出会えなかったんだって、そう思うと、どれだけの苦痛もすべてが有難いものに感じた」 明乃を恐ろしいと思う理由を、樹燐はどこかで分かり始める。だけど、どうしても認められない、受け入れられない。募る困惑の原因は明乃にではなく、自分自身にあることに気づき、嫌な汗を流した。 「……あたしは、彼に変えてもらったんだ」明乃はゆっくりと顔を上げる。「錯覚なんだ、だたの夢なんだって、何度も自分に言い聞かせてた。心も体も、過去も未来も醜く爛れているあたしなんかが、こんなに深く、優しく、そして激しく愛されるなんて、そんなことあり得ないんだ。そんなこと分かっているの。怖くなって、だけど、もしかしてって信じたい気持ちも捨てることができなくて……あたしは何がなんだか分らなくて、頭がおかしくなりそうだった。生まれて初めて、男の腕の中で本気で涙を流したんだ」 明乃は気持ちを吐き出すように語りながら、傷を隠すかのように両手で顔を覆った。 「演技なんてできる余裕はなかった。あんなにいろんなことがあったのに、あたしはその時初めて自分を見たような気がした。ずっとずっと、自分さえも偽ってきていたことを、思い知らされた」 明乃はゆっくり手を下ろして両手を開き、その中にある見えない何かを見つめる。 「何もいらない。裸になって恥も隠さないで、見られたくないところも全部曝け出して、そのすべてを受け入れてくれる人の温度で、汗で、大きな腕で自分を壊されていくのが、このまま死んでしまってもいいと思うほど、気持ちよかった」 明乃の掌に一枚の花びらが落ちた。それを愛しいもののように握り締め、胸に強く当てる。 「あの人の目には、あたしが一人の人間として、あたしという一人の女だけが映っていた。最初は、もう見慣れたはずのこの醜い顔が恥ずかしいと思った。だけど彼が何度も口付けてくれるうちに、あたしは自分がいい女じゃないのかって、たった数時間の間だけど、勘違いしてしまったんだ」 明乃は自嘲を含め、口元を歪めた。 「愛されるって、こういうことなんだって、苦しいほど思い知らされたよ。心で、体で、全身全霊で抱きしめるって、誰にでもできることじゃないんだね。普通ならあたしみたいな汚れた女、誰だって近付きたくもないものでしょう。あたしだって気持ち悪いし、そんなのと知り合いだなんて思われたくもないもの。なのに、それを抵抗なく抱けるなんて、想像できる? ねえ、信じられる?」 自惚れでもいい。勘違いでもいい。一生に一度だけ、誰かに言ってみたかったことを、明乃は口に出す。 「あたし、愛されてたんだ。醜いところも、卑しい心も、汚れた部分もすべてを含めて愛されたんだ。心を奪われることがこれほどまで苦しいなんて知らなかった。だけど嬉しかった。離さないで、永遠に、あたしの心を掴んで、ずっとこのまま離さないでって、強く強く、胸の中でお願いし続けてた。そんなの叶わないって、こんなにいい男があたしのものになるわけがないって分かってるのに、その時間、ずっとこうしていたいって、こうしていられるのかもしれないって、ないに等しい希望を捨てることができなかった」 生まれて、今までの間に経験してきたことのすべてが、音を立てて崩れていくのが分かった。もっと求めた。もっと壊して欲しかった。決して元に戻せないほど、永遠に忘れられないほど粉々になるまで壊して欲しくて、我を忘れて声を上げ続けた。 「……それほどに、幸せだった」 明乃が崩れた瞼で瞬きすると、いつの間にか溜まっていた涙が雫になって落ちる。それは花びらと一緒に風に流された。 「あたしはたった一夜で、一生分の幸せをもらった。初めて、手を合わせて神様に感謝した。もしかしてあの人なら、あたしを立ち直らせてくれるのかもなんて考えた。もしかして、また来てくれるんじゃないかって、夢を見ながら、ここで待ってた……」 明乃は涙で濡れた目を、呆然としている樹燐に向ける。 「だけど、来たのは――」 樹燐はまるで強大な敵に睨み付けられたかのように足が竦んだ。 「――あんただった」 樹燐は今まで呼吸することを忘れていたかのように、大きく息を吸い込んだ。明乃は彼女を脅かすつもりはなかった。ただ、真実を語っているだけ。 「やっぱり現実はそんなに甘くないね」涙を拭いながら微笑み。「でも、これでもうこの世に未練はない。あんたが来てくれてよかったんだと思う」 樹燐の虚ろな瞳が震えていた。もうこれ以上聞いていたくないのに、縛り付けられているかのようにそこから動けず、声も、言葉も出ない。 「あたしね、実は一人で賭けをしてたんだ。簡単な賭けだよ。次にあたしに声をかけてくる人があの人じゃなかったら……もう死のうって、決めてたの」 樹燐は反射的に瞬きをした後、「ウソ」という一言を口にしたが、声にはならなかった。 「病気は進行し続けてる。どうせ、近いうちにあたしは死ぬんだ。顔は今以上に醜く崩れ落ちて、そんで、最後は頭に菌が回って、どこかで野垂れ死ぬ。あの人に出会えたことが一つのきっかけだってことには、すぐには気づかなかった。ここ数日、まるで子供みたいに彼のことばっかり考えてて、せめてもう一回だけ顔が見たい、せめて名前だけでも知りたいなんて思ったりしてた。こんな気持ちは初めてで、どうしたらいいんだろうって、柄にもなく思い悩んだりして……」 ふふっ、と笑う明乃の表情はまるで、ませた少女が大人に見せるそれのようだった。 「でも、あんたの顔見たら、なんかさ、満足したみたい。目から鱗が落ちるって、こういうことなんだろうね。あんたほど綺麗な女、遊郭でも見たことないよ。やっぱりいい男にはいい女がお似合いだね。自分でもびっくりするほど納得したよ」 惨めな自分の最期を知りながらも、明乃は微笑んでいた。皮肉なそれではない。華のように正直で、真っ直ぐな笑顔だった。彼女に偽りはなかった。作りものだけで身を包んだ自分とはまるで正反対だと、樹燐は胸を締め付けられた。 「あたしみたいなゴミが、偉そうなこと言っちゃったね」少しだけ、明乃は声を落とす。「これが妬きもちってやつか。恋心がこんなに面白いなんて、それも知らなかった。女が、夢中になるわけだ」 明乃の言葉には嘘も皮肉も感じられない。だから尚更、樹燐には鈍い刃物で斬り付けられているような、いつまでも跡が消えない傷を受けているような惨い錯覚に陥っていた。 「……潮時だね。あたしはもう消えるよ。どこか、人目につかない死に場所を探しに行く。いくら開き直ってもあたしも女だ。これ以上の醜態を晒すのは、さすがに辛い。もう、限界だよ。お腹一杯だ」 明乃は再び手ぬぐいで顔を隠して樹燐に背を向けた。 小さな声で唄を口ずさみながら、ゆっくりとした足取りで歩を進める。 その背中は遠く、儚く見えた。この壮大な桜並木と一体化しているような幻想を見る。 夜桜とは美しいものだと思っていた。なのに、悲しくて、虚しくて、残酷で、樹燐は暗闇に閉ざされたような気がして怖くて堪らなくなる。 樹燐の中で張り詰めていた細い糸が切れ、込み上げる感情をとめることができなくなった。 「……お前は……卑怯だ!」 言葉と共に、涙が溢れ出した。明乃は足を止めて肩越しに振り向く。 「……死に往く者に、生きた者は敵わない。いなくなった者の思い出に、どうやって私は立ち向かえばいいのだ。このままでは、私は永遠にお前の影に怯え続けていかねばならないではないか……死ぬなんて、そんなの脅しだ。死ぬな、逃げるな。この、卑怯者!」 やっと口を開いたかと思ったら、まるで子供の我侭のようだと、樹燐は自分で思う。 悔しい。悔しい。悔しい。人前でこんな風に泣いたことなどなかった。これからもないと思っていた。 樹燐は完全な敗北を噛み締めていた。今までに身につけてきた自信も、神としての誇りも何もかも、すべてが崩れ去り、これほどの屈辱をどう処理していいのか分らずに、嗚咽を漏らして泣き続けた。 樹燐がここで神の力を使えば、彼女の傷や病気は当然、過去にあった苦しみのすべてを消し去ることも可能だった。自分さえ望むのなら、才戯とこの女の間にあった出来事さえ幻にしてしまうことができる。樹燐はそれほどに万能で、何もかもを思い通りにできる力があった。 だけど、それはしてはいけないことだと、どこかで分っていた。ここは人間の世界、苦悩を戴き己を磨くための世界。だから人間は弱い。だから、強くなろうと必死で足掻いているのだ。その弱さも、強さも、樹燐は持っていない。それが、悔しかった。 もしも、樹燐と明乃を並べて百人の男にどちらがいいかを選ばせたとしたら、ほとんどが樹燐を選ぶだろう。しかし、その中のたった一人だけは明乃を選ぶのだ。 多数の男にちやほやされる自分と、たった一人に大事にされる明乃。その情景を、意味を想像して思う。樹燐が今欲しいのは、たった一人の、たった一つの「愛」。 それこそが女の幸せなのだ。今まで、そんなことにも気づけずにいたなんて。それを他の女に先に奪われてしまったなんて――樹燐は悔しくて、悲しくて、その場に崩れ落ちた。 穏やかで冷たい夜桜の下、二人の女が一つの答えを出した。もうやり直しなどきかないほど勝敗は見えている。終焉を彩る桜の花びらは、他人事のように二人を包み込んで感情を煽っているように見えた。 明乃は涙の止まらない樹燐をしばらく見つめた。そして、彼女がどうして泣いているのかを、容易く見透かした。 「…… 樹燐には親しみのある言葉を、明乃は呟いた。樹燐は我に返って顔を上げる。 「死は命の極みだ。あたしは行き着くところに行き着いただけ。でも、あんたは違う。まだ苦しんでない。まだ本物を知らない。どうせみんな、いつかここへ来るんだ。だから今は、黙って見送っておくれよ」 明乃の笑みは、月の光に照らされて、異常なまでに綺麗に映った。 「大丈夫。あの人はあたしのことなんかすぐに忘れるよ。あの人は自分の矜持を守りたかっただけ。愛されたなんて、脅かすようなこと言って悪かったね。本当は違うんだよ。そんな綺麗なものじゃない。彼はこの醜い顔に、感染病に怯えて逃げたくなかっただけ。大した根性だよ。ま、今頃、後悔してるんだろうけどね」 明乃は口元に手を当てて、何でも知っているかのように乾いた笑い声を上げた。 「あたしには分かるんだ、人の心が。昔と変わったと言っても、幼い頃から身につけたものを忘れることはできないからね。あんたもさ、そんなに彼が大事なら徳操も恥も捨てて、強引にものにしてしまえばいいじゃないか。そうすりゃ見たくないものまで見えてくるけど、それさえも受け入れられたなら、その気持ちは本物ってことだからさ」 「……え、な、何を」 樹燐は顔を真っ赤にして慌てて涙を拭った。改めて、樹燐が想い人とまだ深い関係ではないことを明乃にはっきりと指摘され、素直な羞恥心が込み上げてくる。確かに、樹燐は才戯を殴ったことはあれど、手を握ったことさえない。 情けない。体の関係を持つことがすべてだとは考えていないのだが、惹かれ合っていれば一線を超えるのが自然の成り行きである。たまにしか会えないとは言え、やはり二人の間にはまだ壁があるのが現実であり、それを取り払う手段を知らないことが明乃と自分の違いなのだと思った。 「見栄も我侭も女の特権」明乃は再び背を向けながら。「だけど、十回突っ張ったら一回だけ素直になってみな。それが、手練だよ」 明乃はその言葉をそこに置き去りにするように振り返り、再びゆっくりと歩き出す。彼女はもう留まるつもりはなく、樹燐も呼び止めようとしなかった。 改めて、人間如きに説教されたことを情けなく思う。しかしこれは人種の隔たりを取り払った、女同士の問題。やはり、樹燐は明乃の方が上手であることを認める。 会わなければよかった。会ってよかった。樹燐の中にはその二つが答えだった。悩んでももう終わったことである。会ったことが事実。自分にはない何かを彼女から盗むことが、樹燐にできる復讐だと思った。 ここへはもう二度と来ないと心に決め、真っ赤な大橋と見事な桜並木に背を向けた。 |