16





 才戯が重い足取りで室内に戻ると、りんは薄暗い部屋の片隅で静かに座っていた。
 才戯は暗い表情で彼女へ歩み寄り、ゆっくりと腰を下ろし、黙って彼女を見つめる。
 りんは彼を目で追いながら一言声をかけようとしたが、才戯の瞳の奥に灯る悲しい光を感じ取り、何も言えずに見つめ返していた。
 落ちてきた沈黙が時間を止めているようだった。
 あまり過去を振り返る癖のない才戯だったが、じっとしていると頭の中に、既に懐かしいと思える映像が流れ込んでくる。
 自信満々に高笑いする、煌びやかな樹燐の姿が浮かび上がった。最初の印象は最悪だった。なんだこのバカ女は、と、冷ややかな目でしか見ることができなかった。所詮は「ただの女」。才戯はそう、彼女を見下していた。
 思い出してみると、女だったからこそ、我侭も受けた被害も許せたのだと今なら分かる。どれだけ無闇に追い回されても、「敵」には為りえないのだ。だから決して彼女を憎むことはなかった。
 樹燐が言っていた言葉があった。
『人の想いとは驚くほど強いもので、時に奇跡を起こすことがある。人間界に残った男の気持ちは人の形になり、許されなかった相手へ思いを伝えることができた』
 ――「りん」が、その奇跡。
 上の空で聞いていたはずの話が、ここで現実になっていた。こんなに近くで。
 きっと樹燐自身も、他人事だと思っていたはず。物質的な証拠などない、誰かが言い出しただけの作り話なのだから。しかし、その作り話は今、目の前で形になっている。信じるしかなかった。
 やはり、「りん」は「樹燐」だった、と。
 そう確信した途端、才戯の胸がきつく締め付けられた。
 元々、樹燐とは親しい仲だとは思っていなかった。彼女には何の情もない。派手で騒がしくて、自己中心的で迷惑な女だった。
 名も名乗らぬうちに「私の男になれ」と偉そうに命令する、奇抜な女。
 しかしそれだけではないと、才戯はどこかで感じ取っていた。だからと言って、そんな小さな部分に引かれていたわけではないが、ただ、なぜ樹燐が化粧や香や装飾品、そして心とは裏腹な態度で仮面を被り続けているのか、理解し難かった。
 その疑問は、解消された。
 今目の前にいる「りん」という女性。力のない、怯えた瞳。言いたいことを素直に言葉に出せない控えめな唇。いつも人の顔色を伺って、伏し目がちで肩を縮めている小さな体。
 これが、仮面を外した樹燐。見栄と虚勢、我侭と贅沢のすべてを捨て去った、本当の姿。
 美しい。が、なんて悲しい。
 何もかもを失い、裸になってまで、彼女がここに来た理由は一体なんなのだろう。
「……りん」
 才戯は呟きながら、ふっとこんなことを考えた。もしも彼女が落ちてきたときに、初めから「樹燐」と呼んでいたら、今ここに「りん」はいたのだろうか。
 もう一度、試すように呼びかける。
「……樹燐」
 その名は、りんの耳に届いた。
 りんは返事をせず、眠るように瞼を落とす。

 それは、まるで清水のように緩やかだった。

 りんの背筋が伸びる。顎を引き、脇に僅かな隙間を作り、膝の上に揃えられていた指先が、すっと伸びた。
 才戯は自分の目を疑うかのように、何度も瞬きをする。
 そんな彼の目の前で、りんは変身していく。
 少し俯き加減のまま、唇をきゅっと合わせて、口角を上げる。
 肩を落とし、横に張り――化粧も飾りもないのに、りんは別人のように変化していった。意識一つでここまで変わってしまうものなのかと、才戯は女の恐ろしさを目の当たりにする。
 ゆっくりと、りんの瞼が持ち上がる。上目遣いの瞳は凛々しく、深く、人の心を見透かしているようで、相手の胸に突き刺さってくる。
 長く感じた数秒の間に、彼女は高貴な女性へと変わり果てていた。
 間違いない。そこに現れたのは雲の上で光を放つ女神、樹燐である。
 彼女の輝きは、決して飾りではなかった。紅一つ差さないその姿でも、人を圧倒するほどの存在感と貫禄が溢れ出している。
「……才戯」
 しかし、彼女の声は昔よりも弱々しいものだった。
「情けない姿を、見せてしまったな」
 口元には自嘲の笑みが浮かんでいた。
「憂うことは何もない。私のしていたことは、ただの偽善だったのだから」
 ――この期に及んで、まだ虚勢を張るつもりなのか。才戯は僅かな苛立ちを抱きながら、彼女の言葉に耳を傾けた。
「本当に守るべきではないものを守り、その末に、守りたかったものに命を奪われた……それが私の最期。よくできた話ではないか。何も後悔することはない」
 納得のいかない彼女の言い草に腕が震え、才戯は拳を握る。
「……かっこつけるんじゃねえよ」僅かに、声が震えていた。「本当は悔しいんだろ? ガキに刺されるなんて、結局お前はナメられてただけじゃねえか」
「そうだな……いや」樹燐は目を逸らし。「そうではない。これは報いだ。私がしていたことは差別だったのだから」
「差別?」
「弱き者に我が力をひけらかし、見下していたのだ」
「……意味分かんねえよ。じゃあ目の前で弱者が甚振られているのを見逃すのが、お前らの言う正義だってのか?」
「違う。力の存在する次元では、差別は避けられない必要悪。力を持つと同時に伴う浅はかな欲求なのだ。逆も然り。差別をするために人は力を欲する。本来魂とは孤独な存在。守り守られることは成り立たぬ」
 人が守るべきは真理。
 物質を守ることは執着と独占。そして、己の価値の誇示のため。
「苦しみ、悲しみがある限り、悪意がなくても罪になることがある。差別や排除の行為とは致しかたないことであり、真に裁くべきはその背景なのだ。私はそのことも分からずに、目の前にあるものだけに捕らわれてしまっていた。その報いが、愛しい者の裏切り。私はこの変わり行く世界の中で、無意識に傷つけ合う愚かな魂の一つでしかなかったことを思い知った」
 ――そんなことはどうでもいいと、才戯は俯き語る樹燐を見つめて、思う。
「私は私にできることのすべてを果たし、『死』に至った。魂のすべてに共通することゆえ、怖くはなかった。体が冷えていく中で、ああ、これで終わった、と、そう思ったら、心が解放された」
 樹燐は瞳だけを動かして才戯と目を合わせ、穏やかな笑顔を浮かべた。
「……だが、事切れる寸前、お前の顔を思い出してしまったのだ。今思えば、私の真実はお前への想いだけで、他のことは、すべてが偽物だった。会いたいと、会ってどうなるわけでもないのに、強く願ってしまった。きっと、最後に自分を、自分がこの世に存在したことを確かめたかったのだと思う。しかし、そのせいでお前を苦しめてしまったようだな」
 死に際の言葉は、決して嘘ではない。やはり、才戯への思いは、最初で最後の本物だったのだと、樹燐は自身で再確認をした瞬間だった。
「すべてを失った、何の価値もないこの私を、もう受け入れてもらおうなどとは思っておらん。ただ……」
 才戯はじっと彼女を見つめていた。その消え入りそうな儚い姿に拘束されてしまったかのように。
「……ただ、一つだけ、お前に言いたいことがあった。聞いてくれるか?」
 握った拳に、血が滲みそうなほど力が篭った。動揺、困惑という感情に逆らいながら、彼女の問いに答える。
「……断る」
 意外だった言葉に、樹燐は瞳を揺らす。
 才戯は、すべてを曝け出している彼女に釣られるように、己も恥を捨てる決意をする。
「……それを、俺が聞いたら、お前は満足してしまうんだろう?」
 ここで気取って、迷いを隠し通してしまったら後悔する。
「お前は未練を断ち切って、消えてしまうつもりなんだろう? だったら、聞かない。聞きたくない。絶対に、言うんじゃない」
 樹燐は複雑な表情を浮かべる。
「お前なんかどうなってもいい。だけど、この女は、『りん』だけは置いていけ」
 嬉しかった。同時、悲しくもあった。
 眉尻を下げて、ふっと笑いを零す。
「……やはり、お前はまだ、いま一つだな」
 片手を持ち上げて才戯の頬に触れる。
 樹燐の白い指先には体温があった。生きている。目の前にいる彼女は死人ではなく、生きた人間。
 なのに、なぜこんなにも弱々しく、今にも消えてしまいそうなのだろう。
「こんな人形に心を奪われたか。お前らしくないな。いや、私の目が濁っていただけなのか――女一人、安らかに成仏させてくれぬような器の小さい男に惚れていたとは……」
 言葉は冷たかったが、深い慈しみが指から伝わってくる。
 どうして素直に、どんな形でもいいと、傍にいたいと言えないのだろう。
「情けないのはお互い様だろ」才戯は眉を寄せながら、必死で口の端を上げる。「てめえは俺に惚れただの言いながら、何ひとついい思いさせてねえじゃねえか。女なんて男の世話するしか価値のない生き物のくせに、てめえは俺に迷惑しかかけてない。それで、楽になんかしてもらえると思ってんのか。なんでもかんでも思い通りになると思ったら大間違いなんだよ」
 溢れ出す感情を止めることができず、雫が一つ、頬を伝う。
 悲しいからではない。悔しいからでもない。
 いつまでも強がる孤独な女性が小賢しくて、哀れで、同情せずにはいられなかったのだ。
 樹燐には才戯の言葉も、気持ちも、涙の意味もすべてが分かった。
 樹燐はその温かいものを優しく、そっと拭う。
 初めて誰かに必要とされた、そんな気がした。
「……分かった」
 死んだはずの自分の胸が、焼けるほど熱くなっていることを、心から幸せに感じていた。
 ――もう、これ以上は耐えられない。
「この人形は、お前にくれてやる」
 ――これ以上彼の顔を見、声を聞き、傍にいたら、未練に打ち勝つことができなくなってしまう。
「今生は、私の幻を守り続けるがいい。そして私のすべてを、よろこぶことも嫌がることも知って、来世で必ず、本当の私に会いに来い」
 樹燐は手を下ろし、再び姿勢を正した。
「そのときに……私の言いたかったことを、伝えてやろう。それまでは、互いに未練を抱いて、苦しみながらこの世を彷徨うのだ。それで、いいな?」
 それが、死者である樹燐の出した答えだった。
 もしも、才戯が断ったらと思うと、胸が張り裂けそうになる。本当は、無理やりにでも引き止めて欲しい。この世の秩序に逆らっても、目の前にいる彼の胸に飛び込みたかった。だけどそれは、無駄な抵抗。
 樹燐が神であり、才戯が妖怪であり、人である時点で共に歩むことは不可能だったのだ。出会ったことが無意味だとは、口が裂けても言わないが、できれば違う形で出会いたかったと、運命というものを心底疎んじていた。
「悪いが」才戯は、笑った。「そんな難しいこと、俺には分からない。俺はただ生きてるだけだ。そこにいたら、『りん』が落ちてきた。いい女だと思って拾った。勿体ないから、このまま俺のものにしてしまいたいだけなんだ。前世だの来世だの、罪だの罰だの、知ったことじゃねえんだよ」
 そう、まったく、その通りだと樹燐は思う。それに、とても彼らしい言葉だ。
 前世の記憶などあってはいけないものなのだ。思い出などという美しいものではなく、新しい命を形作るための材料に過ぎず、巡る人生の足枷あしかせにしかならないもの。
「大体、てめえは卑怯なんだよ。死んだんだろ? だったら黙ってろよ。こんなやり方で言い残したことを伝えようなんて、虫が良すぎるんじゃねえのか」
 意識的か無意識なのか、怒らせようとしているつもりなのだろうか。しかし今の樹燐には彼の言葉も声も、一つ一つが尊くて仕方がない。そして、生きている彼が羨ましかった。
 いつの間にこんなに好きになってしまっていたのか、自分でも知らなかった。
 別れの時間が近付いてきていた。才戯の言うとおり、彼女がここにいることは本来なら許されないことなのだから。
 どうして樹燐がここに落ちてきたのか、きっと誰にも分からない。理由は分からないが、見えぬ何かに対する心からの感謝の気持ちが満ち溢れていく。
 伝えたかったことは伝えられないが、「樹燐」としての人生は十分満足できた。
 生まれてよかった。彼に会えてよかった。
 これから「りん」としての人生を送り、生まれ変わればまたきっと、彼に会えるはず。
 今度こそ、幸せになれる。
「……お別れだ」
 彼の悪口あっこうに言い返すこともせずに樹燐が呟くと、才戯は目を見開いた。
「忘れるでないぞ。私の魂は現世に留まっている。私の気に食わぬことがあれば、この『りん』はいつでも遠くへ連れていけるのだからな。私の気分を損ねぬよう、せいぜい苦労するがいい」
 眠りに落ちるように、樹燐の瞼が揺れた。
「……待て」
 意識が遠のき、体から力が抜けていく彼女の肩を、才戯は慌てて掴む。しかし、そのときには既に樹燐に声は届かない状態になっていた。
 樹燐は才戯の腕にもたれかかるように、体を倒した。
 そこに残した表情は、満ち足りたような安らかなものだった。
 樹燐は死んだ。
 たった一つ、伝えたかった言葉だけを、呪いの呪文の如く胸に閉じ込めて。その言葉を伝えられる日が来るのか、来ても、いつのことかは誰も知らない。



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