17





 りんはしばらくの間、深い眠りに陥っていた。
 彼女が目を覚ましたのは次の日の朝であり、その間、才戯はこのまま目を開けないのではないかという不安を抱いていた。
 夜に、りんの様子を伺っていたとき、暗簾がまた顔を出すかもしれないとふと考えた。彼に本当のことを話そうかどうか、悩んだ。暗簾に世話になっていることは認めているが、彼が知るべきことなのか、才戯にははっきりと分からなかったのだ。
 それに、りんが起きて、これからの大事な話をしなければいけない。
 誰かに答えを出して欲しかった。だが、その誰かが過去と未来までを見通し、確実な答えを知っているわけではない。人に意見を聞いて決めるのは抵抗がある。一人で賢明な答えを出せる自信はなかったが、気持ちが落ち着くまでは誰かを頼るのは違うと感じていたのだった。
 だから暗簾には、鬼火を使って「今日は来るな」と伝えた。
 何かあったのかと心配した返事が返ってきたが、後で説明するから、今は一人にして欲しいと、才戯は助けを拒絶した。
 勘のいい暗簾のことだから、きっとりんの正体が分かったことは気づいていると思う。彼も気が気ではないだろう。申し訳ない気持ちは否定できなかったが、他に集中しなければいけない。暗簾なら、そこまでを理解してくれるだろうと信じた。

 目を覚ましたりんは、特に今までと変化はなかった。樹燐が降りてきて気を失っていた間のことは何も覚えておらず、いつの間に眠ってしまっていたのかも分かっていなかった。気分が悪いこともないようで、これで一つの心配は消えた。
 りんが体を起こし、湯浴みや食事を済ませて落ち着くまで待ち、才戯は改まって彼女に向き合った。
 今日も冷たく澄んだ空気が庭から流れ込んでおり、日差しも明るい。雑多ながら生命力に溢れた庭の草木を背景に、二人は話し始めた。
「……昨日、庭で声がしたと言っただろう」
 才戯はずっと悩んでいたが、これという答えは出せていなかった。りんにすべて本当のことを話すわけにはいかない。今の自分と同じように、いらぬ過去を植えつけるだけなのだから。
「あのとき、人が来てたんだよ」
 そこまでは、りんは驚かなかった。これでいいのかどうか迷いはあったが、才戯は続ける。
「お前を知る者だ」
「……え」
 途端、りんは息を飲んだ。その一言でいろんな思いが駆け巡ったのだ。
 自分の身元が分かる。それだけでりんの生活のすべてに変化が起こる。嫌な事実ではないことを祈りながら、彼の話の続きを待った。
「えーと、あのな」言いにくそうに、目を逸らしながら。「お前は事故に遭って……」
 才戯は、ウソをつくことにしたのだった。彼女のためを思って。
「お前の家族は、死んだらしい。お前は、運よく生き残って、傷を負って……」
 りんは俯いて、自分の胸にあった謎の傷に手を当てた。
 今までにりんは傷の話は一切しなかった。あれだけ大きな傷を、本人が気づいていないはずがない。きっと、見せにくい場所にあったために言い出さなかったのだろう。それに、一度裸を見られている。何も知らないという才戯にわざわざ聞くこともないだろうとお互いに口に出すことはなかった。
「たぶん、その衝撃で記憶をなくしたんだと思う」
 才戯は、自分では当たり障りのないウソであると思っていた。りんは困惑して顔を両手で覆った。泣いてはいないようだが、必死で気を強く持とうと努力している様子が見えた。
「……だから、お前の家族はもう誰もいなくて、引き取り手はない、ということらしい」
 それは事実である。元々りんはこの世界の住人ではないのだから。
 後は、りんがどうしたいかを決めてもらうしかないと才戯は思う。考えがまとまらない彼女の様子を伺いながら、りんから言葉を発するのを待った。
 何度も目を泳がせながら、りんは呼吸を深くして顔を上げた。
「……昨日いらしていた方は、一体、どなたなのでしょう」
 そのことを考えていなかった才戯は、一度首を傾げて、適当に繕った。
「お前の、遠い親戚だって言ってた」
 言われてみれば、どこでりんのことを知ったのか、どうして縁があるのに引き取ってくれないのかなど、疑問に思われてもおかしくないことに気づいて、やはり一人で考えるべきではなかったかもしれないと後悔し始める。
 しかし今の時代、何者かに襲われて行方不明になった遠い親族を見捨てる者がいても責められるものではなかった。親戚と言っても、血の繋がりがあると決まっているわけではないのだ。
 逆に、健康な体の若い女性であるりんなら、偽装しても引き取りたがる者がいてもおかしくないのだが、幸いりん自身はそんなことを考える性格ではない。細かいことは聞いていない、知らないで突き通せるし、そうするしかなかった。
「……あなたのお話を聞いても、私は何も思い出すことができません」
 りんは才戯の予想してなかった反応を見せた。
「私を向かえにきてくださる人は、いない、ということなのですね」上げたりんの顔色は悪かった。「ならば、そのような不幸な記憶など、ないほうがいいのかもしれません」
 彼女の言っていることは正しかった。だが、やはり簡単には気持ちの整理ができないらしい。それも理解できる。覚えていないとは言え、家族も記憶も失くし、誰も引き取ってくれない。あまりにも孤独で、なんと寂しいことか――りんは完全に一人になってしまったようで、心細さが今まで以上に押し寄せていたのだった。
 才戯はそんな彼女に同情はしていなかった。真実だろうがウソだろうが、結局彼女に行くところがないのが現実なのだから。なんにせよ、りんが拒否しない限りは自分が引き取るしかないのだ。その決意は、たぶん固まっている、つもりだった。
「……私は、どこへ行けばいいのでしょうか」
 才戯は小さなため息をついた。自分から言うしかないのだろうか。できればりんからここに置いて欲しいと言ってくれたほうが楽だった。そんなことを考えながら、彼女の問いに答える。
「ここに、今までどおり、居ればいいんじゃねえの」
 りんは一瞬、意味が分からないかのように息を止めて才戯を見つめた。
「……今、なんと?」
 二度も言わせるなと、才戯は口を閉ざした。
「今、ここに居てもいいと……」
 もう一度聞いてくるが、やはり才戯は何も言わない。りんは彼の心中を察し、更に困惑した。
「……あの、それは、ずっとここに居ていいということでしょうか」
「……しつこいな」
 やっと返事をしてくれた才戯に、りんは更に質問を続ける。
「才戯様が、ずっと傍にいてくださると、そういうことでしょうか」
 そう念を押して聞かれると恥ずかしくなってくる。これ以上は話していたくなくなったが、そういうわけにはいかない。
「他に行くとこないんなら、居ればいいって言ってんだよ」
「そ、それは、その、今までのように居候として……」
 彼女が一体何を言いたいのか、だんだん分からなくなってくる。
「それとも、私を家族として……受け入れてくださる、と」
(……ああ、そういうことか)
 と冷静に思ったが、次の瞬間に才戯の顔が少し赤くなった。どうやら、やはりりんは馬鹿ではないようだ。なんとなく流れに任せていられるわけではないと、今更ながら焦りが生じた。
「なんだよ、そんな細かいことは後でいいだろ。とにかく、今はお前がこれからどうしていくのかを決めりゃいいじゃないか」
 りんがここに居るのか居ないのか、それさえはっきりさせればこれからの目処が立つのだ。今はそれで十分だと、才戯は考えていた。
 そして、どこかでりんが素直に「はい」と言うものだと思い込んでいた。
 彼女が人形であるかどうか以前に、人としての感情や意志があることを忘れてしまっていることには、まだ気づかない。
 りんは両手を頬にあてたまま俯き、しばらく黙った。その表情は複雑で、決して前向きな感情だけではないように見えた。
 急に才戯は不安になった。まさか、りんがここに居たくないと言う可能性も、僅かなりとあることを予想していなかったのだ。そのまさかが、突然発生してしまっているのではと、汗を流した。
 りんが黙っていた時間はそんなに長くはなかったのだが、とてつもなく重いものだった。その間、才戯の心拍は早まり続けていた。
 ふっと、りんは唇を噛んだ。そして両手をついて頭を下げる。
「こんなこと、私が言っていいことではないと存じ上げているのですが……」
 今度はなんだろうと、才戯は警戒した。りんの指先が震えている。
「厚かましいことを承知で言わせてください……私は、才戯様をお慕いしております」
 なぜか、嬉しくなかった。なぜかは分からない。その理由は、彼女の口から伝えられた。
「だから、これからもあなたの傍にいられることは、大変光栄で喜ばしいことなのです……でも」
 りんは必死で言葉を選んでいた。
「もしかすると、私が密かに夢見ていたことが現実となるのかもしれません。こんなに幸せなことは、きっと他にないことだと思います。でも、でも……」
 その「でも」の続きが気になる。はっきり言えと口をついて出そうになった寸前、りんは顔を上げた。
「……どうしても、あなたが仰っていた『私に似た誰か』の存在が、忘れられないのです」
 ――才戯は、一瞬にしてりんの中にある不安を感じ取った。再び、違う汗が流れ出す。
「もしかすると、昨日いらしていた方があなたにお伝えしたことは……私の家族ではなく、『私に似た誰か』が亡くなったのだと仰ったのではありませんでしょうか」
 りんの顔色は更に悪くなっていた。不安と絶望、己の言葉ですべてを失ってしまうかもしれないという恐怖に捕らわれ、しかし真実を知りたくて、その葛藤が彼女を苦しめていたのだ。
「あなたが私を見ていて下さっていたことは、どこかで意識しておりました。きっと自惚れだと打ち消していましたが、とても幸せでどうしても否定することができず、このままでいられるなら記憶がなくてもいいと思うこともありました。だけど、その目線は私ではなく、『私に似た誰か』に向けられているのではと感じてしまって……そんなことを考えるたびに辛くなり、同時に嫉妬に駆られ、これほどに欲深い自分が嫌になっていました」
 暗簾が言っていた「女の観察眼」、「女の勘」とはこのことか。才戯は胸を締め付けられながら、そんな悠長なことを思ってしまう。
「まさかこうして才戯様からお申し出くださるなんて考えてもいませんでした。本当に、信じられないほど幸福なことなんです。でも、でも……もしも、才戯様が私を『私に似た誰か』の代わりとしてしか見てくださっていないとしたら……私は、自分が一体どこに居るのか、分からなくなってしまうのです」
 りんがここまで自分たちのことを考えていたなんて、才戯はまったく気づいていなかった。そんな自分が情けなくなった。
 思い起こせば、彼女を記憶のない、何でも言いなりの女だと思っていたような気がする。「女にとって恋愛は人生の大半を占める重要な行事」と暗簾が言っていた。その言葉どおり、りんは才戯を深く慕い、だからこそ彼に真っ直ぐに見つめて欲しく、迷いを隠したまま着いていくことができずにいたのだった。
 迂闊だった。もう少し二人の間にある気持ちに注意を払っていれば、違うウソをついていたのに。せめて、りんは「りんに似た誰か」本人であり、その家族が死んだのだとでも言っておけばもっと楽な展開になっていたのかもしれない。
 だがもう遅い。今から訂正でもすれば余計に疑われるだけである。
 どう言えば彼女は納得してくれるのだろう。今の才戯では到底いい案は浮かびそうになかった。
 樹燐とりんが同一人物である事実を意識しすぎたゆえに、いらぬ誤解を与えることになってしまったようだ。りんに樹燐を映していたのは確かである。当然だった。同じ人物なのだから。
 しかしその理由を知らないりんは、他の女の代わりにされているようで、素直に受け入れられず苦しんでいるのだった。そう思わせたのは才戯であり、その気持ちは分かる。自分でなくても、誰だって辛いに決まっている。
 そもそも、自分は一体樹燐を、りんをどう思っているのだろう。同情だけでなく、恋愛感情というものがあるのだろうか。才戯はそのことさえ分からない。りんがはっきり聞きたいのは、そこなのだろう。
 少し考えてみたが、まったく分からなかった。才戯は今までに一度もそういう感情を抱いたことがなかったからだ。だからりん、もしくは樹燐に対する思いがそれに当たるものなのか判断できなかった。
 才戯の頭の中がぼんやりし始めていた。そんな場合ではないのだが、ここ数日慣れないことを続けていた上に、完全に行き詰ってすっかり疲れ果ててしまっていた。
 ああ、もう、面倒臭い。いっそのこと無理やりにでも言うことを聞かせるか。それとも、気に入らないなら出ていけと見捨ててしまうか。
 そうする権利が、才戯にはある。今までの彼だったらそうしていたかもしれない。しかし、今の彼は違う。そのどっちでもない行動に出た。
「少し、考えさせてくれ」
 そう言い残して、屋敷を出ていったのだった。
 何も考えはなかった。りんに腹を立てているわけでも、二度と戻ってこないつもりでもない。ただ、これ以上その場にいたくなかった。
 もっと大事なことがあるはずだと、頭を冷やして考え直したかった。



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