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「ごめんなさい、ごめんなさい……」
 茉は錆介に髪を掴まれて、引きずられるようにして連行されていた。父親に張られた頬は真っ赤に腫れ、痛みと恐怖で涙を流していた。
 神妙な顔をした錆介の背後には、十数名の手下が黙々と彼の後を着いてきている。彼らも緊張の糸を張り巡らせていた。
 数日前に茉から「赤坐を見つけた」という話を聞いていた錆介は、「いい加減にしろ」と諌めながら、不貞腐れて聞く耳を持たない様子の彼女に不信感を抱いていた。影でこそこそと動いていることも気づいてはいたのだが、まさかここまで非道な計画を立てていたとまでは考えられず、頭に血が上ってしまっていた。
 盗賊の世界にも掟はある。錆介の記憶と印象では、赤坐は律儀で誠実な男だった。茉の憎しみはただの逆恨みでしかないことは誰にでも分かる。もしもそんなことで、彼に立ち直れないほどの残酷な罠をかけて、既に取り返しのつかないことになってしまっていたら……そう思うと、錆介は居ても立ってもいられなくなるほどの焦慮に駆られていた。
 茉はもういい年の娘である。我侭に育ったことも、自分が甘やかしたせいなのも分かっていた。しかし、やっていいことと悪いことの区別くらいつくものだと思いたかった。
 しかも茉が利用した男は自分の手下である。つまり、すべての責務は自分が背負わなければいけない。
 既に手遅れになっていた場合は、赤坐の気の済むようにさせる覚悟があった。自分の手で茉と、関わった手下を殺せと言われれば受け入れるし、それでも足りないなら、自分の首を差し出すことも厭わないつもりだった。
 できることなら、赤坐たちが無事でいてくれることを祈り、茉を引きずって彼を探した。

 錆介は、不自然に開けた森の一部に足を踏み入れた。そこで何が起こったのか、すぐには理解できない。
 木々や岩、そして地面までもが、まるで嵐にでも襲われたかのようにひっくり返っていた。その中心にある一本の大木だけは無傷で、周辺にはまだ新しい血肉が飛び散っている。
 血肉は原型を留めていないが、あちこちに転がった腕や足から、元は人間だったと分かる。錆介に汗が流れ出し、その光景に震え上がった茉が高い悲鳴を上げた。
「……な、なんなの、これ!」
 大木の下に縮こまっているりんと、その傍で錆介たちに注目している才戯と暗簾がいた。
 茉は涙で濡れた目を見開いて才戯とりんを見つめた。彼女が無事だということは、ここに散乱している血肉は、まさか――途端に、屋敷で才戯に起きたあの現象を思い出す。
「……と、父様!」茉は混乱してしまっていた。「化け物よ! 赤坐は化け物なの。あの人は……っ」
「黙れ!」
 錆介は再度茉の頬を打つ。茉は地面に倒れ、声を上げて泣き出した。
 じっと錆介を睨み付けていた才戯に、暗簾が小声で尋ねる。
「誰?」
「……赤坐の知り合いだ」
「ふうん。赤坐って汰貴の知らないところでコソコソ何かやってたもんな。俺は知らないや」
「暗簾」才戯は錆介から目を離さずに小声で続ける。「お前は何も言うな。何もするな。余計にややこしくなる」
「……了解」
 錆介がどう出るかはまだ分からないが、暗簾がここで変に麻倉の名前や顔を知られるのは、確かに面倒だと思う。後は才戯に任せることにする。
 才戯は立ち上がり、錆介に向き合った。まだ手足は痺れ、立ち眩みを起こしたが、それを隠して真っ直ぐに立つ。
 先に再会の言葉を発したのは、錆介だった。
「久し振りだな。まさかこんな形で会うなんて……残念だ」
「それはこっちの台詞だ」才戯はできるだけ早くことを済ませたかった。「見ての通り俺も女も無事だ。用がないならもう終わりにしようぜ」
「具合が悪そうだが」
「当たり前だろ。あんたの娘に毒を喰らったんだ」
「それは、悪かったな」
「じゃあ、帰っていいか?」
 錆介はその問いには答えず、辺りの血肉を見回した。
「……これは、お前がやったのか?」
 どうやらこのまま帰してはもらえないようだ。そうだとは思っていた。仕方なさそうに、才戯ははっきりと言った。
「そうだ」
 錆介は瞼を落とす。正直で不器用なところは変わっていないなと、まるで長い間離れていた息子を思うように、彼を見据えた。
「これは、俺の手下だな。あまり好きな奴らじゃなかったが、面倒を見ていたことは確かだ……」
 錆介の言いたいことは、分かっていた。錆介は言いたくなさそうな口調で、俯き気味に続ける。
「茉の犯したことは、謝って許されることではない。親である俺の責任でもある。だから俺にできるすべてを持って詫びを入れたい。しかし……まさかこんなことになっているとは、考えていなかった」
 茉は錆介の足元で嗚咽を漏らしている。才戯はいい気味だとも、なんとも思わない。彼としては、りんが無事だっただけでこれ以上関わりたくなかった。
 だが、錆介は盗賊頭として黙って立ち去ることができない。建前ではあるが、こんな名もない「一般人」に手下を五人も惨殺されて、なんの落とし前もつけずに見過ごしてしまえば、能力と信頼に傷がついてしまうのだ。悪いのは茉である。だが、この惨状は正当防衛とは言い難い。
 残念ながら、才戯を「敵」と見做すしかなかった。
「……お前が殺したのは、俺の手下だ。このまま何もなかったことには、できない」
 才戯はため息をついた。
「そうだな」
 錆介と茉が同時に顔を上げる。
「あんたが何を考えてるのかは、なんとなく分かる。さっさとけじめつけて終わらせようぜ」
 言いながら、武器を拾おうと振り向く。が、すぐ足元にあったはずの牙落刀が見当たらなかった。
「あれ?」首を傾げて。「牙落刀は?」
「さあ」と暗簾。「さっきまであったような気がしたけど」
 盗まれたということはない。どうやら消えてしまったようだ。しかし、勝手に現れて勝手に消えるなど、今までになかったことで才戯にはわけが分からない。
「まあ、ないもんは仕方ないか」錆介に向き直り。「おい、俺、丸腰なんだ。何か貸してくれないか。素手でいいならそれでも構わないけど」
 返事をしない錆介に才戯は首を傾げた。
「なんだよ。俺と決着つけたいんだろ?」
 錆介は目尻を揺らす。
 才戯の言うとおりだった。仕掛けたのはこちらでも、見事に返り討ちにされてしまったのだ。結果がどう出たとしても、彼と真剣勝負をすれば役目は果たすことができる。
 それだけではなかった。むしろ、錆介はいつか赤坐と一戦を交えたかったのかもしれない。もう二度と会うこともないと思っていた相手が目の前にいて、戦う理由がある。命を懸けるべき場所だと、男としての好奇心が膨らんでいく。
 錆介は不適な笑いを浮かべた。
「……と、父様?」
 空気が変わったことに茉は気づいて、息を飲んだ。錆介は一番近くにいた男に、才戯に武器を渡すように指示を出す。男は頷いて、自分の腰の刀を鞘ごと才戯に投げ渡す。才戯は受け取り、刀を抜いて握り具合や刃の鋭さを確認した。目の前で十字を切りながら、うん、と呟く。
「いいな、これ。借りる」
 そう気合を入れるが、毒で動きが鈍っていることは見て取れた。
「……日を改めてもいいんだぞ」
「ああ……」才戯は痺れる手を、水でも払うかのように何度か振り。「いい。これくらいで五分五分だろ。あんまり楽勝だと、後味が悪いからな」
 錆介の背後にいた手下たちがざわついた。頭を侮辱されたことへの怒りと、錆介の腕を知らずに大口を叩く若造を愚かだと思ったのだ。
 しかし錆介は表情を変えない。そんな彼の足元に、茉が縋り付いてきた。
「父様……彼は、赤坐は人間じゃないわ。一対一なんて、やめてください。ここにいるみんなで、完全に殺さないと……」
 未だ卑怯なことを言い続ける茉を、錆介は無情に突き放した。茉は手下に肩を掴まれて引きずられ、引き離された。
「……父様、やめて。父様にもしものことがあったら、私はどうすればいいの」
 茉の泣き言を耳にし、錆介は独り言のように呟いた。
「もしも俺が死んだら」
 茉は涙で濡れた顔を上げる。
「骨は故郷に返してくれ」
 手下の一人が「はい」と返事を返した。周囲は、重苦しい空気に包まれていった。
 そのやり取りを聞いて、暗簾が軽い口調で才戯に尋ねる。
「じゃあ、お前が死んだらどうする?」
「は? 俺が死ぬわけないだろ」
「死んだらの話だよ。死体なんかどうでもいいけど、りんはどうする」
 才戯は少し考え、りんに目線を移す。彼女は縮こまったまま、じっと才戯を見つめていた。その目は捨てられた猫のように不安に染まっている。
「俺が死んだら――」才戯は舌打ちをしながら、暗簾に。「お前がりんを殺せ」
 暗簾はため息を漏らして、肩を竦めた。才戯はヤケクソのように続ける。
「今更他の男に渡してたまるかよ。この俺がどれだけ我慢してきたと思ってんだ。冗談じゃない。ああ、想像するだけで腹が立つ」
 こんな時くらい、ウソでもかっこいいことを言えばいいのに、と、暗簾は呆れる。りんは彼の言葉をどう受け取ったのだろうと見ると、彼女は両手で顔を覆って小刻みに震えていた。どうやら、満足できる答えだったらしい。暗簾は更に呆れ、「はいはい」と言い捨てた。
 準備は整った。才戯と錆介は向かい合い、呼吸を整える。
 どうしても戦って欲しくない茉は飛び出そうとしたが、手下の一人に肩を強く掴まれて身動きが取れなかった。
 りんは祈るように両手を組み、じっと見守っている。万が一才戯が死んだとしても、自分も一緒に連れていってもらえるのだ。それが分かったことで、今までほどの恐怖はなくなっていた。
 落ちてきた沈黙に圧され、茉も言葉を失った。
 才戯は邪念を払いながら刀を両手で持ち、錆介は上体をぐっと低くし、型破りな構えを見せる。
 才戯は彼から発せられる重い殺気を全身で受けながら、隙を探す。だが、そんなものはどこにも見当たらなかった。
(……そういえば、俺、まともな剣豪と戦ったことなかったな)
 人間界に来てからは人付き合いもほとんどなかった。たまに町人や侍と喧嘩になることはあったが、所詮は喧嘩だった。妖怪の頃は暗簾や虚空のような妙な技を使うものばかりしかいないために、真剣勝負というものは経験がなかったことを思い出した。
 やはり体調を整えてからにすべきだったかもと、少し後悔しそうになる。
(でも、迫力は負けるが、昔を含めれば戦ってきた量も質も、俺の方が上のはず。大丈夫だろう)
 そう気を散らしていた才戯は錆介に間合いを詰められてしまう。
 突風のように弧を描いた切っ先を、才戯は不器用に一歩下がり、かろうじて躱した。
(なんだよ……熊みたいなオヤジのくせに、やけに速く動くじゃねえか)
 不定期に目眩に襲われる彼には、厄介だとしか思えなかった。
(今のをまともに喰らってたら、内臓流れ出てたな)
 昔戦地で何度か見かけたドロドロの死体を思い出し、背筋が凍った。
 錆介は逆に躱されたことに少しの戸惑いを感じていた。同時、あの状態でよく見抜いたものだと感心していた。
 互いの動きは見た。惜しむのも程ほどに、そろそろ首を捕りにいかねばならない。
 風を透くような鋭い音が、そこに居た者のすべての耳に届いた。二人は同じ呼吸で刃を交差させていた。大きな体の錆介が上から押すような形になっている。二人の肩と腕が震えており、腕力は才戯も引けを取っていない。しかし、毒の後遺症で少しでも集中力が切れてしまえば刀ごと切り裂かれるだろう。力比べは避けなければ。才戯は刀と体を同時に左に引き、回転しながら錆介と立ち位置を入れ替わった。
 才戯は一旦距離を置きたかったが、錆介はそれを許さなかった。すぐに刀を振り上げて交戦してくる。ふらついている間もなく、才戯は受けて躱していくが、錆介の優勢であることは素人の目でも明らかだった。
 才戯の腕に、思うように力が入らなかった。ヘタすれば刀を滑り落としてしまいそうなほど自由が利かない。グズグズしていたらあっという間に胴体が切り離されてしまう。
 毒は残っていないはずだが、それによって鈍らされた神経がすぐには戻れずにいたのだ。しかも、こうして無理に暴れることで余計に体に負担がかかってしまっている。
 息も上がり始めた。腕を振るたびに視界がぶれる。このまま倒れてしまえたら、すぐに楽になれる――。

 朦朧とする意識の中に、ある映像が甦った。
 広い荒野に立っていた。強くも弱くもない荒い風が、吹き抜けていく。
 目の前にいるのは、髪を振り乱し、薄汚れた風貌の凪丸だった。
 これは、赤坐の少年時代の記憶だ。どうして今、こんなものを思い出しているのか才戯には分からなかった。もしかして、これが死ぬ前に見る「走馬灯のように駆け巡る思い出」というものなのだろうか。いや、少し違う。走馬灯のように駆け巡ってはいない。
 才戯は、まるで他人事のように記憶を辿った。
 そう、確か、満月の夜だった。煌々と輝く月を背に、凪丸は柳のように不気味に揺れた。両腕は垂らしたまま、刀を鞭のようにしならせて襲い掛かってくる。小柄で痩せた体から繰り出す蛇のような変則的な動きは、相手に生理的嫌悪感を植えつけた。
 凪丸は腕も足も目も、得手不得手なく左右を使いこなしてくる。まるで化け物のような彼は誰からも苦手な敵として敬遠されていた。
 どうすれば凪丸を倒せるのか、赤坐は考えた。まともに向かっていっても敵わないことは百も承知。だから違う型が必要である。
 赤坐は目を閉じて、凪丸の動きを探った。暗闇には慣れている。見えない代わりに、音と匂いと、肌で空気を読む。
 凪丸の動きに合わせて、赤坐は小さな体を回転させる。昔よりも俊敏で鋭い赤坐に、彼は一度体を引いた。
 赤坐は目を閉じたまま、頭の中に凪丸の姿を想像する。
 彼が風だとしたら、自分は水だ。どんな形にも変形し、どんな入れ物にも収まる水。
 一陣の風が蛇行しながら向かってきた。赤坐は自分の体を溶かし、水になったと暗示をかける。そうすれば、いくら風に押されても傷を負わずに済む。流れに身を任せ、形を変えればいいだけなのだ。

(うん……なるほど)
 そのときの情景を、才戯は鮮明に思い出していた。
(「水」ね。じゃあ、錆介は「岩」ってところか)
 ふっと、体が軽くなった気がした。普段は物忘れの激しい彼だが、戦闘時に見せる精神力と適応能力は非凡なものだった。才戯は、赤坐が凪丸との戦いで身につけた妙技を、自分のものにした。
 体と魂が引き離されたような感覚に包まれ、肉体的、精神的な苦痛から解放された。ただの幻覚かもしれないが、才戯は本当に水になったと自分に思い込ませる。そして戸惑わず、押し寄せてきた「岩」の肌を滑るように体を捻らせた。
 今までふらついていた才戯の足元が突然安定したことに、錆介は息を飲んだ。確実に当たると信じて振り下ろした両腕は、すぐには持ち上げられない。
 まずい、と、錆介が予感したと同時、才戯はまるで操り人形のような不自然な動きを見せた。
 子供のように小さく体を丸めたかと思うと、錆介の胴体と伸ばした腕の僅かな隙間を潜り、縮めた体と腕を伸ばしながら、錆介のわき腹に刃を這わせた。
 軌道に沿って、赤い線が伸びる。致命傷ではなかったが、錆介は敗北を受け入れながら巨体を傾けて片膝をつく。
 周囲に張り詰めていた緊張の糸が、切れた。勝負あったと、誰もがその瞬間を見届けた。
 その中で、才戯だけが未だ目を閉じたまま棒立ちしている。彼の脳裏には、まだあのときの映像が残っていた。
 少年の赤坐は、才戯と同じように、凪丸の胴を切り裂いていた。今と違うことは、凪丸の体が上下二つに分かれていることだった。腹を抑えて大量の汗を流している錆介は、すぐに処置をすれば助かる状態に留まっている。逆に、簡単に殺すことも可能だった。
 少年・赤坐は刀を手に持ったままじっと立ち尽くしていた。この後に、鎮魂歌が聞こえてきたはず。

「……父様!」
 堪らずに上げた茉の声に、一同は我に返った。才戯もはっと瞼を上げる。
「お願い、もうやめて!」
 茉は地面につっぷし、再び泣き出した。
「お願い……私が全部悪いの。もう二度とこんなことしません。だから、父様を殺さないで!」
 信用をなくした彼女の言葉は、誰の心にも届かなかった。
「私、父様がいないと生きていけないの。お願い。私が悪いんだから、私を殺して……!」
 錆介を殺されたくないというのは本音だと分かる。それに、才戯は彼に恨みはないし、ここで錆介を、ましてや茉を殺しても自身の何かが解決するわけではなかった。見逃して場が収束するならそれに越した事はないと思う。
 現実に引き戻された才戯に、激しい疲労と苦痛が戻ってきた。できればもう終わりにして帰りたいと肩を落とす。
 お願い、お願いと懇願して泣き続ける茉に、錆介が黙れと怒鳴る、怒鳴ろうとした。
 いつの間にか、りんが錆介の前に立っていた。
 その静けさは幽霊のようで、浮かべる表情も不気味なほど虚ろだった。
 茉は涙を散らして顔を上げ、才戯は慌てて彼女を錆介から引き離そうと足を出した。だがその前に、りんはそっと腰を折った。そして錆介が持ったまま地面についていた腕に手をかけて「拝借いたします」と呟き、彼の刀を手に取る。
 りんが何をしようとしているのか、誰も予想ができなかった。才戯と暗簾も固唾を飲んで見守っているが、もし彼女に危険があったらすぐにでも、ここにいる全員を皆殺しにしてもと、緊張を緩めなかった。
 りんは錆介の刀を、自らの首にあてた。
「……何を」
 一番慌てたのは、錆介だった。刀を取り上げようとしたが腕に力が入らない。そんな彼の目の前で、りんは無表情のまま言った。
「私が死ねば、この戦いは終わりますか?」
 その言葉を聞いた途端、虚しさが押し寄せてきた。
「私の代わりに殺されてしまったあなたの手下の方々の仇が、討てるのでしょうか」
 錆介には答えられなかった。
「私が死んで復讐の輪廻が断ち切れるのであれば、喜んでこの命を捧げます」
「……女が」錆介は声を搾り出し。「男同士の勝負に口を出すなど、愚かな行為だ」
「愚かなのは」りんは迷いなく、続ける。「命に等級をつけるあなたの思想です。あなたと私の命は平等です。あなたが死ぬことでこの戦いが終わるのなら、私が死んでも同じ結果になるのではないでしょうか。それで皆さんが納得されるのであれば、どうぞ、差し上げます」
「……ま、待て」
 恐れも怯えも見せないりんに、錆介は圧倒されていた。
「……そうだ、そのとおりだ。だが、俺が死んでも同じなら、おまえが死ぬ必要はないだろう。今ならその刀で、俺の首を獲ることができる。どうしてお前が死のうとしているのだ」
 愚問であるとでも言うように、りんは少し目を細めた。
「あなたを殺しても、私は幸せにはなれないからです」
 才戯の目には、いつの間にか「りん」が「樹燐」に映っていた。しかし自分の知る彼女とは同じではなく、犯した過ちを省みようとしている姿に見える。本当は今すぐにでも刀を奪いたかったのだが、彼女の気の済むまでやらせようと、口を出さなかった。
「人を幸せにするのは人です。自分自身ではないのです。私はお嬢さんを恨みません。彼女の幸せを願います」
 茉の幸せを願う――その言葉を耳にした瞬間に、錆介は完全なる敗北を噛み締めた。
「だから、あなたを殺すことはできません」
 錆介は脱力し、項垂れた。
 父親がいつ殺されてしまうか分からない状態に胸が潰れてしまいそうだった茉も、すべてが終わったことを受け入れ、俯いた。
 りんの深い慈悲は、錆介と茉には酷なものだった。これほど自分が惨めで情けないと思わされたのは、最初で最後だと思う。
 心からの反省の色を見せる茉を、もう誰も疑うことはなかった。立つ気力さえなくした彼女に、傍にいた手下が手を貸した。
 錆介にも二人の手下が駆け寄り、未だ血の止まらない彼を支える。錆介はりんの手から刀を取り返し、一礼して背を向けた。
「おい」
 暗い空気を背負って立ち去っていく一同に、才戯が声をかける。
「これも返す」
 言いながら、借りた刀を見せる。持ち主だった手下が振り向く。
「よかったら、差し上げます」
 才戯は一瞬迷ったが、すぐに刀を放り投げた。
「いらねえよ」
 冷たく一蹴され、手下は投げ捨てられた刀を拾い、背を向けた。
 錆介は手下に肩を借りながら、足を止めて振り向く。
「……赤坐」才戯には懐かしい名で呼び。「怖い女に捕まったな。苦労するぜ」
 そう、冗談交じりに笑ってみせた。才戯は否定できず、気まずそうに汗を流した。
 才戯と暗簾、そしてりんは、森の中に消えていく足音を聞きながら、彼らを見送った。

 そこに平穏が戻るまで、そう時間はかからなかった。
 りんは地面に座り込んだまま、動かない。才戯は、できることならこの場で倒れてしまいたいと思うほど全身に痛みを抱えていた。大きなため息をつきながら、りんに歩み寄る。
「帰るぞ」
 りんは錆介たちが消えたほうをじっと見つめて返事をしなかった。まだ何かあるのだろうかと首を傾げていると、彼女が小刻みに震えていることに気づいた。どうやら、腰を抜かしていて一人で立てる状態ではないようである。
 あれだけのことがあったのだ。体力も精神も追い詰められた挙句に、精一杯強がって気丈に振舞ったのだと知ると、錆介の言うとおり、やはりりんは普通のか弱い女ではないと改めて思い知らされてしまう。
 傍らで、暗簾はそれだけではないことにも勘付いていた。
「才戯、お前さ」冷めた目を向け。「りんに何か言っただろ」
「?」
「例えば……泣くな、とか」
 一体何の話だろうと、才戯はぼやける頭で考えた。泣くな? その程度のことなら、すぐに落ち込む彼女に言ったかもしれない。いや、たぶん言っている。
「だったら、なんだよ」
「だから、りんはずっと泣くのを我慢してるんじゃないのか?」
「……は?」
 呆然としているりんだが、意識はある。聞こえているはずなのに、まだ反応を見せなかった。才戯はそんな彼女をじっと見下ろして、自分が泣きたくなった。
「……なんだよ、それ」
 他のことはあまり言うこときかなかったのに、どうしてそういうことだけ忠実なのか――と、一難去ったところでいつものイライラが戻ってきた才戯に、暗簾は無言で後ろから蹴りを入れた。
 体勢を崩しながら彼を睨み付けると、「一番イライラするのは自分だ」とでも言いたそうな顔をした暗簾に睨み返される。確かに、もし自分が彼の立場だったらと思うと気持ちが分かる才戯は、仕方なさそうにりんの前にしゃがみ込んだ。
「……おい」
 声をかけると、りんは数回瞬きをした。やっと眼球が動いたことで、正気を取り戻したのが分かる。「大丈夫か」と聞くと、りんは頷いた。
「お前さ、俺に泣くなって言われたから、今まで我慢してた……って本当か?」
 そう言えば、何度か目に涙を浮かべては唇を噛んで耐え忍んでいた姿を見た。堪えられなくなったときは、隠れて一人で泣いていたと言われても何の疑問もない。
 りんから恐怖は消えていたのだが、体が固まっており、言葉を発するにも一苦労だった。
「……泣くなと、頼む、と、言われたので」
「…………」
「ご迷惑が、かかると思って……」
 才戯はがっくりと頭を垂れた。いちいち覚えてはいなかったが、自分なら言っててもおかしくない。言ったとしても、迷惑がかかっているのは今に始まったことじゃあるまいしと、大きなため息をついた。
「もういいよ」俯いたまま、呟く。「いいから、泣きたきゃ泣けよ」
 途端、りんの中に熱いものが込み上げてきた。せきが壊れる前兆か、りんの呼吸が深くなってくる。
「それで、笑いときは笑って、腹が立つときは怒れ。言いたいことはなんでも言え。全部、聞いてやるから」
 ダメだと言えば、りんは馬鹿みたいに感情を押し殺す。才戯はそんなことは望んでいない。
 ここにいる彼女が幻か人形かは知らないが、一つだけ分かったことがある。
 それは、自分自身も、りんと同じく居場所がないということだった。
「俺は、お前が居なくても息はできるし、時間も勝手に過ぎていく。目的なんかなくても、空腹を凌いでいればいずれ寿命は尽きる」
 才戯には彼女が求めていることが、未だに理解していなかった。納得してくれなかったとしても、今は自分の気持ちを伝えるしかできない。
 意地を張る力も残っていない才戯は、珍しく弱気になってしまっていた。
「……ただ、その人生の中に、お前がいるかいないかで、大きな違いがあるんだと思う。迷惑かけたいならかければいい。いくらでも振り回してくれて構わない。俺はどうせ、他にやることないからな。だから、お前の好きにしてくれ」
 暗簾は数歩離れて、聞いてない素振りでしっかり聞き耳を立てていた。そして彼の「愛の告白」か「敗北宣言」なのか、判断しにくい言葉に吹き出した。
 さっきは他の男に取られるのは腹が立つと言っていたが、おそらく、りんが自分から離れないという自信と余裕があっての今の発言だと思う。しかし才戯が死んでしまったら元も子もない。身寄りのないりんは問答無用で他の誰かのところへ行くしかなくなるのだ。それだけは許せない、つまり、結局は手放したくない、手放す気などさらさらないのだろう。
 才戯の言葉をりんがどう受け止め、どんな答えを出すのかは、簡単に予測できた。
 はいともいいえとも言わず、りんは声を上げて泣き出した。
 昔の彼女、そして今までのりんからは想像しにくいほどの幼稚な泣きっぷりに、才戯は面食らっていたが、無理もないと思う。今まで我慢してきた分と、記憶をなくして見ず知らずの男の世話になってきた不安。捨てられるかもしれないと思い詰めているところに押しかけてきた悪党、それらに追い回されて心も体も困憊しきっている。最後には男の勝負に乗り込み、命を懸けた交渉に及んだ。そのすべてを、やっと吐き出しているのだ。理性も何も、保っている余裕はないのだろう。
 こういうときはどうすればいいのか。才戯が戸惑っていると、感情を曝け出したりんから、彼の胸に飛び込んできた。手のやり場に困りつつ、ちらりと暗簾に目を移す。すると彼はわざとらしくそっぽを向いていたが、揺れる肩で笑いを堪えているのが丸分かりだった。
 恥ずかしい。が、もう誤魔化しても仕方ない。
 楽な姿勢に座り直しながら、子供のように縋り付いてくるりんを、しっかりと抱きとめた。



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