凛 刻は未二ツ(午後三時)頃になっていた。人間の四肢が飛び散っている森の中で、才戯はまだ体力が回復せず、暗簾は返り血に塗れた姿でりんが落ち着くのを待っていた。そしてりんは全身傷や痣だらけで、泣き続けた目は腫れ上がっている。酷い有様だったが、大きな困難が去ったことで三人の気持ちは穏やかなものだった。 りんが立てるようになってから、三人はやっと森を歩き出した。方向を見失っていたが、そのうちどこかに出るだろうと安易に考えて進んでいると、暗簾が何かに気づいて駆け出した。木々に姿を隠した暗簾は、大きな声を出して二人を呼んだ。 走るのが億劫だった才戯は、足を早めもせずに声のした方に進む。 しばらく歩くと、暗簾の背中が見えた。振り向かずに棒立ちしている彼に寄ると、突然木々のない開けた地に出た。 そこは道でも町でもなく、樹木に囲まれた森の中の一部だった。 驚くべきは、視界に飛び込んできた古い祠だった。どうして、と、暗簾も同じことを思っている。 まるで狐にでも それとも、この祠に呼ばれたのだろうか。 いつもここから始まった。また何かが始まるのか、それとも、終わってしまうのか。物言わぬこの祠には、逆らうことができない力があることを、暗簾と才戯はよく知っている。もう偶然だとは思わない。 暗簾は祠を見つめたまま、ため息をついて目を細めた。 「あーあ。昔に……戻りたいなあ」 意外な言葉だった。才戯は考える前に、自然と疑問を口に出していた。 「……なんだよ。お前、今の生活が楽しいんじゃなかったのか」 「楽しいよ。でも」暗簾の顔は返り血と、悲壮感に染まっている。「昔のほうが、よかった」 あれだけ悟ったようなことを才戯に語っていた暗簾が、とうとう本音を漏らした。 久々に妖怪の力を使って暴れたことで、閉じ込めていた本来の自分を思い出していたのだった。 「魔界に帰りたいなあ」 その呟きを聞き、才戯も同じことを感じた。 「当然だよな。俺は『暗簾』なんだから。魔界が好きで、妖怪でいたいと思って、当然なんだよ」 しかし、それは叶わぬことだった。だからなんとか理由をつけて自分を納得させたかっただけ。そして、納得できていたはずだった。 「この世は苦界、か。まあ、仕方ないよな」 暗簾は自らに言い聞かせ、才戯に同意を求めていた。才戯は返事をしないが、「仕方ない」という言葉がすべてだと、黙って胸に刻んでいた。 二人は脳裏に昔のことを思い描いていた。そうしているうちに、何かに気づく。 それは、自分の昔の姿を、細かいところまでは正確に思い出せないでいることだった。そのことが、やはりもう元には戻れないということを、昔の自分の人生は終わったのだということを、嫌と言うほど思い知らせてくれる。侘しさを誤魔化すため、暗簾と才戯はぼんやりと笑顔を浮かべた。 しばらくの静寂の中、りんが声を漏らした。 「……あ」 二人は我に返って、改めて祠を見つめ直す。 祠の正面に、ぼうっと人影が現れた。最初は人の形をした煙だったものが、次第に色をつけていく。 正座をして微笑んでいる、武流だった。その隣にはもう一人、綺麗な着物を着た女性がいる。彼女を知っているのは智示、つまり暗簾だけだったのだが、才戯にも誰だか分かった。月子である。 二人は何も言わなかった。ただ安らかに微笑み、じっと暗簾と才戯を見つめている。 智示と汰貴、そして赤坐をよろしく頼むと、そう伝えているのだと思った。 月子が目を伏せると、武流が掌を天に向け、ゆっくりと両手を持ち上げた。その手の上に、牙落刀が浮かび上がった。 聞こえたのか、そんな気がしただけなのか判別はできなかったが、才戯の心の中に「これは預かっておきます」という言葉が流れ込んできた。 武流は牙落刀を丁寧に頭上に掲げ、深く頭を下げる。続けて月子も、両手を付いて一礼した。 二人はそのまま、現れたときと同じように消えていった。 りんは、自分にも二人の姿が見えたことが嬉しかった。二人が誰かは分からないが、大事なものを守って欲しいという願いが形になって現れた。それは奇跡とも言える現象であり、決して自分が部外者ではないという意味も込められていると思えたのだ。 自分がどこから、どうしてここへ来たのかなど知る必要はない。自分の存在が誰かを幸せにできると信じられることは、何よりも光栄なこと。生きよう。怖いことも辛いこともあるだろうし、いつか老いてしまうことも受け入れて生きようと、りんはここへ導いてくれた祠に一礼した。 すると、今度は祠全体の色が薄れ始めた。 暗簾たちの目の前で、祠は実態をなくしていく。その間、どのくらいの時間だったのだろう。長年そこに鎮座し続けてきた祠は、跡形もなく完全に消えてなくなった。
鎖真が戻って樹燐の行方を報告してから、天上の騒ぎは少し収まっていた。 しかし、戦の後処理は簡単に終わらない。完全に落ち着くまでは長い時間が必要だった。 鎖真が本当のことを伝えたのは親しい者にのみだった。周囲には、漠然と「解決した」としか言わなかった。話したのは帝と依毘士、玲紗、そして珠烙など、生前に樹燐がよくつるんでいた信頼のおける者だった。 それから、と、鎖真は音耶の元へ向かった。千獄の時の片付けも山積みな上に、今回の戦で更に仕事が増えた音耶はすっかりやつれ、目の下にクマが消えない日々を送っていた。 そんな彼に、樹燐は人間界に寄り道してると伝えると、間の抜けた声を出して立ち尽くした。 「……そうですか」 どうしようもない顔をしているが、彼女のことは音耶にも重要な事件だった。安心したように、緩い笑みを浮かべた。 「なんだよ、その顔は」鎖真は音耶の頭を軽く叩き。「お前、樹燐に虐められて泣いてたくせに。あいつが無事だったのがそんなに嬉しいのかよ」 「な、何を言ってるんですか」叩かれ、足元をふらつかせる。「冗談じゃありません。意地悪な樹燐様がいなくなってホッとしてるんですよ。よかった、って……」 強がり切れていない音耶は、安堵の表情を隠せなかった。 「……ああ、よかった」 もう一度呟きながら、ふらふらと仕事に戻っていった。 更に数日後、鎖真の元に怪我が完治していない玲紗が訪れた。 鎧も武器も身につけず、疲れた様子で何度もため息を漏らしていた。 「……あー、つまんない」 通された客間で酒を飲みながら、ぶつぶつとぼやいている。 「何よ、あの女。あれだけ騒がせといて、実は人間に化けて、男騙して遊んでたなんて、どこまで汚いのかしら」 無理やり悪く言おうとしている彼女が可笑しく、鎖真は軽い笑いを零す。 「先を越されたな。お前も真似してみたらどうだ」 「はあ? 馬鹿にしないでよ。私はまだ負けたなんて思ってないわ。樹燐の男より上を捕まえて、あの女が戻ってきたときに自慢してやるんだから」 本気で言ってるわけではないことは、よく分かる。どこまで負けず嫌いなんだかと、鎖真は呆れていた。 「お前さ、前から言おうと思ってたんだけど」鎖真は少し酔いが回っている。「もう武神やめろよ」 案の定、玲紗は恐ろしい顔で睨み付けてきた。 「なんですって?」 「だって、向いてねえもん」鎖真はまったく臆さず。「弱いし、すぐ泣くし、短気だし、礼儀知らずだし。俺から言わせてもらえば、武神としては役立たずで、女としては勇ましすぎ。どっちつかずでお前にとってもいいことないんじゃないのか」 「な……何言ってるの。ふざけないでよ」 意外にも、玲紗は怒鳴りかかってこなかった。樹燐のこともあり、信頼できる鎖真に役立たず呼ばわりされて、僅かでも迷いが生じたのだろうか。もしかすると後一押しで彼女が無駄な努力をやめるかもしれないと、鎖真は続けた。 「もう張り合う相手もいなくなったんだし、お前が武神やめて困る奴もいないし。いい機会だと思うぜ? 大体さ、お前と樹燐は逆だったんだよ。二人とも逆の道に進んでいたらもっと楽しく生きていられたかもしれないのに。でも、お前はまだ生きてるんだから、今からでもやり直してみろよ」 玲紗はもっともだと思うと同時、素直には受け入れられず、口を尖らせて黙ってしまった。 どうやら彼女が折れるのも時間の問題のようだと、鎖真はまた一つ心が軽くなった。 「お前が武神やめるなら、本当に俺が嫁に貰ってやってもいいぜ」 ヘラヘラと笑いながら言う鎖真の言葉は、どこまで本気か分からない。ジロリと睨み付けた後、玲紗はふんと顔を背けた。 「困ったわ。あんたに言い寄られるようなら、武神はやめられないわね」 どうやら、余計な一言だったようだ。はは、と鎖真は乾いた声を漏らしながら、まずくなった酒を口に運んだ。
三人は、だいぶ歩き慣れた畦道を通って帰路についていた。 薄汚れた三人の姿に気づいた農民が、何かあったのだろうかと心配そうに遠巻きに眺めていた。彼らの衣服についた血は乾いており、くすんだ土色に変色している。まさか大量の返り血を浴びているとは考えにくいこともあり、遠目にはただ泥でも被ったようにしか見えない。 彼らとはそのうち、顔見知りにでもなって挨拶を交わす間柄になるのかもしれない。 やっと屋敷が見えてきた。もうすぐ、ゆっくり休める。 すっかり気が抜けたところで、才戯はあることを思い出す。土足で汚された室内は鬼火が片付けてくれているだろうが、りんの大事にしていた華は修復できないほど壊されてしまっている。それを知ったらまた落ち込むかもしれない。 しかし、と思う。たぶん、もう彼女があの華に執着する理由はないはず。 「りん」 呼ばれて、りんは顔を上げる。 「髪飾り、新しいのを買ってやるからな」 その言葉で、りんは白い牡丹のかんざしに何かがあったのだと勘付いた。あの華は一生の宝物にしたかったものだった。寂しい気持ちもあったが、壊れたかんざしよりももっと大きなものを手に入れた。過去よりも未来に期待を抱ける今の幸運を前向きに受け入れ、遠慮せずに「はい」と返した。 「……今度は、色のついた花にすればいい」 背を向けたまま続けた才戯のそれにどういう意味があるのかは分からなかったが、なぜか、嬉しかった。りんは頬を赤く染めて、もう一度「はい」と言いながら照れた笑顔を浮かべる。 才戯もなんとなく恥ずかしくなり、彼女の顔を見ることができなかった。この場に白けている暗簾がいなければもっといい雰囲気だったかもしれない。 「……ところで」耐えられなくなった才戯は暗簾にぼやいた。「なんでお前がついてきてるんだよ。なんか用でもあるのか」 「なんだよ、冷たいな」暗簾は冷ややかな目線を向け。「こんな格好で帰れるわけないだろ。風呂と着物くらい貸せよ」 「風呂はいいが、俺のじゃ寸法が余るだろ? お前、チビだから」 暗簾は途端にムッとし、眉を寄せた。 「俺は好きで今のままでいるんだよ。その方が周りに好かれやすいからな」 「チビに理由なんかあるか。黙って認めろ」 「俺はその気になればいつでも大人になれるんだ」暗簾は急に早口になった。「お前、俺の能力知ってるくせに、しつこいな。さっきだってあの盗賊の血肉、できるだけ吸収しないように気をつけてたんだ。いきなり成長したらおかしいからな。見てろよ、二年もすればお前なんか追い越してやるからな」 だったらそんなにムキになる必要はないだろうと、才戯は笑いが込み上げてきた。 「てめえ、なに笑って……」 怒鳴ろうとした暗簾は、いきなり才戯に蹴飛ばされ、派手に田んぼに転落した。二人のやり取りを微笑ましく思っていたりんは、目を丸くする。 暗簾は頭から泥水に塗れ、唸りながら才戯を睨み付けた。彼は仁王立ちし、暗簾を見下ろす。 「その格好で帰れよ。田んぼに落ちたって言って、即行で風呂に入って着替えれば疑われないで済むだろう?」 我ながら名案だと言いながら、才戯は暗簾を置いて歩き出した。おろおろするりんを脇目に、暗簾は才戯の背中に飛び掛った。 「!」 そのまま二人は、道を挟んだ向かいの田んぼに落ち、才戯も泥水に塗れる。 「な、何しやがる!」 「この野郎、人に散々世話になっておいて、足蹴にして泥に落とすだと? ふざけんじゃねえぞ!」 「バカ!」目や口に泥が入り、才戯は激しくむせ返った。「俺は毒にやられてんだぞ。卑怯者!」 「うるせえ! あんまりナメたことしてると、りんにお前の秘密を暴露するからな」 「な、なんだと! 俺が一体何をしたと……」 田んぼの中で暴れている二人に気づき、農民が顔を上げて怒鳴ってきた。 まずい、と、暗簾と才戯は慌てて泥を散らしながら、一目散に屋敷に逃走する。取り残されたりんは足の痛みを堪え、半泣きで二人の後を追いかけていった。 <了>
◇ 後書 ◇ |