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 気分が悪くなった才戯は誰とも話したくなく、丸二日ほどどこかに姿を消していた。
 祠に戻ると、そこはいつもの静かな無人小屋だった。
 茉のことは気になっていたが、まさか二日間もじっとここで待っているはずはない。あれから、彼女が何を思い、どんな答えを出したのかは分からないが、才戯はさほど心配していなかった。こっちの言い分は態度と言葉で伝えた。もしそれでも追ってきたとしても才戯の気持ちは変わらないし、逆恨みしてきたとしても、負ける気はしない。それに、このボロ小屋にいつまでいるかも分からないのだ。
 そういえば、と、才戯は祠の中で横になりながら、暗簾に言われたことを思い出した。いい加減にもっと人間らしい生活をしろ、と。
「即身仏じゃあるまいし、こんなしみったれた場所で毎日毎日ダラダラしてるんじゃねえよ」
 才戯は言い返せなかった。記憶がなく、別の人物であったとはいえ、暗簾とて昔はここで慎ましく生活していたくせに、今となっては言いたい放題である。
 しかし、暗簾が智示となって、麻倉の豪邸での生活で贅沢になってしまったのかと思えば、そういうことではなかった。
「住まいは生きていくための拠点となる場所だ。例え遠くへ離れることがあっても、帰る場所があるのとないのとでは、人格に影響を与えるほど心強さに差が出るものだ。昔のお前だって、必ずどこかに寛げる空間を確保していたはず。それが無意識だったのなら、尚更のこと。無意識に求めているものということなんだよ。そこを固めないと他のことに何も手がつかない。そうだろう?」
 それも、才戯は言い返せなかった。そんなものを自分が求めるなんて考えたことはなかったのだが、言われてみれば、前に進む気がしない原因の一つにあるような気がした。
 それまでは、才戯は逆だと考えていた。目的に合わせて拠点を構える。そうしなければ進む道が見えないと。だから何も目的の見つからない彼は動こうとしなかったのだ。
 たまにではあるが、時間を見つけて祠に姿を見せる暗簾は、最近はまるでこちらの様子を伺いにきているようである。宿替えを薦めるのも、自分の目の届く場所に根を下ろして欲しいのではと、才戯は思った。
 暗簾がなぜ自分に干渉してくるのか、最初は理解できなかった。面と向かって尋ねてみたところ、やはり、才戯の予感は当たっていた。
 暗簾は、才戯がいなくなることを「寂しい」とはっきり言ったのだ。かつての宿敵に対し、皮肉でもなく、照れも見せずに口に出した。
「お前がいないと、俺は『智示』に乗っ取られてしまう。唯一、お前といるときだけが『暗簾』でいられる時間なんだ。だからお前がいなくなってしまうと、俺は自分が誰だか分からなくなってしまうかもしれない」
 最初は、なんとかなるだろうという手探りの状態で麻倉家に入り込んだ。そして暗簾の精神力の強さとしたたかさを持ってすれば、智示が抱えていた重荷など、逆手に取れるほど楽なものだった。次第に、暗簾は智示が持っていたものを身につけていき、今では何の違和感もなく溶け込んでしまっている。
 それも能力の一つとして自負していたつもりだったのだが、あるとき、暗簾は何かに気づいた。
 智示を取り込んだ今の自分は、もう「演じている」とは言えない状態なのだということを。
 慣れなかった言葉遣いや仕草も、今では自然と出てくるようになった。物事を判断する際も「智示ならきっとこうする」ではなく、自身の判断で動くようになっている。
 才戯でさえ感じていたことだが、二人で互いに素を晒している間も、暗簾は正座が癖付いており、背筋も真っ直ぐに伸びていることが多くなっていた。その変化が少しずつのものであったために、それほど違和感はなかったのだが、暗簾がそんなことを気にしているなんて、才戯には想像さえできないのが事実だった。
 ならばもう演じることをやめればいいと、才戯は言う。だが、暗簾は首を横に振った。
「それはできない。俺は、間違った方法とはいえ、一度死んで智示に生まれ変わったんだ。他に生きる道はない。麻倉家を出ることは可能だとしても、あくまで智示として出ていくしか俺には許されないことなんだ。智示を放棄することは、生きることを放棄するのと同じこと」
 なぜ暗簾が智示に拘り、あれほどいい加減だった彼が義理を務めようとしているのか、才戯は理解できずに。
「……今の生活が嫌じゃないんなら、暗簾を捨てて、智示として生きればいいんじゃないのか」
 その呟きにも、暗簾は頷かなかった。
「俺は暗簾だ。それも紛うことのない事実。俺だからこそ智示として生きていける。だから、捨てることはできない」
 暗簾は「自分と智示、どちらかを切り捨ててしまったら、世界に取り残されてしまうような、そんな気がしているんだ」と抽象的な言葉を付け足してみたが、白黒はっきりさせたい才戯の性格では、正確に分かってやることはできないままだった。
 取り残される――取り残されているのは、暗簾ではなく自分ではないのだろうか。そう思う。彼と違うところは、寂しいなどと思わないこと。それが才戯にとっての救いなのかもしれないが、改めて今の状況の不可解さを考え直してみると、やはりこれは「罰」なのだと思う。
 今の中途半端な状態で、一体どんな人生を送れというのか。不幸でも幸せでもなく、目的も何もない。
 昔、魔界では戦い甲斐のある敵に困ることはなかった。だから常に上を目指している時間があった。しかしこの人間の世界には、彼の好奇心を煽るなにかは、今のところ見つからない。
 自分がこうなって半年、生きていくに最低限の行動以外は積極的に動いたことがないまま、ただ流れていく時間を過ごしてきた。

 ……ドサリ。

 いつの間にか落ちてきていた瞼を、才戯は反射的に持ち上げた。
 庭から、聞きなれない音が聞こえたからだ。才戯は体を起こしながら、外に人の気配があると思った。
 しかし、誰かが訪れてきたという様子ではなかった。
 耳に届いた音は、猫などほど小さくはなく、石のように硬いものだとも思えないものだった。
 しかし、と思う。人だとしても、どうして歩いてくる気配も何もなかったのか。そして音を立てた後も、それっきり物音はしない。
 才戯はいろんなことを想像しながら外へ出る。視界に人の姿はすぐには映らなかった。首を傾げながら周囲を見回し、その動きを止める。才戯の目線の先には、想像できるはずもないものが「落ちて」いた。
 なんとなく嫌な予感を抱きながら、才戯は無意味に足音を忍ばせてそれに近寄る。それの少し手前で止まり、恐る恐る目を凝らして、何があるのかを確認する。
 才戯は一瞬、体が固まった。
 そこには、若い女性が一人、何一つ持たずに倒れていたのだ。何一つというのは誇張ではなく、本当に何一つ身につけていない状態だった。
 結い跡のない乱れた長い髪。細く長い手足、白く瑞々しい肌を露わにし、あまりにも無防備な姿で横たわっている。その透き通るような裸体は、櫛や白粉どころか、草履も着物も纏わぬ状態で気を失っていたのだった。
 これは、尋常ではない。
 女の裸如きで取り乱す才戯ではなかったのだが、さすがに慌てずにはいられなかった。まずは、周囲に誰かいないかを確認したく、見える限りを見回した。しかし辺りは、風が鳴らす葉のこすれる音しか聞こえてこない。なんにせよ、無視するわけにはいかなかった。再度、女性に目線を落す。
 生気のない女性の整った顔の造り、そして指先から腰の線まですべてがしなやかで、女性特有の膨らみも柔らかさも、すべてが完璧な体――これほどの「上玉」は、どこにでもいるものではない。
 そう、ここに倒れている女性は、才戯の見てきた者の中でも群を抜いた美しさを誇る「彼女」と同じ容姿をしていたのだ。しかし、才戯にはすぐに彼女が同一人物だと思うことができなかった。
 いつも必要以上に着飾ることが好きで、すれ違っただけの者さえをもを誘惑するかのように妖艶な香を漂わせ、化粧も表情も隙なく造り上げている彼女が、まさかこんな姿で土の上で倒れているなんて信じ難いことだったからである。
 他人だとしても、似ている。いや、やはり、これほどの女性が他に何人もいるとは思えない。しかし……そこに倒れている彼女からは、天上人特有の「気」が一切感じられない。才戯には分かる。間違いなく「人間」だった。
 では、これは一体誰なのだろう。そして、なぜここに倒れているのだろう。
 追い剥ぎに襲われて身包みを剥がされたとしても、裸体には傷一つ見当たらない。それに、走るなり歩くなりして来たのなら、足に泥がついているはず。なのに、彼女には汚れどころか染み一つついていない。
 誰かが運んできたのか。それにしても、人の気配もなければ、何かが歩いた後も、何もない。まさに、落ちてきたのではないのかと思うしかないような状態だったのだ。
 悩んでも解決しないと思った才戯は、とにかく本人に話を聞くしかないと、少し距離を置いて腰を折った。
「……おい」
 声をかけてみるが、返事はない。手を伸ばして、鼻の近くに指を近づけると、呼吸していることは確認できる。死んでいるわけではないようである。そのまま軽く頬に二回ほど触れてみるが、やはり反応はなかった。
 深く、昏睡しているようだった。
 どうすればいいのか――考える前に、彼女を裸のままここに放っておくことはできない。とりあえず祠へ運ぼうと、目のやり場に困りながら彼女を抱き抱えた。決して悪いことをしているわけではないのだが、なぜか後ろめたい気持ちを感じながら、何かを隠すように祠へ戻っていった。


 才戯は祠の隅に敷きっぱなしにしていた布団に女性を寝かせ、すぐに掛け布団に手をかける。女性の裸体をこれ以上見ているわけにはいかないと、布団で覆ってしまうつもりだったのだが、ふと、その手が止まる。
 才戯は、女性の体にあった傷に気づき、目を奪われる。しかし、やはり何者かに襲われて逃げてきたとは思えないものだった。
 その傷は、もう完全に塞がっていたのだ。できたばかりの傷であり、今すぐ治療が必要なものならばそれも放置すべきではないのだが、それ以上に気になる傷跡だった。
 横に一寸ほどの、大きいとはいえないそれに治療した跡はない。妖怪だった頃の才戯は生傷が絶えず、人間なら即死であろう大きな傷は、何度も受けたことがある。傷とは縁深かった彼には、跡を見れば大体は状態を把握できる。
 彼女の胸元にある傷は、赤黒くなった皮膚が少し盛り上がっており、薬をつけた様子もなく、自然に塞がったもののようだ。才戯が腑に落ちないのは、その傷が何か鋭い刃物を縦に突き刺されたものに見えたことだった。だとしたら、かなり深くまで刃先は届いているはずであり、何もせずに放っておいていい浅いものではない。
 しかも、傷の位置は胸の左寄り――まさに、心臓の上だった。
 才戯の勘が当たっているとしたら、脇差のような短い刃物が刺さり、その深さは心臓にまで確実に届いている。すぐに治療したとしても、助かる傷ではない。
 そんなことを考えているうちに、更なる疑問が生じた。傷が縦以外のどこにも広がっていなかったのだ。だとしたら、誰かに剣を突き立てられ、彼女は抵抗をしなかったということなのか。
 そのたった一つの傷が、彼女に対する不可解さを更に深めていった。

 そのとき、才戯の脳裏に、あのときの幻が蘇った。
 樹燐が、胸から大量の血を流していた、あの幻を。
 再び、目眩が起こった。汗が噴出し、女性の胸元に一つ落ちる。
 まさかあの幻は、幻ではなかったのだろうか。
 そうだとしたら、この女性は、一体――?
 まさか。樹燐本人だとしても、ここにいるのは人間なのだ。それに、あの幻が本当にあったことだとしたら、樹燐は、もう……。

 才戯ははっと我に返って体を起こした。
 今の自分の姿は、他人から見れば最悪なものである。気を失っている裸の女性を連れ込んで、胸元を凝視しているなんて、自分でも認めたくない格好だった。慌てて布団を被せ、背を向けて頭を抱える。
 女性が目を覚まさないことには何も解決に向かわないことは分かっているのだが、冷静ではいられなかった。
(そうか)才戯は無理やり悪いほうへ考える。(……あの女の仕業だな)
 幻を見せたのも、それに関係のあるような女性をここへ送ったのも、きっと樹燐の陰謀だと想像した。自分の気を引くために、呪いのような悪質な悪戯を仕掛けてきているのだ。そうであれば、納得ができる。
 茉のことで嫌な思いをしたばかりだというのに。今度のは厄介そうだと思う。突き放しても罵っても現実を受け入れようとしないあの女は侮れない。こんなことをして何になるのか知らないが、目を覚ましたら今度こそ追い払ってやると決心する。

 しかし――才戯は肩越しに、眠る女性に目を向けた。
 彼女が美しいというのは、否定できない。裸を見たのは初めてだが、さすがに、隅々まで完璧である。むしろ、いつものキツい装飾と派手な化粧がないほうが、よっぽど色気を感じる。今の状態で誘惑されてしまったら、才戯は耐えられる自信はなかった。もしも、これが自分のものになるのなら、欲しい。
 いや、と、才戯は目を閉じて頭を振る。これがあの女の作戦なら、乗せられるわけにはいかないのだ。しっかりしろ、と自分に言い聞かせて、腰を上げる。
 数歩女性から離れ、西向きの窓に向かって立ち、目を伏せた。
 今は女性の裸のことは忘れ、唇に人差し指を当ててそこに集中する。声には出さずに何かを呟いた後、目を開けて指先に息を吹きかけた。すると指先に、小さく薄い雲のようなものが纏わりつき、手を開くとそこに丸い塊を作る。才戯はそれを両手で包み、額に当て、再び何かを呟く。次第に、手の中が明るい緑の光を灯した。
 才戯は、妖術を使って一つの鬼火を作り出した。才戯の分身のようなものである、意識を持つ緑の鬼火は、彼の手を離れて宙を浮遊する。
 完成したことを確認し、才戯は鬼火を片手で掴んで口元に寄せる。それに、今度は呪文ではなく、何かの言葉をブツブツと囁いた。そしてその手を真っ直ぐに伸ばすと、鬼火は彼から離れて一羽の鳥のように祠の外へ飛び立っていった。
 鬼火は迷子のように庭を何度か回っていたが、目的地を見つけたように空高く舞い上がり、町のほうへ飛び去っていった。
 鬼火は、ある程度妖力を持つ者ならば誰でも作れるものだった。完全な分身ではなく、それぞれに意志や個性を持ちつつ、主人の言うことに忠実に従う小間使いのようなものである。忠実にとは言っても、どこまで言うことをきいてくれるかは、主人の妖力の強弱で決まる。才戯の作り出すそれは優秀なものが多いのだが、癖が強いのが問題だった。今の鬼火は役目を果たしてくれるだろうと、才戯は緑の炎が消えていった方向をしばらく見送った。
 数秒後、糸が切れたかのように、才戯はその場に座り込む。
 何がどうして、こんなことになってしまうのか。今考えても無駄なのは分かっているのだが、じっとことが動くのを待っていられるほど冷静にはなれなかった。頭の中がグチャグチャになり、胸焼けまで込み上げてくる。
 たとえ視界に入れなくても、すぐ傍に裸の女性が寝ていると思うと、尚更落ち着けない。戻ってきたばかりなのだが、またしばらくここを離れようか。しかし、女性がいつ目を覚ますか分からない。いつの間にかいなくなられるのも後味が悪いし、まさかこのまま息を引き取って死体になられたら、もっと困る。
 いつもの冷酷な彼なら他の行動に出ていただろうということは、本人は気づかない。やはり気になるのだ。彼女が何者なのか、どうしてここへ来たのか。まったく面識のない相手なら、事情だけでも聞いておきたいというくらいで済んだかもしれないが、彼女は違う。
 他人の空似なら、それでいい。そうでないのなら、正体を、真実を知りたい。
 そんなことを考えているうちに、背後で何かが動いた。
 才戯の心臓が一つ、大きく脈を打つ。恐る恐る肩越しに振り返ると、件の女性が、音も立てずに上半身を起こしていた。



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