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 鬼火が飛び立って、半刻ほどが過ぎようとしていた頃。
 祠に姿を見せたのは暗簾だった。上品な濃い藤色の、お召縮緬ちりめんの着物には似合わない怒りの形相で乗りこんできた。手に提げてきた黒い風呂敷を床に叩きつけながら、挨拶もせずに才戯を睨み付ける。
「てめえ……人を便利屋みたいな扱いしやがって」
 才戯は暗簾がどうしてそこまで怒っているのか分からず、戸惑いながら、急いで彼に駆け寄った。こうして才戯が客を出迎えることは今までなかったのだが、今は状況が違う。いずれ見られるとは言え、まずは説明から入りたかった。暗簾が「彼女」を見て、余計なことを言い出すのは予測できたからだ。
「……な、なんでそんなに怒っているんだよ」
 珍しく弱気になっている才戯に、暗簾はお構いなく怒りをぶつけてくる。
「ふざけんな。こっちは仕事してるんだよ。しかも取引先との商談中だったってのに、鬼火なんか寄越されたら集中力切れるじゃねえか。もう少しで大店との交渉が成立しそうだったのに、破談までにはならなかったものの、俺が何かを隠してると疑われて答えを先延ばしにされたんだよ」
 才戯には何のことか分からないが、おそらく、鬼火がどうしても暗簾に才戯の言葉を伝えようと、しつこく付き纏ったのだと想像する。どんな状況だろうと、それは確かに迷惑である。
「俺はいつもこの外見と誠実な態度で勝負しているんだ。てめえのバカ鬼火が人前に姿を見せてまで押してこなかったのが不幸中の幸いだが、相手は頑固で石頭な有馬屋のジジイだったんだ。信用なくしたらどうしてくれるんだ」
 固有名詞を出されても知るわけがないと、才戯はたじろぐ。鬼火は意識しなければ人の目には映らない。だが、鬼火がその気になれば実体化することも可能だった。きっと暗簾はそれを恐れて、話を早めに切り上げたのだろう。それは、誰でも怒る。謝ることを知らない才戯でも、つい頭を下げそうになってしまった。
「しかも、女ものの着物を一式持ってこいだと? こんな真昼間から下らない嫌がらせしてくるんじゃねえよ」
 そう言いつつ、暗簾は才戯に頼まれたものを持ってきてくれたようだ。投げ捨てた風呂敷の中から、光沢のある着物が覗いている。
 一応感謝しようと暗簾の顔を見ると、むき出した牙の隙間から、緑の炎がチロチロと、もがくように見え隠れしていた。
「……人の鬼火、食うなよ」
 使い魔に手を出すことは、妖怪としては無礼な行為である。責めるに責められない立場の才戯は、それで済むならと咎めようとしなかった。
「偉そうに俺の周りをうろつくから、頭にきて喰らってやった。文句あるか」
 口の中に残っていた欠片を飲み込みながら、暗簾は怒りを抑えて少し目を伏せる。
「……で、どうしてこんなものが必要だったんだ? しかも、緊急に。まさか説明できないってことはないよな?」
 才戯は一度目を逸らして、うーんと唸る。こんな彼は見たことがない暗簾は探るように目を細め、薄暗い祠の中を見回した。
 人の気配がある。
 女ものの着物などを要求してきたところから、ここに女性がいるということは察するに容易い。再び、怒りがこみ上げてきた。
 昼間から女を連れ込んで、多忙な自分の事情を知っておきながら、その者の着物を持ってこいだと? 眉間に深い皺を刻みながら、祠の隅に立ててある薄汚れた屏風に気づく。
 元々祠にあったものだが、普段は壁に寄せたままで埃を被っていた物である。あの奥に女がいると察し、暗簾は才戯を押しのけてそこに向かった。
「ちょっ……ま、待て!」
 しまったと、才戯が慌てて暗簾の腕を引くが、彼は素早く振り切って屏風に手をかける。
 才戯は、暗簾の背後に立ち、片手で顔を覆った。
 屏風の向こうには暗簾が予想したとおり、女性の姿があった。暗簾は棒立ちしたまま、彼女に目を奪われていた。
 女性は騒動にも驚いた様子を見せず、肩を落としてぼんやりしている。まるで病人のように布団の上に座り、膝に掛け布団をかけて、虚ろな表情を浮かべていた。そのときは裸ではなく、男ものの着物で身を包んでいる。才戯が裸のままでいられては話もできないと、自分のものを着ているように渡したものだった。
 女性は言われたとおりに羽織り、腰紐一本で留めているものの、当然だが寸法が違いすぎて、余計にだらしなく見える格好をしていた。
 才戯の奇妙な要求の意味は分かったが、それを見て、暗簾は軽蔑したような目線を彼に向ける。
 才戯は正面から暗簾を見ることができない。
「……なんだよ」
 控えめながら反抗的な態度をする才戯に、暗簾は近寄り。
「お前なぁ」ため息混じりの小声を出した。「節操無しもほどほどにしろよ」
「は?」
「なんだよ、結局あの姉ちゃんとできてたのかよ」
 言うと思った、が、これだけ見れば、誰もがそう思うだろう。
「それは別にいいけどさ、だからって何も取り込み中にわざわざ俺を呼び出すなんて、悪趣味にも程があるんじゃないのか」
 それはさすがに、才戯でも誤解を解きたい。暗簾の襟首を掴み、引き寄せて才戯も小声になる。
「バカか、お前は」
「バカはお前だよ」暗簾は才戯の手を払いのけながら。「俺にどうして欲しいわけ? 仕事まで抜け出させるなんて、まさかここで姉ちゃんの着替えでも披露してくれるのかよ。それでいくら要求しようと思ってるんだよ」
「いい加減にしろ。先に説明を聞けよ」
「この状況で何を言い訳しようってんだ。見苦しい奴だな。あの姉ちゃん、頭がおかしくなってるみたいに疲れ切ってるじゃねえか。お前もやっと一人に決めたんなら、少しは相手のことも考えられるようになれよ」
 ゴンと、暗簾の頭に才戯の拳が落された。暗簾は目に涙を浮かべて頭を抱える。
「何もしてねえよ」できなかった、とは言わずに。「もうそのことはいいから、それより……暗簾、お前は、あれが誰に見える?」
 決まりきったことを尋ねてくる才戯に、暗簾は皮肉ることをやめ、改めて女性を見直す。
 女性はやはり微動だにせずに、ただ正面だけを見ていた。目も開いているし、呼吸もしている。だが、それだけだった。
 その姿はまるで、耳も聞こえず、目も見えず、口もきけない気の毒な女性に見える。普通に五感や思考力があるなら、目の前で大きな声や音を出されれば、反射的に体のどこかが反応するはず。
 暗簾はまじめな表情で彼女の横顔を見つめた後、才戯の質問に答える。
「……あの、おっかない姉ちゃんだろ?」
 その声からは、自信のなさが伺えた。暗簾も、才戯と同じことを思っているようだ。
「そう見えるか?」
「……いや」暗簾の迷いは晴れない。「別人にも見える」
 やはり、そうか。腑に落ちないのは自分だけではないことを確認し、才戯は少し落ち着いた。だが、何一つ解決はしていない。
「暗簾、外で話そう」
「え?」
「いいから、ちょっと来い」
 先に祠の戸に向かう才戯は、一度足を止めて暗簾が持ってきた風呂敷を女性にむかって放り投げた。着物の入ったそれはうまい具合に女性の膝元に落ち、彼女はやっと体を揺らした。指一つ動かすのも億劫かのように、女性は着物を手に取って引き寄せ、生地をじっと見つめた。
 やはり、生きているし、五感もあるようだ。暗簾は片足を引きながらも、女性の動きを見つめていた。
 女性は顔を上げ、小さな声で喋った。
「……これは?」
 才戯が乱暴に「着替えろ」と言うと、女は蚊の鳴くような声を出す。
「こんなに上等なものを……」
 確かに、着物は生地も造りも良質なものだった。物の等価を判断できるとはと、意外に思いながら暗簾が答える。
「それ、傷物だから」
 女性は暗簾に目線を移し、光のないそれでじっと見つめて聞いていた。
 傷物とは、素人には判別できない程度のほつれや縫い目のずれがある、検品で弾かれたものだった。大抵は蔵の隅に追いやられて、引き取り手が現れてどこかで安値で売り払われるか、いつの間にか屋敷の下女たちが勝手に持ち帰ってしまうような三流品である。暗簾が堂々と女ものを町で買い揃えてくるわけにもいかず、蔵から持ち出すところを誰かに見られるのも問題だったが、幸い人はおらず、泥棒のように裏口から抜け出してきたのだった。
「どうせ売り物にならないし、間に合わせには十分だろ」
 女性は彼の言葉の意味を考えた後、「いただいてもよろしいのでしょうか」と、か細い声で呟く。
「だから、いらないものだって言っただろ」
 暗簾が面倒臭そうに言い捨てると、女性はゆっくりゆっくり布団から出て、余る裾を何度も手繰っている。何がしたいのだろうと二人が待っていると、女性は正座をして両手を床につけ、深く丁寧に頭を下げた。
「……ありがとうございます」
 ――調子が狂う。暗簾は額に汗を流し、助けを求めるように才戯に顔を向ける。才戯も困惑の表情を浮かべていたが、何も言わずに先に祠を出ていった。いつまでも頭を上げようとしない女性を目で追いながら、暗簾も祠を後にした。


「なんだ、あれ?」
 姿だけでも驚かされるというのに、あれほど扱いにくい女は珍しい。
 二人は祠の庭の、森側寄りにある切り株や岩に腰掛ける。呆れている暗簾の向かいで、才戯は頭痛に悩まされているかのような顔をしていた。
「才戯、なんだよ、あの女」
 何から話せばいいのか迷っていると、暗簾から質問を続けてくる。
「頭がおかしいとしか思えないんだが、ところで、あの女は自分で着付けができるのか?」
 ため息をつきながら、才戯は話し始める。
「……たぶん大丈夫だろう。言っとくが、あれは俺が着せたんじゃねえぞ。何か着ろと渡したら、勝手に着てたんだ。しかも、これ以上見ないでくれと言わんばかりの態度まで見せたし。ちゃんとものを考えることはできるらしい」
「と言うか、なんで裸なんだよ。お前が脱がしたんじゃないのか」
「バカ。死ね。冗談じゃない。最初から裸だったんだよ」
「はあ? どうやってここまで裸で来るんだよ。なんなんだよ、一体あれは誰なんだよ」
「分からない」
「分からない?」
「そうだ。あの女はまともなことを言わないし……だから、お前に話す。あいつはこの庭に、落ちていたんだ」
 才戯はそう切り出し、ここまでのことを暗簾に話して聞かせた。暗簾は黙って聞いているが、どこか半信半疑な様子もあった。



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