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 目を覚ました女性は、重そうに体を起こした。
 百年の眠りから覚めたかのような虚ろな目で右と左を見、目線を落として初めて、自分が裸だということに気がついた。
 そこにいる才戯の存在を視界に捉えていた女性は、布団を掴んで体を隠した。その仕草は落ち着いて見えたが、本人は慌てていたのかもしれない。
 相手の出方を待っていた才戯だが、女はそれっきり動きそうになく、声をかける機会も掴めないと思い、自分の着物を渡したのだ。
 そのときの女性も、布団から出てきはしなかったが、暗簾にしたように深々と頭を下げた。
 才戯は彼女から離れて背を向けて、着替えるのを待った。その間に聞こえてくる布が擦れる音を耳にし、邪念と戦いながらどうするべきかを考えていた。
 そのうちに、音が収まった。才戯は許可のないうちに振り返るのを戸惑っていたが、あまりの静寂に耐え切れなくなり、ちらりと目をやった。
 すると、女性はブカブカの着物をまとって、じっと床の上に正座をしている。
 終わったなら何か言えよと、心の中で愚痴りながら、才戯は改めて女性の前に向き合った。
「……おい」
 女性は、じっと才戯を見つめたまま、返事をしない。その目は虚ろで、感情が一切読み取れないものだった。目の前にいるのに、体が透き通って向こう側が見えるのではと錯覚させる。
 その死人のような表情は、とても、演技には見えなかった。もしも死体が動くとしたら、こんな感じかもしれない。
 しかし、彼女は呼吸をしている。目も見えるし、言葉も話せるのだ。神や妖ではなく、人間として、生きている。
「あの……」
 才戯が、ついじっと見入っていると、女性が初めて自分から声を出した。
「……ここは、どこでしょうか」
 女性の様子とその台詞は不自然ではなかったのだが、同時に、まさかという言葉が才戯の頭に過ぎった。
「あの」再び、女性は口を開き。「あなたは、どなたでしょうか」
 それはこっちの台詞だと思いつつ、才戯は勝手に喋り出す。
「……お前は、外の庭に、落ちていた」
 女性の目が、かすかに揺れた。
「落ちて、いた?」
「そうだ。俺は、お前が誰か分からない。ただ、落ちていたから、拾って、ここに運んだ。それ以外は何もしていない」
 女性は返事をしない。無表情だが、きっと困惑しているのだろう。
「お前がどうしてここにいるのか、聞きたいのは俺のほうだ。お前は一体どこから来た? 気を失う前はどこに、誰といたんだ」
 問われ、女性は押し黙る。もしかして、何も分からない、つまり、記憶喪失というやつなのか。そうだとしたら余計に困ると、才戯はできるだけいい答えが返ってくるようにと願いをかけた。
 その願いは、わずか数秒で取り消される。
「……分かりません。何も、分からないのです。あなたは、私をご存知ではないのでしょうか」
「……さあ」
 知らないとも、知っているとも言いにくかった。同じ顔をした人物なら知っているが、それと同一人物だという確証がない。
「では、なぜ、私はここにいるのでしょうか」
 お互いに質問ばかりで、少しも前に進んでいない。これは埒が明かないと、才戯は自分の知っていることを話すことにする。
「お前は庭に、裸で倒れていたんだ。それを放っとける奴は、あまりいないだろう。何事かと思って、ここに運んだ」
 女性はほんの少しだけ目線を下げた。自分が裸だったこと、裸を見られたことを恥じていると、今なら分かる。年頃の女性なら、普通の反応である。と言っても、まともな神経なら恥ずかしくて泣き出してもおかしくなさそうな状況だが、彼女のそれは薄いものだった。
 裸についてあまり触れたくないのは才戯も同じだった。話を進める。
「それと、お前は俺が知ってる女に似ている。最初は本人かと思った。だから目を覚ましたら事情を聞こうと待っていたんだが……お前は、何も分からないという。どうしたらいいのか分からないのは俺の方だ」
 女性は俯いたまま、しばらく何かを考え込んだ。このまま放っておいたらきっといつまでもじっとしていると感じた才戯は、とりあえず先に進む。
「まあいい。お前の名は? 分かることから話せ」
 才戯の言葉は聞いているようで、僅かながら瞳や指先が揺れている。しかし、返事は返ってこない。この質問に答えられないということは、もうお手上げだと、才戯は思う。
 女性は、分からないとは言わなかった。
「……あなたが私に似ていると仰る、その女性は、なんというお名前なのでしょうか」


  



 そこで、暗簾は素朴な疑問を抱く。
「ところで、あの女って、なんていうんだ?」
 才戯はすぐには答えない。質問の仕方が悪かったのかと、暗簾は続ける。
「名前だよ。そういえば俺、あの女のこと何も知らないんだよな。お前にちょっかい出してる怖い姉ちゃんとしか認識してなかったな」
 才戯はばつが悪そうに口を尖らせる。それは改めて聞かないで欲しいことだった。その表情の意味を、暗簾はすぐに分かった。
「……まさか、お前まで知らないわけじゃないよな」
「……いや、知らない、というか、ちゃんと聞いたことはなかったんだよ。それも、今回のことで気づいた」
 暗簾は呆れてため息をつく。
「ってことは、やっぱりお前はあの女と何もなかったってことか」
「当たり前だろ」
「何が当たり前かは知らないが、まあ、名も知らないで奉仕してもらうわけにはいかないからな。しかしお前が女に迫られて我慢できるとは、天変地異の前触れかもなあ」
 いちいち嫌味な言い方をする暗簾に苛立つが、今はそれに噛み付いている気力はない。才戯が込み上げる怒りを堪えていると、暗簾はあっさりと話を戻す。
「で、あの女は結局なんて名前なんだよ」
 ふっと蝋燭の火を消されたかのように、才戯もあっさりと思考を切り替えた。
 そもそも、樹燐は天上界では有名だとしても、魔界に名が轟くような存在ではないのだ。依毘士や鎖真なら紹介など不要だが、彼女とは初対面だった。改めて名乗ってもらわないことには覚えられるわけがなかった。
 樹燐の名は、初めて会った地獄の牢で交わされていた会話の中にしかない。依毘士や音耶が何度か口にしたそれが記憶の隅にあるだけだった。
 それも、もう細かいところまでは覚えていない。そう、確か――。


  



「……りん?」
 自信なさげに才戯が呟く。そんなような響きの名前だった気がすると、首を傾げてうーんと唸る。
 深く瞼を閉じて悩んでいる才戯の傍で、女性はその言葉を繰り返した。
「りん……その方は、おりん様と仰る方ですか」
 勘違いされたようだが、そこはいつまでも追及する必要はないと思う。才戯がそうともそうではないとも言わずに黙っていると、女性は、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「……その方は、いまどこに?」
「……さあ」
「あなたにとって、どのような人なのでしょうか」
 どうも、話がズレているような気がした。しかし才戯は、やっと表情を見せた女性を見て気持ちが安らいだことを否めない。今ここですべてを解決できるとは思えないのだ。世間話で場を凌いでいれば、もしかしたら何かを思い出すかもしれないし、女性を知る者が向かえにくる可能性だってある。才戯自身が本当にそれを望んでいるのかどうかは、本人にも分からないまま、会話を続けた。
「……たまに、会うだけの……知り合い」
 歯の奥に物が詰まったような言い方をしてしまう才戯だったが、まさか「勝手に人に惚れて追い掛け回して迷惑をかけているとんでもない女」とは言えない。言いにくそうな彼の態度を読み、女性はそれ以上問いただそうとはしなかった。
「……似ていると仰いますが、私がその方ではないのでしょうか」
 それは、未だに分からない。姿は似ているというよりも「同じ」である。中身が違うのは、記憶をなくしているのなら当然だろう。問題は、「人種」が異なることだった。それも、「その女は人間じゃないから」とは言えないものだった。
 もしもこの女性が樹燐ではないのなら、今ここに現れるかもしれない。才戯はそんなことを思った。もしそうなったら、樹燐は怒り狂って暴れるかもしれないが、女性の身元を捜す手伝いはしてくれるだろう。面倒なことになるのは目に見えているが、謎が解けるだけでもすっきりする。それはそれで構わないと思う。
 もしくは、この女性が樹燐の送り込んだ罠であることも可能性としてある。それもまた、このまま謎に振り回されているよりはいい。ただ、長期戦だけは勘弁して欲しいものだった。
 最悪の答えは、樹燐が二度とここに現れないこと。もしくは、ここにいる女性が、何かしら訳あって変貌した樹燐本人であることである。もしもそうだとしたら、彼女の正体は永遠に不明のままになるのかもしれない。そのとき、才戯はこの女性をどうすればいいのか、まったく想像できない。
 なんにせよ、このまま自分だけで抱え込める問題ではないと思う。関係ないからと、自分の名さえ分からない女を無一文で放り出すという選択肢はない。そこまで酷いことをしなければいけない恨みがあるわけではないのだ。だとしたら、女性がどこか安全な場所に保護されるまでは、できればだが、見届けたいと思う。


  



 そこまでを、才戯はダラダラと暗簾に話した。
 もちろん才戯は間違っていないし、気持ちも分かるのだが、昔から彼を知っている暗簾には違和感があった。
「あのさあ」
 暗簾のぼやくような口調で、また言われたくないようなことを言い出すのが、才戯にはすぐに分かり、心構える。
「そんなもん、迷子ってことで奉行とか与力かなんかに引き渡せばいいんじゃねえの? そのほうが、あの女の身内が名乗り出てくる可能性高いんだし。こんな隠れ家みたいなとこに置いといても誰も気づかないだろ、普通」
 確かに、そうかもしれない。
「まあ、そうだけど……」
 言い訳したそうな才戯を遮り、暗簾は続ける。
「勿体ないんだろ?」ニヤリと、嫌な笑みを浮かべ。「分かるよ。あの女、元々外見は最高だったもんな。中身さえ大人しくなれば完璧だもんなぁ」
 うっ、と才戯は息を飲む。
「しかも、あの落差の激しさ。刺し殺す勢いで迫ってた女が、突然、全身惰弱状態で現れたら、そりゃあ目も眩むよな」
 否定はできない。女性の正体が気になるというのも嘘ではないのだが、どこかで何かを期待しているのも隠しきれないでいる。
 そもそも、若くて美しい女が裸で倒れているのを見て、なんとも思わない男がいるわけがないのだ。ここまで手を出さなかった自分は褒められて然るべきではないのかとさえ思う。
「昔は生娘だろうが人妻だろうが、ところ構わず食い散らかして恨み買ってたお前が、ねえ。まさか自分から脱いでる女に服を着せて、大事に大事に介抱してるなんて、時代は変わるもんなんだな」
 暗簾の性格は分かっているのだが、こんな奴しか相談できる相手がいない自分が情けない。
 しかも今の暗簾の姿は小柄かつ童顔であり、本来ならこんな大人びた下品な発言など出てくるものではなかった。昔の憎たらしい姿にも苛立たされていたが、少年のそれで皮肉られると、子供に見下されているようで尚更腹立たしい。悔しいやら悲しいやらで暗簾の顔面を殴りたい衝動に駆られるが、それはしてはいけないことだと、ぐっと我慢する。
「そ、そういうことじゃない」
 本当は、あの幻のことが引っかかって仕方なかったのだ。
 苦しみながら血に塗れる樹燐。そして、幻と同じ位置に傷を持つ女性。どうしても無関係だとは思えない。
 仮に樹燐が何者かに刺され、命を落とし、その転生があの女性だと想像しても――転生までは時間がかかるものである。それに転生は胎児から始まるものであり、今の年齢になるまでの軌跡があるはず。死と同時に、同じ姿で前世での傷もそのまま生まれ変わることは、輪廻の法則に矛盾している。
 それに、と才戯は思う。
 あの女がどうしてあんな目に遭わなければいけなかったのか――幻が本当にあったことならば、理由を知りたかった。もしも樹燐が不慮の事故で太刀打ちできない苦痛を受けた末、無念の死を遂げたとしたら――自分の元に落ちてきたこの薄弱の女性が、何かを伝るためにここに来たのではないだろうかと、そんな予感を拭い去ることができないでいたのだ。それがただの考え過ぎなのかどうかを確かめないことには、いつまでも気になって引きずってしまうような気がしていた。
 しかし才戯は、そこまでを暗簾に話すかどうかは迷いがあった。所詮は幻影であり、悪い夢のようなものとも言える。落ちてきた女は現実だが、幻は、まだ、幻でしかない。
「じゃあなんだってんだよ」
 なにやら悩んでいる才戯に軽く言い返しながら、暗簾はさっと立ち上がった。
「まあいいや。そうそう、お前、明日宿替えしろ」
「は?」
「いいところ見つけてたんだよ。空き家になってだいぶ経つから荒れてるけど、整えればいい住処になるだろう」
「勝手に決めるなよ。それに明日だと? そんな急に……」
「ちょうどいいだろ。まさか女にこんなとこで生活させるつもりか? お前も女も身一つで移動するだけで済むんだから楽なもんだろ」
「……な、なんで俺があの女と暮らすことになってんだよ」
「別に女がいようがいまいがここに留まる理由はないだろう。そうだ、こうすればいい。あの怖いほうの姉ちゃんが出てくるまで、女を預かる」
「……は?」
「それで一つは謎が解けるだろう? もし女神の姉ちゃんが別人なら、意地でも追い出すだろうし。あの女がもし二度と出てこなかったら、そのときは……同一人物だったと解釈するもよし、それ以外の仮説を持つもよし」
 言葉を失っている才戯に、暗簾は呆れながら続ける。
「なんにせよ、俺たちは人間として人間界で生きているんだ。少なくとも今生では、俺たちから天上界に介入する手段はない。何の動きもないうちは考えても無駄だろ」
 その通りだと、才戯は項垂れた。理由はどうであれ、女性を無情に見捨てることができないのが本音である。そうなれば、確かにこの祠で女性が生活するのは不便を通り越して、無理というものだ。
 女の面倒の見方を知らない才戯が頼れるのは暗簾だけだった。今は言うことを聞くしかないと腹を括る。だが感謝するつもりはなかった。頼まなくてもどうせ首を突っ込んでくることが分かっているからだった。
「とにかく今日は何か話をして、てきとうに過ごせ。明日の朝に俺が迎えにきてやるから。そのことも女に伝えておけよ」
 言いながら帰ろうとしている暗簾に、才戯は慌てて声をかける。
「おい。伝えておけって、女がいやだと言ったら……」
 暗簾は足を止め、いい加減にしろとでも言うように才戯を睨み付けた。
「ゴチャゴチャうるせえな。女一人くらい、一日もあれば口説けるだろ。そのくらい自分でなんとかしろ」
 なんて無責任な意見だと、才戯は開いた口が塞がらない。
「そんなことをして、女の身内が現れたら? もしも、女に旦那や婚約者がいたら……」
 情けない。何事にも等閑なおざりだった才戯がなにを悩み、こうも弱気になっているのか知らないが、暗簾はもう付き合いきれなかった。できることは協力してもいいが、二人の関係まで取り持つつもりはない。
「そんなもん、女から離れられなくさせればいいだけだろうが。できないなら、お前がそれだけの男だったってことだよ」
 暗簾は背を向けながらそう言い捨て、呆ける才戯を置いて立ち去っていった。



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