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 そのことを思い出しながら、りんは暗簾の前で同じような笑顔を浮かべていた。
 その意味が、暗簾には分かった。りんは、心も体も裸だったのだ。そこに着物、住まい、そして名前と、一つ一つ、「自分」という衣を着せていっているような感覚なのだろう。不安が徐々に減っていっているのだ。恵まれている状態ではないが、今の彼女はどんな小さなことも幸せに感じる、ある意味羨ましい人間なのだと思う。
「……りん、ね。じゃあ俺もそう呼ぶことにする」
「はい。ぜひ」
「で、俺のことは聞いてる?」
「え、あ、はい。少し……」
「別に詳しく知ってもらおうとは思ってないけど、俺は暗簾」
「はい。暗簾様……」
「俺も様はいらない。それと、人前では見かけても声はかけるな。少なくとも、暗簾とは呼ばないでくれ」
「え?」
「俺は普段、別の人間として生活してるんだ。暗簾は妖怪の名だから、身内に知られると困るんだ」
 意味が分からないと、まるで顔に書いてあるような表情をりんは浮かべていた。それを見て、暗簾は首を傾げる。
「もしかして、聞いてなかったのか?」
「……な、何を、でしょうか」
「俺も才戯も、半妖ってことを」
 りんは更に呆然とする。妖怪という言葉は知っているが、実在するとは思っていなかったし、それがまさか目の前にいるなんて信じられるわけがなかった。
 もしかして自分が記憶をなくしている間に、世の中で妖怪と言う存在が架空のものではなくなってしまったのだろうか。それにしても、彼らが妖怪だったとして、人間とどこが違うのかもぴんとこない。大体妖怪とは、どんな生き物なのか。そんなことを止め処なく考えているうちに、りんは気が遠くなりかけていた。
 彼女の眼球が妙な動きをしたことに気づき、この程度で倒れられては困ると、話を続けた。
「まあ、体は人間だから、普通にしてれば変わったところはない」
 暗簾の声を聞いて、りんは気を持ち直した。片手で頭を抑えて、何度も瞬きをしている。
「俺と才戯は昔、妖怪だったんだ。いろいろあって、魂と記憶を持ったまま人間になっただけだよ。妖力も残ってるけど、昔ほどじゃない。たまに変なことが起こるかもしれないが、お前に危害を加えることはないから心配しなくていい」
 ウソだとは思わないが、すぐに信じることはできない。心配しなくていいと言われているのだから、気にしないでいようと、りんは考えないことにした。
「まったく、才戯の奴、そんな大事なことも言わないで何やってんだよ。あんたよくあいつに着いていく気になったよな」
「え……そんな」
 人が住んでいるなんて信じ難い、薄暗い祠だけで胡散臭いものなのに、と思う。
 りんも立派な不審人物だが、相手からすれば、才戯も得体の知れない見知らぬ男なのだ。せめてここが普通の人家であり、親兄弟も同居しているなら雰囲気も違いそうなものだが、どうしてりんが怖がらずにここに留まったのか、暗簾には理解し難かった。
「奉行が安全かどうかも、確かに怪しいけどさ。才戯のことを何も知らないで、もしかしたらとんでもない悪人で、あんたに乱暴したり、どこかに売り飛ばされたって文句言えないんだぜ」
「それは……」
 りんは言葉を失い、俯いた。
「お前、あいつに気があるんだろ」
 ――と、言おうとしたが、暗簾は咄嗟に言葉を飲み込んだ。二人がどうなるのか、才戯がどうやってりんを口説いていくのか、暗簾の楽しみの一つとなっている。それに関しては、自分の言動でいい方にも悪い方にも左右させたくなかった。
 そういえば、現段階で二人がどうなっているのか、まだ分かっていない。こんな狭いところで男女が寝泊りすれば、普通は体の関係を持っていてもおかしくないのだが、どうやら才戯は昨晩ここにいなかったらしい。なぜ出ていったのか、肝心なことを聞いていない。
 それにしても、一体才戯はいつ戻ってくるのだろうと思っていると、そのうちにりんから口を開いた。
「……今の私には、信じることしかできないのです」俯いたまま、複雑な表情を浮かべている。「逆に言うと、何も信じることができません。でも、信じなかったら、この世のすべてを疑うしかないのです。本当は不安で、心細くて、宛てもなく逃げてしまいたい……だけど才戯様と暗簾様は、そんな私を拾って、とても親切にしてくれます。今はそれだけが救いなのです」
 りんは胸に手をあてて、優しい笑みを浮かべた。その姿は汚れの一切ない純粋なものに見えた。女性というよりも、少し距離を置いて繊細に守っていかなければいけない幼い少女のようである。
「暗簾様の仰るとおり、無一文の私など、どんな目に遭ってもおかしくありません。なのに私は少しも痛い思いをせずに、とても安らいでいます。こんな幸運が他のどこにあるでしょうか。だから私は信じると決めたのです。それで万が一、才戯様に裏切られることがあっても、後悔しません。私は一人では生きていけません。でも、今は一人ではない。だから、一人になってしまうまで、目の前にある大きな救いを信じ続けるのです」
 
 ――ああ、なるほどね。
 りんが言い終わって一瞬の間を置き、無表情でりんを見つめて話しを聞いていた暗簾はそう思った。
「……お前、それ、才戯にも同じことを言っただろう」
「え?」はっと顔を上げ。「え、あ、はい」
 どうして分かったのか、どうしてそんなことを聞くのか、りんには分からなかった。暗簾は返事を聞き、やはり、とため息を漏らした。
(……そんなこと言われたら、そりゃ、何もできないよな)
 言われた傍から理由もなく手を出そうものなら、やはり体が目的だったのだと思われるのは確実である。りんに多少の人生経験があれば、当然の成り行きとして受け入れてくれるかもしれないが、そううまくはいかなかったらしい。
 せめて部屋がいくつかあればいいのだが、この裸同然の女性と、こんなところで夜を過ごすことになれば理性が切れないわけがない。だから明日の宿替えを心の支えに、その夜は彼女と別の寝間を求めてここを出ていったのだろう。
 ということは、きっと才戯は夜の繁華街で鬱憤を晴らしていたに違いない。正直、男として同情してしまう。
「……お前ってさ、根っからの、鬼だな」
「えっ」
 何も考えずに呟いた暗簾の言葉に、りんは短い声を上げた。
「ま、才戯が好きでやってることだからいいけどさ」
 りんに情がなければそこまで遠慮する必要はないのだ。遠慮するということは、情があるということなのだろう。どうやら才戯はこの女の術中にハマりつつあると予感し、ぼんやりと未来が見えてきたような気がしていた。
「あ、あの、私……何か間違っていたでしょうか」
 りんが不安そうに尋ねてくるが、暗簾は素知らぬ顔ではぐらかす。
「いや、別に。で、昨日は他に何をしてたんだ?」
 暗簾の態度や言葉の端々には気になることが多かった。だが問い詰めることも出来ずに、りんは聞かれたことに答えていった。
 昨日は才戯と話をしながら、庭や森を少し歩いただけで町へはいかなかった。りんの体調があまり優れなかったのだ。怪我や病ではなかったのだが、疲労がたまっているようで、すぐに頭がぼんやりしてしまっていたのだ。
「ああ、だから昨日はあんなバカみたいな顔してたのか」
 あまりに直接的な言葉に、りんは少し面食らう。
「え、ええ。失礼いたしました。でももう大丈夫です。昨日ゆっくり眠ったら元気が出ましたので」
「そりゃよかった」にやりと、変な笑いを浮かべて。「でも、才戯の方はゆっくり眠れてないだろうけどな」
「え?」
 とぼけた声を上げるりんに、暗簾は疑惑の目を向ける。記憶がないだけで、頭が足りないわけではないのだ。りんとてこの状況で男と二人きりになって、何も思わないわけがない。
「昨日あいつがどうして出ていったのか、そしてどこへ行ったのか、本当は分かってんじゃないのか? あんたも子供じゃないんだし、そのくらい考えれば……」
「!」
 突然、祠の戸口にあった置き傘が、物凄い音を立てて飛んできた。傘の柄が見事に暗簾の頭に直撃し、りんは目を丸くして後ずさった。
 傘が飛んできたほうを見ると、目が血走った才戯がいた。
「暗簾! なんでお前がいるんだよ」
 怒鳴りながら上がりこみ、涙目で頭を抑えている暗簾の胸倉を掴みあげた。
「……この野郎」暗簾も負けじと才戯に掴みかかる。「恩人に対してなんてことしやがる! 朝に迎えに来るって言っただろうが。もう忘れたのか、この鶏頭! てめえはもう一歩も歩くな。地べたでも這ってろ」
「こんな早くだなんて誰も思わねえよ。どうせ忍び込んで探りいれるつもりだったんだろう、この腐れ寄生虫が!」
「ふざけんな。こっちが善意で協力してやってるのに、なんなんだその態度は!」
「頼んでもないのに勝手に首突っ込んできてるだけじゃねえか。調子に乗るな!」
「最初に鬼火寄越してきたのはてめえだろ! ほんっと、頭悪すぎだよ。もう五回くらい死んでやり直せ!」
 なぜ才戯がこんな怒っているのか、りんにはまったく理解できない。ただ二人から離れてうろたえるしかできなかった。
 しかし暗簾には、理由が分かっていた。才戯は暗簾が来る前に戻って、何もなかったかのように振舞おうとでも考えていたのだろう。なのに思ったより早く自分が訪れていて、きっとりんから才戯がいない理由を聞いていたに違いないと思った。だから、恥ずかしくて逆上してしまっていたのだ。
「あの、あの……その」
 二人をまだよく知らないりんからすれば、殺しあうかのような勢いである。とにかく止めて欲しくて声をかけると、ぴたりと二人は沈静した。もう一回睨み合い、互いに押し返すようにして離れた。
「おい、りん」
 まだ怒りの収まらない様子の才戯に呼ばれ、りんはぴんと背筋を伸ばした。
「は、はいっ」
「暗簾を見た目で判断するなよ。信じるなとは言わないが、こいつは子供じゃないんだ。中身はとんでもない鬼畜野郎だからな。あまり無防備に近付くなよ、いいな」
 本人を目の前に、建前でもはいとは言えない。りんが戸惑っていると、暗簾は軽い笑い声を上げた。
「へえー、人のことが言えるのかなあ? ま、何でもいいけどさ、別にお前の女に手を出すほど飢えてないから、それは安心しろよ」
「はあ?」才戯は牙をむき出し。「てめえなんか敵視してねえよ。変なこと吹き込まれないかを心配してるんだよ」
 恩を仇で返されてもヘソを曲げないのが暗簾である。今の立場は、明らかに才戯のほうが不利なのだ。暗簾はそれだけで十分だった。
「それも心配ご無用。邪魔しようなんて思ってないから、そんなにムキになるなって」
 確かに、とりんは思う。暗簾の外見とは不釣合いな大人びた言葉や態度は、とても十五の少年とは思えない。彼は自分たちが半妖だと言った。それが原因なのか、今のりんにはとても判断できることではなかったが、才戯の言うとおり、普通の少年のつもりで接してはいけないことだけは忘れないでおこうと心に留め置いた。
 才戯が舌を打ちながらりんから目を逸らしていると、暗簾が頭を擦りながら腰を上げた。
「あーあ、まったく、恩の売り甲斐のない奴だなあ」
「なんだと?」
「いちいち睨むなよ。ほら、行くぞ」
 言いながら、さっさと暗簾は戸口へ向かう。
 一瞬、どこへ? と言いそうになったが、すぐに「そうだった」と思い直す。
 新しい住まいだ。才戯は事態を目前にして初めて、この祠とはお別れなのだということを実感した。
 すぐに後を追うことができなかった。りんは風呂敷包みを抱きしめた形で、二人の様子を交互に伺っていた。
 人が住まうには不便なこの場所に、何の未練もない。そう思っていた。未練はないが、思い出はある。
 改めて、不思議な祠だったと思う。建物は何もしていないのだが、ここにあるだけで様々な運命を繋ぎ、世界に見えない影響を与えてきたのだ。一言も喋らずして、この世の何もかもを知っているのではないかと錯覚させる。
 悲しくも、怖くもない。もしも祠が口をきけるのなら、むしろ「行きなさい」と背中を押しているような気がしていた。まるで、父親が子供に未来を託すように。
 そのとき才戯は、今まで一人でここに甘えていたことに気がついた。そう思った途端、足が動いた。
「……行くぞ」
 自分を待っていたりんを見向きもせずに、言いながら戸口を潜る。りんは小さな返事をして後を追った。


  



 暗簾を先頭に、三人は半刻ほど雑談を交えながら移動した。人に見られたくないと、暗簾は町を迂回して森の中を進んだ。森を抜けると人家のほとんどない田園が広がっていた。一面に小金色の稲穂が背を伸ばしており、そろそろ頭を垂れて収穫時を迎える。朝焼けに包まれたその風景が幻想的に映り、りんは無意識にため息を漏らしていた。残りの二人は情緒になど興味を示さず、中身のない会話を交わしている。
 黄金の空間を抜けると、大きな川が横切っていた。田へ水を引くためだけのそれの河川敷と畦道は雑草が生え放題になっており、橋が架かっていることに気づく者は少なかった。
 なぜなら、橋の向こうに用がある者は、今では皆無に等しかったからである。朝露で濡れる裾を両手で少し引き上げながら、暗簾は橋を渡る。橋は幅もあってしっかりしているのだが、避けられないほど雑草や苔が生えていたため、慣れない者は滑り落ちないように下を向いてしまう。
 後ろを黙って着いてくるりんに、才戯は今まで一切声をかけなかったのだが、ここでちらりと様子を伺った。気を遣って手を引いてやるべきか考えてみたが、迷っているうちにりんは足元を見つめたまま渡り終えてしまった。
 橋を背に顔を上げると、視界は白い霧に包まれていた。霧の隙間からは竹林が見え隠れしている。橋を渡った途端、まるで異界に迷い込んだような不気味さがあった。早朝の冷たい空気や、川から漂う湿気などによって霧が多いのは仕方ないことなのかもしれないが、それを差し引いても、どうも怪しい。
「……暗簾」才戯が嫌な予感を抱き。「なんだよここは」
「ああ、少し寒いな」
「寒いとかの問題じゃねえよ。ふざけたところだったら許さねえからな」
「何言ってるんだよ。お前にはぴったりのところだぜ。文句は見てからにしな」
 進むと、霧は更に深くなった。このまま何も見えなくなってしまうのではないかと不安になったが、足を止めるまでもなく、すぐに霧は薄くなった。
 目の前に、靄がかった古い建物が現れた。周囲は竹林で囲まれており、人の近寄りがたい空気は、祠の雰囲気によく似ていた。
 二人の背後で、りんもその神秘的な景色に目を奪われていた。
 竹林はおそらく人口的に造られた囲い代わりだったのだろう。人が住まなくなってかなり経っているのか、庭は荒れ放題で雑草だらけだが、まるで四季を無視したかのように様々な花や草木が入り混じっている。その隙間には石畳や灯篭も見え隠れしていた。
「なかなか立派なもんだろ」暗簾は得意げに笑い。「土地は百坪程度。屋敷も洒落た造りになってるし、部屋数も多く、台所も風呂も井戸もある。何より、ここは人がほとんど近寄らない」
 確かに、表立って目立ちたくない才戯には都合のいい場所だと思う。
「買い手がつかなくてどんどん値下げされてたんだ。最近はもう存在さえ忘れかけられてた、あるいわく付きの物件だ」
「……いわく付き?」
 やはりただではないようだと、才戯は眉を寄せる。
「なんてことはない。ただ、人が死んだだけ」
 そんなことか、と才戯はやっと納得した。人からすれば人が死んだ家になど近寄りたくないものだが、彼らにとっては「なんてことない」ことだった。
 噂によると、ある夫婦が念願の一軒家を建てた。子供が何人生まれてもいいようにと、夢を抱いて。だが夫婦はなかなか子宝に恵まれないまま、この広い屋敷で年を取っていった。年々寂しさを増幅させていき、諦めかけていた頃、夫婦に思いがけず一人娘が授かった。そこから夫婦は明るさを取り戻して、娘を大事に大事に育てていた。しかしその幸せは続かず、夫婦が留守の間に娘は何者かに殺されていた。犯人は見つからないまま、夫婦は絶望に捕らわれ、誰もが哀れむ中、遺書も残さずに自殺してしまっていた。
「まあ、噂だから、本当のところはどうなのか分からないんだけどな」
 暗簾は軽く言うが、才戯でさえ気分の悪くなる話だった。りんは黙って青ざめている。
「あんまり気にするな。ただの病だったとも言われている。それでも不幸であることには変わりないんだがな」
「まあ、他人のことだからいいけど……」才戯は腑に落ちない様子で。「しかし、これほどの立派な屋敷なら、噂は噂で買い手くらいつくんじゃないのか」
「火のないところに煙は立たないって言うだろ? 不吉な噂には理由があるんだよ。ほら――」
 暗簾は言いながら、屋敷を指差した。
 才戯が彼の指したほうを見ると、靄の隙間で何かが動いた。
 人魂だ。
 しかも、複数いるようである。
「なるほどね……」
「もちろん、今まで安値で取引されて何度か人が入ったことはあったんだよ。でもそのすべてが尻尾を巻いて逃げていったってわけ。お払いもされたようだが、効果はなし。土地自体に元々問題があったのかもな」
「人魂だけか? 知らない奴に夢枕に立たれるんじゃ落ち着かないぞ」
「大丈夫。お前だけなら放っとくつもりだったが、お節介ついでに掃除もしてやっといたから」
「掃除?」
 ふっと、一つの火の玉が才戯の目の前を横切った。その馴れ馴れしい動きは、人魂とは違う。靄の中を現れたり消えたりしている人魂より一回り大きい、不自然な緑の色のそれは、暗簾の鬼火だった。
「昨日あれから立ち寄ったんだよ。五つほど作って性質の悪い自縛霊は追い払っといた。残りのは浮遊霊だけだから、邪魔なら自分で片付ければいい」
 有難いようなそうでもないような。才戯は微妙な気持ちで屋敷を見つめていた。
「……自縛霊って、やっぱりよほどのことがあったんじゃないのか?」
「だから、元々この土地にいた奴かもしれないだろ? それが瘴気を溜め込んで悪い霊を更に寄せ付けていた線が濃いと、俺は思うけどな。それと、たまに神経の図太い浮浪者が迷い込むこともあったんだ。ついでに、二度とこないように脅かしといたから」
「そ、そうか……」
 用意周到な奴だと才戯は思うが、どうしても素直に感謝する気にはなれなかった。
「ここはもう変な気が溜まりやすい、普通の人間じゃ太刀打ちできない状態になってる。このまま腐らせるよりお前に使ってもらったほうが屋敷も嬉しいだろう」
 親切心を持ってのことなのは間違いないのだろう。自分に遠くへいかないで欲しいという暗簾の願いを叶えるかのようなこの屋敷を、才戯は悪くはないと思う。
 変なものがうろついているとは言え、危険はない。ここならりんも過ごしやすいだろうし、もしも「人ではない誰か」が来ても、人目を心配することもない。
 不満はない。その答えを表情に出してしまった才戯を見て、暗簾は笑った。
「よし、じゃあお前も鬼火を出せ」
「?」
「この広さを二人で片付けるのは大変だろう。俺のも貸してやるから、今日中に済ませてしまえよ」
 言われて、今からこの屋敷を住める状態にしなければいけないことを思い出す。室内だけでも大変そうなのに、庭も酷いものだった。自身は掃除など慣れていない。今までも身の回りのことは鬼火にやらせてきた。
「俺はそろそろ戻るよ。門番に朝の散歩って言って出てきたから」
「あ、そ」
 愛想のない返事を返しながら、才戯は手の中に息を吹き込んだ。慣れた手順で鬼火を作り、一気に数匹のそれを解き放った。
 鬼火は主人の性格に似るときがよくある。そのことを象徴するかのように、見た目はほとんど同じなのだが、暗簾と才戯のそれらは互いに威嚇しながら辺りを激しく飛び回り、時折ぶつかり合っている。異形のそれらの小競り合いに怯え、臆病な人魂たちは逃げるように屋敷の奥へ姿を消していった。
 二人がその様子を眺めていると、背後で人が崩れ落ちる音がした。反射的に振り向くと、あまりの異常な光景に着いていけずにいたりんが、とうとう気を失って倒れていた。



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