第5章 残酷な月の下
 次の朝も一行は予定通りに出発していた。
 だが、異常に重苦しい空気が流れている。今日はエスが運転し、助手席にはカイル。後部にはシェルを挟んでブラッドとココナ。ブラッドは頬を腫らし、片目に青い痣ができている。シェルが彼の顔を見るなり驚いて理由を聞いたが、本人は転んだとしか言わない。しかも顔色は悪く、周りに気を遣う余裕もなく、座席でだらしなく背を丸めていた。
 エスはとにかく機嫌が悪かった。本当は一番体の大きいブラッドが助手席に座るはずだったのだが、エスが絶対嫌だと言い張って聞かず、仕方なく後ろに詰め込まれてしまったのだ。
 シェルが隣でブラッドの体調を気遣う。
「大丈夫ですか?」
「うん……」
「昨夜はあまり休まれなかったのでしょうか」
「いや……夢も見ないほどよく寝たよ。永眠するかと思うくらいね、ちょっと深く寝過ぎたかな」
 ブラッドはそう言いながら、無理に作り笑いをする。シェルは彼の異様な笑いに体を引く。それ以上は声をかけなかった。
 会話など弾むこともなく、やっとオーラドールの森を抜ける。再び荒野が広がり、遠くに山脈が連なっていた。ココナが地図を広げて場所を確認する。
「あれを越えればサンデリオルだよ」
 誰も返事をしない。シェルは気が気ではないが、声を出す勇気は出なかった。ココナは構わずに続けた。
「順調にいけば明日には山に着くね。あの山脈には妖魔はいないし」
「そ、そうなんですか」やっとシェルが口を開く。「よかった……」
 だが、会話は続かない。ココナは黙って地図をしまった。

 山越えしたところで日が暮れた。一同は途中、二回ほど休憩を取ったが、雰囲気は一向によくならなかった。
 今日は岩場での野宿となった。昨夜と同じく、ココナが張ったテントに女性が、車の中にブラッドが一人で過ごすことに誰も文句は言わなかった。今日はシェルも大人しくテントに入る。中でココナがブラッドの体調を心配した。
「ねえ、エス」恐る恐る。「ブラッド、きつそうだったよ」
「だから?」
 エスは目も合わせない。
「見張りの順番、代わってあげたら?」
「体調管理は自己責任よ。あたしには関係ないわ」
 エスは無情に言い切って、さっさと布団に入る。沈黙になる。今日のエスはいつも以上にブラッドに冷たい。理由は分からないし、聞けないが、少し扱いが悪過ぎないかと思う。なんとかならないものかとココナとシェルが思案する中、カイルが立ち上がった。
「今日は俺が代わるよ」
「えっ」
 カイルの意外な行動にエスも飛び起きる。
「カイル。やめてよ!」
「ブラッドが下手を打てば、エスの仕事にも支障が出る。エスの為に、俺が勝手にやりたいだけだ」
「でも……」
「お前の悪いようにはしない」
 黙って俯くエスに軽く微笑んで、カイルはテントを出ていった。それを見送って、シェルがやっと胸を撫で下ろす。
「カイルなら安心ですね」
 だが二人は頷かない。シェルは首を傾げる。
「ど、どうしたんですか」
 ココナにいつもの笑顔はなかった。
「シェル、寝よ。カイルには逆らえない」
「は、はい……」
 どういう意味か分からないが、漂う重い空気に圧されて、シェルは理由の分からない不安を抱いたまま、眠りについた。

 車内でブラッドがだらけている。重い瞼を必死で持ち上げ、睡魔と戦っていた。ドアがノックされる。顔だけ動かして誰かを確認する。カイルだった。ブラッドは開けた窓越しに呟く。
「……何か用か」
「出て来い。話がある」
 カイルに連れられて、ブラッドはふらつく足取りで岩場を歩いた。夜空に輝く月は三日前より細くなっていた。
「話って何だよ」ブラッドは苛立ちを隠さずに。「俺は疲れてるんだ。余計な体力を使わせるな」
 カイルは少し高い岩に登り、腰を下ろす。面倒臭くなったブラッドはその場に座り込んだ。カイルは足を組み、ブラッドを見下ろす。ブラッドが見上げると、カイルの頭上にちょうど細く尖った月がかかっていた。
「俺が誰に仕事を依頼されたか、分かるか?」
 ブラッドは、カイルの唐突な質問に戸惑う。
「……知るわけないだろ」
 カイルは表情を変えずに、まるで呪文のように呟いた。
「ランウォルフェン・サイバード」
 ブラッドの耳には確実に届いていた。それはどこかで聞いたことのある名前だった。いや、名前そのものを聞いたわけではない。近しい者の、本当の名前だ。ブラッドの勘が働く。
「それって」ブラッドはまさかと思いつつ。「ランのことか」
「そうだ。仕事を貰ったんじゃない。ランから雇われた」
「どういうことだ」
「依頼内容は──『エスを守れ』」
「……え?」
 疲れや眠気など、走る寒気で掻き消された。ブラッドは緊張する。カイルは続けた。
「五年前に契約し、仕事は今も続いている。毎月決まった報酬がランから支払われている」
「ランが……なんでエスを?」
「知りたければよく聞いていろ。一回しか話さない」
 カイルは月を背に、ぞっとするほど冷たい笑みを浮かべる。聞いてはいけない、ブラッドはそう思ったが、もう遅い。静かに耳に集中する。
「ルークスという男を知っているか」
「ああ……デスナイトで天才と言われた伝説の冒険屋だ。五年前に死んだ。有名な話だ」
「その男の死んだ理由を聞かせてやる」カイルは静かに話し出した。「ルークスが死んだ五年前まで、ランはデスナイトに配属していた。ランもまた天才と言われる冒険屋だった。ランの仕事は、今時の目立つことしか頭にない無能な冒険屋とは違い、確実かつ地味なものだった。ランは積み重ねた功績を認められ、若くして司令官の地位を手に入れた。そしてルークスはそんなランの最も信頼する部下だった。ルークスもまた、ランには何度も助けられたし、彼を尊敬していた。二人の間には厚い信頼関係が成り立っていた。すべては順調だった。完璧だと言っていいほど。だが、ランはある古文書を見つけてしまったんだ。そこから運命が大きく変わった」
 ルークス、ランという名から、ブラッドの勘が先を読んだ。
「古文書? まさか、ロースノリア……?」
「そうだ。太古にロースノリアの力を勝ち取ったのは獣人、ランの先祖だった」
 ランの一族、サイバードにその古文書は受け継がれてきた。中身はサンデリオルとほとんど同じことが書かれていた。ただ、書き足されていた部分は、人間とは違うものだった。
 サイバードは力を手に入れるために卑劣な手段を使った。それは生贄という手段を使った人間よりも残酷なものだった。古文書には、人間の少女の中にロースノリアの竜を封印し、谷底に閉じ込めたと記してあったのだった。生贄となった少女は僅か十二歳。生きたまま四百年、現代まで、たった一人で谷底で眠り続けていた。
 そのことを知ったランは先祖の罪を恥じ、償う方法を考えた。その少女が本当に存在したのか、したとして、今どうなっているのかなど想像もできなかった。普通に考えれば、少女が谷底に閉じ込められたのは四百年も昔のこと。既に息絶え、骨さえ残っていないだろう。しかしランは、そうだとしても、証拠は何もなかったとしても、古文書に書かれた事実を知りたくてじっとしていられなかった。
 最初はランが自ら谷に行こうとしたが、それをルークスが止めた。デスナイトで地位を持った者が勝手に動くことは禁止されている。そしてランは冷静を取り戻し、ルークスに『少女を救い出せ』と依頼したのだ。ルークスは快く受けた。そして任務を遂行した。
 少女は未だ、谷底で眠り続けていた。未開の谷間の奥、不自然な洞穴の中に、少女が膝を抱えて寝息を立てていたのだった。竜の姿はなかった。しかし少女の中にいることを示すように、彼女は薄い光に包まれており、飢えも汚れも無縁の状態で守られているのがルークスの目に映った。
 信じられなかった。信じられなかったが、伝説というレベルのできごとに「常識」など通用しないと、目の前にあるすべてを受け入れた。
 ルークスが少女に触れた途端、光は消えた。抱きかかえるにも余計な力は要さず、少女は人間として目を覚ました。
「だが問題があった。少女の存在理由と、居場所だ。少女が封印されたのは四百年も昔。本人は記憶を失っていたし、家族や出生どころか自分の名前さえ覚えていない。そこに現れたのが、マザーの工作員だった。マザーはいろんな理由で『一度死んだ女を殺し屋として育成する』組織だ。調べれば分かることだが、マザーの女は戸籍がない者ばかりだ。最初から存在しないか、死亡したことになっている。つまり、死のうが殺そうが誰も干渉できないということだ。逆に、どんな謂れのある女も簡単に受け入れることができる。ランもルークスも、彼女を引き取ると言ったマザーの申し出を断ることができなかった」
 ブラッドの額に嫌な汗が流れた。思うことを言葉にするが、声が震える。
「まさか、それが、エスだってのか……?」
 カイルは答えなかった。愚問だと言わんばかりに一度目を伏せ、話を続けた。
「それでも、ランはずっと罪の意識を感じ、少女の身を案じた。そこで、再びルークスに『少女を守れ』と言う依頼をした。ルークスは天性の冒険屋だった。見合った依頼は断らない。命を懸けて遂行する。ルークスはその為に──一度死んで、マザーの一員として生まれ変わった」
 カイルはそこで口を閉じる。沈黙し、彼に考える時間を与えた。ブラッドは混乱していた。確認したいことが山ほどある。本当なら、とんでもない話だ。シェルからサンデリオルのことを聞いたときはこれほどの衝撃はなかったのだが、今回のロースノリアに関しては話が違う。対象が身近過ぎるからだ。
 まさか、と思いつつ、予感を否定できない。恐怖を抑え、確信に迫る。
「なんで……そんな話を俺に……?」
 カイルは口の端を上げる。
「冥土の土産」
 ブラッドの背筋に、雷が落ちたかのような寒気が走った。
「俺が『ルークス』だ」
 カイルは素早く腰の銃を抜き、ブラッドを狙撃した。銃声が轟く。銃弾は岩にめり込んでいる。ブラッドは間一髪、身を躱して近くの岩の陰に隠れた。
「逃げても無駄だ」カイルは立ち上がり。「お前は殺す」
「ちょっと待てよ」ブラッドは岩の陰から怒鳴る。「俺を殺す理由は聞いてない」
「貴様、エスに手を出しただろう」
「は、はあ? 何言ってんだよ」
「なぜ今までエスに男が寄り付かなかったのか、分からないか?」
「……え? は? ま、まさか……お前が……?」
「そうだ。エスに近づく男は俺が殺してきた」
「なんでそんなことまでしなきゃいけないんだよ」
「エスを守るのは俺だ。それを邪魔する奴は消すまで」
「なんだよ、それ。お前、おかしいんじゃないか」
「俺だけがエスの傍にいる資格がある。そう思わないか?」
「そ、それって……」ブラッドは眉を寄せる。「まさかエスに惚れてるのか?」
「貴様には無粋な話だ」
「……そうなのか? で、でもお前、女だろ」
「体はな。だが、俺は男だ」
「はあ?」
「俺はエスの傍にいるために、世界中を回ってその手の医者や術士を訪ねた。そして大金を払って、女になったんだ。マザーは俺の覚悟を受け入れた。男の体を捨てることでエスに一番近い場所を手に入れた」
「そ、そんなの」ブラッドは言葉も選ばない。「俺から言わせりゃ、ただの変態だ!」
 再び銃弾がブラッドの顔の横を通過する。ブラッドは青ざめるが、隠れていた岩に急いで飛び上がる。恐怖を抑え、銃を構える。
「ルークスは俺の憧れだった。でも、撤回させてもらう。伝説だったルークスが、こんな……オカマ野郎だったなんてな!」
 ブラッドを睨み付けるカイルの目は尋常ではなかった。
「……貴様に分かるか?」カイルは声を落とした。「それまで俺は『男』という生物だった。男としてその能力や性質を最大限に活かしてきた。培った自信は誰よりも大きかった。それが、ある日すべてを失ったんだ」
 カイルは胸元に拳を握る。
「腕や足の長さが違う。今まで伸ばせば届いていたものに届かない。片手で抱えられたものが滑り落ち、体の一部のようだった銃器さえ、最初は引き金もまともに引けず……まさか、ここまでとはと、絶望で震えが止まらなかった」
 次に、手を開き。
「知ってるか? 女ってのは肩で呼吸をするんだ」胸から腹部へ指を這わせる。「男なら誰もが欲しがる柔らかくて赤味がかった肌や脂肪、細くて滑らかな腕や脚が、鬱陶しくて、邪魔で、疎ましくて、忌々しくて仕方がなかった。体温の変化が著しく、手足が冷える、そんな自分自身に何度も嘔吐した。男からは気色の悪い目で見られ、組み合えば簡単に筋を痛めて、どれだけ鍛えても押し返すことができなかった。今までは獣人にさえ劣らなかった俺が、ただ、必死で足掻いて、逃げるだけで精一杯だったんだ。惨めで、悔しくて、死んだほうがマシだと、何度も自分の体を傷つけた。その屈辱が、お前に分かるか?」
 ブラッドは息を飲んだ。答えられなかった。そこまでして、と言いたいところだが、彼の意志はそれ以上に固いものだったのだろう。自分なら決してできないと思った。意気込んでムリをしたところで、きっと耐えられないに決まっている。
 だがカイルは、ルークスはそれを乗り越えたのだ。並大抵の精神力ではない。ほとんどの人はそうなってしまった事実だけできっと、苦痛に押し潰されるのだろう。それだけではなく、ルークスはその体を、短時間で完全にものにしたのだ。それが「カイル」だ。
 突如自分の前に現れたカイルはコンプレックスなど微塵も感じさせない、誰もが認める完璧で最強の冒険屋だった。自ら架せた地獄を逆に取り込み、その上に更なる実力を積み重ねていったのだろう。想像できなかった。ブラッドのように、ただ闇雲に体を鍛えて経験を積むだけなら、誰でもできることなのだから。
 ブラッドは泣きたくなる。いくら罵ったところで、実力の差は目に見えていた。カイルでさえ敵うかどうか自信がなかったと言うのに、実はあのルークスだったと聞かされては、彼女の力が予想以上であると確信できる。まともにやり合って勝てる相手ではなかった。
 だが、理由が理由だ。納得できない。負けるわけにはいかなかった。
「お前がやってることは、ただの執着だ。そんなことをして本当にエスが幸せになんかなれると思っているのか」
「ならば、お前にエスを守れると?」
「少なくとも、お前よりはエスを大事にする自信がある」
「三流が」カイルは歯を剥きだす。「なめた口を利くな!」
 カイルは銃撃する。ブラッドは交戦する暇もなく、慌てて近くの岩に飛び移る。が、着地と同時に足元を狙われる。ブラッドはバランスを崩し、また岩の陰に隠れた。
「俺に狙われた以上、お前は逃げられない。俺はお前の貧相な実力もよく知っている。お前は俺の足元にも及んでいないんだ。大人しく殺された方が楽だぞ」
「う、うるさい」ブラッドは虚勢を張る。「俺だって、お前のことずっと気持ち悪いと思ってたんだよ。エスだって思ってるよ……たぶん」
「ふん、くだらない」
 カイルは岩を降り、陰に身を潜める。ブラッドの気配を探る。気を集中させると、敵の呼吸が手に取るように分かる。
 二人の間に、見えない細い糸がピンと張り詰めた。いつ切れてもおかしくないほど緊張している。二人はそれぞれ岩の陰で、指一本動かさない。ブラッドの額に汗が流れた。押し迫る殺気に気を失いそうだった。辺りは静かで、緩い風だけが髪を揺らす。
 夜空には雲ひとつない。人ひとり死んだところで、誰も騒ぎはしないのだろう。
 ブラッドの精神力は限界に近かった。吐き気がする。動けば殺される。だが、これ以上待つことは死を先延ばしにするだけだと感じていた。
(ちくしょう)ブラッドは気を乱さないように。(体調が万全なら、もう少し粘れるんだが……)
 負け惜しみだと分かっていながら、そんなことを考えずにはいられなかった。
(竜も見ないで、こんなところで殺されてしまうってのか。エスとだって、軽くキスしただけじゃねえか。こんなことなら……思い切って押し倒しときゃよかった……!)
 糸が揺れた。決着が着く。一瞬で。
 そう思った。が、糸を揺らしたのはブラッドでもカイルでもなかった。
「やめて!」
 岩場に高い声が響く。エスだ。二人は我に返って彼女に注目した。
「カイル。やめて」
 エスが駆け寄ってくる。ブラッドが飛び出した。
「エス、来るな!」
 ブラッドを狙って銃弾が飛んでくる。ブラッドは頭を抱えて岩に伏せる。エスは彼の前に立ちはだかり、両手を広げた。
「もうやめて。カイル、ブラッドを殺さないで」
 ブラッドは体を起こし、エスに近寄る。殺気も解かず、銃は離さない。カイルは高い岩の上に姿を現す。
「エス。どうしてここに?」
 カイルも銃を構えたまま、その顔は険しい。銃口はエスの背後のブラッドを確実に狙っている。
「あたし、知ってた」エスは震えていた。「ううん、証拠なんかなかったから、気づいてただけなんだけど……カイルがあたしに近づく男たちを殺していたのも、あんたが男なんじゃないかってのも、分かってたのよ。でも、カイルはあたしを守ってくれた。あたしには必要だった。だから黙ってたけど……でも、ブラッドを殺すのはやめて」
「なぜそいつを庇う」
「ブラッドとは今、同じ仕事を受けてる。終わるまでは、あたしは彼の味方だもの」
「俺も仕事中だ。邪魔をするな」
「邪魔ならあたしを殺せばいい」
 カイルの顔色が変わる。
「ブラッドは、あたしが守る!」
 カイルは銃を降ろさない。エスを睨むように見つめた。エスも目を逸らさない。しばらく沈黙が続いた。三人三様の緊張が空気を凍りつかせていた。
 ふっと、カイルの目に悲しみが灯った。エスはそれに気づき、息を飲む。ドン、とエスの足元が狙撃された。エスは体を固め、ブラッドが慌てて前に出た。カイルの姿が消えていた。感情のない声だけが響く。
「エス。俺はブラッドを殺す。お前のために」
「カイル!」
 カイルの気配が消えた。再び静かな時間が流れた。この場から完全にカイルがいなくなったことを確認して、エスが崩れるように座り込む。ブラッドも銃を降ろし、体の力を抜いた。

 エスは暗い表情で俯いていた。隣でブラッドは胡坐をかいて空を眺めている。
「お前は、どこまで知ってたんだ」
 エスは顔を上げずに。
「本当のことは、よく知らない。自分のことも、気がついたらマザーにいて『エスラーダ』という名前を貰って……後はずっとカイルが傍にいてくれたから、何も不安はなかった」
「今の話、全部聞いてたのか」
「うん。正直、信じられない」
「俺もだよ。でも、ランがなんでカイルを贔屓してるのか、やっと納得できた。信じるしかないんだよな」
「ランとカイルが何か秘密を持ってるのも気づいてた。でも、まさか……こんな風にあたしが関わっているなんて夢にも思わなかった」
「ランがロースノリアの古文書の継承者ってのも驚きだな。その上デスナイトの有力者で、あのルークスの上司だったなんて……普通じゃないとは思ってたけどさ……道理でデスナイトの内情にやたら詳しいはずだよ」
「……それも、なんとなく気づいてた」
「まさかカイルが男で、しかもルークスだったなんて。ずっとあいつにあった違和感は、それだったんだ」
 ブラッドは苛立った様子で髪の毛をぐしゃぐしゃにする。
「いきなりそんなこと言われたって、どうすりゃいいんだよ。それに、マザーって一体何なんだよ」
「あたしもよく分からない」
「分からないって、お前の組織だろ。機密まで話せとは言わないけど、一体何が目的なんだ。一度死んだ女をどうとかって、怪しすぎるだろ」
「機密なんかあたしだって知らないわよ。マザーには居場所のない女ばかりがいるのよ。生きていくには言うことを聞くしかないの」
 二人は何から把握していけばいいのか分からずに混乱していた。突然知らされた真実は、壮絶で重いものだった。サンデリオルの竜の伝説に始まり、続けてロースノリアの真実。さすがにもう空想だの絵本だのとは言っていられない。実際にブラッドはカイルに命を狙われることになったのだ。それには理由が必要だった。納得するには、大いなる伝説のすべてを信じるしかないのだから。
 いろんな思いが交錯する中、ブラッドは思いついたものから発言する。
「そうか……ランは五年前にルークスとの契約を最後にデスナイトを辞めて、ロードを継いだ。ロードはランの親父が代々受け継いできた店だ。つまり、サイバードの領地がある場所。ロースノリアの加護の力は……世界で一番大金が動く町、ヴァレルにあったんだ」
「そんなこと、どうでもいいでしょ」
 エスに冷たく一蹴されるが、ブラッドは続ける。
「でも、今の話が本当なら、ロースノリアの竜は……」
「やめて」エスは頭を抱える。「あたしはエス、エスラーダよ。竜なんか知らない。関係ない!」
 突然感情的になって声を荒げるエスに、ブラッドは戸惑った。
「……ご、ごめん」
「過去がなんだってのよ。あたしが竜なら、エスって誰よ。あたしは一体どこにいるのよ。何のために生まれてきたと言うの」
「分かった、分かったよ。ごめんって。そうだよな。俺にはロースノリアの竜なんて関係ない。お前の過去がなんだって、エスはエスだ。俺が好きになった女だよ」
 ブラッドのいつもの浮ついた発言に、エスは顔を上げて彼を睨み付ける。
「大体ね、あんたがあんなふざけた真似するからこんなことになったんじゃない。あんたが今まで野放しにされてたのは、口ばっかりで何もできない根性なしだったからなのよ。本気だか冗談だか、よく分かんなかったし。なのに、調子に乗ってあんなことするから。どうするのよ。カイルに狙われて、あんた確実に殺されるわよ」
「ふ、ふざけてなんかない。お前こそ勝手にシェルとのこと勘違いして、嫉妬しまくってたくせに。俺だって男だ。イケると思ったら押すのが普通だろ」
「イケるって何よ。あたしがいつそんな……」
「お前、俺のこと好きなんだろ。今更否定しても無駄だからな」
 エスは顔を真っ赤にして大声を上げる。
「あたしは男なんかいらない! あたしにはカイルがいる。あたしを本気で口説いてきた男も、あたしが素敵だなって思った奴も、みんな死んだ。あたしを置いて死んでいったのよ。あたしにはカイルしかいないの」
「な、なんだよそれ。死んだって、カイルが殺してきたんだろ。お前はカイルが憎くないのか」
「カイルはあたしのためにやってくれてたのよ」
「はあ? 邪魔だからって殺していいわけないだろ」
「仕方ないじゃない。カイルは強いんだもの。あんたも同じよ。あんたもカイルに殺されるのよ。そうでしょ? 逃げ切れる自信でもあるの?」
「冗談じゃない。むざむざ殺されるつもりも、逃げる気もない」
「かっこつけないでよ。あんたがカイルに敵うわけないじゃない」
「し、失礼なっ……お前、さっきから何なんだよ。カイル、カイルって」
「だって、カイルは強いし、頭いいし、大人だし……かっこいいし。あんたなんかとは」
「ちょっと待てよ」ブラッドは大声を出す。「お前、まさか!」
 エスは目を逸らし、口籠る。
「だ、だって、カイルに優しくされたら、嬉しいし……ドキドキするし。男だったらなあって、いつも思ってたし……」
 ブラッドは開いた口が塞がらなかった。しばらく呆然として、がくりと肩を落とす。
「……確かに」暗い顔になり、ブツブツ呟く。「ルークスだもんな……そうだよな。俺が敵うわけないよな。この年になって、三流なんて初めて言われたよ。結構自信もあったし、仕事も選べるようになって、少しくらい天狗になってもいいんじゃないかってまで思ってたのによ。ショックだけど、ルークスからすりゃ三流なんだよな。こればっかりは言い返せないよな」
 エスは何も言えなかった。だが、すぐにブラッドは立ち直る。
「でも、あいつは女なんだよ。お前とは結婚できないし、子供も作れない」
 再びエスは顔が赤くなる。意外とそういう話は苦手だった。
「あ、あんたねえ。そんなことしか頭にないの? それ所じゃないでしょ。真面目に考えなさいよ」
「俺はいつでも真面目だ」
ブラッドはエスに顔を寄せてくる。
「そうだ。お前に確認したいことがある。一番重要なことだ。これだけははっきりさせておきたい」
 エスは警戒しながら体を引く。
「な、何よ」
「もしかして」声を潜めて。「昨日の、初めてだった?」
「は、はあ? な、な……」
 エスはまた顔を赤くするが、今度は照れだけでなく、怒りも篭っていた。だがブラッドはそこまで読めない。彼の興味は止まらなかった。
「ってことは、本当に、処女?」
 静かな夜に、バチンと気持ちいい音が響いた。ブラッドは顔に新たな痣を作り、今日もゆっくり休むことはできなかったことは、言うまでもない。
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