第9章 赤の願い
 大地が揺れていた。再び嘶いたサンデリオルの竜の声はトンネルを駆け、噴火口を突きぬけて空まで届いた。山の上空の雲が渦を巻き始める。
 世界中が空の異変に気づき、不吉に騒ぐ雲に注目した。
「カイル」ブラッドが叫ぶ。「何やってんだよ!」
「こっちの台詞だ。こんな所まで来て、幼稚な飯事とは。笑わせるのもいい加減にして欲しいね」
「な、何だと」
「俺にも駆け出しの時代くらいあったが、ここまで間抜けな真似をしたことはない」
「エスは正気を取り戻しそうだったんだ。何で邪魔するんだよ」
「生温い。よく見ろ、相手は竜だ。いい加減に目を覚ませ」
「お前、まさか竜を……」
 カイルは剣を構える。竜を睨みつけ。
「殺す」
 それだけ言うと、カイルは飛び上がり、うねる竜の体に飛び乗る。
「よせ、無茶だ」
 ブラッドの声など、竜の雄叫びに掻き消える。
 カイルは竜の体に剣を突き立てるが、その鱗の硬さは予想を上回る。剣が折れ、刃先が飛ぶ。カイルは怯むことなくとぐろの中央まで飛び上がる。折れた剣を片手に、素早く小型で強力な爆弾を取り出してとぐろの隙間に詰め込む。瞬時にその場から離れ、爆発を待つ。所狭しと洞窟の中で暴れる竜の体の中心が火を噴いた。再び竜は頭を振り乱すが、硬い鱗に守られた体に傷はついていなかった。しかし、カイルの狙いはそこにはなかった。今の爆発で鱗のない腹部が露わになった。分かっていたかのように飛び出し、折れた剣を深く突き刺す。更に腕に力を込める。重い。が、勢いをつけて腹を切り裂く。どっと血が溢れた。剣を引き抜き、次は首を狙う。竜の血に塗れながら、カイルは高く宙を舞った。
 凄い。ブラッドはカイルの戦いに目を奪われていた。カイルなら本当に竜をも倒すかもしれない。だが、感心している場合ではない。竜に連動して苦しみもがいているエスが悲鳴を上げた。そしてふっと意識を失い、落下してくる。
 ブラッドが急いで走り出す。エスが地に落ちる寸前、ブラッドは彼女の背中と地面の間に両手を滑り込ませる。シェルも駆け寄り、エスの様子を伺う。
「エス、大丈夫か」
 目を閉じ、気を失っているが息はある。ほっとする暇もなく、三人のすぐ傍に竜の巨大な尻尾が叩きつけられる。その衝撃でブラッドとシェルは地に伏せるが、代わりにエスが目を覚ました。
「エス。無事か」
 エスはブラッドの腕の中で何度か瞬きをした。二人の顔を確認して、呟く。
「ブラッド……シェル」
 二人の名前を呼ぶ。それでエスが正気に戻ったことを確認して、今度こそ胸を撫で下ろす。かと思うと、今度はシェルが悲鳴を上げた。
「ブ、ブラッド。竜が!」
 ブラッドが振り向くと、そこには恐ろしい顔をした竜が、上空高くから三人を睨みつけていた。その表情は、明らかに怒りに満ちていた。
「ちょ、ちょっと待て」ブラッドは青ざめながら。「俺じゃないぞ」
 竜は聞く耳など持たない。唸りながら大口を開けて牙を突きつけてくる。状況の読めないエスは目を丸くし、シェルが高い声で叫ぶ。ブラッドは咄嗟に二人を突き飛ばし、自分もその場から逃げようとするが、間に合わない。竜の牙に捕まり、振り上げられる。
「ブラッド!」
 エスは怖がる余裕もない。すぐに地面に両手を着き、剣を呼び出した。柄を乱暴に掴んで引っ張り出し、竜の頭の後を追う。
「エス。危険です」
「シェルはそこにいて」
 いつものエスだった。シェルは彼女の背中を見送りながら、無事を祈った。
 エスは軽々と竜の体を飛び上がっていく。すぐに頭を捕らえる。竜の牙の間でブラッドがもがいているのが見えた。
「ブラッド!」
「エス。危ない、来るな!」
 ブラッドは牙の間に下半身を挟まれていた。今のところ負傷はないようだ。何とかして竜の口を抉じ開けないと。エスは頭上を狙って、更に高く飛び上がる。が、思った以上に竜は俊敏だった。エスを視界の端に捕らえ、彼女の背中に尻尾を叩きつけた。エスは洞窟の壁に体を打ちつけ、地面に落ちる。視界がぼやけた。だがすぐに剣を構え、竜を睨みつける。体を起こすと、そこにカイルが竜の影から姿を現した。彼を見つけると、エスは途端に涙目になった。
「カイル」エスが駆け寄る。「ブラッドを助けて」
 カイルは眉を寄せる。当然の反応だったが、エスは夢中でカイルに泣きついた。
「お願い。ブラッドが死んじゃう。お願い、助けて!」
 エスは声を上げて泣き出した。カイルは黙ったままエスを見つめた。ゆっくりと、今までの凍りついた目に哀れみが灯った。エスの剣を持った手を持ち上げる。エスは嗚咽を漏らしながらカイルを見つめた。
「エス」カイルは低い声で。「この剣は、ロースノリアの竜の鱗を練成させたものなんだ」
「……え?」
「唯一、竜の鱗を貫くことができる剣だ」
 どきん、とエスの胸が痛んだ。竜の血を被ったカイルの顔は優しかった。今までも何度か見たことはある。その度にエスは胸が高鳴り、これは自分のものだけなんだと言う優越感と幸せを抱いていた。なぜだろう。その気持ちを今打ち明けなければ、後悔する。エスはそう思った。だが、何から言えばいいのか分からない。時間はない。できるだけ短く。
 エスは爪先立ち、片手でカイルの顔を引き寄せる。お互いの唇が触れ合う。エスはすぐに離れ、恥ずかしそうに俯く。
「ご、ごめんね」エスは口籠りながら。「あたし、カイルからしたら全然ガキだし……こんなことしかできないけど……」
 エスの突然の行動にカイルは驚いていた。
「でも、その……あの」顔を真っ赤にして、照れ笑い。「帰ったら、続き……教えてよ」
 カイルの心に、何かが満ちた。
 最初はランへの忠誠心と、エスへの同情でしかなかった。失うことも捨てることも怖くなかった。エスは自分にとってただの幼い少女だった。気づくとエスは成長していた。彼女の自分を見る目が、淡い恋心を抱くそれに変わっていることをカイルは敏感に意識していた。同時に、自分の性が女であることに、エスが疑問と違和感を持っていることも感じ取っていた。初めて辛いと思った。もしかしたら後悔さえしたのかもしれない。見て取れるほど「女」になっていく彼女を、自分のものにしたいと思ったことは何度もあった。しかし、今まで守ってきた少女の心を傷つけ、純粋な初恋を自分の手で汚すことはできなかった。もし自分が男だったら、などとつまらないことを考えるときもあった。その葛藤がカイルの想いを募らせていった。
 そんな時、ブラッドが現れた。大切にしてきた彼女に平気で下品な発言をしてくる彼が忌まわしくて仕方なかった。嫉妬だった。なんて醜いと自分を責めた。何一つ包み隠さず、堂々とスケベ心を前面に押し出しながらエスとじゃれ合う彼が、まるでどこにでもいるような恋人のようで、羨ましかったのだ。だが、エスと出会っていなければこんな人間らしい感情を持つこともなかったのだろう。エスの傍にいるためにしたことが、二人の間に越えられない大きな壁を作ってしまっていたのだ。皮肉だと、自分で自分を嗤うしかなかった。惨めだと思う反面、僅かな幸せのためならば伴う苦痛が辛くないと思う自分がいた。
 だけど、いつか限界がくる。
 分かっていながら、訪れるそれを待つしかなかった。今がその時であると、カイルは呪縛を解き放った。心が軽くなる。
 そうだ、と思う。彼はずっと前から感じていたのだ。「男」を捨てた時点でもう負けていたのだと──ブラッドには、もう適わないということを。
 カイルは、すべてを受け入れ、微笑んだ。乱暴にエスを抱き締める。顔を被せ、強張るエスの唇を無理やり抉じ開けて舌を侵入させた。エスは初めての感触に体の力が抜けていく。自然と目を閉じ、身を委ねていた。
 カイルは浸るエスから体を離すと同時、彼女の手から剣を奪い取る。エスがぼんやりしている間に、カイルは竜の体に飛び上がる。
「借りる」
 カイルはそれだけ言うと、暴れる竜の上でバランスを取る。エスには大き過ぎる剣も、カイルが持つと軽そうに見える。
「続きは」カイルは口の端をにっと上げる。「男の役目だ」
「カイル!」
 カイルは背を向け、竜の頭を目指して飛び込んでいった。
 エスは既に視界から消えた彼をしばらく見送った。佇んで、呆然とする。
(もしかして)エスは頭の中が真っ白になった。(あたし、振られちゃったのかな……)
 と、一人でショックを受けていた。それが彼の、エスだけに捧げた最後の優しさであることに気づくのは、まだ先のことだった。


 ブラッドの目の前に、カイルがエスの剣を振り上げながら迫ってくる。
「カ、カイル」
 ブラッドは慌てるが、逃げたくても体が動かない。カイルは頭を抱えるブラッドと竜の牙の間に剣を突き刺す。ブラッドは目を見開く。
「な、なんのつもりだ」
「ガタガタうるさい」カイルは竜の口元に足をかけ。「雑魚が。じっとしてろ」
 カイルが手足に力を込めると牙にヒビが入る。カイルはぐっと歯を食いしばり、肩を怒らせて咆哮した。竜の牙が音を立てて砕ける。同時に、ブラッドとカイルは飛び上り、竜から離れた。
「す、凄え……」
 ブラッドは素直に感心するしかなく。
(……鬼に金棒だ)などと悠長なことを考える。(本当に女だとしても、こいつだけはないな)
 竜は更に暴れ出す。二人は着地しても、じっとしていられなかった。カイルは素早く竜の死角、頭上を目指す。その隙に竜に狙われたのは、やはりブラッドだった。再び尖った牙が彼を襲うが、今度はうまく躱す。竜は勢い余って壁に頭をぶつけ、そのまま洞窟の岩肌を削りながら首を擡げた。カイルは竜の頭にぶら下がる。これでは頭上が死角でも攻撃する前に振り落とされる。そう判断したカイルは、手を離してそのまま落下し、姿を隠した。
 竜は一度仰け反り、開いた口の中に光を灯した。ブラッドの背中に悪寒が走る。やばい、直感的にそう思った。剣を構える。そんなものは通用しないと、どこかで感じながら。竜は再びブラッドに向き合う。ブラッドの嫌な予感は的中した。すべてを焼き尽くす炎を喉に溜めている。炎は渦を巻きながらブラッドに直進してくる。
 何も考える余裕はなかった。すべてが一瞬の出来事だった。見開いた目の前に、剣を掲げるカイルの背中が飛び込んできた。大きな剣が炎を引き裂く。助かった、わけではない。カイルの腕が震えている。剣は熱で真っ赤になり、今にも消えてなくなりそうだった。
「カイル」ブラッドにはカイルの心理が理解できない。「もういい。逃げろ」
「黙れ」
「何でだよ。お前、俺を殺したかったんじゃないのか」
 カイルは答えなかった。炎で前が見えない。これ以上は耐えられない。そう思ったとき、竜は炎を吐きながら突進してきた。
 体当たりされた剣は砕け散り、剥き出した牙がカイルの胸を貫いた。
「カイル!」
 竜は牙に刺さったカイルを振り落とし、吠えながらトンネルに頭を突っ込んでいった。もの凄い速さでとぐろが解かれていく。竜はトンネルを抜け、噴火口から空へ昇っていく。巨体は雲を突き抜ける。渦巻いていた不吉な雲を掻き分け、サンデリオルの竜は怒りの声を上げた。誰もがその奇跡に手を止めた。動物たちは騒ぎ、妖魔も共鳴するように嘶いていた。


 竜のいなくなった洞窟で、一同はカイルを囲んでいた。エスは血塗れの彼の手を取って泣き続けていた。
「カイル……死んじゃいやだ。あたしを置いていかないでよ」
 カイルは最期の力を振り絞り、声を出した。
「エス。すまない。大事な剣を壊した」
「……そんなの、どうでもいいよ」
「ブラッド」目線を移し。「俺も、お前のことは言えないようだ」
「なんだよ、また皮肉か? お前は凄いよ。文句のつけようがない」
「任務を遂行できず、こんなところでくたばるなんて……お前より間抜けだよ」
「任務って……」
 エスを守る。カイルが助からないのは誰が見ても明らかだった。ブラッドは今までずっと彼が嫌いだった。なのに、なぜか悲しくて仕方なかった。死んで欲しくないと心底思った。だがそれは口に出さない。
「その仕事、俺が引き継ぐよ」
 カイルは目を動かす。そして、皮肉に笑う。
「お前が俺の仕事を? できるわけがないだろう」
「その仕事は、俺しかできない」
「は。お前の大言は聞き飽きた」
「もう憎まれ口はいいよ。俺な、さっきトンネルでお前に銃を突きつけられても、怖くなかった。その時はもう逃げられないから腹を括ったんだって思ったけど、今なら分かるんだ。あの時のお前、いつもと違った。余計なことをベラベラ喋ってた。だから思ったんだ。きっとどこかで、お前は俺のこと認めてたんじゃないのかって。なあ、これって、自惚れじゃないよな」
 カイルはしばらくブラッドを見つめた後、ふっと目を閉じて、呆れたようにため息をついた。
「自惚れだ」
 そう言い切られても、ブラッドは悔しくも辛くもなかった。それが嘘か本当かは分からない。だけど、彼らしい答えだと思うと、素直に聞き入れることができた。
「……そっか」
「だが」薄く目を開き。「お前はこれからだ。必ず俺に追いつけ」
 その言葉はブラッドに心に深く刻み込まれた。嬉しかった。自然と、ブラッドはその名を口にした。
「……ルークス。やっぱ、お前は俺の憧れだ。凄え、いい男だよ」
 カイルの弱々しい目に「当然だ」とでも言いたげな自信が満ちた。
「……高みで、待っているぞ」
 それがカイルの最期の言葉となった。瞳孔が開き、呼吸が止まる。動かなくなった彼の口から血が垂れた。エスは嗚咽を押し殺して、冷たくなったカイルの手を強く、強く握った。


 空が唸っていた。
 カイルに別れを告げて、一同は竜の後を追った。トンネルを抜け、再び湖に出て噴火口から空を仰いだ。上空で赤い竜が踊っている。
「なんだよ、これ。どうすりゃいいんだ」
 ブラッドが頭を抱える。
「竜を止めなければ」シェルが手を差し出す。「お二人とも、これを」
 エスとブラッドはシェルの手に注目した。その中には光る粉を纏う赤い鱗が握られていた。エスが驚いて。
「それは、サンデリオルの竜の鱗」
「どうやって手に入れたんだ」
「竜が火を噴く前に、カイルが私に投げて渡してくれたんです」
「カイルが……」
 あの状況の中で、感情に走らずに本来の目的を果たしてくれていた。エスとブラッドは改めて、彼の秀逸な能力を惜しんだ。だが今は浸っている場合ではない。エスが顔を上げる。
「シェル。それであんたの願いを叶えなさい」
「でも……」
「その為に来たんでしょ。それがあれば竜はあんたの声を聞くはずよ」
「その後はどうすんだ。サンデリオルの竜は世界を滅ぼすとか言ってたぞ」
「……聞いてた」
「覚えてるのか」
「ロースノリアの竜なら、あれを止めれるんでしょ」
「そう言ってたけど……」
 エスは黙った。彼女の真剣な顔つきに、ブラッドとシェルは嫌な予感がした。
「おい、何考えてんだよ」
「エス、だめです」
「だって、それしか方法はないし、方法がひとつでもあるだけマシじゃない。このまま世界が滅んだら、あたしたちは一体何しに来たってのよ」
「でも」シェルの目が潤む。「エスはどうなってしまうんですか」
 エスは飽きもせずに涙を流すシェルに呆れる。彼女の気を解すように優しく微笑み、彼女の手を握る。
「大丈夫よ。言いなりになるのはゴメンだけど、これはあたしの意志だもん。どうなるか分からないけど、もし死んだって、あの世にはカイルもココナもいる。そう思ったら、ちっとも怖くないの」
「エス」ブラッドが怒鳴る。「ふざけるな。あの世だと? 俺たちはどうなるんだ」
「だって、これも仕事じゃない」
「……何だって」
「よく考えて。あたしたちの仕事は竜を倒すとか、世界を救うとかじゃないでしょ? シェルに願いを叶えさせることよ。その為なら手段は選ばない。それが冒険屋でしょう」
「…………」
「あたしは冒険屋としてしか生きられないの。きっとアレね。ランは全部分かっててあたしを選んだんだわ。今ならそれが分かる。ってことは、これはあたしにしかできない仕事なのよ。あたしは誇りに思う。だから絶対に失敗なんかしたくない。何が何でも任務を遂行する。ただそれだけよ」
 エスに迷いはなかった。きっとカイルの死が彼女に勇気を与えたのだと思うと、ブラッドはやり切れなかった。
「エス、嫌です。行かないでください」
 シェルが泣きながらエスに抱きつく。エスは眉を下げてシェルの頭を撫でた。
「シェル、がんばって。あんたならできるわ。ね?」
「エス……嫌です」
 シェルはエスから離れない。エスが困っていると、ブラッドが声をかけた。
「分かった、エス」ブラッドも覚悟を決めていた。「俺も一緒に行くよ」
「ブラッド……」
 シェルも顔を上げる。
「俺も一端の冒険屋だ。任務遂行まで手は抜かない」
「あんたまで着いてくることないでしょ。あんたはシェルに願いを叶えさせて、その後ちゃんと城まで送らないと」
 当たり前のことを淡々と言われ、ブラッドは言葉を飲んだ。しかし、このままエスを一人で犠牲にさせるのだけは嫌だと思った。それでは今までと何も変わらないではないか。
「俺の仕事はシェルの依頼と、カイルから引き継いだものがある」
「……カイルから?」
「エスを守れ」
「でも、それは……」
「もうお前を一人になんかしない。俺は、お前に寂しい思いなんかさせない」
 エスはブラッドを見つめた。これは、止めても無駄だと思う。そこには明らかなカイルへの対抗心があったからだ。
「カイルにいいとこばっか持っていかせねえよ。俺、あいつのお陰で全然役に立てなかったし。このままじゃ帰れねえよ。俺だって何もペット扱いされるためだけにここまで来たんじゃないんだよ。こんなんじゃ、ランに合わせる顔がないだろ。それに……お前とはずっと一緒にいたいんだ」
 真剣な顔になるブラッドに対し、エスは「情けない口説き文句だわ」と口にはせずに顔に出した。ブラッドがそれに気づき、急に恥ずかしくなる。
「なんだよ、その顔は」
 だけど、素直な言葉は心に届いた。嬉しかった。
(ほんと、バカな男……)
 エスは微笑んだ。シェルから離れ、今度はブラッドの手を握る。その笑顔は無邪気なものだった。
「ありがと」
 ブラッドも手を握り返す。調子に乗ってエスに抱きつこうとするが、するりと躱される。エスはシェルに向き直り。
「シェル。今からロースノリアの竜を解放するわ」
「エス……本当に行ってしまうんですか」
「うん。危険だけど、ロースノリアの竜が立ち昇るとき、その体に掴まって頂上まで行って。そこであたしがサンデリオルの竜を止めるから、その隙に願い事をするのよ。分かった?」
 シェルは頷かない。エスは強い口調になる。
「返事は?」
「は、はい……」
「よし」エスはシェルに背を向けながら。「さあ、時間はないわ。チャンスは一回よ。鱗を落とさないようにね」
 エスはブラッドの腕を引き、湖に向かう。
「ロースノリアは水の竜。湖に飛び込むわよ。覚悟はいい?」
「ああ」
「あんたと心中か。色気ないけど、まあいいか」
「じゃあ、色気を出してやろうか?」
「遠慮する。あんたとはこのくらいでちょうどいい」
「何だよ、それ」
 二人は水面を見つめながら緊張感のない会話をする。怖くないわけがなかった。だが、踏み止まる気は起きない。
「ブラッド」エスが一歩進みながら。「生まれ変わったら、結婚しようね」
 ブラッドの足が重くなる。エスに遅れないように大股で歩いた。
「約束よ」
「……ああ」
 二人は微笑んだ。その背中を、涙を何度も拭いながらシェルが見送る。いつまでも泣いてはいられない。そう思いながら、シェルはコートのポケットに赤い鱗をそっとしまった。
 エスとブラッドは同時に湖のなかに沈んでいった。
 水中で二人は抱き合った。離れないように、きつく、強く。エスの体がから淡い光が零れる。光は強まり、二人を包んだ。竜の妖気が解放され、エスとブラッドの小さな体はそれに耐えられず、千切れるように掻き消されていく。
 陸でシェルが輝く水面に息を飲んだ。風もないのに、湖が揺れる。中央で、まるで魚が跳ねたように水滴が弾けた。それを中心に波紋が広がる。水が膨れ上がる。かと思うと、爆発したように湖から水柱が立ち上がった。違う。水柱ではない。青く輝く竜だった。
 ロースノリアの竜は天を目指して、真っ直ぐに昇っていく。シェルは、今は何も考えずに、とにかく竜の体にしがみついた。やはり鱗はシェルの体を傷つける。振り落とされないように必死に掴まっているのが精一杯だった。目を閉じてもいられない。降りるタイミングを間違えたら、山から落下してしまう。シェルは心を決めた。それでも涙は止まらなかった。
 強い風圧を感じ、シェルは竜の体から手を離した。機は合っている。だが、その勢いまでは予想できなかった。うまく着地できず、シェルは噴火口から足を滑らせた。落ちる、が、シェルは血塗れの手で岩を掴む。痛みで唸り声を出すが、歯を食いしばり、腕に力を入れた。岩に抱きつき、体を起こす。シェルは呼吸を整えながら空を仰ぐ。上空高くに赤と青の竜が絡み合っていた。シェルは震える手で鱗を取り出す。落とさないように気をつけながら、竜が降りてくるのを待った。
 青い竜が引くように赤い竜を山に近づけた。シェルに真っ直ぐ向かってくる。手の中の鱗が光った。シェルは強く竜を睨んだ。
 涙が止まらない。
 鱗の光とサンデリオルの竜が引かれ合った。シェルは必死で声を絞り出す。
「お願い……」
 ここにきて、シェルは言葉を選んだ。
「お母様を……」違う。「世界に平和を……」
 これも違う。シェルは自分の心に素直になる。涙が止まらない理由を考える。竜が迫ってくる。もう時間はない。
 シェルは確信した。
「二人を」後悔しない。「エスとブラッドを返して──!」
 サンデリオルの竜が真っ白に輝いた。シェルの鱗を溶かしていく。シェルは衝撃に耐えられず、落ちていく。
 薄れる意識の中で、誰かに腕を掴まれる感触だけは、はっきりと感じ取った。シェルはそれを無意識に握り返していた。
 サンデリオルの竜は吸い込まれるように噴火口に滑り込んでいった。その周りを、青い鱗粉が舞い散っていた。
 願いは届いた。
 雲が晴れていく。


 何も変わらない。明日から、神竜にとってはまた今までと何も変わらない日々が始まる。だが、人の心が常に変わり流れていくことを知ることができた。また何者かが眠りを妨げる時間が訪れるまで、もう一度、人間を信じて待ってみよう。いつかまた誰かが起こしにくるまで、眠り続けよう。
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