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 その日の夕方、エスはまだ開店前のロードで半泣きしていた。
 あの後、どこにも行き場はなく、誰にも相談できずに街を彷徨った挙句、結局ここに行き着いてしまっていたのだ。忙しいと言うランを無理やり呼び出して、恥じもせずにセラとのやり取りを話して聞かせた。
 誰もいない店内の、奥の客席から重い空気が漂っている。
「……で」ランはエスの向かいでだらけている。「それに対して俺はなんて言えばいいんだ」
「何よ」エスは泣きはらした目を見開く。「冷たいわね。あんた、私の事情知ってるくせに。だから話したんじゃない。少しも同情できないってんなら、あんたは鬼よ。可愛そうだとは思わないの?」
「俺に当たるな。そういうことは女同士で語れ。シェルならうちにいるから、一緒にその辺で遊んでこい」
「イヤよ。今あの女の顔見たってムカつくだけだもん」
(……確かに、そうかもしれないな)
「それに、これは気晴らしして片付く問題じゃないのよ。セラ、本気だった。なんでよ、今までなんでも相談に乗ってくれてたのに……」
 エスはテーブルにつっぷする。
「どうしよう……本当にセラが昇格したら……あたし」
 フェイドアウトしながら、エスは肩を揺らして泣き出した。ランはしばらく黙って、そんな彼女の様子を眺めていた。だが一分も経たないうちに、エスは我慢できなくなったように顔を上げる。
「何とか言ってよ」
 エスの暴君っぷりに、ランは体を引いて、仕方なさそうに口を開いた。
「……昇格会議のことは本当かもしれないが」
 エスは鼻をすすりながら耳を傾けた。
「仮にセラが内部管理になったとしても、今までの組織の決まり事をそう簡単に変えられるわけがないだろう」
 エスはその言葉の意味をしばらく考えた。
「それって?」
「個人的な感情で『特例』なんかあり得ない。冷静に考えろ。新任にそんな権限があるもんか。ただの脅しだ。そんなことは俺でなくても分かる」
「……本当?」
 エスの涙が止まる。落ち着きを取り戻し、改めて顔を拭う。
「でも、なんでセラがそんなことを……」
「さあ。そこまでは。さすがに人の心までは読めない」
「また他人事みたいに」
「他人事だ」
 エスは口を尖らせて拗ねる。
「それに」ランは低い声で続ける。「セラの言うことも分かる。好き合ってるなら、関係が深まるのは自然の成り行きだろう? 誰だって疑問に思う」
 エスの胸が痛んだ。ブラッドのことだ。まさかランにまでそんなことを言われるとはと、また泣きたくなった。
「なによ……だって」
 エスはそれだけ呟くと、言葉を失う。ランは彼女の心理を悟ったように、ここ二、三ヶ月、エスの前では禁句となっていたその名を口に出した。
「カイルか?」
 エスの体が僅かに揺れた。今でも彼のことを思い出すと苦しくて仕方なかった。それを必死で抑えてきた。カイルはもういない。それまではずっと傍にいてくれたのだ。いなくなったことくらいは、嫌というほど思い知っている。だが、忘れることはできなかった。いつまでもそうしてはいられないのも分かっている。それでも、内に秘める感情だけはどうすることもできなかったのだ。
「カイルがお前を縛り付けているとでも?」
「違う」エスはその責めるような言葉を素早く否定する。「そうじゃない……そんなんじゃ、ない」
 決して口にしたくなかった。誰にも言いたくなかったことが、喉から零れてくる。
「もう、遅いけど……あたしはカイルが好きだったの。性別とか、関係なくて。今思えば、好きな人がいつも傍にいてくれて、優しくしてくれて、守ってくれてて……そんな彼がいきなり、いなくなってしまったのよ。あたしも死にたかった。連れてって欲しかった。カイルがいなきゃ生きていけないって、最初はそう思った。でも、あたし、生きてる。カイルがいなくても、息もできる。笑うことも泣くこともできる。生きてるの。だから生きようって決めた。あたしがいくら苦しんだって、何もならないって分かったから。でも、そう思ったのは、あいつが、ブラッドがいたからなの。あいつバカだから、あれだけのことがあったのに、ケロッとして今までと同じようにあたしに下品な冗談言ってくるし。泣く暇もないくらいにちょっかい出してくるし。なんだか悩んでる自分の方がバカみたいに思えてくるの」
 正直な気持ちと共に、涙が溢れ出し、止まらない。
「ブラッドにはあたしを好きでいて欲しいの。意地悪してしまうけど、あいつが他の女のとこになんかいったら、絶対辛いと思う。都合がいいって分かってる。だからそう思われたくないの。カイルがいなくなったから、代わりにブラッドに靡いたなんて、そんなふうに思われたくないの。だけど、ブラッドといると楽しいし、幸せさえ感じるときがある。そうじゃないって、ずっと自分で否定してたけど、本当は知ってるの……あたしはブラッドのことが好きなんだって」
 エスは感情を止められなくなる。ランは黙って聞いていた。
「でも、あたしの中にはまだカイルがいる。こんな気持ちのままじゃ、きっとブラッドを傷つけるし、あたしも傷つく。それに、今まではあたしの体をカイルが守ってくれてた。それを、こんな気持ちのままで誰かに許してしまうなんて、なんだか彼を裏切ってしまうような気がして、怖いの。そうじゃないかもしれないけど、どうしても罪悪感が付きまとって、どうしようもないの。だから、いつになるか分からないけど、あたしの中でカイルへの気持ちの整理がついてからって、そう思うんだけど……でも、もしかしたらブラッドに愛想つかされてしまうんじゃないかって、どこかで焦ってる。そんなのイヤだもん。でも、待っててなんて、そんなことも言えないじゃない。自分勝手なのは分かってるけど、でも、どうしたらいいのか分かんないのよ」
 エスは鬱憤を吐き出しながら、何度も何度も顔を拭う。崩れた化粧を気にする余裕もなかった。数秒、静かになった。エスのグズつく音だけが残る。ランは少し体勢を整えながら、無情に呟く。
「ガキ」
 その一言でエスは今までの「乙女」を脱ぎ捨てる。かっとなってテーブルを叩きつけた。
「なによ。そうよ、どうせガキよ。男も知らないただの小娘よ。悪い? 文句ある?」
 真っ赤になった目を吊り上げて、涼しい顔のランを捲くし立てる。
「ヤリマンが偉いっての? あんたみたいな経験豊富なオヤジには、純粋な少女の乙女心なんて分からないわよ。なによ、人が真剣に悩んでるってのに、バカにして。ガキはガキなりの悩みがあるのよ。あんただって、恋に悩んだ時代くいらいあるんでしょ。あんたを信頼して本音で話してるのよ。こんなの、誰にも言ったことないんだから。少しくらい親身になってくれたっていいじゃない」
「だから、俺に当たるなって」
「信じられない。あんたがそんなに冷たい男だったなんて。なに? あたしがこれだけ恥を忍んで赤裸々に語ってるのに、ガキって、それだけ? そんなの、あんたにわざわざ言われなくたって分かってるわよ。そんな感想聞きたくて相談してるんじゃないのよ。これじゃ話し損じゃない。あんたって、人に損させるようなケチな男だったの? あんたみたいなスカシ犬にはシェルみたいな犬フェチのボケ姫がお似合いよ。人目も気にせずに勝手にイチャイチャしてればいいわ」
 見当違いな罵詈雑言に、ランは鬱陶しそうに両耳を後ろに下げる。エスはそんな彼の態度に怒りを増す。
「もういいわよ。あんたには何も相談しない。どうせあたしなんか、どこの誰に遊ばれたってどうでもいい女なのよ。ブラッドもカイルも関係ない。セラに命令されて、その辺の変態オヤジとかに汚されてしまうのよ。それで、いつか誰と寝ても何とも思わないマグロになってしまうのよ。どうせそう思ってるんでしょ。いいわよ。いくらでも見捨てればいいわ」
 エスは机に伏せて、再び泣き声を上げた。今度のは、どう見ても泣き真似だった。わざとやっている。ランには分かる。結局、甘えているのだ。ランは迷惑そうな顔をしながらため息をつく。
(……まったく、ヤリマンとかマグロとか。何が乙女だ。女ってのはどいつもこいつも耳年増だな)
 しつこく嘘泣きをするエスに、ランは改めて向き直った。
「エス」
 エスはぴたりと泣き止み、顔を上げる。ランはそれが分かっていたかのように、彼女の顔の前に指を三本出してみせる。
「これだけ出せ」
「何料?」
「情報料。俺が個人的に仕入れた話だ。物質的な役には立たないが、精神面での資料にはなるはずだ」
「後払いでいい? 次の仕事の報酬から差し引いて」
「内訳は『食料品』で出すからな」
「分かった」
 交渉成立。ランは前置きもなく語りだした。エスは背を丸めたまま聞き入る。
「セラは幼いころ、実の父親から性的虐待を受けていたんだ」
 エスは衝撃的な事実に息を飲む。
「毎夜、父親は抵抗できないセラの寝室に潜り込んでいた。セラは恐怖で逃げることもできなかった。母親は見てみぬ振りをしながら、とうとう蒸発した。それからセラはほとんど監禁された状態になった。そんな日が数年続き、セラは黙って恨みを募らせていった。そして、父親に従順な人形の振りをしながら、隙をついて……殺した。まだ十一歳だったらしい。正当防衛を主張することもできたが、セラはそんな環境の中で育ったために、自分の意志を伝える方法を知らなかった。父親は、表では真面目な会社員だった。噂は好き勝手に飛び交い、セラは言い訳もせずに逃げた。大人たちは傷ついた幼い少女を追い回した。セラは山の中に逃げ込み、追い詰められ、崖から足を滑らせた。瀕死状態だった彼女を拾ったのが、マザーだった」
 そこから先は、読める。セラにそんな過去があったとは、エスは彼女が気の毒になった。
「でも、なんでランがそんなことを?」
「セラがここに登録したのは十四歳のころだった。そのときから妙に擦れてて、男をとっかえひっかえ、凄い女だと思ったよ。まあ、それだけなら、遊ぶのは自由だからな、口出しするつもりはなかった。だが、セラには悪い噂が耐えなかった。時々声をかけてみたが、あいつは男遊びが楽しくて仕方ないと言って、まるで狂ったように笑い飛ばしていたんだ。そのうちに、セラに付きまとう男が現れた。そいつが俺に相談してきたんだ。セラは、本当はセックスできない体なんだと」
「…………!」
「父親の虐待は、それは酷いものだったんだろうな。まだ生理も始まっていなかった女性器は傷つき、精神的ショックで子供のできない体になっていたんだ。そんな体で、どうやって男と遊んでいたかと言うと、薬を使い、神経を破壊して、道具を用いて無理やり体を使っていたらしい」
 エスは寒気がした。エスが知ってるセラはしっかりしていて、頼りになる姉御肌な性格だった。信じられない。そう思った。
「……どうして、そこまでして……?」
「恐らく、自分を傷つけて追い詰めたかったんじゃないかと、その男は言っていた。心と体に染み付いた虐待の恐怖を打ち消すために、更なる残酷な行為を求めていた。そして、自分を拾い、生かしてくれたマザーに対して報いるために、女の仕事ができるように感情を殺そうといていたのかもしれない」
 それを聞いて、エスは少し俯いた。今日、セラに言われた言葉を思い出す。あの時は酷い女だとしか思えなかったが、彼女がそれだけ必死に生きる手段を模索していたんだと思うと、浮かれていた自分が情けなくなる。ランは、更に悲しい真実を告げる。
「俺に相談してきたその男は、セラを心底心配し、愛していたんだ。最初は同情だったかもしれない。だがそれは早い速度で愛情に変わっていった。そしてセラもまた、初めて本気で男に愛されていることを感じ、その男に引かれていた。だがセラは受け入れなかった。それでも男は彼女を追いかけた。どちらも意地を張り合い、見兼ねて、俺がセラを説得した。セラは素直には頷かなかったが、少しずつでも糸を解してみようと努力すると言った。その矢先、男はセラを置いて……死んでしまった」
「……え」
「任務中の事故だった。それからしばらくセラは姿を消した。さすがに心配だったが、俺はただ彼女の帰りを待った。思ったより早くセラは帰ってきた。そしてすっかり放心し、右も左も分からないような状態で、開口一番にこう言ったんだ。『後悔している』と」
 エスの心を、見えない鋭い刃物が切り裂いた。その意味を瞬時にして理解した。きっと、セラは何も知らずに惚気る自分に嫉妬し、苛立ち、そして同情していたのだ。いなくなってからでは遅い――自分もカイルを失って、そのくらいのことは分かっていたはずだ。いくらブラッドが能天気だからと言って、心が変わらないとも、事故で死んでしまわないとも限らない。セラはそれを伝えようとしていたのかもしれない。そうでなかったとしても、時間を無駄にしている自分が、ただ忌々しくて仕方なかったのかもしれない。いずれにせよ、セラは無意味に牙を向けてきたわけではないと、それは認めなくてはいけないと思った。
「俺の見解だが」呟くように。「その男は真っ直ぐで、不器用で……誰かさんに似ていたよ」
 エスの目が微かに揺れる。
 いろいろ考えるべきことができた。今更セラに素直に謝る気は起きないが、やはり嫌いにはなれない。今度、こっちから声をかけて様子を見てみようか、そんなことを思いながら、エスは体の力を抜いた。
 その様子を伺って、ランはやっと微笑んだ。
「焦る必要はないが、いつまでも同じではいられないんだ。よく考えろ」
 エスはすっかり機嫌も直り、上目でランを見つめた。今になって自分の暴走が恥ずかしくなってきた。だが、ランには何度も迷惑をかけてきた。今更、罪悪感はまったくない。
「ねえ」エスも微笑む。「今日、ブラッド休み?」
「本人に聞け」
「何よ、意地悪。知ってるんでしょ」
「なんで俺がブラッドの予定を把握してなきゃいけないんだ」
「もう……」
 そう言ってるうちに、エスの携帯が鳴る。エスは急いでバッグを探り、画面で相手を確認する。ブラッドだった。自然とエスの顔が緩んだ。
「はい」
 じろじろとエスを眺めるランを無視して、エスは落ち着いて電話に出る。
『俺』
 と一言。ブラッドはいつもこうだ。
「うん」
『今、どこ?』
「あんたには関係ないでしょ」
 癖で、つい冷たくしてしまう。だがブラッドは気にしない。
『今日、暇?』
「なんで」
『夜、うちに来ないか? 俺が愛情込めた夕食を振舞ってやるよ』
「イヤ。どうせ食後に、なんて言い出すんでしょ」
『当たり前だろ。ちゃんとムード作るから、全部俺に任せろ』
「バカじゃないの。行くわけないでしょ。じゃあね」
 エスはそう言って、無情に電話を切る。向こうの声までは聞こえなかったが、ランは大体の流れを読んで、呆れる。
「お前な……」
「学習してないって思ってるんでしょ」エスが切り返す。「ブラッド、暇みたいだから、いきなり行って脅かしてやるの」
「なんだそれは」
「いきなり今日卒業ってわけにはいかないけど、こっちからも少しはアピールしてみようかなって」
 エスはすっかり浮かれていた。なんて切り替えの早い女だと、ランは思いつつ。
(……あんまり、予告なしで男の部屋に乗り込むのは、お薦めできないけどな)
 だが、そこまでは口出ししない。ブラッドなら危険度は低いだろうと、高を括る。ランが思案する中、エスはそそくさと化粧を直し、荷物の整理を始める。
「じゃあ、ありがとうね」
 エスは心無く言い残してばたばたと店を出ていった。
 ランは一人、なぜか取り残されたような気分になる。
(ま、いいけど……)
 僅かだったが、ランの胸中が騒いでいた。少し気になったが、その火種が思い当たらない。何かあったとしても、原因の分からない今の時点では予防の手段もない。もう考えないことにした。どうせまた、どっちかが自分に愚痴ってくるに違いない。いつまでそれが続くのかは知らないが、今は傍観しようと気持ちを切り替えた。外が暗くなり始めている。今から開店の準備を始めればちょうどいいくらいか、と席を立った。


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