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 エスは一度自分の部屋に戻り、バタバタと身繕いをした。急いでシャワーを浴びて服を着替え、髪をセットし、化粧も気合を入れる。全身をチェックしながら自分に完璧、と言い聞かせ、再び玄関に向かう。ふっと足を止めて時計を見ると、ブラッドの電話があった時間からもう三時間近く経っていることを確認する。今頃一人寂しく手作り料理でもしているんだろうなと思いながら、戸を潜る。そして、自分の顔を見て喜ぶ彼の姿を想像すると、顔がニヤけた。エスは軽い足取りで、昼間とは違う、ネオンや街灯で照らされた明るい街の中に紛れ込んだ。
 騒がしい街並みを歩きながら、エスはお気に入りのケーキ屋に立ち寄った。手作りとはいかないが、手土産でも持っていけば可愛らしさ倍増だと、単純な計算をする。どうせ欲情するのは目に見えているが、それはまた別、とからかう気満々だった。
 自分の好きなショートケーキをホールで買い、ブラッドが甘いものが好きかどうかはまったく考慮しない。エスにとって、そんなことはどうでもよかったのだ。仮に甘いものが苦手でもむりやり食べさせる、くらいにしか考えてない。

 そのまま二十分ほど歩くうちに、ブラッドの家に近づいてきた。思ったより時間がかかった。タクシーに乗ればよかったと、今更思いながら、エスは彼のいる住宅街に向かった。エスは前にシェルと一緒に遊びに行ったことがある。ブラッドは意外といい家に住んでいた。友人に安くで譲ってもらったらしい。それなりに仕事のできる冒険屋は金もあるし、いろいろと荷物が多い。一軒家に住んでいる者も珍しくはなかった。内装に飾り気はなく、閑散としており、片付いてはいないが散らかってもいないという感想だった。生活と仕事に最低限必要なものだけが、決まった場所に置いてある。無駄に広く、使われてない部屋もいくつかあった。
 そのときは、女二人できゃあきゃあ騒ぎながら部屋を探索した。ブラッドの見られたくないものを探り出しては家中を走り回った。ほんとに、からかい甲斐のある奴だと、エスはそのときのことを思い出して意地悪に笑った。

 ブラッドの家の前に着く。眺めると、奥の部屋に明かりが点いている。でかけてはいないようだ。インターホンを鳴らすのを止めて、ドアノブに手をかける。できることなら、最高に驚かせてやりたい。不精なブラッドのことだから鍵をかけてないかもしれないと思ったのだ。予想は当たった。ノブを回すとドアが開く。エスは中を覗く。しんとしていたが、耳を澄ますと微かな物音が聞こえた。
 玄関から続く廊下を突き当たるとリビングがある。電気もついているし、テーブルの上には食べ散らかしたような食事の残骸がそのままになっている。少し空気が暖かい。今さっきまで人がいたことが分かる。床には空になったワインのビンが何本も転がっている。その奥には、壁ひとつで区切られた寝室がある。ドアが開けっ放しになっている。寝室に明かりは点いていなかった。
 ベッドの上でブラッドが何やら唸っている。体が熱い。酔っているようだ。それも、かなり深く。自分が何をしているのか、されているのか自覚はなかった。

「……ねえ、起きてよ」耳元で女の声が聞こえる。「寝ちゃだめってば」
 薄く目を開けると、女が自分を見下ろしている。部屋は暗く、影になってそれが誰だか認識できない。女は肌蹴た胸をブラッドに押し付けてくる。いい気分だった。女の細い指が自分のシャツの中をまさぐってくる。酒が回り、頭が呆けて何も考えられない。夢かもしれないし、現実かもしれない。
(……どっちでもいいや)
 ブラッドは顔にかかる女の髪の毛を掻き揚げた。引き寄せられるように、女は顔を近づける。女は自分から舌を出し、彼の口に進入させる、させようとする。
 そのとき、ベッドから離れたところからドサリと何か物が落ちる音がした。今度は何だ、とブラッドは女から顔を背け、音のした方に目を向ける。
 頭が真っ白になった。寝室の入り口にエスが立って、こっちを見ている。立ち尽くしている彼女の足元にケーキの箱が転がっていた。
 どうしてここにエスがここにいるんだろう。確か、夕方に電話したけど、断られて……そうだ。その後、昔の彼女から泣きながら電話があったんだ。飲みたいから付き合って欲しいって言われて、出かけようとしたら、ディタがうちに押しかけてきて……そう思ううちに、自分の置かれている状況を考えた。ベッドの上で、エスではない女が服を乱して覆い被さっている。酔いで火照っていた彼の顔が青ざめていく。何がどうしてこうなったのか、混乱が混乱を呼ぶ。落ち着いて記憶を巻き戻そうとしても、間に合わない。
 ヤバい――と、やっと気がつく。
 ブラッドは慌てて体を起こすが、もう遅い。
 エスは何も言わずに、背を向けて駆け出した。
「……エス!」
 ブラッドはディタを押しのけて後を追おうとするが、ディタは後ろから首に腕を回して足止めする。
「離せ!」
「なによ、いいとこだったのに」
「ディタ、ハメやがったな」
「元カノが慰めて欲しがってるのに、そんな言い方はないでしょ」
「てめえは何回俺を騙せば気が済むんだ」
 そう怒鳴りつけられ、ディタは高い声で笑い出す。
「あんたこそ、何回騙されたら気が済むのよ!」
 ブラッドは、初めて女を殴りたいと思った。だが、今はそれどころではない。ディタを振り払ってエスの後を追う。ディタは彼の背中に憎たらしい笑い声を送った。
 ディタはベッドから降り、寝室の入り口に置いていたバッグから携帯を取り出す。そこに転がっていたケーキの箱を軽く蹴ると、つぶれた中身が零れた。それを足の指で玩びながら、電話をかける。相手はすぐに応える。
「あたし。アハ、大成功みたい。あんたの言うとおりね。あんな天然記念物みたいなバカップル、今時なかなか見れないわ。楽しかった。じゃあ、今からそっちに行くから」
 ディタはそれだけ言って電話を切る。再びベッドに戻り、散らかした衣服を整える。室内は静かだった。ベッドにはブラッドの温もりが残っている。
 罪悪感は、ない。だが空虚だった。いつもそう、と思う。衣服を整えながら、緩んでいた顔から表情が消えていった。
(……でもさ)ディタは手を止め。(いつまでも過去に拘ってるのは、あんたじゃないの……セラ?)
 暗い部屋の中、枕もとにある棚には、エスとブラッドが楽しそうに笑っている写真が飾ってあった。ディタは指輪ひとつを外し、写真の前にそっと置いた。


*****


 ブラッドはエスの行きそうなところを片っ端から駆け回った。一時間ほど走り回って、やっとロードに辿り着く。真っ直ぐカウンターに駆け込むが、ランの姿がない。店内を見回してみるが、シェルもいない。慌てて近くにいた従業員の腕を掴む。
「ランは?」
「急用だって出ていったよ」
「シェルは?」
「今日は非番だ」
 ランの家だ、とブラッドは思い、礼も言わずに店を出ていった。

 ランの家はヴァレルの片隅にある。走ればそう時間はかからない。古いが、二階建ての立派な家だった。近所に他の住宅はない。息を切らしてブラッドは激しくドアを叩いた。
「エス! いるんだろ。出てきてくれ」
 確信はなかったが、構わずに大声を出す。
「頼む、話を聞いてくれ」
 反応はない。ドアには鍵がかかっている。ブラッドは舌を打って、再びドアを叩いた。
「ラン、エスがいるんだろ。開けてくれ」
 そのとき、鍵のはずれる音がした。ブラッドは息を飲む。ドアが開かれ、ランが顔を出した。
「ラン、エスが来てるだろ。お、怒ってると思うけど、話をさせてくれ」
 ランは首を傾げる。
「騒がしい奴だな。エスは来てない。忙しいんだ。帰れ」
「う、嘘だ。ここしかないんだよ。なあ、中に入れてくれよ」
「いないって言ってるだろう」
 ランはそう言いいながら、ブラッドの頭を掴んで軽く放り投げる。ブラッドは背中を強く打つが、急いで体を起こす。
「ラン!」
「近所迷惑だ」ガチャ、と銃を突き出し。「また今度にしてくれ」
「!」
 立ち上がろうとするブラッドを制止するように、ランは彼の足元を数発撃つ。ブラッドは縮み上がり、言葉を失った。ランは表情も変えずにドアを閉め、乱暴に鍵をかける。取り残されたブラッドは体中を震わせながら涙を浮かべた。
(む……むちゃくちゃ怒ってる)
 覚悟はしていたが、話くらい聞いてくれても、と思う。だが逃げるわけにはいかない。このままでは、いつか殺される。恐怖で身震いする体を抑えて、ブラッドはその場に座り直した。項垂れて、頭を抱える。


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