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 広いリビングの大きなソファで、エスがシェルに抱きついて肩を揺らしている。そこにランが戻ってきた。
「どうでした?」
 シェルがランに声をかける。ランは目を伏せて、二人の向かいのソファに腰掛けた。
「何やら言い訳したそうだったぞ」
「知らない!」エスが金切り声を上げる。「最低よ。どうせ男なんかやりたいだけの生き物なのよ。もう誰も信じられない」
 一応、ここにも男がいるんですけど、とランは思うが、また八つ当たりされるのは目に見えている。何も言わずにいると、案の定、エスは顔も上げずにシェルを更に締め付けた。
「もうイヤ。男なんかいらない。女でいい。シェル、あんなケダモノとはさっさと別れてあたしと付き合って」
「エ、エス……痛い」
 言ってることが投げやりすぎる。シェルは返事に困る。エスは構わずにぶつぶつ呟いている。そんな彼女の嘆きを無視して、ランは思案した。
(それにしてもタイミングがいいと言うか、悪いと言うか……盗聴か? だがどこで? 店内では無理だ。と、なるとブラッドの電話か……?)
 そうだとしたら、ブラッドが日常でどれだけ無防備かを悟れる。それについての説教は後に回すとして。
(だが、エスがブラッドのうちに押しかけることまでは、あの電話では分からなかったはずだ。おそらく、ブラッドに女を当てがってエスを挑発するのが目的だな。しかし、そんなことをして何になるんだ)
 もちろん、犯人がセラだということは明白だった。
(エスを精神的に追い込んで、それで何のメリットがある? 遊んでいるにしてはちょっと度が過ぎる。昔のことは、もうここ数年で立ち直ってると思っていたが……エスに恨みがあるとも思えない。ブラッドとも、そう関わったことはないはず。と、なると昇格会議に関係があるのか?)
 まさか、マザーが何かセラに嗾けているんじゃないだろうか。そう思ったランは立ち上がった。シェルがそれに気づく。
「ラン、どこへ?」
「ちょっと調べてみたいことがある」背を向けながら、皮肉る。「このままじゃそこのお嬢さんに家をめちゃくちゃにされ兼ねないからな。それにいつまでも居ついてもらわれたら、迷惑だ」
 それを聞いて、エスがきっ、とランに歯を剥きだす。
「なによ。どうしてあんたって落ち込んでる女の子に優しい言葉の一つもかけられないの。どうせ、またガキだって思ってるんでしょ。バカな女だって、笑ってるんでしょ。いいわよ。どうせあたしなんて、男に弄ばれて惨めな人生を送る薄幸少女なのよ。誰も同情なんてしてくれないのよ!」
 ランは最後まで聞かないで室を出ていった。

廊下を突き当たり、狭い別室に入る。中はデスクと棚だけで構成されており、まるで倉庫のように本や書類で溢れかえっていた。ランの仕事部屋だった。デスクに腰掛けて電話を取り、ダイヤルする。
 デスクの上のスタンドライトの横には、一枚の古い写真が飾ってあった。日付は八年前だった。自分が冒険屋だったときの記録は奥にしまいこんだ。この一枚の写真だけがそのときを鮮明に思い出させる。未練ではなかった。初めて「彼」と一緒に仕事をしたときのものだった。出会ったのは、確か、十年も前だったと思う。数人の仲間とふざけて撮った記念写真。武装し、埃に塗れている厳つい巨体の獣人たちの中に、まるでモデルにでもなれそうな綺麗な男が混じっていた。このときの仕事をきっかけに、後に天才と呼ばれた「ルークス」だ。獣人たちの迫力に圧されもせずに、いけ好かない笑顔を浮かべている。彼はもういない。そう、彼は五年前に、既に死んでいたのだ。
ならば、今までの五年間は一体なんだったのだろう。「カイル」とは、一体何者だったのだろう。本当に存在していたのだろうか。ランはその答えを出すために、たった一枚の写真を処分することができなかった。
 見飽きるほど思いを馳せた写真を眺めるうちに、電話の向こうの呼び出し音が途切れ、応答の声が聞こえた。


 二時間ほど経って、エスは泣き疲れて眠ってしまった。シェルはそのままソファに彼女を寝かせ、そっと布団をかける。そして未だに書斎に引き篭っているランに声をかける。室内は散らかり、狭い。シェルは中には入ってこない。
「エス、寝てしまいました」
 ランは目も合わせずに答える。
「後で寝室に運んでやるから、ほっとけ」
「ブラッドは?」
「まだいるのか」
「ええ。さっき二階から覗いてみたんですけど、玄関の前で落ち込んでました」
「かわいそうだと思うか?」
 シェルはその質問に、顔色も変えずに。
「いいえ」
 ランは思わず笑いが零れる。
「今はまだ情報待ちだ。大変だと思うが、エスが落ち着くまで相手をしてやってくれ。ブラッドは、そうだな……気になるなら、お前が話を聞いてやれ」
「嫌です。話したくありません」
 ランは即答するシェルの顔を、やっと見る。無表情だった。明らかに、怒っている。寒気がした。どうやら笑っている場合ではないようだ。
 シェルは少し頭を下げてドアを閉める。室内の空気が冷たく、重苦しくなっていた。シェルがここまで浮気に対して嫌悪を抱いているとは、と初めて認識する。これは心しておかないと、下手を打てばエスの八つ当たりどころではなさそうだ。ランは身震いしながら、頭の中を切り替えて手元の書類に顔を近づけた。


 夜はすっかり更け、既に日付も変わっていた。
 寝室ではエスとシェルが寄り添うように眠っている。
 玄関の前で膝を抱えてウトウトしていたブラッドは、ドアの開く音で瞼を持ち上げる。反射的に振り向くと、ランが自分を見下ろしていた。
 その目つきは、決して好意的ではない。怖い、がこの機を逃すわけにはいかない。
「ラ、ラン」声が上擦っていた。「エスは?」
 ランはすぐには答えずに、ブラッドの隣に腰を下ろす。そして、横目で睨む。ブラッドは体を縮めながらも、負けじと睨み返す。
「な、なんだよ……」
 ランは視線だけで彼を制圧し、ブラッドはとてもそれに適わない。闘志を消して、俯いた。それでも押し寄せる殺気に体を固めて、呟くように声を漏らした。
「……ディタに騙されたんだよ」
 ランは冷たい目を向けたまま、動かない。
「いきなりうちに押しかけてきて、無理やり酒を飲まされたんだ。確か、ワインを四本……それから先は覚えてない」
「ディタって」ランがやっと口を開く。「確か」
「前、付き合ってた」
「ああ」ランは目を細めて。「お前、五番目だったんだよな。それは付き合ってるとは言わない」
 ブラッドは、うっと息を詰まらせる。
「しかも、それが分かって別れたあとも、何度かからかわれてなかったか?」
 ブラッドの額に汗が垂れる。それは言わないでくれと強く願うが、ランは容赦しなかった。
「お前、真性のバカだろ」
 グサリ、とブラッドの胸を何かが貫く。今にも泣きそうなブラッドを横目に、ランは声を潜めて話しだす。
「まあ、今はお前がバカかどうかはどうでもいい」
 ブラッドはいじけた顔をランに向ける。
「ディタはセラに雇われたんだ」
「……え?」
「おそらく、セラはマザーに何か嗾けられている」
「セラって、エスの友達だろ? あの、ちょっとケバい……」
「ただの因縁じゃないかもしれない。セラの本当の目的が何なのかはまだ分からない。今調べている」
 ブラッドは体を乗り出す。
「なんだよ、それ。エスに何か関係あるのか?」
「さあ」
「じゃあ、もしかして……俺って被害者じゃないのか」
 ギロリ、とまたランの目が鋭くなる。またブラッドは体を引きながらも、必死に主張する。
「だ、だって、そうだろ。そもそも俺は騙されたんだし、しかもセラの差し金ってことは、俺は巻き込まれ……」
 最後まで言わせずに、ランはブラッドの頭に強烈なゲンコツを落とす。鈍い音とともに、ブラッドの体中に電撃が走る。声も出ない。目玉が飛び出てしまいそうだった。ブラッドは頭を抱えてひっくり返り、悶絶する。
「バカが」ランは牙を剥きだして。「お前がしっかりしてればカモになんかならなかったし、エスを傷つけることにもならなかったんだろうが」
 ランは苛立ちを露わにし、喉の奥から唸り声を漏らす。
「巻き込まれたのはこっちだ。仕事のことならともかく、お前らの痴話喧嘩にどうして俺が振り回されなけりゃならないんだよ」
 ブラッドはまだ痺れる頭を押さえて、怯えながら「ごめんなさい」と呟いた。
「それにな」ランはドスの利いた声を出す。「まだお前が無関係だと決まったわけじゃない。もしセラの中でまだラスターのことが燻っているとしたら……」
「ラ、ラスター?」
 ランはふっと口を閉ざし、微かに耳を揺らした。何かに気づき、ブラッドとは逆の方向に体を捻った。周囲は不揃いに並んだ木々や廃墟しかない。ブラッドもわけが分からないまま、ランと同じ方向に目を向ける。暗闇の中に光が二つ並んでいた。車のヘッドライトだ。離れたところでエンジンを切り、三回ほど点滅する。それを確認して、ランが立ち上がった。
「珍しく時間内に到着したな」
「ラン、あれ、何だ?」
「お前も来い」ランは車に向かって歩き出す。「騒ぐなよ」
 ブラッドは、何がなんだかで、とりあえず体を起こす。まだ痛みが引かない頭を摩りながら、ランの後についていった。

 車はオープンのジープだった。決して小さい車ではないのだが、中には三人の獣人が窮屈そうに乗っている。運転席にいたライオンの獣人、サングがランを見つけて立ち上がった。
「よお、社長」
 サングはランを社長と呼ぶ。何度もやめろと言ったが聞かない。
「何なんだ、お前らは」ランは車の前で足を止めて。「たかだか女ひとり捕まえるのに、えらく盛大だな」
 助手席にいた鷹の獣人ゴーグが顔を出す。
「久しぶりにあんたに会いたかったんだよ。しかし、今日はやけに暗いな」
「ただの鳥目だろ。役に立たないならついてくるな」
「失礼だな。最終的に獲物を見つけたのは俺だったんだぜ。褒めてくれよ」
「いいから、その獲物を出せ」
 今度は後部からサングとは色違いのライオン、シガーが立ち上がる。その肩には、女が抱えられていた。まるで人形のように小さく見える。後ろ手に縛られ、猿轡をされてもがいている。
「……あ!」
 それを見て、ブラッドが大声を出す。
「ディタ!」
 シガーはディタの猿轡を剥がす。途端に、高い声を上げた。
「あんたたち、こんなことしてどうなるか分かってるの!」
 三人はディタを無視してぞろぞろと車を降りる。シガーは乱暴にランの前にディタを放り投げる。
「何なのよ! 誰か、助けて。殺される、犯される」
 一人で喚き散らすディタにブラッドが怒鳴りつける。
「ディタ」
「あ、ブラッド!」
「てめえ、よくも……」
 前に出ようとするブラッドは、ランに二度目のゲンコツを食らう。
「騒ぐなと言っただろう」
 さっきほど強くはないが、痛くないわけがない。またブラッドは頭を抱えた。
 ランはサングに向き合う。
「セラは?」
「見つからなかった。時間もなかったからこいつだけ連れてきたんだ」
「悪くない判断だが、依頼は遂行できてない。報酬は削るからな」
「構わないぜ。社長の頼みならボランティアだって喜んでやってもいい」
「だったら、その『社長』ってのをやめてくれ。頼むから」
「了解」
 と言うが、サングはすぐに忘れる。冗談はさておき、ランはディタの前に屈みこむ。
「セラはどこだ」
 ディタは目を逸らして答えない。彼女の反抗的な態度にサングが後ろからディタの髪の毛を掴み上げた。
「質問に答えろ」
 ブラッドはさすがにかわいそうに思う。つい口出ししそうになったが、先にランが止める。
「サング、止めろ」
 するとサングは黙って手を離す。再びランはディタを睨みつけ。
「セラの目的は何だ」
 ディタは眉を寄せて俯いた。唇を噛み締め、震える体を必死で抑えていた。
 ランは彼女の変化に気づく。怯えているのではない。何かを隠している。それを言うべきかどうか迷っているのだ。敵ではないことを教えれば、口を割る。ランはそう思った。
「俺は、セラを助けたい」
 途端に強張ったディタの表情から、もう時間がないことを悟る。嫌な予感が背中を走った。
「危険な状態にあるんだな? お前が喋ることで、セラが救えるかもしれないんだぞ」
 ディタは強く目を閉じ、震える声を漏らした。
「……もう、遅いわ」
「何だと?」
「セラはジェスティに試された。そして、その答えを間違ったのよ」
 ジェスティの名に、ランは寒気を覚えた。魔女と呼ばれる、正体不明の怪しい女だった。
「セラは殺される」ディタの目から涙が溢れた。「あたしは止めたの。でも、セラは後悔したくないって、聞いてくれなかった」
「何があったのか、ちゃんと話せ」
「セラは昇格会議の候補になったことを知らされ、同時にジェスティにテストをされたの。ラスターを蘇らせてやるから、生贄をつれてこいって……最初は、セラも悩んでた。だけど、突然、いい生贄が見つかったって……」
「……ブラッドか?」
 ディタは頷いた。ブラッドはランの背後で眉を寄せる。
 ランは大体の流れを読んだ。セラはジェスティにラスターの名を出され、ダメだと分かっていながら深く悩んだのだと思う。きっと、精神に限界を感じるほどに。そして、今日のエスとの喧嘩で感情的になってしまい、間違った決断を下した。エスとブラッドを引き離すことは簡単だと罠をかけた。
「だが、手遅れとは、どういうことだ。ブラッドはこの通り無事だし、まだ何も事は起きてない。今からセラを止めれば間に合うだろう」
 ディタは何度も頭を振った。
「事が起きるとか起きないとかの問題じゃないの。ジェスティはセラを試したの。昇格に値するかどうか、彼女の心の強さを試したかっただけなの」
 ランは一瞬、息を止めた。まずい。確かに、手遅れだ。
「セラはどこだ」
「ジェスティに呼ばれて……『儀式の地』へ行ったわ。もう、殺されているかもしれない」
ランは急に立ち上がって、ブラッドの腕を掴む。
「サング、車を借りる」
 サングは驚きもせずに、ジープを明け渡す。
「どうぞ」
 ランはブラッドを助手席に放り込み、エンジンをかける。ブラッドはまだ状況についていけてなかった。とりあえず体を起こす。そこにサングが声をかける。
「で、社長、捕虜はどうします?」
「解放しろ。妙なマネはするなよ」
「了解」
 ランは折れんばかりにギアを引く。そのとき、ディタが縛られたまま立ち上がった。
「待って。あたしも連れてって」
「やめとけ。お前も裏切り者として処分されるぞ」
「だって、セラが心配だもん」
 ディタはそう言いながら車に駆け寄る。
「開けて」
 窓越しにディタに怒鳴られて、ブラッドはついドアを開けてしまう。待たずに、ランは車を出す。体勢を崩して、ディタはブラッドの膝の上に乗り込んでくる。慌ててブラッドはドアを閉めるが、混雑した車内でディタがまた大声を上げる。
「ブラッド、縄を解いて」
「な、なんだよ。お前、俺を騙して……」
「早く!」
 ブラッドの膝の上でもがくディタのスカートがはだける。ブラッドは慌てて目を逸らして、仕方なく縄を解いた。途端、ディタはブラッドに抱きついてくる。
「ブラッド、怖かった」
「は、離れろ。後ろにいけよ。邪魔だ」
「イヤ。やっぱりあたしにはあんたしかいないわ。ねえ、やり直そうよ」
「冗談じゃない。お前なんか信用できるか」
 騒ぐ二人に、ランが怒鳴りつける。
「うるさい! 叩き落すぞ」
 声だけで車体が震えた、ように感じた。目を丸くして怯える二人に構わず、ランは更にスピードを上げた。


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