SheepieGirl



4




 それからまた、立て続けに事件が起きた。
 夜、赤ん坊を連れた夫婦が家に帰っている途中に襲われた。
 だが今度は夫婦は腹を裂かれただけだった。「彼女」は赤ん坊を骨だけ残して食べつくしていたのだった。
 シーピーは魔獣の姿に変貌しており、血塗れでおいしそうに赤ん坊を頬張っている。
「若いほうがおいしいって本当だったんだ」
 瞳孔が開いた瞳を細め、最上のごちそうを音を立てて味わっている。
「柔らかくて甘味があって、最高だわ……もっと食べたい」
 脳まで吸い上げられて空になった赤ん坊の首が、地面に投げ捨てられる。傍には力及ばず我が子を守れなかった両親が横たわっている。
 シーピーは親の方には興味を示さなかった。赤ん坊の味を知った悪魔は、今更不純物を蓄積した大人の肉など思い出したくもない。
 シーピーはゆらりと立ち上がり、真っ赤に染まった自分の両手を見つめた。理性を取り戻そうと集中するが、尖った爪が僅かに揺れただけで、小さな女の子の手には戻らなかった。
「……やだ。魔力が制御できない」
 シーピーは焦り、両手で自分の顔を覆った。
「興奮が止まらないわ。こんな姿じゃ……もうティシラちゃんに会えないじゃない」
 ああ、と嘆くと、喉の奥から獣の唸り声が漏れた。
「約束したのに……ティシラちゃんのために、我慢しなくちゃって思ったのに……」
 耐えられなかった。
 ごめんね、ごめんねと繰り返しながら、獣は追手を恐れてその場から離れた。
「もう魔界に帰らなきゃ。魔界に帰って、時間が経てば元に戻るわ。このまま食人を続けていたら、ティシラちゃんに会えないどころか、人間に捕まって殺されてしまう……もう帰ろう。じゃないと、食欲が止まらないもの……ティシラちゃんに挨拶できないけど、仕方ないわ」
 シーピーはまた「ごめんね」と呟き、追手が来る前に消え去った。
「バイバイ、ティシラちゃん……」



 ――――!
 ティシラは両目と口を大きく開けて、叩き起こされるように目を覚ました。
 あまりに恐ろしい夢だった。すぐに体が動かない。深い呼吸で、胸が上下する。
 汗を拭いながら、やっとあれが夢だと理解し始める。
 シーピーが何度も食人を繰り返し、嘘をついていたことを隠したまま、自分に何も言わずに魔界に逃げ帰ってしまうなんて、あまりに酷い夢だ。
 ティシラはそんな夢を見てしまう自分に罪悪感を抱いた。これは、どこかでシーピーを信用していないという証拠だ。
「……違うわ」
 ティシラは体の力を抜いて独り言ちる。
「心配なだけよ。あんな記事読んだあとだし……」
 あの情報だけでは、シーピーじゃないともシーピーだとも断言できない。だから妙な想像をしてしまっているのだ。
 事件の現場は遠いが、行ってみようかと考える。そこに残っている魔力を確かめれば、シーピーのものではないと分かるに決まっている。そうすれば、もう彼女を疑う必要もなくなるのだから。
 だが、その行動自体がシーピーを疑っているという証明にもなる。そのうち犯人が捕まり、すべて解決する。それでいいと、ティシラは枕元にあったぬいぐるみを抱きしめた。



 ティシラの悪夢は終わらなかった。
 ティシラは深夜、見知らぬ村にいた。嫌な予感がする。血の匂い、人々の恐怖、殺された者の無念……それらに混じり、親友の魔力が漂っている。
 震える足で、静かな村を歩いた。ぴちゃりぴちゃりと、水の滴る音が聞こえてくる。
「……シーピー」
 白い巻き毛は返り血で薄汚れている。可愛らしい服も、顔も、真っ赤に染まり、人の形をした「悪魔」が大きな目を見開いた。
「ティシラちゃん」
 驚く表情で、まだ会話ができる状態だということは分かる。
 だけど、あまりにも悲しい再会だった。
「シーピー……何、してるの?」
 シーピーは棒立ちで固まったまま、動かなかった。足元には、小さな子供や赤ん坊が食い散らかされている。さらにその向こうには、子を守ろうと戦った大人たちが積み重なっていた。
「ティシラちゃん……ごめんね」
 ティシラは首を小さく横に振った。
「やめて。謝らないで」
「ごめんね……」
「やめてよ……違うって言って」


 月の光の下、ティシラの右手には抉り取ったシーピーの心臓が、消え入りそうなほど弱く脈を打っていた。
 シーピーは野獣の姿のまま、胸から大量の血を噴き出しながらもがき苦しんでいる。
 いくら人間の肉を食い漁り魔力が増幅し、狂暴化していたシーピーでも、ティシラの怒りには敵わなかった。
 灼熱の炎を灯した真っ赤な瞳に睨まれるだけで、大抵の者は怯え、立ち竦んでしまう。逃げなければと思うより早く、ティシラの爪がシーピーの体を貫いていた。
「どうして? どうしてこんなことしたの?」
 陸上に打ち上げられた魚のようにシーピーは口を開けて苦しんでいる。逆流してくる大量の血で息ができない。鼻や耳からも流血が止まらず、充血した目も飛び出していた。
「約束したじゃない。どうして裏切ったのよ」
 シーピーは声を出せず、涙を流した。それが苦痛からなのか、悲しいからなのかは区別がつかない。自由の利かない体で、なんとかして「ごめんね」と伝えようとしている。
 制裁する側として、ティシラは情を捨てると決めていた。だけど、涙が溢れだし、止まらない。
 何一つ救いのない最悪の結末だった。いっそ、もっと早く魔界に逃げていてくれればと思う。そうすれば自分の手で親友の命を奪う必要はなかったのに。
 だがシーピーはもう自制できないところまで来ていた。魔界に帰って平静を取り戻したとしても、きっとまた戻ってくる。こうしなければ止められなかったのだ。
 シーピーはやっと、途切れ途切れながらも「ごめんね」と、言葉を綴った。
 ティシラは事切れたシーピーの遺体を抱きしめ、声を上げて泣いていた。




 深夜、ティシラは泣きながら目を覚ました。夢だと分かっても、涙が、悲しみが止まらなかった。
「嫌よ……お願い、シーピー、信じてるから。お願いよ、裏切らないで……私に、殺させないで……!」
 ティシラは一晩中、親友を思ってむせび泣き続けた。



*****




 魔界に帰らなければ。
 そう決意したはずのシーピーは、再び村に戻っていた。
 その姿はもう少女のそれには戻らず、野獣化したままだった。
「……ダメ、やっぱり、物足りない」
 シーピーは人家の屋根の上で、目玉を左右に動かしながら獲物を探していた。
「今度こそ、本当に最後よ。これで最後にするわ。約束よ……だから、許して」
 呼吸が上がってくる。シーピーは屋根から軽やかに飛び降りた。



 シーピーは匂いで獲物を見つけ、眠りについている人家に窓を破って侵入した。
 飛び起きた家族をすべて殺し、一番奥の部屋にいた女性の首の骨を素早く折り、悲鳴も上げさせないまま、森にさらっていった。



 シーピーが欲していたのは、胎児だった。
 若ければ若いほど人間は美味しい。赤ん坊も食べたシーピーは、まだ母親の中で眠る胎児の味を知りたくて、すぐには魔界に帰れずにいたのだった。
 母親は既に息絶えていた。シーピーは体の中を傷つけないように腹を引き裂き、まだ脈打っている小さな命に、嬉しそうに齧り付いた。
 想像以上の美味だった。今度こそ本当に最後だと決心できるほど。
 食べ終わったらすぐに魔界に帰ろう。ティシラには黙っていればばれない。嘘をついたことは心苦しいが、本当のことを言えばもっと悲しむに決まっている。
「……ごめんね、ティシラちゃん。でも、私はあなたを悲しませないわ。ティシラちゃんは今のまま、幸せに過ごして。何も知らなければ、なかったことと同じでしょう? だから隠したまま、私は消えるわ。いつかまた、きっと会えるから……」



「……もう会えないよ」
 気配もなく、彼はそう言った。
 胎児を骨まで食べつくし満足していたシーピーは飛び上がるように振り返った。
 血の匂いの漂う暗い森に、黒いマントを羽織った長身の男がいた。
 シーピーは全身の毛を逆立たせ、男を探るように見つめた。
 人間だ。魔法使いというところまでは分かる。だけど、どうして、いつの間に背後に近づいてきていたのか、得体がしれなかった。
 男がゆっくり歩み寄ってくる。木々の隙間から注ぎ込んでいた月の光に照らされ、浮かび上がった顔は、見覚えがあるものだった。
「あなたは……」
 シーピーはあまりの不可解さに警戒を解くことができなかった。
「確か、ティシラちゃんの……」
 ティシラの「恋人」であるクライセンだった。
 この姿では何も言い訳はできない。シーピーは全身から汗を流した。
「……なあに? 怒ってるの?」
 あれだけ人間を食い殺してきた。怒りや恨みを買っても当然とはいえ、何の関係もない彼に報復を与えられる覚えはなかった。
「やだ。ティシラちゃんには黙っててよ。私、もう魔界に帰るから。まだ人間に正体はばれてないでしょう? あなたさえ見逃してくれたら、ティシラちゃんは何も知らないまま、悲しい思いをしなくて済むの」
 クライセンは月光を少し目で追ったあと、後退るシーピーを一瞥した。
「あ、あなたは魔族のことを分かってないわ。ティシラちゃんはここに馴染もうとしてるけど、私は違うの。こんなにおいしい食べ物があるのに、我慢できるわけがないじゃない」
 強がってみるが、震えが止まらない。
 彼の鋭い視線は、あまりに冷たく、氷のように鋭かった。
 ティシラやブランケルとは種類は違うが、同じくらいの威圧感がある。人間に目で制されるなんて、シーピーは信じられなかった。
「……ねえ、何がしたいの。私を罰したいの? 殺したいの? そんなことしたら、ティシラちゃんがどんなに悲しむか、分かってるの?」
「……分かってるよ」
「じゃあ、見逃してよ。もう帰るって言ってるじゃない。もう二度としないから。あなたさえ黙っていれば、それで終わりじゃない」
 クライセンが一歩前に足を出すだけで、シーピーはびくりと体を揺らして背を丸める。戦わなくても分かる。魔力の桁が違う。ティシラが「世界一の魔法使い」だと言っていたが、そのときは幼稚な表現に呆れるだけだった。きっとティシラは彼が好きだから単純な言葉を使っているのだと思っていた。
 だけど「世界一の魔法使い」の意味が、今、嫌というほど分かる。
 ティシラは父親を「魔界一強い吸血鬼」、母親を「魔界一の美女」と言った。まったく、言葉通りだと思った。そして、クライセンはティシラ曰く「世界一の魔法使い」。これほどまでに分かりやすい言葉はほかにないと、シーピーは肌で感じていた。
 クライセンは静かに片手の手のひらを差し出し、ちょうど月光の当たる位置にかざした。すると、月の光が手の平の上で輪を描き始めた。次第に光は固まり、薄い円になっていく。
 ぞくりと寒気が走った。美しい月光の輪は、シーピーの目には鋭い刃物にしか見えなかったからだ。あんなものに触れたら体がバラバラになる。
 クライセンは本気で自分殺すつもりだという事実から、逃げられない。
「……あなた、本当はティシラちゃんの恋人じゃないんでしょう?」
 震えと汗が止まらないシーピーだったが、気力を振り絞って無理に口の端を上げた。
「本当にティシラちゃんを愛しているなら、親友の私を殺して悲しませるなんて、できるわけがないもの」
 クライセンの手のひらには、大量の月光が吸い込まれるように集まってくる。そのすべてが薄く小さな円の形に凝縮されていく。周囲の草木が、風もないのに揺れた。彼の手のひらに集まり、圧縮されていく膨大なエネルギーに、引き寄せられているのだった。
「そうじゃないかと思ってたのよ……」シーピーは震える足を一歩下げながら。「ティシラちゃんったら、嘘ついたのね。酷いわ。でも、私も、約束破ったから、これであおいこだわ……ねえ、そう思……」
 シーピーの最後の足掻きを、クライセンは遮った。
「本当だよ」
「……え?」
 シーピーが驚いている間に、クライセンは手の平の月光に息を吹きかける。
 なにが起きたのか、自分の体が真っ二つになって宙を回ったあと、地面に叩きつけられるまで分からなかった。
 手の平の中で作られた「小型の月」はシーピーの体に触れた瞬間に、圧縮されていた月光を一気に解放させたのだった。星ひとつ分のエネルギーの爆発は音も立てず、彼女の上半身と下半身を完全に引き裂いた。地面に投げ出されたシーピーは、薄れる意識の中で、見慣れた自分の足が手の届かない遠い位置にあることを確かめた。
「恋人だからこそ、ティシラを悲しませたくないんだ」
 クライセンは表情一つ変えず、横たわるシーピーの上半身に近づいた。
「私は人間を食い殺した君への恨みもないし、正義感でここに来たんじゃない。このままではティシラは自分の手で親友を殺さなくてはいけないと考えるだろう。だけど、それはあまりにも残酷だ。だから、私が代わりにここへ来たんだよ。ティシラを守るためにね」
「……こんなことして、どうやってティシラちゃんを、守れるというの」
「大丈夫」クライセンは人差し指を唇に当て、声を潜めた。「今までのことは、山から降りてきた野獣の仕業だったことにしておくから」
 シーピーは、平気で恋人の親友を殺し、軽口を叩く彼が信じられなかった。魔族でもここまで冷たい者を見たことがない。
「あなた、本当に……ティシラちゃんを、愛しているの?」
 息も絶え絶え、最後に、シーピーは親友として彼女を心配していた。この人は本当に人間なのか。ティシラはこの人のことを本当に分かっていて好きでいるのだろうかと。
「分からない?」クライセンからはもう殺気は消えている。「私の魔法は、大事なものを守るために使う。そう決意させてくれたのが、ティシラなんだ。彼女は私の生きる目的になってくれた。心から、愛してるよ」
 シーピーは彼は何を言っているのか理解できず、何度も瞬きをしていた。その力も、次第になくなっていく。
「こんなことを話したのは、君が初めてだ」
 クライセンは体の端々が痙攣しているシーピーの傍に膝を折って顔を寄せた。
「君の秘密は守るから、君も、今の話は、誰にもしゃべらないでくれよ」
 シーピーに彼の皮肉は難しかった。だけど、最後に微笑んだ。
「……よく分からないけど、ティシラちゃんは悲しまないのね」
「ああ。私が悲しませないよ」
「そっか……」
 シーピーは目を見開いて空を仰いだ。あれだけ好きだった月の光が怖くて、暗闇の中に逃げ込みたい衝動に駆られる。しかしもう走るどころか、起き上がることもできない。すぐそこにある死を受け入れ、シーピーは「親友の恋人」を見納めた。
「不思議だわ。どうして信じられるのかしら……あなたのこと、あんまり好きになれないのに」
 クライセンは横たわる「恋人の親友」に優しく手のひらをかざし、彼女の視界から月の光を遮った。
「君の感覚は正しいよ……だから安心して、おやすみ、シーピー」
「…………」
 クライセンの言葉を聞き届けて、シーピーは息を引き取った。



*****




 次の日、気が滅入っていたティシラにいい報せが届いた。
 新聞に、事件が解決したと書いてあったのだ。
 巨大な狼の死体の写真が掲載され、これが今まで人間を襲っていたものの正体だということになっていた。
 昨夜、妊婦のいる一家が襲われ、母親が連れ去られて森の中で惨殺されていた。その近くに体が真っ二つになった狼が死んでいたのだという。一家の倉庫にあった護身用の爆弾が一つなくなっており、おそらく家族の誰かが狼に投げ、それを食べてしまったのだろう。狼は野生のものより二回りほど大きく、何らかの理由で魔力を帯びて狂暴化し、より若い人間を選ぶ程度の知能を持っていた。一家は誰も助からなかったが、事件は解決した、村人に平和が戻ったと書いてあった。
 ティシラはマルシオを大声で呼びつけ、新聞を突き付けた。
「ほら、やっぱり狼だったのよ。私の言ったとおりだったでしょ」
「ああ、よかったな。友達じゃなくて」
「何よ、シーピーを疑ってたこと、謝りなさいよ」
「お前だって気にしてたじゃないか」
「そんなことないわよ。言いがかりはやめて」
 ティシラははしゃぎ、庭にいたサンディルにも新聞を見せに走って行った。
 夜にクライセンにも報告すると、彼は優しく「よかったね」と言った。
 その青い瞳に灯る光にはもう、なんの混じり気もなかった。



 それから十日が過ぎてもシーピーは姿を現さなかった。
 ティシラは何度かあの公園に足を運び、彼女を探した。だけど、親友からは手紙さえも届かなかった。


 その日は雨だった。
「……シーピー、もう魔界に帰っちゃったのかなあ」
 ティシラはしとしとと地面を濡らす雨を、出窓に寄りかかって見つめていた。
「それならそれで、一言言ってくれればいいのに」
 耽っていると、背後からクライセンが歩みより、一緒に空を見つめた。ティシラは密かな動揺を抱いて目を泳がせ、でもその場から動かなかった。
「ああ、そういえば」
「?」
 ティシラが目線を上げると、クライセンはポケットから大きな飾りのついたネックレスを取り出した。ティシラはそれを受け取り、あっと声を上げた。
「これ、シーピーのじゃない」
 丸い金の枠に分厚い硝子がはまっており、中には赤い毒キノコが閉じ込められている。こんなものを好むのは彼女しかいない。
 どうして、と尋ねる前に、ティシラはガラスに亀裂が走っていることに気づいた。
「壊れてるわ」首を傾げて。「これ、どうしたの?」
「落ちてた」
「どこに?」
「森の中」
 どこの、とは訊かなかった。ティシラは勝手にこの屋敷の周囲の森だと思ったからだった。
 ティシラは再度薄暗い空を見上げ、ネックレスを握りしめた。
「寂しい?」
 クライセンに問われ、ティシラはすぐに頷くことができなかった。
 腕と腕が振れる距離に、大好きな人がいる。溢れそうなほど、心が満たされていく。
 それに、シーピーは自分との約束を守ってくれた。今はそれで十分だと思った。
 ティシラがううんと首を振ると、クライセンは満足そうに微笑んでいた。


(了)
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