SHANTiROSE

HOLY MAZE-33






 マルシオは朝食を紅茶だけで済まして、それからも一人で窓の外を眺めて暗い顔をしていた。
 ロアはそれを見て溜息をつきながら、傍のソファに腰かけた。テーブルの上には未だ応答のない水晶が置いてある。
「マルシオ、少しは休んでください」
 マルシオは苦い表情でロアの向いに渋々座った。
 そのとき、窓の外から怒声が聞こえてきた。
 二人は同時に窓に駆け寄る。窓の下にある広い道に、あっという間に人だかりができていた。そこには、三人ほどの制服を着た男が一人の中年女性を取り囲んでいた。
 騒いでいるのは分かるが、会話までは聞き取れない。ロアが聞き耳を立てるように、目を閉じて騒ぎに集中する。
 男たちは町を警備している軽装の兵だった。マルシオはその光景に眉をひそめた。女性が何度も首を横に振り、大声を上げている。兵の背後に、女性と同じ年齢くらいの男性が兵に事情を説明しいるようだった。
 マルシオが不気味に感じたのは、周囲に集まる人々の様子だった。一定の距離を保ち、女性を軽蔑するような目で見ている。
 嫌な予感がした。
 そのうちに、二人の兵が無理やり女性を連行し、残った一人が周囲に何かを訴えかけていた。
 ロアが目を開け、首をひねった。
「……魔女だそうです」
「え?」
「あそこにいる男性は連れていかれた女性の夫で、昨晩、仕事で帰りが深夜になってしまい、朝、妻に浮気ではないかととがめられ、ケンカになったそうです」
 マルシオは息を飲んだ。
「夫の言い分は、浮気をしているのは妻で、仕事で遅くなった自分を責めて罪を着せようとしている、とのこと……」
「それだけ? 証拠は?」
「今朝、つまりつい先ほどの出来事なのに、あるわけがないでしょう」
「だったら、なんで女性だけ連行されるんだよ」マルシオの顔が青ざめる。「それに、ただの夫婦喧嘩だろ? 暴力を振るったり、罪を犯したわけでもないのに、なんで逮捕されるんだよ」
 ロアは冷ややかな目で窓の下の野次馬を見つめたあと、すっとカーテンを閉めた。
「……病んでいますね」再度ソファに戻り。「ここの人たちはそれだけ魔女を恐れているんです。そうなったのも、今始まったことではありません。いつ誰が魔女になるのか、どこに魔女が潜んでいるのか、不安なのでしょう。」
 マルシオも腰を下ろし、冷や汗に体を震わせた。
「そういえば、こないだも似たような光景を見た……誰も止める人がいなかった。それどころか、ただ夫婦喧嘩をしていただけなのに、片方の言い分だけで女性を憎悪の目で見ていた。あの人は、どうなるんだろう」
「取り調べをするために連行するそうです」
「……どのくらい?」
「さあ。噂によれば、連れていかれて戻ってきた人はいないらしいですけど」
 ロアはソファに体を預けながら、まだ耳を外に向けたままった。
「あの男性、連れていかれた妻を、人前で罵倒しています。元々仲がよくなかったのでしょうね」
 マルシオはその様子を見たいなんて思わなかった。
 醜い。
 人間のそんな姿、見たくなかった。
「嘘をついて、自分の奥さんを人前で逮捕させるなんて……」
「男性が嘘をついているかどうかは、分かりませんよ」
「でも」マルシオは感情的になりそうな自分を抑えた。「……あの女性が魔女ではないことは、確かだ」
「ええ、そうですね」
 窓の外の騒ぎは次第に収まり始めていた。
 マルシオとロアが言葉を失っていたそのとき、二人の前にあった水晶が内側に光を宿し、渦を巻いた。二人は同時に身を乗り出し、ロアはすぐに水晶に手をかざして呼びかけた。
「ティシラ?」
 そこから、確かにティシラの魔力が感じ取れた。
『私よ。聞こえる?』
 第一声、とりあえず元気そうなティシラの声が聞けたことで、マルシオは途端に頬を緩めた。
「はい。今どういう状況ですか?」
『一休みして、客室に戻ったところ。あんまり長くは話せないけど、少しなら大丈夫よ』
 ドゥーリオの部屋で眠っていたティシラは、数時間後に従者に起こされ、客室に案内された。どうやら、彼がうまく話してくれたようで、しばらく城に滞在するように言われたのだった。
 部屋は長い渡り廊下の先の、城の離れにあり、周囲はきれいに整備された庭園に囲まれていた。あちこちに警備兵がいるが、大きな声を出したり怪しい動きをしなければ支障はなさそうだと判断し、ティシラはやっと、ロアにもらった小さな水晶の光るネックレスに手をかけた。
 水晶に集中し魔力を送り、ロアとの魔力が繋がったら声を出さずとも会話ができるものだった。
 ロアは何か言いたそうなマルシオに少しだけ目線を送り、待つように指示する。先に話せなければいけないことがあるからだった。
「ティシラ、トレシオール様にはもう知られています。」
『え? そうなの?』そう言うあいだに、考えれば当然のことだと気づき、驚かなかった。『ああ、そうか。ドゥーリオね』
「ラストル様の従者の方ですね。名前は存じております」
『彼も協力してくれるみたい。性格は頼りないけど、立場的には頼れると思うの』
「本当ですか?」
『ラストルの言いなりだけど、忠誠心は本物だわ』
「なるほど。それなら信頼はできますね」
 会話を聞いていたマルシオは、昨夜と打って変わって元気になっているティシラに心から安堵した。ほっとしているところに、ティシラから声がかかった。
『ところで、マルシオは?』
 マルシオは目を見開いて水晶に顔を寄せた。
「いるよ。ティシラ、無理だけはしないでくれよ」
 とっさに出た言葉に、ティシラは呆れた様子で応えた。
『まだそんなこと言ってるの?』
 冷めた返事にマルシオは赤面した。もう始まっているのだ。これから先は無理をしてでも、いや、無理をしなければ解決には向かわないだろうと思う。なのに、考えてみても、それ以外の言葉が思いつかなかった。だけどどうしても、気持ちくらいは伝えたかった。
「あのさ、これだけ聞いてくれ」マルシオは時間を惜しみ、まとまらないまま続けた。「どんな理由があっても、ルミオルと関係を持つのだけは、ダメだからな」
 ティシラは返事をしない。目の前にいるロアが首を傾げている。きっと彼女も同じような顔をしているだろうと、想像できた。
「いや、ありえないってことは分かってるんだ。そういうことじゃなくて、その……」
 マルシオは赤面しながら、言葉に詰まった。彼にとっては、かなり言いにくいことだからだった。だが戸惑っている時間はない。マルシオは勇気を出す。
「体だよ。分かるか? 変なことはするんじゃないぞ。それがたとえ、演技でも、取引でもだ。殴りあおうが、失敗しようが、その一線だけは、絶対に守ってくれ」
 まだティシラは返事をしなかった。だんだん苛立ってきたマルシオが急かそうとする直前、やっと返事をする。
『何の心配してんのよ。あんた、指輪のこと忘れたの?』
「そ、そうだけど……」
『指輪の力がどれだけのものか、知らないからそんなこと言えるのよ。我慢とか根性の問題じゃないの……言っても分からないだろうけど』
 マルシオは機嫌を損ね始めているティシラの様子に、気まずさを抱いた。
 一線だけは超えないで欲しい。これは、ティシラやロアには理解してもらえないことだった。それでも、言わなくては気が済まなかった。
 自分がこの世界にいるのは、クライセンの帰りを待つためだからだ。そして、ティシラが戻ってきた理由も、同じに違いない。
 ティシラとラストルが相性が悪いのは、マルシオから見ても分かる。惹かれ合うことはないとしても、男女が二人きり、寝室で一晩を過ごすのだ。何もなくて当たり前、と高を括ることが異常に思えたのだった。
 これ以上はティシラを変に煽ることになるかもしれないと、マルシオは体を引こうとした。が、手遅れだった。
『まあ、ラストルって、私にとっては最高の餌だからね。あんたが心配するのも分からなくはないわ』
「なんだって?」
『だって、今、人間界で最高位の血筋を持った王子さまなのよ。若くて美形だし、そのうえ、本当に純潔なら、魔女にとってこれ以上にない高貴な獲物じゃない。性格なんかどうでもいいの。私が等級をつけるのは、肉体と魂の質なんだから』
 マルシオは怒りを抱いた。ティシラの純愛を守りたくて心配しているのに、この態度……許せない。と思うが、ぐっと堪えた。
 その隙を見抜いたロアが、急いで割って入ってきた。
「そんな話は後にしましょう。マルシオ、もういいですか?」
 いつもなら怒鳴り返して大ゲンカになるところだが、ここはマルシオが我慢することで収まった。
 ティシラももう気持ちを切り替えている。心配してくれるのは結構だが、天使に魔女としてのプライドには踏み込んで欲しくなく――ただでさえ、指輪に傷つけられているというのに――つい、反抗心が芽生えてしまっていたのだった。
「私からも言いたいことがあります」ロアは余談が過ぎたことを気にして、早口で続けた。「シールにも当然、強力な魔法使いがいます。しかも情報が少ないのです。王子がまたあなたを指名するのなら、怪しいところがないか疑いを持つ者が現れるでしょう。絶対に、気を抜かないでください」
『どうすればいいのよ』
「ドゥーリオ様が味方なら、彼に協力を頼んでください。あなたに魔法で探りが入ったら、私が知らせます。そのとき、あえて周りに誰もいないところで従者と演技を続けてください。あなたは元々メイの関係者ではない。敵を目を逸らさせることはそれほど難しくないはずです」
『あんたが魔法を使ったらまずいんじゃないの?』
「私の魔法はアンミール人のものとは少し形が違います。気づかれない方法はありますから」
『ああ、そうだったわね』
 形が違うと言われてもティシラにはその原理まで分からないが、そういえば、と、そのせいでトールたちを翻弄していたことを思い出す。
 傍で気落ちしていたマルシオが妙な目でロアを見つめていた。ロアは、今は彼を無視する。
「ではティシラ、まず水晶のネックレスを外してください」
 ティシラは唐突なロアの指示に目を丸くしながら、言われたとおりにした。
「水晶から鎖を外し、両手で包んで、目を閉じてください」
『何をするの?』
「ネックレスは目立つのでイヤリングに変えます。もし怪しまれて外せと言われてしまったら私たちの連絡手段がなくなってしまうでしょう。イヤリングなら髪で隠れてあまり人の視界に入りません。今からそれを小さく分けて形を変える魔法をかけます。いいですか?」
 ティシラはなるほどと感心し、うんと頷く。目を閉じ、水晶を挟んで掌を重ねた。
「その両手を口元に近づけてください。今からあなたを通して水晶に呪文をかけます。私の声に集中して、細く長く、ゆっくりと息を吐いてください。水晶に語りかけるイメージで」
『分かったわ』
 ティシラはロアのイメージ通りに行った。ロアもすぐに彼女の意識と重なることができ、ティシラにもマルシオにも理解できない言葉で呪文を唱え始めた。呪文はティシラの吐息となり、水晶に溶け込んでいく。ティシラの手の中で見えない光を放ち、姿を変えていった。
「完成です」
 ロアの一言でティシラは目を開き、両手を開く。確かに、半分の大きさになった水晶が対のイヤリングに変わっていた。
『すごいわ。本当にイヤリングになってる。手品みたい。面白い』
 ティシラは楽しそうに笑い、早速イヤリングを身につけた。
 マルシオはその様子を、ただ羨望の眼差しで見つめているだけだった。形を変えたアクセサリーを見たくてつい横から水晶を覗き込むが、見えるわけがなく、すぐに体を起こした。
「ロア、本当に水晶を通してアクセサリーを変えたのか?」
 ロアには興味津々なマルシオが子供のように見えた。彼が天使でありながら魔法使いであることを思い出すが、今はその話をしている場合ではない。「簡単ですよ」と愛想笑いを見せるロアの態度に、マルシオはさっと口を閉じた。あとで聞いてみようと思いつつ。
「ティシラ」ロアは笑みを消し。「今やっていることは小細工にすぎません。そしてその小細工は重要であり、短い時間にあなたがそこに居る理由を造る必要があります。気を引き締めてください」
『ええ。分かってる』ティシラも声を落とした。『これからドゥーリオにラストルの予定を聞くわ。じっと夜まで待ってる理由はないんだし、この中でできることを考える』
「ここまできたら、できることをやってください。ただし、危ないと思ったら逃げてください。失敗しても構いませんから」
『そうね……』
 ティシラは、まるで自信がないかのように声を落とした。こんな弱気な様子の彼女はめったに見られない。ロアも心配になったが、今は慎重すぎるくらいがちょうどいい。もう一つ、釘を刺した。
「それと、先ほどマルシオが言ったことも……忘れないように」
 ティシラはまた、返事をしなかった。
 マルシオは自分の顔を立ててくれたロアに、なぜか申し訳ない気持ちを抱いた。
「では、お気をつけて」
『分かったわ』
 その言葉を最後に、水晶から光が消えた。
 ロアは疲れを感じながら、ソファに深く座りこむ。
「――――!」
 一息つきたかった、が、「違和感」が脳裏に浮かび、目を見開いて一瞬息を止めた。
(そういえば、さっき……)
 ティシラが指輪をつけている左手で水晶に触れても、何の反応も示さなかった。
(こないだまでは、指輪が拒否反応を起こしていたはず……)
 ロアの背中に寒気が走った。
 理由は、分からない。だがもしも、指輪の魔法が無効化されているとしたら――。
 いろんな可能性を考えてみたが、ロアに答えは出せなかった。以前の事件のときのように、一時的に沈黙しているだけかもしれない。ただ一つ確かなことは、ティシラとマルシオには教えないほうがいいということだった。
 ロアの動揺に気づかず、マルシオが目線を落としたまま呟いた。
「……ありがとう」
「えっ?」
 ロアはつい高い声を上げてしまう。
「いろいろ協力してくれて、感謝してるんだ。ロアがいなかったら、何もできなかっただろうし。それに、俺たちのことをよく知らないのに、気遣ってくれてるみたいだし……」
 マルシオは無理に笑顔を作っているようだったが、引きつっていた。ロアは体の力を抜き、まるで「面倒臭い」とでも言わんばかりに息を吐く。
 その姿が、どことなく、「彼」に似ているような気がして、マルシオは表情を消して見つめてしまった。
「そうですね。私はあなたたちのことは、よく知りません……でも、あなたも、私のことをよく知りません。気遣ったなんてどうして思うのでしょうか?」
 マルシオは彼の言葉の意味を考え、あまりいいものには思えず、苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、聞いていいか? どうして俺の言ったこと、ティシラに念を押してくれたんだ?」
 ロアはいつもの穏やかな笑顔で、間を開けずに答えた。
「あなたを可哀想に思ったので、気遣ったんです」
「…………」
 マルシオは腹の中でムカついたが、我慢して苦笑いのまま俯いた。
 だが、やはり「彼」に似ている。そう思うと、気が楽になった。
「もう一つ、聞いていいか?」
「なんでしょう」
「さっき言ってた、違う形の魔法って、どういうこと?」
 やっぱり、とロアは眉尻を下げる。気になって当然だ。全部を話すつもりはなかったが、もうマルシオも「友人」。彼にだけ正体不明のままでいる意味はない。
「私の使う魔法と持つ魔力は、ランドール人の型ということです」
 さきほどの魔法もそうだとロアは語った。簡単なのは間違いないが、ネックレスの水晶が元々自分のものであること、ティシラが魔族であり、体が魔力の塊のようなものであること。そして、ロアがランドールの魔法を使えるという条件が揃っていたからだと説明する。
「私はイラバロスの孫にあたる者」ロアは片手を自分の胸に当て。「この体には、ランドール人の血が流れているんです」
「なんだって……本当に?」
「珍しくはない、とまで言いませんが、そういう人は今もこの世界に存在しています。純血なのは、あのウェンドーラの父子だけではありますが、人々が思っている以上には、血は残っています」
 マルシオは初めて聞く話に興奮を覚えた。しかし、きっとラムウェンドや彼に近しい者は知っていることなのだろうと思う。また何も知らない自分を恥じながら、必死で気持ちの高ぶりを抑えた。
「そういう人は、どこで何をやっているんだ?」
「ひっそりと暮らしていますよ。彼らは、平穏を望んでいますから」
「魔法使いになったり、アカデミーに就いたりしないのか?」
「魔法使いには、自然となる人が多いです。私もそうですし。正確には、魔法を使う人、といった感じですけど」
 マルシオは一瞬「?」となったが、すぐに分かった。ランドール人は生まれついての魔法使いなのだ。血が濃ければ濃いほど、アカデミーを通らずとも魔道の心理を理解できるのだろう。
 もっと話を聞きたかった。興味津々で目を輝かせていたマルシオだったが、反して、ロアは思い耽ったように、紫の瞳に悲しみを灯した。
「私たちの寿命は長いですが、いずれ淘汰されます。この世界の魔法やアカデミーに対して、いろんな考えがあるんです。アンミール人を恨む人、裏切り者を許せない人、魔法が蹂躙されていると感じる人……」
 マルシオは胸に痛みが走り、我に返った。無意識に伸ばしていた背筋が、くたりと丸まる。
「アカデミーが悪いと思っているわけではありません。過去を前向きに捉えるのもまた、一つの考えなのですから。単純に自分にその能力や資格がないと考えて、一人で暮らしている人もいます。それから、行き場のない者同士、群れて暮らしている者も……」
 そこで、ロアも我に返ったように口を閉じた。
 マルシオはもっと聞きたかった。答えをすべて教えて欲しいと思った。
 だけど、これ以上はロアが許さない限り、足を踏み入れてはいけないところだと感じ、追及しなかった。
 ロアはつい感情を露わにしてしまったことを後悔し、誤魔化すように笑顔を作った。
「私は、見てのとおり根無し草です。流浪の旅をしていて、ルミオルに出会って、そして、あなたとも出会い、友達になりました。こんな事件に関わるのは不本意でしたが、お役に立てているようで、何よりです」
 マルシオも慣れない作り笑いで、重い空気を誤魔化した。
「と、友達か。そっか」
「ええ。出会ったということは縁があるということ。お互い、何者であろうと関係ありません。そうでしょう?」
「そうだな……」
 そのとおりだと思う。ティシラもクライセンも、トールもライザも、マルシオにとってはみんな違う人種。それでも「友達」になれた。ロアも例外ではない。それに彼は頭もいいし、力もある。あのルミオルが信頼しているのだ。疑う理由はなかった。今はまず目の前の問題を解決しなければいけない。
 マルシオは、自分も一介の魔法使いであり、魔法の心理や歴史については学ばなければいけないことは多いのだが、今は忘れようと自分に言い聞かせた。
 何よりも、人の過去に踏み入るのが、怖かった。
「でも、念のためですが、誤解だけはしないでくださいね」
 ロアは軽く笑いつつ、席を立とうとしたマルシオを引き留めた。
「私には魔法王ほどの力はありません。あれば、こんな問題さえ起きなかったことでしょう」
「…………」
「魔法王、クライセン・ウェンドーラ……彼は、特別です」
 何度も耳にした言葉だった。そのくらい、知ってる。魔薬戦争では一緒に旅をした仲間だった。クライセンがどれだけ人間離れしているかは、きっとロアよりも知っている――はずだった。
「彼は最高の魔力、魔道、賢者の知識、すべてを持っています。だけど、彼も人間。限界があるんです」
 ロアの笑顔が、不適なものに見えた。
「持ちすぎた力を制御するために、彼は、私たちが知らない何かを持っているはず」
「何か、って……?」
「それは」ロアは目を細めて。「私も知りません」
 持っているかどうかも、ロアの憶測に過ぎなかった。だから知りたかった。
 だから、クライセンが死んだなんて、信じていなかった。





   

Copyright RoicoeuR. All rights reserved.