SHANTiROSE

INNOCENT SIN-38






 その日の夜、ロアはもう一人のマーベラス親衛隊隊長を呼び出していた。
 満点の星空の下、今日もリヴィオラが空中で淡い光を纏って世界を見守っている。輝く星々と自分の瞳によく似た青を灯す宝石を、クライセンは西方の城の屋上から眺めていた。
 クライセンは呼ばれた時間より少し早く来ていた。城下を見下ろすと、繁華街が明るく輝いている。ここから人の顔までは見えないが、きっとみんなおいしい酒を飲んでいるのだろうと思う。
 背後に人の気配を感じ、クライセンは振り返った。自分も早めに着いたつもりだったのに、それより先に来ている彼を見ても、ロアは何も反応しなかった。
「クライセン、皇帝陛下のことをを聞いていますか」
 挨拶もなしに本題に入るロアだったが、クライセンもそれには反応しない。
「レオン様がどうかしたのか」
「最近、昼間に星見の展望室に入り浸っているそうです」
「昼間に?」
「そう」
 それだけで、クライセンは何が問題なのかを察した。
 昼間の星見は太陽に反する行為。
 当然レオンもそのことは知っている。そもそも普通の人間の目には昼間に星は映らない。だが昼間に星は存在しないわけではなく、星より強い太陽の光に隠れて見えないだけ。それをレオンは見ているのだろうか。
 たもしかしたら見えているのではなく、ただの想像なのかもしれない。レオンにそれが区別できているのかどうか、本人も理解できていない可能性もある。
 もし本当に星が見えていたとしても、太陽の光で掻き消されている星を覗き見る行為は、あまりいいことのように思えなかった。だからレオンには昼間は星を見ずに、太陽の光に感謝するように教育してあった。
 昼間に星を見る必要はない。占星術はすでに完成しており、夜の星を見ながら計算すれば答えは出せるのだから。
「少年特有の好奇心じゃないのか」クライセンは楽観的だった。「見るなと言われるほど見たくなる。そういうこと、誰にでもあるだろう。レオン様は幼いし、見るだけで何も起こらないのなら、飽きるまでさせておいていいんじゃないか」
「それだけではありません」ロアの瞳は、いつも冷たかった。「今日、夢の話をされた」
「夢? 悪い夢か?」
 レオンは悪いとも怖いとも言わなかった。ただ、不思議な森の様子の一部を語っただけ。しかし、ロアは頷いた。
「どんな夢?」
「この世界にはない森の夢です。レオン様はその森がどこにあるのか、夢になんの意味があるのかを知りたく、星見をされていたのだと思う」
「レオン様がそうおっしゃったのか」
「いいえ。私の憶測です」
 クライセンは話を端折るロアに困った笑みを見せた。
「それで、君の懸念は何?」
「レオン様は、見てはならぬものを見ていらっしゃるのかもしれない」
 ロアは冗談を言う男ではなかった。クライセンも真剣に考えた。
 昼間の星見、不思議な夢。確かに、何かを暗示している可能性は高い。
 しかし今になってランドール人を脅かすものは、そうそう現れるとは思えない。ないとは言えないが、突然ではなく時間がかかるはず。レオンが何かの脅威を感じとっているとするなら、きっとそれは国を守るための力になる。
「そうだとしても」クライセンは再度星空を仰ぎ。「それはきっと運命だ。私たちがどうこうできるものではない」
「ならばこのまま放っておいてもいいと?」
「今はそれでいい。夢を見るななんて、誰が言える。夢を禁じることは睡眠を禁じるのと同じこと」
 ロアは冷たい目をクライセンに向けたあと、逸らした。クライセンの語気は柔らかいもので、決して彼を責めているのではなかった。
「もしそれが運命の見せているものだとしたら、いずれ形になるだろう」
「そのとき、もし陛下が私たちを必要とされなかったら?」
「それも陛下の下した判断だ。私たちはそれに従うだけ」
 ロアは思い詰めたような表情を浮かべていた。暗がりの中で見えていないと思っていたが、ロアをよく知るクライセンには鮮明に想像できていた。
「ロア、君は何をそんなに不安に思っているんだ。今更私に隠すことなどないだろう」
 ロアは僅かに肩を揺らした。いつも冷静な彼が、目を左右に泳がせている。
「どうして話してくれない?」クライセンの口調が厳しくなる。「そうだ、君には予見の力があったな。陛下の星見と、何か関係があるのか?」
 ロアはまだ口を開かなかった。クライセンはその理由に気づく。確信がないからだ。ただの不安だけで無責任な発言をしていいものかどうかを迷っているのだと、クライセンは思う。
「予感でも憶測でもいい。口外するなと言うなら約束する。もし話したことが検討違いだったとして、私の君を見る目が変わるとでも思うのか。私はずっと、君の慎重な姿勢を尊敬しているのというのに」
 私が信用できないのか――そう含むクライセンの言葉に、ロアは観念した。
「……私の力は予見でも予言でもありません。ただの呪い(まじない)です」
「謙遜するなよ。まあ、それでもいい。話してくれ」
「何かを見たのではありません……見なかったのです」
 クライセンは眉間に皺を寄せる。ロアは横目で相棒を見据えた。
「父、イラバロスには予言の力がありました。私はその力を受け継いでいます。しかし、父は見なかったのです」
「何を?」
「魔法戦争の、結末を」
 大事にはいつも予言で人々を導いてきたイラバロスが、魔法戦争の勝敗の行方を見なかった。
「いいえ、正確には、父は戦争の結末を誰にも話しませんでした。話したのならその事実はどこかに残っているはず。しかし父が予言したという言葉を、誰も知りません」
 そう言われてみれば、と、クライセンは思う。しかしそれほど重要なことなのかどうか、まだピンとこない。
「戦争はランドール人の勝利だった。当然の結果だ。予言するまでもなかったのでは?」
「もしかしたら、理想が現実になった時点で、予言の有無を、本人さえ認識していなかったのかもしれません。誰もが思っていた通りになった。それを予言と混同したまま、亡くなったのかもしれません」
「だとしたら、何が問題だ?」
「イラバロスはするはずの予言をしなかった。何か理由があるとしたら、その現実が歪みとなり、別のところにしわ寄せが来るのかもしれない……」
「それが、レオン様の星見だと言うのか」
「……私はずっと、どこかで父の予言のことを気に留めていました。調べても予言の痕跡はありませんでした。人に尋ねるのは、なんの確証もない私の不安に他人を巻き込むわけにはいかず、避けてきました。だから今まで心のどこかに留め置きながら、普段は考えないようにしてきたんです」
 ロアが一人でそんな悩みを抱えていたことを初めて知ったクライセンは、真剣に彼の話に耳を傾けていた。
 彼がこんなにも自分の心の内をさらけ出すなんて、滅多にないこと。ただの不安だとしても、解消する手段を考える必要がある。
「この世はランドール人の支配のもと、平和で美しい、完璧な世界を成形しています。ゆえに、不安を思い出しても、この世界のどこに歪みなどあるというのかと自らに言い聞かせていました。そのうちに考える時間も減り、思い過ごしだったと思えるようになっていたんです。だけど、レオン様の夢の話を聞いたとき……心の奥にずっと引っかかっていた小さな傷が、僅かに、疼いたのです」
 ロアを惑わしているものは星見ではなく、夢のほうだった。レオンが不思議な夢を見た。その夢に意味があるのかないのかさえ分からない段階で、ロアがそれほど動揺するのならただ事ではないはず。
「それが君の予言じゃないのか?」
「違う。ただの予感です。私は何も見ていないのだから。父が予言をしなかった。陛下が夢を見た。私はその二つの出来事を知っているというだけ」
 クライセンは彼から目を離して遠くを見つめた。
 彼の悩みは分かった。今まで誰にも、自分いさえ言わずにいた理由も。
 ロアは何も見ていないし、していない。そして、何もできない。まるで雲を掴むような、そこにあるのに何の手応えもない感触に戸惑わない者はいないだろう。
 城から見下ろす城下町は絶景だった。夜はとくに、地面と星空が逆さになったかのように、暗闇の中に小さな灯りがびっしりと浮かび上がっている。整備された居住区、笑いと喧噪の絶えない繁華街、厳かで規律正しい公共施設で、幸せな人々が毎日を過ごしている。
 ロアもクライセンと同じ景色を見つめた。
 レオンはこの完璧で美しい世界に生まれたことを、この上ない幸運だと言った。ロアには、どこか、「この世界に完璧などあるはずがない」という、少年の憂いを垣間見てしまった気がしていた。
 こんなにも広大で、こんなにも壮観な世界。皆が幸せで高度な人生を送っているというのに、なぜふと虚しさを抱いてしまうのだろう。ロアはこの世界で誰よりも運命に感謝すべき立場にある者。自らの、理由の分からない暗い感情に歯がゆさを隠しきれなくなっていた。
「そうだな」クライセンがポツリと言葉を零した。「この世は常に変わりゆくもの。いつまでも同じ時代が続くわけがない。自然の力によって訪れる変化は、この世のすべての生物にとって抗うことのできない時間の流れだ。レオン様の感じているものは、この時代を作った先人の警告なのかもしれない。完璧なものなどない、と」
 ロアの思いつめた心が、ゆっくりと軽くなっていく。不思議だった。きっと、一人で抱え込んでいたものを、信頼できる者が疑いもせずに受け入れてくれたからなのだろうと思う。
「私たちの責任は重い。だが思いもよらない可能性が潜む限り、完璧に未来を予見し先回りすることは不可能なんだ。この世のどこかにいつか姿を見せるかもしれない『歪み』があったとしても、それをどうするかはレオン様のご決断に従うことが私たちの役目」
「……すべてをレオン様に背負わせるというのですか」
「それが皇帝陛下の存在意義だ」
「レオン様はまだ幼い。あのような純真な少年には酷な試練なのでは」
「レオン様は幼いが、世界を守ったザイン様のご子息。高潔な血を色濃く受け継いでおられる。だからこそ皇帝として君臨されているんだ。決して『人形』でも『お飾り』でもない」
 ロアは言葉を飲んだ。反論できないからではない。クライセンの言わんとしていることを理解したからだった。
「ロア、君の話は有意義だったよ」クライセンは口の端を上げ。「我々はレオン様を信じ、恐れずに命を預けてもよいことが明白になった。あの方は真の皇帝だ。君の予言が、それを証明した」
 今まで迷いのあったロアの目が、前を見た。
 今はそれでいいと思う。生まれたときから整えられた美しい環境で育ち、苦労も汚れも知らない純粋な少年の導くほうへ、ただついていくだけでいい。その先に障害があるのなら、何を犠牲にしても立ち向かうまで。

 天使を模したような精悍な姿や崇高な思想からは想像もできないある言葉が、マーベラスの深層心理に根付いていることを、本人たち以外、誰も知らない。
 マーベラスは「人間爆弾」なのだ。
 その「世界一美しい軍隊」とはかけ離れた野蛮で品のない言葉は、誰も決して口にすることなく、訓練を受けたマーベラス隊員のすべての心に、自然と植えつけられる。それを受け入れ、光栄に思う者だけが、太陽の色をしたマントを背負うことができる。
 マーベラスを気取り屋だと嫌う民間人はいても、彼らの本質を見抜き、狂暴で愚かだと解く者はいなかった。当然だった。人間爆弾などという物騒なものとはほど遠く、安全で高い位置から下層の人間を支配しているのがマーベラスだと考える者はいても、まさか彼らが自ら兵器と化し敵を殲滅する残酷さを持っているなど、想像もできないからだ。
 危険な思想であることは重々承知。だからこそマーベラスは本質を見せず、人々を明るく照らすよう努めている。そんな彼らの信念が人知れずこの世界を支えているのだった。



*****




 ティシラの前にあった水鏡が三つに増えていた。宙に浮いていたそれは風船のようにふわふわと上下し、大きくなったり小さくなったり安定しなかった。
 水鏡にはそれぞれ違う映像が映っており、一つにはクライセンが迷い込んだ時代より前のものを物語っているものがあった。
 そこは、まだクライセンとティシラが出会う前の話だった。
 マルシオがアカシック・ローグを手繰り寄せ、新しくできた歴史の過去を遡っており、それがいくつか映像化しているものだった。
 彼が何を知りたがっているのかはともかく、ティシラはいつもと違うクライセンの姿に釘づけになっていた。どうしても好きになれないロアと親しくしている様子には違和感を拭えなかったが、貴族のような立派な衣装に身を包み、多数の部下を従えた優秀な戦士として育ったクライセンは、ティシラの心を強く揺さぶった。
 大きな瞳の中にハートを散りばめて喜んでいるティシラの背中に、玉座に座ったマルシオが嘲笑った。
「こっちのクライセンのほうがいいのか?」
 ティシラは途端に眉間に皺を寄せ、振り返ってマルシオを睨み付けた。
「あっちもこっちもないわよ。どっちもクライセンなんだから、かっこいいに決まってるでしょ!」
 マルシオは言い返す価値もないと、鼻で笑うだけだった。
「ねえ、マルシオ、これってもしかして、あっちの私とクライセンの馴れ初めまで見れるの?」
 また頬の緩むティシラに呆れつつ、マルシオは冷たく返事をする。
「見られるが、今はやめておく」
「なんでよ!」
「焦る必要はない。世界がこの先どうなっても、この記録は残る。今は別の記録を調べているんだ」
「調べているですって? 何を?」
 マルシオはじっと水鏡を見つめていた。話している間も、複数の水鏡が宙を動き回り、いろんなシーンを写している。
「なかなか興味深い現象が起きている。世界が辻褄を合わせようと、無意識に歪みを修正しようとしているようだ」
 ティシラは怪訝な表情で、再び水鏡に向き合った。
「自然治癒の力だな。生物の体は傷や病気を自力で修復しようと、本人の意識に関係なく体を変形させ、元の状態に戻そうとする」
「何言ってるのよ……世界や歴史って、生物じゃないでしょ。不気味なこと言わないで」
「人間の世界の心臓となるリヴィオラは、何に宿っている?」
 ティシラは息を飲んだ。
 リヴィオラは大地に宿り、そこに世界を創った。人間の世界とは言われているが、人間はリヴィオラの作った世界に生まれて順応し、高度な文明を築いてきただけ――。
「じゃあ、大陸の大地がリヴィオラの肉体で、その大地が生物のように時空を歪めているの?」
「そうとしか思えない。俺が削った僅かな一部分で歴史は大きく変わった。しかし世界が削られたことに気づき、修復しようとしている。あるべき道筋に戻ろうと、不自然な動きを見せている」
「ねえ……あんたの変えた歴史って、何なのよ」
 マルシオは薄く微笑み、ティシラを見ないまま、答えた。
「イラバロスが見た予見を、見せなかっただけだ」
 ティシラは目を見開き、先ほどの過去を思い出した。ロアの懸念は当たっていたのだ。
「イラバロスは未来を予見していたのね……でも、たったそれだけのことで、どうして逆の結果になってしまったの?」
 ティシラは過去のことは忘れているが、戻ってきてからマルシオの勉強に付き合っているうちに人間界の歴史を部分的に学んでいた。魔法戦争がどうして起きて、誰が何をしたことで、どうやって終わったのか、そして自分自身が大きく関わった魔薬戦争までの一通りの流れは把握している。
「確か、イラバロスは戦争を終わらせるために、親友である国王ザインの首をガラエルに差し出したのよね……」
 ティシラは一瞬、息を止めた。
 あまりに衝撃的な結末だった。誰もがイラバロスを残酷な裏切り者と蔑んだ。
 だけど、なぜ?
 ランドール人は決して劣勢だったわけではない。終わらせるために残酷な手段を選ぶとしても、ほかに方法があったはず。なぜイラバロスは親友を殺し、同胞を滅ぼすほどの狂気を生み出したのだろう。
「ねえ、マルシオ、教えて。イラバロスは何を見たの?」
 マルシオは未だティシラを見ず、水鏡の映す映像の奥だけを見つめていた。
「……今、この水鏡に映っている歴史の結末だよ」
「結末? あんたは未来は見えないはずよ。あんたには、まだこの世界がどうなるか、分からないでしょう? どうしてそんなことが言えるの」
「未来なら、レオンが見た」
「レオンが?」
「レオンの夢は、イラバロスが見るはずだった予見だ。イラバロスはその結末を避けるために行動を起こしたんだ。だから未来を変えることができた。だが、もう手遅れ……レオンの見た夢は、いずれ訪れる大地の未来……」
 得も言われぬ不安がティシラを襲ったとき、水鏡が大きく動いた。何度か旋回して、一つの鏡がティシラの前で止まる。そこには、エミーとジギルの姿があった。
「アンミール人の窮地にエミーが力を発揮するという筋書きは、驚くことではなかった。注目すべきは、このジギルという男だ」
 この地味で根暗な男が何だと言うのだろう。確かに変わっているし、知識は豊富だ。だがその程度の変人なら、この世にはいくらでもいる。
「ティシラ、お前は覚えていないだろうが、この男の見つけた洞窟は、以前に俺たちが迷い込んだ洞窟と同じ場所だ」
「私がここを知っているの?」ティシラにそのときの記憶はなかった。「洞窟のことは分からないけど、ここにいる植物って……魔薬のことじゃないの?」
「そうだ。あっちの世界ではまだその存在は認知されておらず、名前さえ持たない生物だ」
「どういうこと? 魔薬なんてただの植物でしょう? 人間が関与しなきゃ地下で静かに暮らすだけじゃない。意志を持って人間を脅かす邪悪な存在ではないはずよ」
「邪悪なのは、植物ではなく人間のほうだ。邪悪な人間といえば、ノーラ。誰のことか分かるか?」
「ノーラって、魔薬戦争を引き起こした極悪人でしょう。私はそいつのせいで記憶を失くした。でもノーラはもうこの世にはいないと聞いたわ。魔法戦争のずっとあとの話だし……」
 マルシオはゆっくりと片手を上げ、水鏡を指さした。
 その指す方には、ジギルがいる。
「そいつが、ノーラだ」
「……え? だって、名前が違うし」ティシラは困惑し、鏡とマルシオを交互に見つめた。「変人なだけで、欲深いわけでも、野望を抱いているわけでもないし、そんなに邪悪には見えないわ。別人でしょう?」
「ジギルは、世界の自然治癒の力が生み出した、ノーラの代理人だ」





   

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