SHANTiROSE

INNOCENT SIN-100






 欠片になった白い世界は更に砕け、粉になっていく。
 光の粒に囲まれて底のない空間を落ちていくティシラの心は耐えられないほどの痛みに締め付けられていた。
 気が狂ってしまそうだった。
 この手で、世界で一番大事な人の命を奪った。
 感情が追い付かない。どうしても、現実を受け入れられない。
 壊れたアカシック・ローグの囁きがティシラの耳を掠めていく。何を話しているのか聞こえない。聞こうとも思わない雑音だった。
 その雑音に、聞いたことのある声が混ざった。
「……あってる?」
「うん……ここで……」
 真っ白な世界に色のついた者の姿が見えた。
 アカシック・ローグの声ではない。彼らの会話だった。
「ギリギリだね。急ごう」
 宙に浮いて白い宝石を、光沢のある布で包んでいたのは黒いマントを羽織ったカームだった。
 傍にはもう一人、ミランダの姿があった。彼女も黒いマントを羽織っており、血塗れで力なく落ちていくクライセンを捕まえて引き上げていた。
 その不思議な光景は、上空から降り注ぐ強い光に掻き消されていく。夢か現か判断できないうちに、ティシラは消滅していく世界と共に光に包まれて意識を失った。



*****




 ティシラは数回瞬きしたあと目を見開いて体を起こした。ここが天使の世界であることには変わりはなかった。壊れたはずの床があり、ティシラはそのうえで横たわっていたのだ。恐る恐る目線を落とすと、手やドレスは血で汚れている。ティシラは真っ青になり、辺りを見回した。
 少し離れた場所に、クライセンが倒れていた。
 ティシラは床を這い、夢中で彼に近づいた。クライセンは目を閉じてぴくりとも動かない。
 マントの胸元は破れ、そこを中心に大量の血痕が残っていた。触ると、まだ少し濡れている。ティシラは目を震わせながら彼の顔を覗き込む。吐いた血は拭き取られていたが、やはり、あれは夢ではなかったのだ。
 怖くて声が出なかった。名を呼んでも、返事をしてもらえないかもしれないと思うと言葉にすることができなかった。
「――大丈夫。生きてるよ」
 背後から声を掛けられ、ティシラは頭が真っ白になった。
 振り返ると、黒いマント姿のカームとミランダが立っていた。
 ティシラは、自分が知る二人とは何かが違うとどこかで感じたが、今はそれどころではなかった。
「……本当?」
 声を出すと、涙が溢れた。カームが優しい笑顔でうんと頷くと、ティシラはまだ血痕の残るクライセンの頬を撫でて感触を確かめた。
 柔らかくて、温かい……息を、している。
 声を殺して涙を流していると、クライセンの瞼が揺れた。指先でそれを感じ取ったティシラは顔を上げ、彼の目覚めをじっと待った。
 クライセンは薄目を開けて青い瞳を左右に動かした。意識がはっきりしてきた彼の視界に、血の跡と涙で濡れた少女の顔がはっきりと映った。
「……ティシラ」
 ティシラは込み上げる嗚咽ですぐに返事をできなかった。そして、とうとう大声を上げて泣き出した。
 クライセンは重そうに上半身を起こし、泣きじゃくるティシラを改めて抱きしめた。
「ティシラ、ごめん。酷いことを……」
 言い終わる前に、ティシラは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「そうよ! 酷いわ。酷すぎる!」
「ご、ごめん……」
「私の意識を奪って、この手であなたを殺させるなんて、あんまりだわ!」
「うん、そうだと思う……でも、どうせ死ぬんだし、君に殺されるならいいかなって思って。だから、君に頼んだ」
「嘘つき! 頼まれてない! そんなこと、私がやるなんて言うわけないじゃない! あなたを殺すくらいなら死んだほうがマシよ!」
 ティシラは興奮し、拳でクライセンの胸元を叩いた。するとクライセンは顔を歪め、背を丸めた。
「あ……ど、どうしたの?」
 意気消沈するティシラに、クライセンは苦笑いを見せた。
「……まだ、胸の傷が完全には塞がっていないようだ。申し訳ないけど、殴るのはもう少しあとにしてもらえないかな」
「え、ごめんなさい……」ティシラは慌てて体を離した。「でも、心臓は? 戻ってるの……?」
「うん」クライセンは胸の傷に手を当て。「……動いてる。ちゃんとあるみたいだ」
「そ、そっか……なら、よかったけど」
 しかし、なぜ? 二人はまだ状況を何も知らない。
「あのー……」
 二人っきりのような気がしていたティシラは、背後から声を掛けられてはっと息を飲んだ。
 ずっと近くで二人を見ていたカームとミランダに気づき、クライセンも気まずそうに顔を上げた。
「このまま立ち去ってもよかったんですけど」カームは恐縮しながら。「気になるでしょうから、説明させてもらっていいですか?」
 クライセンは怪訝な目で二人を見つめた。すぐに、二人の異常に気付く。
「カームか?」
 今分かったのかと、カームは大袈裟に肩を落とした。しかしクライセンが違和感を抱いていた理由は明確だった。
「メガネがない。見慣れてないから分からなかったよ」
「メガネ? あなたの知ってる僕はメガネをかけているんですか?」
「え、ああ、まあ……」
 それだけではなかった。黒いマント姿の彼からは、クライセンの知る彼とは比べ物にならない高等な魔力が感じられる。
「まさか、君は別の次元から来たカームなのか?」
 ティシラは涙を拭い、二人に向かって座り直した。
 カームは目を細め、にっこりと微笑んだ。
「そうです。僕とミランダはアンミールの高等魔法使いです。そして、世界最高位の魔法使い、エミーさんの一番弟子なのです」
 クライセンとティシラは唖然とする。
 カームは得意げに続けた。
「僕たちの世界は人種に関係なく、努力すればみんな魔法使いになれるんです。昔はランドール人のほうが優勢でしたが、努力の天才であるエミーさんの出現でその差はなくなりました。今やエミーさんが魔法界の頂点に立ち、彼女に憧れた僕とミランダは競い合い、同時に最初の弟子として認めもらったんです」
 これはまた長そうな話だと思っているところに、ミランダがカームを押しのけて前に出た。
「あなたの話は無駄が多い。少し黙ってて」
 カームはえーっと声を上げていたが、無視してミランダが続けた。
「アカシアから聞いたわ。正確には、別次元から来たアカシアがエミーに話したのだけど」
「別次元のアカシア?」とクライセン。
「ええ。あなたの次元でアカシアのドッペルゲンガーが人間の世界に干渉したことは知ってる。もう一つの次元で、レオンがアカシアに会ったでしょう? そのとき、レオンはアカシアにあなたを助けて欲しいとお願いしていたのよ」
 ぼんやりしていると混乱しそうな話だった。クライセンは頭の中を整理しながらミランダの話に集中した。
「レオンが持ち掛けた提案は、アカシアに『クライセンとマルシオの殺し合いを救える者が生まれる世界を作り出してほしい』だったの。アカシアは了承し、レオンと別れたあと、マルシオがしたように人間の歴史を書き換えて新しい並行世界を作った。その世界で高等魔法使いになった私たちが、エミーの指示であなたたちを助けに来たの」
 ここまでの話は理解できたが、クライセンは疑問だらけだった。
「じゃあ、君たちは何も知らずに自分たちの世界で自然に高等魔法使いに育ち、別次元に介入できるほどの力を持ったところで、別次元のアカシアからここに来るように言われたということか?」
「そう。直接指示を出したのはエミーだけどね」
「アカシアが悪戯に人間界を掻き回していることに何も思わなかったのか」
「エミーは笑っていたわ」
 なるほど、とクライセンは納得した。それでもまだ聞きたいことがあった。
「アカシアは、一回でその世界を作ったのか?」
「さあ。でも普通に考えて、一回じゃ無理よね」
「ということは、例によって何度も過去を書き換え、君たちのいる世界が出来上がるまでいくつもの並行世界を作った、と」
「その可能性は高いわ。まあ、交わることがなければないも同然でしょ。私たちだって別次元のアカシアがわざわざ伝えに来るまで何も知らなかったんだもの」
「しかし、他の次元でマルシオやルーダのような存在が生まれた場合、また同じことが起こるかもしれない」
「そうだとしても、その世界の誰かが別次元に助けを求めるとは限らないでしょ。もし同じようなことがあったとしても、助けるかどうかは、頼まれた人が決めればいいのだし」
 クライセンは冷静で割り切ったミランダに呆れつつも感心していた。エミーが育てた魔法使いだと思えば、これだけ肝が座っていても不思議ではないと思う。
「ところで、私の心臓はどうやって戻したんだ」
「息絶える寸前に、ほんの少し時間を巻き戻したのよ。私はライド(輪)の魔法使い。時間を操れるの。限られた部分だけを、短時間だけ、が今の限界だけどね」
「僕は」我慢できなくなったカームが割り込んできた。「ウィルド(道)の魔法使いです。星を操り、人々を導く役目を背負っているんです」
 どうやら、このカームはすべてを見通す目の力を使いこなしているようだった。確かに、あの力は制御できればかなり有能な効力を持つものである。
「じゃあ、君たちは、私たちが死ぬ寸前の時間と場所を特定して、アストロ・ゲートを使ってやってきたというわけか」
「はい。計算はエミーさんが手伝ってくれました。ちょっとでも間違えたら大変ですからね」カームは両手を広げ。「エミーさんは言ってました。アカシアからの話を聞いて、僕がウィルド、ミランダがライドの力を育んだ理由が分かったと。このためだったんですね」
 運命の導きに感謝しながら目を輝かせるカームに、クライセンもティシラも、ミランダさえも呆気に取られた。
「ねえ」ティシラが身を乗り出し。「私は? 私はあなたたちの世界にいるの?」
 ティシラの興味は、その世界でも自分とクライセンは結ばれているかどうかだった。本人の前ではっきり聞くのは憚られたが、彼女のことを知っているミランダは冷たく答えた。
「いるわよ」
「ほんと? 人間界に? どんな暮らしをしているの?」
「それは、あなたたちには関係ないことだから、教えてあげない」
「どうして!」
「知ってどうするの。無駄な情報でしょ」
「知りたいだけよ」
「教えてあげない。あ、クライセンは高等魔法使いよ。私たちの世界の魔道は大きく五つの派閥に分かれてるの。エミーもクライセンもその派閥の祖。他には……」
「私は?」
「教えてあげない」
「その話はもういい」クライセンが話を引き戻す。「それより、マルシオはどうなったんだ」
 そこで、今まで元気だったカームが目線を落とした。
「彼は……ここです」
 カームは寂しそうな顔で、布で包んだ白い石を差し出した。
 さすがのティシラも絶句していた。
「これって……マルシオは、消えてしまったの?」
「ラドナハラスはかろうじて、破壊寸前で守りました。ですが、石の母体であるマルシオという少年の肉体は、消滅しました」
「そんな……」
 再びティシラの瞳が潤んだ。クライセンも狼狽する。自分がしたこととはいえ、自分だけが助かる結果など望んでいなかった。
「それじゃあ、今私たちがいる世界は、この母体を持たない石が作ったものなのか」
「そうですね。でも石に世界を作るという意識はありません。今はだの『石の置き場所』でしかないと思います」
「ねえ、原始の石は肉体を求めるのよね」とティシラ。「だったら、石をこのままにしておけばまたマルシオが生まれるんじゃないの?」
「肉体が生まれるとしてもそれはもうマルシオではありません。新しいアカシアです」
「何とかならないの? 時間を戻せるんでしょ? マルシオが消滅する前に戻せないの?」
「天使の時間を人間の魔法で戻せるわけがないじゃない」とミランダ。
「じゃあ他に、何でもいいから、方法はないの?」
 一同は口を閉ざした。諦めたくはなかった。しかし何も思い当たらない。
 暗い空気の中、光の粉が舞い降りてきた。
 一同が一斉にそれに注目していると、光は人の姿を象り、天使の姿となった。五大天使の一人、ネイジュだった。
 ネイジュは人間と関わりを持っている。まだできたばかりのこの世界でも意識を保っていられる無二の存在だった。
「アカシック・レコードを見た」ネイジュは足音も立てずに一同に歩み寄った。「また、王は消滅してしまったのだな」
「ねえ、マルシオはどこに行ったの? 戻す方法はないの?」
「あなた方の言葉で言うと、死んだということだ」
「私たちの言葉でってことは、死んだとは何が違うの?」
「ラドナハラスの母体はいつかまた生まれる。それをマルシオと名付ければ、マルシオは存在することになる」
「それって、別人なんでしょ? 名前が同じなだけで」
「名も体も同じだ」
「そうじゃないの。私たちと一緒に戦って、花を育てて、笑ったり泣いたりしていたあの軟弱でマヌケなマルシオよ」
「それは記録となった」
「じゃあその記録を書き換えてよ。マルシオがおかしくなる前に戻してよ」
「それができるのは、アカシアだけだ。レコードは引き継がれる。それがアカシアにどういう影響を与えるのかはまだ分からない」
「じゃあ、アカシアが生まれたら、伝えて……マルシオを、返してって」
 ティシラは大粒の涙を零して懇願した。カームがもらい泣きをして鼻をすする。
「伝えることはできる」
 ネイジュは否定はしなかった。伝えてくれるのは本当だと思う。しかしそこに感情はなく、希望を持たせてくれる力強さは皆無だった。
 いつものティシラなら自分の思い通りにならない現実を打ち砕くことばかりを考えるが、今回ばかりは打つ手がなかった。
 もうマルシオはいない。彼のバカにされていじける顔や、ハーブやコーヒー豆の配分を研究したり、髪をまとめて掃除や荷物運びに励む姿はもう見られない。どこにでもあるような和やかな日常は、もう壊れてしまったのだ。
「……こんなの、いやよ」ティシラは泣き崩れ。「いや……マルシオが可哀想よ……」
 その言葉はクライセンの心に刺さった。
 本当なら、自分も共に死ぬはずだった。もしくは力及ばず自分だけが死ぬことも覚悟していた。しかし、結果は、マルシオをこの世から消し去ることしかできなかった。
 最初から、すべてが無責任な計画だった。だから悩んだ。
 自分の死はだけは免れないつもりでいた。思っていたとおりの結果が出たとしても、その場合はティシラを一人残してしまうことになる。
 二人を同時に救う方法が、どうしても見つからなかった。
 だから奇跡を信じた。そして、奇跡は起きた。
 だけどマルシオだけを犠牲にしたこの結果は、奇跡とは言い難かった。
 クライセンは初めて敗北を感じていた。これほどまでに自分が無力だったとはと、吐き気がするほど深い後悔と屈辱に苛まれた。



*****




 アストロ・ゲートを開いて元の世界に戻ったカームとミランダは、ウェンドーラの屋敷の庭で倒れていた。
 目を覚ますまでに時間はかからず、視界には深い夜の星空が映った。
 傍には心配そうに様子をうかがうサンディルがいた。
 二人は体を起こして辺りを見回す。呼吸をすると分かった。間違いなく、自分たちが生まれて育った世界だと。
「……二人とも、大丈夫か」
 戸惑うサンディルに声をかけられ、カームはずれかけたメガネを直しながら立ち上がった。
「僕は大丈夫です。あの、クライセン様は?」
「一緒ではないのか? あれから眠れずに空を見ていたら君たちが現れた。他には、まだ誰も……」
「ティシラさんも? マルシオは?」
 知りたいのはサンディルも同じだった。俯いて一度呼吸を整える。
「一体、何があった? 休んでからでいい。話を聞かせてくれないか」
 二人はサンディルと屋敷の中に入り、庭が見える窓のカーテンを開けたまま、リビングで体を休めた。

 二人が別世界で過ごした時間は数日だったが、こちらの時間はほんの二時間程度だった。脳と体が環境の変化についていっていないような違和感はあったものの、疲労はなかった。二人はサンディルからお茶をもらい一息ついて、何があったのかを話した。
 サンディルは更に暗い顔になっていった。
 歴史の真実のこと、人間の醜さが露呈した世界で起きた悲しい出来事など、サンディルにとっては知りたくない情報も多かった。
 しかしそれも、遠い過去と、「もしも」の世界のことに過ぎない。今更サンディルをかき乱すほどの衝撃ではなかった。
「重要なのは、儂らがこうしてこの世界で、意識を持って生きているということは、クライセンが戻ると決めたということだ」
 サンディルの言葉に、カームとミランダは顔を見合わせた。
「そうか。そうですよね」カームは安堵の笑みを浮かべ。「きっとクライセン様は戻ってきますよ。マルシオと仲直りして、ティシラさんも解放されて……」

 そのとき、世界の外側で小さな変化が起きた。
 この世界で生きる生命のすべての意識に、一瞬だけ、針の穴ほどの傷がつけられ、瞬きするより早く修復された。

「…………」
 急に話を止めるカームに、ミランダは首を傾げた。
「どうしたの?」
「え?」カームは何か違和感を覚え、きょろきょろと辺りを見回す。「今、なにか……」
 今度はサンディルがはっと顔を上げた。慌てて立ち上がって窓に見つめる。カームとミランダも何事かと同じほうを見ると、窓の外に淡い光が降り注いでいた。
 サンディルは真っ先に玄関に走り、二人もあとを追った。
 屋敷に庭に、人の姿があった。
 クライセンとティシラだ。
 三人は急いで駆け寄り、驚きから喜びの表情に変わっていった。
「クライセン、ティシラ……!」サンディルは二人の無事を確認し、涙を浮かべた。「よかった……よかった」
 二人は血塗れで酷い恰好だった。
「お二人とも血が……」カームは青ざめ。「どうしたんですか? 怪我ですか?」
「いや……」クライセンは胸に手を当て。「大したことはない」
「私は、大丈夫。なんともないわ」
 ティシラはこの血がクライセンのものだなんて口にしたくなく、笑って誤魔化した。
「そうですか。よかった。本当によかった」
 カームは胸を撫で下ろし、安心した途端に涙を零した。
「ねえ」ミランダは心配そうに。「アカシアはどうなったの?」
 クライセンとティシラは神妙な表情になり、クライセンが答えた。
「死んだよ」
「あなたが……殺したの?」
「まあね」
 サンディルとカームは驚いて体を揺らす。ミランダは納得できないような表情を浮かべたが、自分の口出しできることではないと思い何も言わなかった。
「……そうするしか、なかったんですよね」
 慰めるつもりで言ったカームだったが、クライセンは聞いていなかった。
 胸に痛みが走る。心臓の傷の痛みではなかった。体の一部を切り取られたような、魔法でも薬でも補えない、重い空虚のような息苦しさを感じた。
 ティシラもどこか上の空で、何かを探すように目を泳がせていた。
(……何かが、足りない)
 次第に、その意識は他の三人にも感染していった。
 カームはまた周囲を見回しながら冷や汗を流している。
「あの……何か、変じゃないですか?」
 みんなが思っていたことだった。
 何かが足りない。
「どうやら……」クライセンは厳しい表情で声を震わせた。「私は、敗北したようだ」
「……どういうこと?」とミランダ。
「記憶を消されている」
「記憶? 何の?」
「分からない。何かがあったはずなんだ。いや、何かを失ったんだ。だけどそれが何なのか、分からない」
「どうして?」ティシラも不安で胸が締め付けられていた。「敗北ってどういうこと? クライセンが負けるなんて、信じられない」
「負けたんだ。その代償に、何かを奪われた。おそらく、この世界に最初からなかったことにされたんだと思う」
「最初から……? でも、私たちはついさっきまで天使の世界にいたけど、そのときはそんなふうに感じなかったわ」
「私たちが天界を出たあとに、何かあったんだろう」
「何かって? 何かが変わったの?」
「私たちだけではない。世界中だ。それがこの世界にどれだけ関わっていたのか分からないが、それを知っていた者、影響を受けた者のすべての記憶が書き換えられているに違いない。私たちはアカシアと接触したから失ったことだけを認識できているが、そうでない者は、それがあったことすら知らず、これからも知らないままで生きていくことになるんだろう」
「僕たちだけでも思い出すことはできないんですか? 痕跡があれば、それを辿って思い出せないんですか?」
「カーム、君の目では……」
「え?」
「何も見えないのか?」
 カームは息を飲む。そうだ、この目を通せば見えないものが、なくなったものが見えるかもしれない。そっとメガネに指をかけ、外した。
 映ったものは大量の星々だった。遠い宇宙の先の銀河の中の更に奥、無限の中心に雌雄同体の赤子が眠っていた。彼の体から三つの石が生まれ、その中の白い石が人の形になっていった。
 アカシアだった。銀の髪と瞳を持つ少年の姿をしている。
 なぜか、カームの目から涙が零れた。
 カームが目を閉じてメガネを掛けると、ミランダが声をかけた。
「何が見えたの?」
「アカシア……」カームは悲しみで声を震わせた。「僕らが失ったのは、彼です」
「アカシアは死んだのでしょう?」
「いいえ。死んだのは、アカシアではありません」
「どういうこと?」
「アカシアではない誰かです。僕たちは、彼のことを忘れてしまっているんです」
 大切な誰かが死んだ。
 しかし誰も、彼を偲び弔うことも、思い出すことさえもできない。
 あまりにも寂しく、悲しいことだった。
 皆が説明できない虚しさに包まれている中、クライセンだけは違うことを考えていた。

 必ず取り戻してみせる。
 必ず、奇跡は起こる。
 まだ終わってなどいない、と――。





   

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