SHANTiROSEINNOCENT SIN-99「おかえり」 クライセンの顔を見るなり、マルシオはそう言った。 扉の向こうはやはり真っ白の世界だった。足元の金剛石には放射状に複雑な文様が描かれてある。その中心から細い階段が伸びており、最上階にある椅子にマルシオが座っていた。彼の目線の高さには水鏡が浮かんでいる。そこに、レオンやジギルの顔が浮かんでは消え、アカシアによって切り離されてしまった別世界の様子が映し出されていた。 崩壊した世界で二人が立ち並んでいる姿、そしてレオンの手にリヴィオラの欠片が握られていることを確認し、彼らが選んだ結末をクライセンは垣間見て静かに安堵していた。 ティシラも同じものを見つめていると、疲弊したサンディルやヴェルト、その隣にボロボロで気を失っているティシラを抱きかかえたクライセンが映った。 「……あ」 ティシラがつい声を漏らした。 なぜティシラが立つこともできないほど満身創痍なのかが気になりつつも、とりあえずあの二人が無事で一緒にいることに、改めてよかったと思う。自分の隣にクライセンがいなければまた妙な感情を抱いてしまったかもしれないが、今は違う。皆、いるべき場所にいる。だからこそ何があっても二人を引き裂くことができないのだと、ティシラは強い確信を得ることができた。 マルシオが片手を振ると水鏡は揺らぎながら消えていった。 「人間というものは」マルシオは目を伏せ。「ほんとに面白いな。弱いようで強い……いや、立ち直りが早いというべきかな。どれだけ思い入れていたものを失っても、時間が経てば昔のことだと都合よく忘れてしまう。思い出の中で美化し、記憶を改ざんし、言葉を飾り立ててこれでよかったのだと語り継ぐ。欺瞞を重ね真実なんてどこにもないというのに、いつまでも大事に守ろうとする。俺には分からない。書き換えられた過去に、どれだけの価値があるのか」 クライセンは首を傾げながらふっと笑い、何も答えなかった。 「どうした?」マルシオは目を開けて。「教えてくれないのか? お前は俺の師なんだろう?」 「答えられるけど、教えない」 「なぜ?」 「君にはまだ早いから」 マルシオは笑みを消して腰を上げる。光る羽を畳んだ状態で、ゆっくりと階段を降り始めた。 「そうだった……クライセン、お前は俺を戒めに、殴りに来たんだったな」 一歩一歩近づいてくるマルシオに、ティシラは言いようのない不安を抱き、そっとクライセンのマントを掴んだ。 「……どうするの?」体の震えが、彼にも伝わる。「私、どうしたらいい?」 クライセンは素直なティシラに愛しさと、罪悪感を抱いた。 常に前向きで明るい彼女だが、本当は怖いのだ。相手がマルシオだからと虚勢を張り続けていた。しかし相手がマルシオだからこそ、ティシラは悲しくて仕方がないのだと思う。彼は彼女にとって一番親しい友人であり、家族でもある。種族の違いでいつも互いに憎まれ口を叩き合っていた。二人はそれで幸せだったのだ。無理に配慮や理解しようとせず、同じ時間を過ごして誤解やすれ違いを解消しながら、自然に信頼を深めて安心できる関係を築いていた。 ティシラは「こんなマルシオは嫌い」だと言った。それがすべてだとクライセンは思う。「こんなマルシオ」のままであるなら、もう一緒にはいられない。だからティシラは震えているのだ。クライセンが来たことでもう強がる必要がなくなった。つまりこれが、彼女の本心なのだ。 「……ごめんね」 クライセンはティシラに聞こえないほどの小声で呟いたあと、ティシラの後頭部に片手を当てた。するとティシラは目を開いたまま意識を失った。一瞬にして体の震えも止まり、立ったまま石像のように固まっている。 異変に気付き、マルシオは階段を下りながら目を顰めた。 「ティシラに何をした?」 「魔法をかけた」 「何の魔法だ」 「別に……彼女にはちょっと刺激が強すぎるかなと思ってね」 「俺を殴るからか?」 「そう」 マルシオが階段を降り終えると、階段は煙のように消え去っていく。 クライセンは口の端を上げ、マントを翻した。彼の覚悟が決まったと感じたマルシオは光の羽を広げ、白い世界に強い風を巻き起こす。それに紛れ、光の文字も乱舞した。ティシラは黒髪が逆立つほどの激しい風を浴びても瞬き一つしなかった。 「ティシラ」クライセンはそんな彼女を肩を抱き、耳元で囁いた。「今だ」 ティシラはその声に反応し、ゆっくりと眼と眉を吊り上げた。魔力を高めると牙が伸び、僅かに口が開く。爪が伸び、喉から唸り声を漏らしながら、心臓目掛けて片手を突き出した。 クライセンは真黒の森でエミーに尋ねた。 「神様をぶん殴るにはどうしたらいい?」 老婆は枯れた声で笑った。 「これはまた物騒なことを企んでるね」 「もしマルシオが原始の石の所持者だとしたら、いくら私でも簡単には勝てない。いろんな要素が重なればなんとかなるかもしれないけど」 「そうだな。例えば、魔界の王ブランケルと戦ったときみたいにな」 「そう……って、それも知ってるのか?」 「当然だ。魔界の王が人間界で暴れたんだ。嫌でも耳に入るさ」 「ああそう……」クライセンは気怠そうに。「まあ、あのときはね、相手が弱っていたからなんとかなったけど……」 「ほんとにお前は血の気が多いな。少しは落ち着いたらどうだ」 「うーん、そんなつもりはないし、言われたこともないけど……」 クライセンは自然と、子供のように無防備になっていた。記憶になくても、どこかでエミーを母か姉のように親しみを持っているのだった。こんな彼の姿を今でも見られるのは、エミーただ一人である。 「殴ってどうする」エミーは呆れたように。「お前の目的は何なんだ」 「目的なんかない。ただ殴りたいだけだ」 エミーはため息をもらす。 「死んでもか」 「……それしかないのかな」 「そりゃそうだ。お前はリヴィオラの所持者だが、あくまで代理だ。ルーダ神は生まれたときから体内に原始の石を持っている。格が違うだろ」 「そう言われると悔しいな」 「神なんかと喧嘩しようと思うからだ」 「もしエミーが神さまと喧嘩するなら、どうする?」 「はあ?」 クライセンは悪戯っぽく笑ってみせた。 「どうせ俺が神と喧嘩して死んでもどうでもいいんだろ? むしろ面白いと思う質のくせに。もったいぶらないでくれよ」 「おい、なんだその言葉遣いは」エミーはクライセンを指さし。「せっかく表面上は大人になったふりができるようになったのに。私に甘えて素に戻るんじゃない。しっかりしろ」 「はいはい。分かりました」 クライセンはつい、やってしまったと思い、目を逸らした。 少年から青年になろうとしていた昔々のこと、クライセンは日に日に心が荒み、体が大きくなっても、魔力は扱いきれないほど高まっていき、制御できずにあちこちで暴れまわっていたことがあった。 内に溜まっていく魔力と死者の思念、そして死神の重圧は心身を蝕み、正気を保っていられない時間が増えた。まるで漏電する雷雲に拘束されているかのような苦痛を強いられていた。その苦しみを理解できる者もおらず、腕自慢や強い魔法使いを見かけては理不尽な暴力を振るい続けていた。好きで暴れていたわけではないクライセンは一つ所には留まらず、安息の地を求めて、だがそんな場所はどこにもなく、宛もなく旅を続けていた。 その頃のクライセンは今の雰囲気とはかけ離れており、言葉遣いも悪く、素行も酷いものだった。ただ、殺しだけは絶対にしなかった。死神が彼の力や意識を制御して止めていたからだった。だからクライセンに関わった者は、彼をただの不良少年だと認識していた。ただの、と言っても、酷い病に侵された手負いの野獣とまで言う者もいたほどではあるが。 長い時間をかけて有り余る力を自分のものにしていったクライセンだったが、それまでは、今の自信に満ちた貫禄ある青年とはかけ離れた、理由も分からず暴走する荒くれ者だったのだ。 サンディルはクライセンの噂を聞くとその場に駆け付けていたのだが、彼はすぐに行方不明になり手を差し伸べることも難しかった。 サンディルの息子が成長しあちこちで暴れているという話は、エミーの耳にも届いていた。クライセンを手懐ければいいことがあるかもしれないと邪な気持ちを持っていたエミーも彼を探した。何度か遭遇したことはあったものの、憧れのサンディルとは程遠い野蛮な若者の姿に同情すら湧かず、殴って気絶させたことがある程度で人前では他人のふりを続けていた。 その頃のことを思い出すと、クライセンは苦笑いしか出てこなかった。 事情を知るエミーは責めはしないが、本質が変わったわけではない。今でもたまに乱暴な言葉遣いが漏れるクライセンを、紳士を好む彼女は良しとしなかった。 「人の目がないと気が緩んでしまうんだよ」 笑うクライセンに、エミーは自分の目を指さして見せた。 「人の目なら、ここにある」 「ああ、そうだった。それも人の目だったね。失礼」 「ふん。中身は昔のままだね。手の付けられないクソガキだ」 「それは言い過ぎ。私は大人だ。だから弟子を戒めたいんだよ」 「殴りたいんだろ」 「他に何か方法がある?」 エミーは大笑いしたあと、「ない」と答えた。 「お前にできる戒めは、確かに、それしかないな」 「だろう?」 「私のやり方を知りたいか?」 「ああ。それを聞きにきた」 「知ってると思うが、私のやり方は単純だ。命を懸けるんだよ」 「具体的には?」 「お前の核はどこだ」 クライセンは少し考え、自分の胸に手を当てた。 「ここ?」 「そうだ。同じ原始の石を持つ者同士とはいえ、相手はその石と肉体が同化している。お前は違う。ただ持っているだけだ。その差を埋めるには、お前の魔力以外の部分を魔力に変えて補うんだよ」 「つまり?」 「お前の持つ力――魔力、腕力、生命力、精神力、その他のすべてだ。すべてを一つに凝縮して初めてラドナハラスと対等に戦える」 「本当か?」 「たぶんな」 「たぶんか……」 「前例がないからな。確実とは言えない。だが私ならそうする」 クライセンはテーブルに肘をついて思案した。その表情に、エミーは異を唱える。 「迷いは捨てろ。一切の邪念を抹消するんだ」エミーは身を乗り出し、呪文のように続けた。「何も考えるな。自分の中にある力という力をすべて集めて、それを一気に敵にぶつけるんだ。負けるかもしれない、いつ終わるのか、そんなことは一瞬でも考えるな。思考力が分散する。悲鳴もうめき声も出すな。体力が削れる。恐れや怯え、不安は精神力を失う。憎しみや怒りも、感情もすべて捨てろ。ただ目の前にあるものを破壊することだけに集中するんだ。いや、破壊するという意識も必要ない。隕石同士がぶつかると行先を遮られ、力の強いほうが弱いほうを壊す。お前はその隕石になるんだ。どちらが強いほうなのかも考えなくていい。ただ石がものすごい速さで遠くに飛んでいく。それだけでいい。できるか?」 クライセンはエミーの迫力に圧倒されながら、ぼんやりとイメージしてみた。 「まあ、できるとは思うけど」 「そうだな。お前ならできるだろう」 「君らしいやり方だね。私ではこんなバカみたいな魔法は思いつかないよ」 「お前だけじゃ何もできないってことだ。感謝するんだな」 「感謝するよ。ただ……」 「なんだ」 「核、つまり心臓を武器にするってことだよな」 「そうだ」 「さすがに生きたまま自分で心臓を取り出すのは抵抗がある」 「なんだ、そのくらいのこと」 「普通に痛いだろ。死ぬほどの痛みを消すのは難しいんじゃないか」 「忘れろ。どうせ一瞬だ。間もなく死ぬ」 今度はクライセンがため息をついた。 「そうだ、お前の近くにそれを得意とする奴がいるじゃないか」 「……ティシラ?」 「そいつに協力してもらえばいい」 「それはちょっと……」 「なら自分でやるか、別の方法を考えろ」 エミーは言い捨て、椅子の背もたれに体を預けた。 しばしの沈黙があった。 クライセンは、できればこの魔法は使わずに済めばいいなどと考えていた。エミーは葛藤している彼に、大切なことを思い出させた。 「魔法とはなんだ?」 唐突な質問に、クライセンは我に返る。気を抜いて忘れかけていた緊張感を取り戻した。 「奇跡だ」答えを聞く前に、エミーが話した。「奇跡を起こそうと思うな。魔法とは人を救う手段だ。お前が誰かを救うために魔法を使えば、他の誰かがお前のために魔法を使い奇跡を起こすだろう。だから恐れる必要はない」 クライセンの瞳に、いつもの鋭さが戻った。 自分は世界最高位の魔法使い。常に救う側にいると思っていた。誰かの魔法で起こした奇跡に救われるなど考えたことがなかった。 今回ばかりはそれに期待してみようと思う。そうでなければ誰も救えない。不幸と悲しみだけが残る結果しか見えないから。 目の前で起こったことに、マルシオは目を見開いて言葉を失った。 ティシラがクライセンの心臓を抉り出した。 体に繋がっている血管を捩じ切ると、二人のあいだに大量の鮮血が飛散する。引いたティシラの手の中には脈を打つ心臓が握られていた。 クライセンは血を吐きながら彼女の手ごと、自分の心臓を両手で包み込んだ。 ティシラはまだ魔法にかかっており、愛する人の血を浴びても表情を変えなかった。 魔法が解けたときの彼女の心情を考えると、クライセンは詫びる言葉も思いつかない。それほどに残酷なことをさせてしまった。 だけど今は考えないことにした。 ティシラの手から自分の心臓を受け取り、目を閉じて呪文を唱える。人間の言葉ではなかった。 持つ魔力のすべてを、露ほどの漏れもないよう心臓に送り込む。すると真っ赤な光と熱を孕んだ。 マルシオが飛び出す時間もないほど早く、赤い光は激しく燃え、黒に近い色に変わり閃光を放った。 クライセンは振り返り、自分のすべてをマルシオの胸に目掛けて叩きつけた。 人間ごときの物理攻撃など効かない、はずだった。 だがそれは「神」の心臓を激しく震わせるほどの大きな力だった。 マルシオは強い衝撃で体の自由を奪われ、声にならない悲鳴を上げた。光の羽は更に大きく開き、限界を超えて散り散りになっていく。マルシオの体にも変化が起きた。心臓を中心に、全身が四方から引かれるように仰け反っていく。次第に揺らぎ始め、魔力を削がれていく天使は高熱で溶ける鉛のように形を失った。もう顔も手足もなかった。蠢く銀の液体と化したマルシオは断末魔の声を上げ、視界を埋め尽くすほどに膨張していき、白い世界に弾け、溶けて、白い宝石を残して消えていった。 ほとんど同時に、クライセンの魔力も尽き果てた。 クライセンが倒れ、ラドナハラスが床に転がる。主を失った天界に、音も立てずに膨大な亀裂が走った。 その場に一人取り残されたティシラだけが、天使の世界の崩壊を見つめていた。床がはらはらと、灰のように散り始めたころ、魔法が解けた。 意識を取り戻したティシラは床と共に落ちていきながら、血塗れの手を震わせ、喉が破れそうなほどの悲痛な声を上げた。 Copyright RoicoeuR. 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