SHANTiROSE

INNOCENT SIN-101






 心にぽっかり穴が開いたような状態で数日が過ぎた。
 カームとミランダはそれぞれの場所に帰っていった。

 あれから一同は、どうやってクライセンとティシラが助かったのかを聞いた。クライセンはティシラに気を使い、戦闘部分は「相打ちになった」と省略し、そのあと何が起きたのかを語った。
 別次元から現れたカームとミランダの活躍には驚かざるを得なかった。とくにカームは興奮していた。
「ぼ、僕が、自分の力を自由に操って、高等な魔法使いになるなんて……しかも、クライセン様を救うなんて、夢みたいです」
「夢なんだよ」
 クライセンに冷たく言われ、カームはあっと短い声を上げた。
「そうですね……夢も同然ですね」
「と言っても、あり得ないことじゃない。君も努力すればそうなれる可能性はあるということだ」
「本当ですか? じゃあ……ミランダさんと一緒にいられるかもしれない未来もあり得るんですね」
 照れたようにほほ笑むカームを、ミランダは一瞥した。
「それはないわ。私が魔法使いとして成長するのは当然としても、エミーの弟子ですって? あり得ない。想像もできないわ」
「いえ、この世界でのエミーさんは、ためになる本を書く素晴らしい人じゃないですか。あの世界でもすごく強かったし、きっと他の世界ではミランダさんが憧れるような魔法使いになることもありますよ」
「優秀な魔法使いなら他にいくらでもいるでしょ。エミーである必要はないわ」
「そうかもしれませんが……というか、僕が注目してほしいのはそこじゃないんだけどなあ」
「何ですって?」
「いえ……」カームはもうこの話をやめようと、無理に笑った。「とにかく、別次元で僕の力が役に立ってよかったです。勇気が出ました」
「もう一つ」と、クライセン。「レオンとジギルは生き残り、二人で同じ方向に向かっていった」
「えっ……ジギルは、無事だったんですね!」
「その様子を映像で見ただけだから二人が何を話したのか、これからどうしていくのかまでは分からないが、まあ、あの二人なら大丈夫だろう」
「そうなんですね」カームは胸を撫で下ろし。「ジギルはレオン様と友達になれたんですね……うん、一人ずつでもすごい力を持ってる二人が協力し合うなら、きっとあの世界はよくなります。よかった、よかった……」
 カームは喜んだ。だが、心の底からではなかった。やはり空虚は消えないからだ。
 これからも、どれだけ嬉しいことがあってもずっとこの空虚を抱えて生きていかなければいけないのだろうか。それはここにいる者のすべてに残った不安だった。
 思い出せないのに、忘れることができない。

 今回経験したことは、魔法使いに限らず世界中の人々の心を動かすほどのものだと思っていた。しかし、カームとミランダはそれを言いふらしたり公の場で語るつもりは一切なかった。
 何ひとつ証明できるものがなかったからだ。
 当の本人でさえ、あれは夢だったと思い込めばそうなる程度のあやふやな事実である。
 大した時間も過ぎておらず、近しい者にすら話さなくても矛盾が生じることはなかった。ただ、ウェンドーラの屋敷で遊んでいただけと言えば何もおかしなことはないのだから。
 少なくとも、今は話す気になれなかった。
 特殊な経験で得た感情や知識より、なくなった何かへの喪失感のほうが大きく、あまり深く考えたくなかったのだった。
 ただ、カームとミランダは友達になった。ミランダの居住地は教えてもらえなかったが、連絡手段を交換し、カームはティオ・メイの城の敷地内にある広場でならいつでも会えるからと、ミランダを積極的に誘っていた。
 ミランダはカームの分かりやすい感情にはなかなか気づかなかったが、同じ経験をして同じ思いを秘める者同士、ときどき不安に襲われて彼の顔を見たいと思うときがあった。カームはいつも明るくて感情豊かで、神経質で悩みの多いミランダを癒してくれた。だから自然と、二人はどちらからともなく会いたいと思うようになっていた。



*****




 ウェンドーラの屋敷ではクライセンとティシラとサンディルが暮らしていたが、何かが足りないままで、どこか余所余所しさがあり会話が減っていた。話したくないわけではない。顔を合わせてごく普通の会話をしていると、どうしても違和感が生まれてしまうからだった。
 もしかしたら、なくなった何かは、ここで自分たちと一緒に暮らしていたのではないだろうか。そうだとしか思えなかった。この三人だけではティシラがここに住み着いた流れが繋がらないからだ。
 何度も考えたが、結局答えは見つからなかった。だから自然と会話も減っていくのだった。
 ティシラのクライセンへの気持ちは変わらなかった。あのあと胸の傷の心配をしたが、彼は丸一日眠るともう塞がったと言って平然としていた。
 怪我が治ったあと、ティシラはクライセンが自分にしたことを何度も責めた。クライセンは何度も謝り、無事だったからよかったと笑った。そのたびに、何かが足りないと言葉を失った。
 二人きりになれる機会は多かった。距離を縮めることもできるはずなのに、今ではない気がしていた。
 もう二度と取り戻せないのなら、いつか時間が解決してくれるのだろうか。ティシラは遠くを見つめて自問自答を続けた。考えれば考えるほど、失くしただけではなく記憶まで奪わなくてもと、見えない何かを恨んだ。
 そう思うたび、涙が頬を伝った。



 そんな空虚な時間が流れていたあるとき、玄関がノックされた。
 クライセンはリビングに、ティシラはキッチンにいた。同時に顔をあげ、見合わせた。
 この屋敷の周囲の森には魔法がかけてあり、許可のある者しか自由に行き来できない。なのに、何の報せもなく客が訪れることはかなり珍しいことだったのだ。
 クライセンが腰を上げ、ティシラも背後から様子を伺った。
 ドアを開けると、そこには銀の髪と瞳を持つ少年が立っていた。
 アカシア、という名が、同時に二人の脳裏に浮かんだが、何かが違った。天使の世界で見た彼は不適な笑みを浮かべて人を見下す、生意気な態度の少年だった。しかし、現れた彼はどこか気まずそうで目を泳がせながら挨拶の一つもしない。
「どちら様?」
 クライセンが尋ねても、少年はすぐに答えなかった。二人が首を傾げていると、意を決したように、少年はやっと言葉を発した。
「俺の名前を言うと、お前たちの記憶が変わってしまうんだ」
 少年はおどおどした様子で、意味不明なことを話した。
「俺は死んだ。みんなの記憶から消されて、最初からいなかったことにされた。それでいいんだ。だからもう、俺のことで苦しまないでほしい」
 クライセンとティシラは再度目を合わせた。もしかして、と全身から汗が噴き出した。
「君は……まさか、なくなった記憶の部分なのか」
 少年、マルシオは頷いた。
 親しかった者が、ずっと会いたかった者が自分の顔を見ても分からず、名前も覚えていない事実は辛く、泣きそうなほど悲しかった。
 伝えたいことがあって、マルシオは戻ってきた。あれから天界で何が起きたのか、彼らが知りたいと言ってくれるなら話そうと思ってここに来た。この二人なら本当のことを知っても受け入れられるはず。自分のことを忘れたままでも、もう一人ここにいたことが分かれば、彼らが苛まれる空虚から解放されるかもしれないと信じて。
「名前は?」
 クライセンに聞かれたが、マルシオはすぐには答えなかった。
「言うんだ。それで、私たちは君を思い出せるんだろう?」
「言ったら、また世界の記憶が書き換えられる」
「構わない。早く聞かせてくれ」
「元に戻るんじゃない。変わってしまうんだ」
「いいから。君は思い出して欲しいからここに来たんだろう? ここまで来て、何を躊躇しているんだ」
「……聞いてくれ。俺がどうして魔法使いになりたかったのか、世界一の魔法使いであるお前に憧れたのか、理由が分かったんだ」マルシオは思い詰めた表情で。「俺は無意識に、自分の中にある原始の石の存在を知っていたんだ。自分がアカシアのドッペルゲンガーで、いつかそのことを自覚したとき、きっと世界が壊れることも、全部予感していたんだ。それをどうにかしたかった。だからお前に救いを求めていたんだ。天使の力ではどうすることもできない。でも魔法なら、人間ならなんとかしてくれるんじゃないかって……何の根拠もなかったけど、だからお前の傍にいたかったんだ」
 クライセンは額の汗をぬぐい、呼吸を整えた。
 心の奥の、一番深い部分が疼いていた。確かに、自分は彼を知っている。今にも思い出せそうなのに、頑丈な鍵に閉じ込められて何も出てこない。
「俺の信じたとおりだった」マルシオの銀の瞳から涙が流れた。「俺は、ずっと自分を殺して欲しかった。夢の中で、何度も願っていた。お前はその願いを、叶えてくれたんだ」
 敗北ではなかった。クライセンは確信した。あれで正しかったのだ。
「だけど、お前にも、ティシラにも、辛い思いをさせてしまった。きっと、思い出したらまた記憶が改ざんされて、大事な思い出まで壊してしまう。俺は一度死んで、ただの天使として生まれ変わった。だから、これ以上迷惑かけたくない。ただ、お前の魔法が俺を救ってくれた。それだけでも、伝えておきたかった」
「……だから、ここに来たのか。それだけを、伝えるために」
「お前は普通の人間じゃない。きっと失くした記憶を追って、どんな手段を使っても取り戻そうとすると思った。だけどそうじゃない、お前は何も間違っていなかった。それを知って欲しかったんだ」
「……分かったよ。だが、今私が知りたいのは、君の名だ」
 マルシオは目を逸らし、口を閉じた。
「どうして言わない? 記憶が書き換えられる程度で私が参るとでも思っているのか?」
「……いろんなことが重なったから、お前は命を取り留めた。だけど、それがなかったらお前は俺と一緒に死んでいたんだ。そんな目に遭わせておいて、またここに居たいなんて、言えるわけがない」
「君は私をバカにしているのか。殺してほしいと頼まれたからやったわけじゃない。そもそも頼まれた覚えもない。私がそうしたいと思ったからやったんだ。自分の命を懸けてでもな。ただで死ぬつもりはなかった。きっと何とかなると、他の誰かが奇跡を起こすと信じた。だからあんなバカな魔法を使ったんだ。そして奇跡は起きた。二度もな」
「……二度?」
「そうだ。二度目は、君がこうして戻ってきたことだ」
「も、戻ってきたわけじゃない。俺はここにはいられないんだ」
「屁理屈はいい。君はもうただの天使だと言ったな。つまりアカシアのドッペルゲンガーではない。ということは、他の誰かが身代わりになったのか?」
「それは……」
「ああ、そうか。分かった。君が誰なのか私たちが認識するとこの世界のアカシアが別の姿に置き換わるんだな。それが何だと言うんだ。そんなことより、私は君が誰なのかを知りたい」
 マルシオはクライセンの理解の早さに圧倒された。誰か分からない者と意味不明であろう話をされても戸惑いもせずに聞き入れる。そして、間違っていない。
 クライセンはいつも正しかった。
 その彼が名を聞かせろと言っている。言うべきなのか、言ったほうがいいのか、マルシオは激しく迷った。
 きっと、言っても言わなくても後悔する。それだけは確かだった。
 そんなことを考えていると、ティシラが二人のあいだに割り込んできた。
 ティシラはマルシオの顔をまじまじと見つめた。眉間に皺を寄せて考えている。かと思うと、突然マルシオの頬を引っ叩いた。
 クライセンもマルシオも驚いて目を丸くする。
「……俺、なんで殴られたんだよ」
 マルシオは赤く腫れた頬を撫でながら目に涙を溜めた。
「え、やだ私……」ティシラは悪びれもせず手を引っ込めた。「なんだか急に殴りたくなったの。よく分からないけど、あんた見てるとイライラして……」
 唖然とする二人の目線に気づいて、ティシラは慌てて言い訳を始めた。
「ご、ごめんね。あんたが誰か知らないけど、優柔不断でウジウジしてる男って嫌いだから、つい手が出てしまったの」
「だからって、知らない相手を殴るか?」
「だって、名前くらいさっさと言えばいいじゃない。それに、知らないけど、知ってる気がするのよ。あんたみたいな愚図、嫌いなのに知ってるような気がするの。私も知りたいのよ。だから早く言って」
「…………」
「何なの? じゃあ名前も言わずにこのまま去っていくつもり? あんた一体何しに来たの」
 開き直るティシラに詰め寄られ、マルシオは一歩引く。
「あんたさっき、魔法でなんとかして欲しくて、クライセンの傍にいたかったなんて言ってたわね。で、なんとかなったからもう用済みだってこと? そんなこと言いたくてここに来たの?」
「な、何だよそれ! 悪意が過ぎるだろ、その解釈は」
「じゃあ何なの。はっきり言いなさいよ」
「俺は感謝してるんだよ。でも戻れないから……」
「なんで戻れないのよ。それはあんたが決めることなの?」
「そういうわけじゃ……」
「だったら私が決めるわ。あんたは私のこのイライラやムカムカを何とかしなさい」
「ちょっと……」
「早く! あんたのせいで、せっかく帰ってきたのに毎日がちっとも楽しくないのよ。できないならもう帰って!」
 ティシラはマルシオを両手で突き飛ばした。
 またティシラが暴走し始めた。クライセンは止めようとしたが、怖くて手が出せなかった。
「分かった。もういいわよ。言いたくないなら聞かない! だから二度と私の前に顔を出さないで!」
「そ、それはないだろ」
「なんでよ。もういいって言ってるじゃない。出ていって!」
「い……嫌だ!」
 まさか追い出されるとは思っていなかったマルシオは、本気で焦り、つい本音を漏らす。勢いが止まったティシラだったが、まだ怒っている。また黙ってしまったら、本当に追い出されてしまう。
「俺……やっぱり、ここに居たい」
 ――最初から期待していたんだと、マルシオは思う。
 彼らならなんとかしてくれるんじゃないかと。酷いことをした自分を、戻る理由がなくても、リスクが伴っても、それでも構わないと受け入れてくれるんじゃないかと。
「忘れられたくない。嫌だ。一人ぼっちになんかなりたくない。思い出してくれ……俺を忘れないでくれ! 俺は――」


 もう一度、世界の外側に小さな傷がつき、まるでなかったかのように修復された。
 しかしなかったことにはならない。
 一度ついた傷は修復されただけで、見えなかったとしても傷跡が永遠に消えることはないのだった。


「……マルシオ!」
 寮の自室で読書をしていたカームは、背中を強く叩かれたような衝撃と同時にその名を口に出した。
 何が起きたのかを考えるより早く、彼の顔がはっきりと脳裏に描かれた。
 あの夜、空の向こうに見えた銀色の少年が誰だか、思い出したのだ。
「マルシオ……」涙がこみ上げて止まらなかった。「どうして忘れていたんだろう。僕の、数少ない、大切な友達……」
 カームは涙を拭いながら立ち上がり、窓を開けて空を仰いだ。
「帰ってきたんだね」嗚咽混じりの笑顔を浮かべ。「会いに行かなくちゃ……そうだ、ミランダさんも思い出したに違いない。誘って、会いに行こう」


 ミランダも同時に彼の名を口に出していた。
 居住地の敷地内にある書庫に一人で篭っていたミランダは、書物だらけの周囲を見回し、記憶がまた書き換えられたことを認識した。
 忘れていたものを思い出した。
 意味もなく気持ちが逸ったミランダは急いで書物を片づけて外に出ようとした。そのとき、一枚の紙が足元に落ちてきた。
 拾い上げて見ると、それは天使の絵画だった。いつ誰が描いたものか分からない、古いものだった。
 五大天使と、その頂上に佇む天使の王の姿が描かれている。
 この世界で「ルーダ神」を見たことがある者はいなかった。この絵がただの想像で描かれたものなのか、見たことのある者が描いたものなのか、もう誰も知る術はない。これほど古い作品はそれだけで価値がある。
 色あせてしまっているが、美しく、情緒のある絵だった。修復してでも残していくべきなのではと魅入ってしまうほど。
 ミランダは描かれている天使の王が「ルーダ神」ではないことを知っている。この世界では「アカシア」は存在していないほうが都合がいいことも。

 だから天使の王が「少女」の姿をしていることを示すこの作品を世に出すのは違うと考え直した。

 この世界はこのままでいい。変わるとしたら、まだ先のことだ。
 ミランダは絵画を棚にしまい、その場をあとにした。



「……おかえり、マルシオ」
 彼の名を聞いて、ティシラはすぐに怒りの表情から一転、ぼろぼろと涙を零しながらマルシオを抱きしめた。
 マルシオも涙が止まらない。しかし悲しみのそれではなかった。
「ただいま……ティシラ、クライセン」
 クライセンもほほ笑んで、ゆっくりとマルシオの帰りに安堵していた。
「おかえり」
 地下にいたサンディルも彼を思い出し、急いで駆け付けた。玄関で再会を喜んでいる三人の姿を見て、感動のあまり力が抜け、その場に座り込んで涙を流した。





   

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