SHANTiROSE

INNOCENT SIN-102






 感動の再会を終えたあと、一同はリビングでテーブルを囲んだ。
 クライセンは改めて、天使の世界で何が起きたのかを尋ねた。
「俺が意識を持ったとき、そこにいたのは五大天使だけだった」
 マルシオは好きだったハーブティーを味わいながら語った。
「だからこれは聞いた話なんだけど、ラドナハラスはすぐに新しい母体を欲し、俺ができあがるまで、それほど時間はかからなかったらしい」
「アカシアは死んだ」とクライセン。「新しく生まれた天使は、一体誰だったんだ?」
「石が記憶していた最後の母体だ。つまり、アカシアのドッペルゲンガー……生まれたのは、俺だった。ただ、心臓であるラドナハラスと同化するまでには時間がかかり、しばらくはアストラル(幽体)の状態で、ただ時間が過ぎるのを待っていた……」
 そこでティシラは大きな疑問を抱いた。それはクライセンもサンディルも同じだった。
「ちょっと待って」ティシラは話を遮り。「アカシアのドッペルゲンガーがマルシオって? どういうこと?」
 マルシオはどこから説明するべきか迷い、目を泳がせた。
「そうだったんだよ。だけど、書き換えられたんだ」
「書き換えられた? 記憶を?」
「そうだ」
「え? どこを? どこからどこまで?」
 マルシオは一つ息を吐き、彼らにはすべて話そうと決める。
「信じられないのは分かってる。それでも話すから、聞いてくれ」



 五大天使は王座を囲み、アカシアの再生を待った。
 天界を長いあいだ守り続けてきた五大天使の成形は早かった。彼らだけは、何度創り直しても必ず天使の王の傍に仕え続けたからだ。
 王座の傍に世界と共に消えた天使の思念が集まり始めた。それは銀色で、蛍火のようだった。小さな光は王の周囲を舞い続け、ゆっくりと元の姿を思い出していった。

 どのくらいの静寂が続いたのか分からない。壁があるわけでもないのに狭く感じていた世界が次第に開けていく。
 マルシオのアストラルが石に呼ばれ、王座に座った。するとマルシオの背に光の文字が集まり始め、大きな羽の形になっていく。光の羽が瞬きしたと同時に、マルシオも銀の瞳を開いた。
 王が復活した。五大天使は目を伏せ、敬意を表した。
 マルシオは絶望した。
 どうしてまた自分が天使の王として生まれ変わったのかと。しかも、今度はドッペルゲンガーではなく本物の王として。せっかく解放されたというのに、今度こそ、逃げ道はない。これから永遠に、アカシアとして生きていかなければいけないのだ。
 星の寿命より長い時間……「彼ら」がこの世から死んでいなくなっても、ずっと、いつまでもここに座っていなければいけない。途方もない話だった。ただのアカシアの複製だったマルシオには、あまりにも重い運命だった。
 アカシック・レコードの一部が語りかけた。
 ティシラが「新しいアカシアに頼んで、マルシオを返して欲しい」と泣いている記録だった。彼女の言葉はネイジュが伝えるまでもなくマルシオに届いたが、叶えられそうにない願いに胸が詰まった。今すぐ大事な友人たちの元に帰りたかった。俺はここにいると叫びたかった。しかしそれを叶えるためには、また天界は王不在となり、新たな歪みが生まれることになるのだ。もう二度とあんな残酷な悪戯に興じたくなどなかった。自分の存在で友人たちの運命を傷つけ掻き乱すことは許されないと思った。
 だからマルシオは死を望んだ。そして叶えられた。なのに記憶だけが残り、マルシオは孤独を強いられた。
 マルシオは涙も出ないほど、悲しみを超越した喪失感に囚われた。
 純白で静寂の空間を周囲を飛び交う蛍火の中に、一際強い光を放つ者がいた。ネイジュはそれに気づき、その光を目で追った。
 光の玉はゆっくりと王座と五大天使の足元に降り立った。
「誰だ」
 ネイジュが尋ねると、光は反応して瞬いた。
 天使の思念である光の玉はアカシック・レコードに触れ、語り合いながら形を作っていく。その工程で、一つの光が他よりも早く意識をもったのだ。
 マルシオと五大天使たちは光に注目した。何かを語ろうとしているが、まだ声にならない。
 ゆっくりと流れる時間の中、光は人の形を象り始めた。
 それが誰なのか判別できるほど変化した。
 王座の足元に、銀の瞳と髪を持つ少女が跪いていた。
 その少女が顔を上げると、マルシオは目を見開いて驚いた。
 少女はマルシオにほほ笑んだあと、厳かに自分の意志を伝えた。
「王の拝顔の栄に浴し、身に余る光栄と感激しております……どうか、私の体を、ラドナハラスの母体としていただけませんでしょうか」
 少女の急な話にマルシオは身を乗り出す。思考が追い付かずに何も言えずにいた。
 ネイジュは表情を変えず少女を見つめる。
「あなたは?」
「私は、フーシャと申します。記録となった過去の中で、ほんの僅かではございますが、マルシオ様と一度は縁あった者。マルシオ様が人間の世界を好いていらっしゃったこと、そこへ戻ることを望んでいらっしゃることも存じております」
 少女は、以前マルシオを追って人間界にやってきたフーシャだった。
 過去にあった個性はなくなり、穏やかで柔らかい光を纏った少女は、遅れて形になっていく多数の天使の中の一人に過ぎなかった。
「過去の記録では、私はマルシオ様に特別な愛情を抱いておりました。それもすべて記録となりましたが、だからこそ私にしかできないことがあると思い、ここに参りました」
「……どういうことだ」マルシオはやっと言葉を発した。「フーシャ、君はもう、俺とはなんの関係もないだろう」
「はい。今はただの記録、文字の羅列となりました。ですが、過去は消えないのです」
「……君は、俺のことを守ろうとしてくれた。だけど、俺は嘘をついて、君を追い返そうとしたんだ。そんな俺をどうして、今も……」
「今の私にはあなた様への特別な感情はございません。しかし過去にあなた様に触れ、心を知った天使は私だけ。今のここにある苦悩から、王を解放できるのは私だけ。ゆえに、この身を捧げることを望むのです」
 覚悟を決めたフーシャが胸の前で両手を組んだ。
「王よ、どうか、原始の石を、私にお預けください」
 マルシオにとってフーシャは希望の光だった。これは、奇跡だ。クライセンの言っていた奇跡が起きている。どんな形であれ、前と同じではなかったとしても、マルシオはまた彼らに会えるのだ。
「……だけど、王になることは、孤独だ」マルシオはすぐに立ち上がることができなかった。「君に耐えられるのか」
 フーシャは目を伏せたままほほ笑んだ。
「まるで、人間のようなことを仰いますね」
「……え」
「あなた様は王になるために生まれていらっしゃったわけではございません。そして私は、王になるためにここに参りました」
 あなたは、王に相応しくない。
 フーシャはそう言っていたのだった。
 そんなことはマルシオ自身が、誰よりもよく分かっている。マルシオはこの椅子を彼女に譲るべきだと確信した。
 途端、体中が震えた。内側から制御できない感情がこみ上げ、意味もなく叫びたい衝動に駆られる。マルシオは唇を噛み、その痛みを堪えた。
 もう後戻りはできないのだ。無謀で無責任だと分かっていても、前に進むしかなかった。マルシオというドッペルゲンガーが生まれたそのときから、やり直しなどできないほどの深い歪みで世界は崩壊していたのだから。
 すべてをフーシャに丸投げするのではない。彼女を王にすると決めるのはマルシオだ。それが最善であろうとなかろうと、世界はただ前にしか進まない。
 マルシオが決意すると、体から光の文字が溢れ出し、回転しながら彼の全身を包んでいった。光は繭となり、中でマルシオの心臓であるラドナハラスが脈を打つ。
 同時にフーシャの胸も脈を打った。光の繭が解けていくと、その中にマルシオの姿はなかった。椅子の上には白い石が浮いていた。フーシャはゆっくりと近づいて両手を差し出し、石を抱き締め、胸の中に納めていった。
 五大天使は遠い昔からしてきたように、新しい王の前に整列し、跪いた。
 王座を背にし両手を広げたフーシャは、光の文字の集合体でできた巨大な翼を背負い、天使の王座の前で優雅に、そして力強く羽ばたかせた。
 大量の光の文字の一部になったマルシオは、彼女がアカシック・レコードを継承した姿を見届けた。
「マルシオ、どうか、これからは自由に生きてください。この世界は私が、すべての天使を平等に愛し守っていきます」
 かつてのフーシャであるアカシカの浮かべる優しい微笑みは、マルシオに向けられていたものではなかった。天使が天使のためにできることをする。それ以上でも以下でもない、無限の慈愛だった。
 マルシオは塵のように上空に舞い上がり、光の粒になって散り散りになっていった。



 一度目にクライセンたちの記憶が書き換えられたのはマルシオが天使の王となった瞬間だった。今まで人間の世界ではアカシアは存在せず、その代わりに「ルーダ神」という偶像を信仰していた。しかしマルシオが本物の「アカシア」になったことで、人間の世界の記憶からマルシオという存在が消されてしまったのだった。
 その後フーシャがアカシアとなってマルシオが記憶の文字と化したとき、世界の過去は「フーシャはアカシアのドッペルゲンガーだった」ことになった。
 同時にマルシオは人間界に関わった「ただの天使」として、クライセンたちの記憶に帰ってきたのだった。

「――じゃあ、マルシオとフーシャが入れ替わったの?」
 ティシラは作り話でも聞いているかのような感覚だった。
 ティシラたちがフーシャを認識したのは、マルシオを追って人間界に来たときで、二人が婚約しているという部分は同じだった。当時の天界は人間界に感化されていたため、家族があり結婚し子孫を残すという似た文化があった。今はもう白紙に返され、マルシオの親も婚姻制度も消滅してしまっている。
 当時のフーシャはマルシオがそうだったように、本人にドッペルゲンガーという意識はなかった。ティシラと衝突し合ううちに、内側に天使にあるまじき憎悪の感情が芽生え、天界に留まっているアカシアの残留思念を殺すための力を発揮した。人間と魔族で未知の魔力に対抗し、フーシャの暴走を一度は封じた。彼女はそのときの記憶を失うことで意識を取り戻して天界に帰って行ったが、天界にいるうちに人間のかけた魔法が薄れていき、再び彼女の中の殺意が顔を出した――というのが真実として記憶を上書きされていた。
 どちらが本当だったのかはもう分からない。過去に戻って確かめない限り。真実はアカシック・レコードのみに記憶されている。
「……ということは」ティシラはうーんと唸り。「あのときティオ・メイの城下で暴れて、しかも私を殺そうしていたのはあんただったってこと?」
「まあ……元は、だけど」
 マルシオ以外の人々には、マルシオは最初からただの天使で、フーシャがアカシアのドッペルゲンガーだったことになっている。
 そして、クライセンが殺したのも少女の姿をした天使に記憶が置き換わっていたのだった。
 確かに、とクライセンは思う。天使の世界で対峙したのはフーシャだったが、別世界の天使降臨の空間で見たアカシアはマルシオと同じ姿だった。この世界のアカシアは「ルーダ神」という正体不明の天使のはずだった。だから次元によってアカシアの姿が違うものだと思えばとくに疑問はなかった。ただ、魔界の王ブランケルとは対称で、過去に執着せず移り気で独創性に富んだ子供であることは、はっきりと分かったことだった。
 そんなことを考えている傍から、記憶に変化が起きた。
 天使降臨の術で現れた天使が、マルシオだったかフーシャだったか、あやふやになり始めた。クライセンは目眩を起こし、一度目を閉じて軽く頭を横に振った。再度あのときの光景を思い出すと、もうフーシャの姿しか浮かび上がらない。だが同時に、言葉では「あのとき現れた天使はマルシオと同じ姿をしていた」と言える。
(……なんとなく、気分が悪い)クライセンは困惑し、眉間に皺を寄せた。(しかし人間の記憶なんて、元々こんなものなんだろうな)
 そう自分に言い聞かせて納得しようと努力した。
「それで」とティシラ。「フーシャがアカシアを乗っ取って、マルシオを天使の世界に誘拐したわよね。で、弟子のあんたを助けるためにクライセンが戦ったっていうのは、どこまで本当なの?」
「俺がアカシアを消した時点でフーシャは消滅してたんだよ。だからこのことに彼女は関係なかった」
「じゃああんたは誘拐されていないのね」ティシラは必死で頭の中を整理した。「あんたは誘拐したほう?」
「そう……」
「誰を?」
「……ティシラ」
「私? なんで?」
「それは……」マルシオは口ごもり。「そのときの俺は正気じゃなかったから……」
 何をどう、どこまで説明すべきか、マルシオは悩んだ。
 まさか自分がティシラを欲してクライセンと引き離そうとしていたなんて、冗談でも笑えない話だ。今でも、なぜ自分の中で「そういうこと」になっていたのか、ドッペルゲンガーが身に覚えのない感情を主張していたのか理解できない。それについてはまだ自問自答が必要だと思った。
 できることなら、クライセンに聞きたい。
 しかし間違って自分がティシラを好きだということになったら、これからどんな顔をして彼らと付き合っていけばいいか分からない。
 もう過去は書き換わっているのだから説明する必要はないはず。しかしどう誤魔化そうかとマルシオが悩んでいると、クライセンが何やら怪訝な目で彼をじっと見つめていた。その視線に気づいたマルシオは更に恐縮し、ここから逃げ出したくなった。
 ねえ、とティシラが急かそうとしたとき、クライセンが腰を上げた。
「マルシオ、ちょっとこっちへ」
「え?」
「私たちの師弟関係はまだ続いている。その話をしたい」
 驚いたのはマルシオだけではなくティシラもだった。
「なに? いきなり。私は?」
「ティシラはちょっと待ってて」
「どうして? 私は聞いてちゃダメなの?」
「魔法使い同士の話がしたいんだ」
 不満そうな顔をするティシラに、今まで黙って話を聞いていたサンディルが何かを察して声をかけた。
「ティシラ、二人を待っているあいだに食事の準備をしよう」
「え、何、突然」
「いろいろあったが、帰ってきたマルシオをもてなそうじゃないか」
「え……そ、そんな」
 サンディルに背中を押されてキッチンに連れて行かれるティシラを横目に、クライセンはマルシオの背中を押してリビングから連れ出した。





   

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