SHANTiROSEINNOCENT SIN-103クライセンとマルシオは廊下をしばらく歩き、腰を落ち着けることなく足を止めた。 「マルシオ、率直に聞く」 無表情のクライセンに言われ、後ろめたいことのあるマルシオは肩を縮めた。 「君が魔法使いになりたかったのはアカシアを封じたかったからなのか?」 想像していた質問と違っていたマルシオは驚き、目を見開いた。 「そう言っていただろう? それが本当なら、これからどうするつもりだ」 「どうするって……」 「別に私は弟子が欲しいわけじゃない。君の目的が達成されたのなら師弟関係を継続する理由はないだろう」 「そんな……」マルシオは狼狽し。「それって、出ていけってことなのか?」 クライセンはため息をつく。 「そんなことは言っていない。君がどうしたいのか尋ねている」 「俺は……他に、行くところがない」マルシオは俯き、数回頭を横に振る。「いや、ここにいたくて生まれ変わったんだ。もう俺に特別な力はない。だから二度とあんなことにはならない.。だから……」 どうやらマルシオは未だに自分のせいで世界の記憶が狂ったことを気にしているようだ。クライセンはもうその話をするつもりはなかった。 「それはいい。災難は去った。そもそも、私は君にムカついてはいたが恨んではいない。君の中にある何かの存在も分かっていた。だから傍に置いた。結果、神さまを殴るという目的も達成できたし、満足している」 マルシオは唖然となった。自分のしたことへの罪悪感が消えず、償う方法もなく、そのうえ自分が戻ってくるだけで世界の記憶が改ざんされてしまうことを重く抱えながらここに来た。なのにクライセンは何でもないことのように一蹴する。しかしマルシオにはそれが本音なのかどうか判断できない。それも記憶が改ざんされたから言えることなのかもしれない。 「……なあ、先に、質問させてくれ」 「なに?」 「俺は、帰ってきてよかったのか?」 思い詰めるマルシオを見つめ、クライセンは迷うことなく答えた。 「当たり前だ。私は君とティシラを救うために戦った。どちらか一人でも失っていたら、私が魔法使いである意味がなくなっていたんだからな」 「じゃあ……もし、俺が帰ってこなかったら、お前はどうしていた?」 「さあね。もしも、世界がこうだったらどうなったなんて、誰にも分からない。知りたいならアカシアに頼んで見せてもらえばいい」 「そ……そんなこと、できるわけないだろ」 「だったら考えるだけ無駄だ」 「無駄なのか? 考えるくらいはいいんじゃないのか?」 「考えたいなら好きなだけ考えればいい。でも、私は考えない」 マルシオの目の奥が熱くなった。 間違っていなかったのだと確信できた。改めて、それも今更だと思う。クライセンはそういう男だ。もう知っているつもりだった。 だけど、人を心から信じることがこんなにも難しいだなんて、考えたこともなかった。 それを、生まれたときから身に着けている者がいる。顔も知らない異種族のたった一人を信じ続けた。その気持ち一つで、もうこんなに近くまで辿り着いている。 (……ティシラは、やっぱり凄いな) 彼女の屈託のない惚気顔を思い出しながら、マルシオはまだまだ及ばないと、自虐的な笑みを浮かべた。 「――納得した?」 クライセンに言われ、マルシオははっと顔を上げた。 マルシオももう迷わないと決めた。決意をクライセンに伝える。 「俺は、ここに居たい」 「そうか」クライセンは驚くこともなく。「で、まだ魔法使いへの憧れはあるのか?」 「ある」 「どうして?」 「俺も、お前みたいになりたい」 「私みたいに?」 「守りたいものを守れるような、強い魔法使いに」 「魔法使いである必要は? 体を鍛えたり剣を習ったりして強くなることもできる」 「そ、そんな柄じゃないだろ……」 「まあそれもそうだな……確かに、君は何も変わっていない。この話はもうお仕舞にしよう」 「それで、俺はこれからもお前から魔法を学べるのか?」 「ご自由に。どうせ君は魔法使いには向いていない。ここに居る口実だろ?」 「そ、そんなことは……!」マルシオは慌てて否定しようとしたが、できなかった。「……そうだとしても、それは、言わなくてもいいだろ」 いじけるマルシオを見てなぜか安心したクライセンはふっと口の端を上げた。これでいいと、自分に言い聞かせる。 「まあ、私も師匠には向いてないしね――だけど、いつか君が私の領域に踏み込んできたときは、遠慮なく躾けさせてもらうよ」 いつか、とクライセンは言った。マルシオは、自分がいつか彼に近づける可能性を示したのだと、そう思った。魔法使いになりたいという理由は明確ではない。いっそ諦めてただの友人として、何の目標もなく居座ればいいのかもしれないなどと考えたこともあったが、もう卑下するのはやめよう。そうマルシオが気持ちを切り替えて前を向こうとしたとき、クライセンは次の話に移った。 「もう一つ質問あるんだけど、いい?」 「? なに?」 「君に恋愛感情ってあるの?」 「…………!」 やっぱりその話なのか――一度は身構えたものの、緊張を解いて無防備になったところで不意打ちを受けたマルシオは激しい動揺を隠しきれなかった。 「な、なんで……まさか、覚えているのか?」 「何を?」 「俺が、じゃなくて、アカシアが、ティシラを誘拐した理由……」 「今の記憶じゃティシラを誘拐したのはフーシャだ。君とつるんで彼女を騙したことへの怒りを利用してアカシアが覚醒したということになっている」 「じゃあ、なんで……」 「ネイジュが言ってたんだ。マルシオはティシラのことが好きなんじゃないかって」 「それは……」 マルシオはうっすらと覚えている記録を遡った。確かに、クライセンがゲートをくぐる前にそんな会話をしている。 「お、お前が言ってただろ。ただの勘違いだって」 「私はそう思ってたんだけどね」 「それでいいだろ。あ、なあ、その場にティシラもいたのか?」 「いや、ティシラは誘拐されたあとだった」 「そうか、よかった」 「ところで」クライセンは首を傾げ。「君は一度継承したレコードの内容を覚えているのか?」 「ほとんど覚えてないよ。見たことは覚えてる。だけどあんな膨大な情報、俺個人の許容量に収まるわけがないだろ。そのうち不要なものは消えてなくなると思う。こうしているあいだもどんどん忘れていってるし」 「それは分かった。で、どうなんだ。実際のところは」 「どうって……」マルシオは俯き、自分でも考えてみた。「……よく分からない。恋愛って、特別な誰かに特別な感情を抱くことなんだろ?」 「それが恋愛とは限らない」 「そうなんだよ……それが分からないんだ。ティシラのことは特別だと思ってる。でも、お前のことも特別だし、カームやトールや、他のみんな、それぞれに抱く感情は一つ一つ違うんだよ」 「人間はみんなそうだよ。恋愛かどうかの一つの指標はたくさんあるけど、独占したいかどうか。それと、欲情するかどうかかな」 「……そ、それはない。一度も。あいつの半裸は何度も見せられたが、不愉快でしかなかった」 「でもそれは君が天使で、理性が強いからだろう。必要があれば君だって……」 「ちょっと待て! もういい、それ以上は聞きたくない」 マルシオは堪らず大声を上げたが、慌てて自分の口を塞いでリビングのドアの向こうの様子を伺った。なんとか二人には聞こえてないようで安堵し、呼吸を整える。 「とにかく……俺はティシラを女として意識したことは一度もない。無意識のところのことは、正直分からない。でも、ティシラには幸せになってほしいっていうのは、本当だ」 「ふうん……」 聞いておいて反応の薄いクライセンをマルシオは睨みつける。 「それより、聞きたいのはこっちだ」 「何を?」 「お前はティシラをどう思ってるんだよ」 「なんで?」 「聞きたくて当然だろ。みんなティシラがお前を好きだって知ってる。もちろんお前だって知らないわけがない。傍に置いて、プレゼントを贈ったり二人きりで話し込んだり、だけどそれ以上の進展がないってどういうことなんだよ」 「そう言われても、彼女から告白されたわけじゃないし」 「でもあいつの気持ち知ってるんだろ? お前も同じ気持ちなら、お前から踏み込んでもいいんじゃないのか」 「うーん……」クライセンは考えてるような顔で、何も考えていなかった。「私にはそれしか選択肢がないのか?」 「え?」 「人間の感情は、君が思っている以上に複雑なんだよ」 答える気はないようだと、マルシオは思う。いつまでこんなことを続けるのかと苛立ちを抱くが、確かに他人が決めることではない。 「で、でも、気になるから、俺がティシラをどう思ってるか聞いたんだろ」 「私が聞いたのは君に恋愛感情があるかないかだ」 「同じだろ」 「違う。これから君が誰かと恋愛する可能性があるのかどうかを知りたかっただけだよ」 「なんでだよ」 「ただ興味があっただけ。もしそうなったら、私は師匠として温かく見守らなければいけないだろう?」 「余計なお世話だ。そんなこと言ってるけど、本当は、少しは焦ったんじゃないのか?」 「何が?」 「俺、じゃなくて、アカシアが本気になれば、ティシラを取られるかもしれないって……」 挑発したくてもできずに言葉を濁すマルシオを、クライセンは鼻で笑った。 「そう思うならティシラを好きになって告白してみればいい」 「はあ? なんで俺が」 「君もアカシアも同じだ」 「そんなこと……」 「どうせ相手にされないから」クライセンはそう言って背を向け。「話は終わりだ。戻ろう」 リビングに戻っていった。 マルシオは何も言い返せなかった。結局彼が何を言いたかったのか、マルシオには理解できなかった。 人間の感情は複雑だとクライセンは言った。それはマルシオにとって重要な情報なのだろう。彼がまだティシラの気持ちに応えないのも、好きなのかどうかさえはっきり言わずにいるのも、理由があるのだと思う。 マルシオはクライセンの背中を見送り、肩の力を抜いた。 何も変わらなかった。 あれだけのことがあったのに、何もなかったかのようにまた同じ日常を繰り返す。 (俺の中のアカシアは消えて、ある世界では人類が滅亡し、天使の世界は根底から覆った……それでも、ここの平穏は守られた) その平穏を守ることがどれだけ難しいのか、きっと誰も知らない。世界一の魔法使いが命を賭け、それに匹敵する力がいくつもの奇跡を起こして初めて手に入れた未来だ。 クライセンがティシラをどう思っているのか、二人がどうなるのかなんんて、平穏な日常の一部でしかない。 (もし俺が誰かと恋愛をしたら、見守ると言っていた。俺もそうすればいいんだ。そうだよな……) マルシオはふっと上空を仰いだ。 (なあ……アカシア) そして、クライセンのあとを追ってリビングに戻っていった。 ***** カームとミランダが会えたのは三日後だった。 カームはマルシオに会いに行く前に見て欲しいものがあると言って、ミランダをティオ・メイの城下の公園に呼んでいた。 その日、カームは休暇をもらっており、私服でミランダを迎えた。 「一体、何なの?」 「こっちです」 カームは緑溢れる広い公園を歩きながら、まるでデートみたいだと浮かれていた。 「あ、ほら、あそこ。見てください」 カームは足を止め、和やかな公園内で寛ぐ人々を指さした。ミランダはその方向を見つめたあと、大きく目を見開いた。 「あ……!」 噴水の傍に、笑い合う三人の少女の姿があった。 恰好は違うが、ベリルとハーキマーとメノウだった。 「あの三人、この世界にもいたんですよ!」 「どうして……?」 「彼女たち、マジック・アカデミーの生徒らしいです。こないだ、他の生徒たちと一緒に城に来ていたところを見かけたんです」 「そうだったんだ……」 「きっと今までもすれ違っていたんでしょうね。気づかなかっただけで」 「でも、どうして今日ここにいるって分かったの?」 「気になってあとを着けたんです。そしたらやっぱり三人は仲良しで、今度の休みにこの公園で遊ぼうって言ってたのが聞こえて……」 「盗み聞きしたの?」 「す、すみません。でも、どうしても彼女たちのことをミランダさんに教えたくて……」 ミランダはカームを睨んだが、もし自分もその場にいたら同じことをしたかもしれないと思い、それ以上は言わなかった。 似た人ではなかった。一人は明るい笑顔でよく喋り、もう一人は物静かで思慮深く、もう一人は元気で表情豊かな少女たち。間違いなく、あの三人だった。 「……イジューはいないのかしら」 「ここにはいないみたいですね。まだアカデミーに入れる年齢ではありませんし……」 「もしかしたら、彼女たちの誰かの妹かもしれないわね」 「そうですね。きっと、そうです」 「ええ。彼女たちのこと、もっと知りたい」 「だったら、仲良くならないとですね」 「そうね……いつかそうなれるといいわね」 「なれますよ」 相変わらずカームの自信には根拠がなかった。だが彼は、絶対に仲良くなりたくないとまで思ったミランダの心を開いた。途方もないほど高等な魔法を可能にした。この世にできないことはないと教えてくれた。だからミランダはカームに敬意を抱いた。彼ができると言えばできるのだと思わせてくれる。 「……うん。きっと、また友達になれるわ」 ミランダのほほ笑みに、カームは頬を赤く染めながら明るい未来を確信した。 ***** マルシオが拍子抜けするほど、以前と変わらない日々が再度始まった。 記憶が書き換えられたことは不幸中の幸いだったのかもしれない。マルシオが一番触れて欲しくないことは、他ならぬティシラのことだったからだ。 相変わらずティシラはクライセンに夢中で、だが気持ちをはっきりと伝えることなくどうでもいいことを惚気ている。間違ってマルシオが彼女に気があるなんて思われたら面倒なことになる。ただ、やはりマルシオはティシラが楽しそうに笑っている姿を見ていると自分も穏やかな気持ちになることを改めて実感していた。 ある満月の夜、マルシオは一人で庭に佇んでいた。 深夜であるにも関わらず、煌々と降り注ぐ月の光で庭を覆う緑色の鮮やかさ、そしてマルシオの落とす影がはっきりと浮かび上がっている。 マルシオの手には月光のろうそくが握られており、月の光に反応して淡く輝いていた。 魔力の高まる満月の夜はあまり眠れないティシラがふと窓の外を覗くと、銀色の彼の姿を見つけた。ティシラは上着を羽織り、マルシオの元に向かった。 「何してるの?」 声をかけても、マルシオはちらりと目を合わせただけで返事をしなかった。ティシラは怒るでもなく、彼の隣に立ち、同じように満月に顔を向けた。 宝石の欠片に包まれ、煌めきが体中に吸い込まれていくようで心地いい。 魔族と天使が並んで満月の光を浴びる姿は、今まで誰も見たことがないほど神秘的なものだった。今のこの瞬間も、誰も目にすることなく時間が流れていく。 このまま夜が明けなくてもいいと思うほどの微睡みの中、静寂を破ったのはマルシオだった。 「なあ、これ……」 マルシオはろうそくをティシラに見せた。 「ああ、クライセンにもらったろうそくね。キラキラしてきれい。月の光に反応してるのね」 「ああ……これを見てたら、あることを思い出したんだ」 「あることって?」 「満月の夜に月光のろうそくに火を灯して見つめると、知りたい人の本心が見えるっていう呪い(まじない)」 「何それ、本当?」とティシラは肩を竦めて笑った。 「作った本人が言ったわけじゃないから、ただの噂だけどな。無名の記者が、ある雑誌で面白おかしく特集してたんだ」 「じゃあ、きっとやってみた人がたくさんいるんでしょうね」 「そうかもな」 「で、本当に人の本心が見えた人っていたの?」 「さあ。聞いたことないよ……そういえば、一緒にろうそくの作り方まで書いてあったな。魔法使いじゃなくてもできる簡単な方法で、さすがの俺でもデタラメだって分かるほどだった。これの本当の作り方を知ってる人はエミー以外にいないはずなのにな」 「じゃあやっぱり嘘なんじゃない」 「そうだな。でも、嘘だっていう証拠もない」 マルシオは笑うティシラにろうそくを差し出した。 「……なに?」 「お前、やってみろよ」 「はあ?」 「これは本物だから、見えるかもしれないだろ」 「何言ってんのよ」 「これでクライセンの本心を見てみろよ」 「…………!」 ティシラは真っ赤になり、後退りながらマルシオを怒鳴りつけた。 「バカじゃないの? デタラメだって、あんたが言ったんじゃない!」 「それはろうそくの作り方だよ。呪いは本当かもしれないだろ」 「そうだとして、なんで私が試さなきゃいけないのよ!」 「だって、知りたいだろ?」 「し、し……」 「クライセンの、本心」 ティシラは怒りを鎮めるために目を閉じ、眉間に皺を寄せて呼吸を整えた。マルシオが黙って待っていると、不適な笑みを浮かべて顔を上げる。 「……いいの。もう分かってるから」 「え?」 「ねえマルシオ、もしかして、自分のせいで私たちが大変なことになったからって、罪滅ぼしに気遣ってるつもり?」 「……そうじゃないよ」 とも言い切れなかったマルシオだったが、このタイミングで言えばそう思われても仕方ないのは否めなかった。 「あんたに心配してもらわなくても大丈夫よ。あんたにだけ、こっそり教えてあげる……私ね、キスしようって言われたんだから!」 叫びそうなほどはしゃいで嬉しそうにするティシラだったが、マルシオはとくに驚きもしなかった。 「ねえ、すごくない? もう思い出すだけで胸が張り裂けそうよ! だから私に呪いなんて必要ないの。これ以上にないほどのロマンティックなラブシーンだったのよ!」 「ああ……でも――」 辺りをくるくる回りながら舞い上がっていたティシラに、マルシオは戸惑うこともなく一言呟いた。 「――しなかっただろ」 「……はあ?」途端、ティシラは目を吊り上げ。「なんで知ってるのよ!」 「え、あ、それは……」 「まさか、見てたの? 全部? 最低! 信じられない!」 恥ずかしさで激怒するティシラに、マルシオは「しまった」と冷や汗を流す。確かに、あのとき水鏡を通して二人を見ていた。しかしティシラがパニックを起こしてすべて台無しにして、二人の関係に変化はないまま終わったことだったのでとくに印象に残っていなかった。だからつい、軽く口に出してしまったのだった。 「いや、あの……」 慌てて言い訳を考えようとしたとき、ティシラは大きく息を吸い、再び惚気顔になる。 「でも、あんた、これは知らないでしょう?」 「?」 「二人っきりのときにね……君になら殺されてもいい、って言われたの……!」 再びティシラははしゃぎ始めた。実際は背後にカームとミランダがいたのだが、ティシラの中では二人きりの世界ということになっている。 「ねえ、これって間違いなくプロポーズよね!」 確かにその会話はマルシオは知らない。おそらく、クライセンとアカシアが相打ちになり、カームたちが助けにきたあとのことだろうというのは予想できた。 「……そう思うなら、本人に聞いてみればいいじゃないか」 「バカね」ティシラは冷めた顔のマルシオの背中を叩き。「あんたって本当に野暮。クライセンはちゃんと分かってるの。私ほどのいい女を口説くには入念な計画と準備が必要なの。きっとね、私のために最高の舞台を考えてるところなのよ」 マルシオは、とてもそうは思えなかったが、あり得ないという証拠もない。否定してもティシラが考えを改めるわけもなく、受け入れることにする。その結果、出た言葉はこれだった。 「それにしても、長いな」 「はあ?」 「考えすぎじゃないのか」 「何それ」ティシラは呆れてため息をつき。「つまんない反応。どうしちゃったの?」 「どうって、別にどうもしてないよ」 「まあ、確かに、元々あんたが面白かったわけじゃないけど……張り合いがないというか、調子狂うっていうか……」 「え? 俺、何か変わったか?」 「うーん……」 意味深に考え込んだあと、ティシラはふっと肩を落として面白くなさそうに踵を返した。 「おい、どこ行くんだ?」 「もう寝るわ。おやすみ」 ドアの向こうに消えていったティシラを見送り、マルシオは一人で窓の外の夜空を眺めた。 人間の感情も、女性の恋心も理解できない。近づけるのはまだまだ先のことだと思っていた。 そのはずなのに、マルシオは自然と一つの答えを見つけていた。 (……あいつらは、一体何を怖がっているんだろう) 恋愛に夢中でどうでもいいことで一喜一憂するティシラと、気難しい大人のクライセンが軽くあしらう関係が、今はちょうどいいのかもしれないと思っていた。そのほうが、マルシオもここに居やすいのだから。 だがそれだけではないことに気づき始めていた。二人の抱く感情のあいだにマルシオは存在しなかった。今回のことで違う意識を持ったマルシオは、二人は向き合うことから逃げているのだと感じていた。 真っ黒な夜空に輝く満月を見ていると、星が持つ不思議な力に引き込まれる。月と太陽、どちらも生命を操る神の如き存在だという事実を、古(いにしえ)から受け継がれてきた遺伝子に刻まれているからだ。 (そういえば、俺……自分のことすら、何も知らない) マルシオは突然、強烈な孤独に苛まれた。 天使であるうちはそれでよかった。だけどマルシオは一度クライセンに殺された。そして人間の世界に生まれ変わったのだ。だから心や感情というものを理解し知りたかった。なのに、マルシオは自分のことすら知らずにいた。 (自分のことを知らないのに、人のことなんか、分かるわけがないんだ) マルシオはろうそくを見つめ、片手の人差し指をそっと立てた。一言だけ呪文を唱えると、指先に火が灯った。 それを、まだ真っ白なままだったろうそくの芯に近づける。 ろうそくに小粒の炎がつく。小さな点だったそれはあっという間に膨らみ、マルシオの手元を照らした。 マルシオは揺れる炎をじっと見つめた。瞬きも、呼吸も忘れて。 あまり長い時間ではなかった。マルシオは顔を上げて深呼吸した。 満月を仰ぎ、安らかな笑みを浮かべる。 「……やっぱり、ただの噂だったな」 根拠のない作り話に騙されるなんてまだまだ一流の魔法使いには程遠い――マルシオは自嘲しながらろうそくの火を静かに吹き消した。 <了> Copyright RoicoeuR. 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