SHANTiROSE

INNOCENT SIN-05






「ご機嫌のようだな」
 マルシオはせっかくの気持ちいい眠りを邪魔され、いつもより強く「自分」に嫌悪感を抱いた。
 また深い夢の中に落ちたマルシオに、彼は不適な笑みを見せている。
「俺は今、とても幸せを感じている。不満なんかない。お前に何を言われても、俺は負けない」
「そうだと思う。だけど、だからこそ俺はここにいるんだ」
「どういう意味だ」
「欲望ってのは、満たされれば次を求める。お前が欲しいものを手に入れていけば、また別のものが欲しくなる」
 マルシオは息を飲んだ。
 否定できないからだ。魔法使いになりたいと天界を出た。アカデミーで資格は手に入れた。魔薬戦争でクライセンとティシラという友を失ったが、二人は戻ってきた。そして魔法王の家族になれた。次は、ずっと夢だった魔法王の弟子……。それも、今回のクライセンの言動で、叶うような気がしている。
 もし弟子になれたら、次は何を目指すのだろう。
「おそらく、クライセンはお前を弟子にするだろう」
「え? どうしてそんなことを……」
「クライセンは、お前の中にある『俺』のことに気づいてる」
 マルシオは目を見開いた。自分は記憶を消されて何も話せない。だが、自我を失ってティシラを襲ったときのことを、サイネラやライザから聞いているはず。
「気づいてるって? でも、お前が何者かまでは……」
「薄々、気づいてる。ただ、今は何もできないと思ってるし、実際、何もできない」
「どうして? クライセンはお前のことを知っているのか」
「そりゃあ知ってるさ。知ってるだけなら、この世の魔法使いなら誰でも知ってる。お前もそうだっただろう?」
 ルーダ神――彼の言うとおりだ。マルシオ自身もアカデミー時代から聞いていた。天使の頂点に立つ神だと。
「でも、そのルーダがこんな神だなんて、この世の誰も、知らない……」
「こんな神だなんて、失礼だな。ルーダは人間が望んだ神だ。人間が殺し合ってまで造り上げた魔道の源。人間が望んだんだ」
「お前は……」
「俺はルーダではない。お前だ。マルシオだ」
「やめろ……!」
 かっとなって怒鳴るマルシオに、彼はまた笑った。マルシオは我に返って怒りを抑える。
 クライセンのことを考える。希望が見えてきたのだ。今ここで彼の術中にはまってはいけない。
 そうだ。クライセンはもうこの世界には唯一無二の存在。特別な魔法使いだ。入ってくる情報と、彼のもつ経験や知識で「ルーダ」にたどり着くことなど容易いだろう。
 何より、彼もまた「原始の石」の所持者なのだ。
 クライセンを信じよう。マルシオは薄れる夢の中で何度も自分に言い聞かせた。



*****




 二日ほど、しとしとと降っていた雨は上がり、今日の空は高く、晴れ渡っていた。
 庭では大きなつばの麦わら帽をかぶったティシラが土いじりをしている。奥のほうの背の高い草木の隙間から、同じく帽子を被った白髭のサンディルの頭が出たり消えたりしていた。マルシオは玄関前で水巻や掃除をしながら二人の様子をうかがっている。
 以前に植えた紫蘭は枯れてしまっていた。事件が落ち着き、そのことを知ったティシラはとくに落ち込まなかった。単純に、思い通りにいかないことへの苛立ちだけが募り、すぐに次の種を植えることを決意したのだった。今度は野ばらを育てている。
 サンディルは喜んで、数えきれないほどの種をティシラに見せた。それを一つひとつ説明し始めたため、いつ話が終わるか分からないと思ったティシラは一番始めの種を選んだ。それが野バラだった。改めてちゃんと聞いてみると、可愛らしい花が咲き赤い果実も実り、ハーブティーや果実酒、化粧水の材料にもなるとのこと。育て甲斐があると、ティシラは真面目に取り組んでいる様子だった。
 庭に入り始めた頃のティシラは、いつもの黒いスカート姿で、日よけのために上品な黒い帽子を被っているだけだった。そのうちに、サンディルが作業に向いた麦わら帽子を勧めた。ティシラは嫌がったのだが、サンディルは臆することなく、自作のドライフラワーのコサージュをあしらってプレゼントした。そういうことではないと思いながらも、断れなかったティシラは、渋々受け取った。だが使ってみると黒い帽子より快適だった。いつしか庭に出るときは自然にそれを被るようになっていた。
 ただし服だけは、エプロンをつける程度でいつものファッションを崩すことはなかった。汚れたらマルシオに洗わせ、力仕事も、彼を呼びつけている。いないときは帰りを待ち、決してその姿勢は変わらなかった。
 マルシオも文句を言いつつも、それほど嫌ではなかった。ティシラが楽しそうに花を育てている姿は微笑ましいものだったからだ。彼女は慣れていないだけで決して不器用ではない。
 たまに土に顔を近づけ、耳を澄ましていることがある。何をしているかと尋ねると、ティシラは目を閉じて呟いた。
「花の声を聞いてるの」
 サンディルはよく、植物も同じ生き物。魂があり、感情もある。彼らの今の気分を知ればすぐに仲良くなれると言う。マルシオも聞いたことがある。
「何か聞こえるのか?」
「……黄色は嫌い、だって」
 マルシオは首を傾げた。水が欲しいとか、そういう会話かと思っていたが、どうも違うようだ。
 だけど、サンディルの言う「仲良くなれる」の意味が分かった。人同士、家族や友人もそうだ。その人の好みや癖、生活習慣を知れば知るほど親しくなれる。植物も同じ生き物。水や肥料が欲しいのは当然だ。暑いか寒いかも、自分も同じ場所にいれば分かること。
 こうして相手の感情を知ることで親しくなり、「友人」に笑顔という美しい花を見せてくれるのだ。
 背後からあまり聞きなれない足音が聞こえた。サンディルは先ほどから庭の奥で作業している。ということは、クライセンしかいない。彼が庭に入ってくることは珍しかった。ティシラは飛び撥ねるように立ち上がり、慌てて手や服についた土を払う。クライセンのラフな白いシャツが日差しを浴びて淡く光る様子は、彼女の目を眩ますほど眩しかった。
「花の声が聞こえるんだ」
 そう言われ、ティシラはモゴモゴと口ごもった。
「マルシオはどう?」
 マルシオはえっと声を漏らし、戸惑った。
「……俺は、やったことない」
 クライセンは分かっているふうな笑いを見せる。
「やってみて」
「え?」
「土に伏せる必要はない。本当に声がするわけじゃないんだから」
 マルシオは何をどうすればいいか分からず、突っ立ったまま目を泳がせた。
「目を閉じて、耳を澄ませ。先入観は捨てろ。植物だからきっとこうだという思い込みが間違いを誘うんだ。植物と対等になれ。植物は人の手などなくても生きることはできる。それは人間よりも賢く、逞しく。感情とは、自然現象の一つ。考えずに、植物に触れるんだ」
 一気に言われてマルシオはただ困惑するしかなかった。とりあえず言われたとおりに目を閉じてみるが、どうしても頭の中が混乱して冷静になれない。
「今すぐにじゃないよ」クライセンは彼の心中を察し、目を細めた。「癖をつけるんだ」
 マルシオはからかわれたことに気づき、目を見開いて息を飲む。
「このくらいなら私じゃなくて、ティシラに教えてもらえばいい」
 マルシオはさすがにむっとする。
「な、なんでティシラなんだよ。こいつは、別に魔法使いでもなんでもないだろ」
「ティシラだって昔は魔法使いだっただろ。君より素質がある」
 確かに昔、彼女もアカデミーを優秀な成績で卒業した。そのときと比較されるのは分かるが、何もかも忘れて、魔法に関することは白紙化しているティシラに教われとは侮辱にもほどがある。
「バカにするな。そもそもこれは魔法に関係あるのか?」
「ある。自然と一つになることがランドールの魔法。自然の力を操るのがアンミールの魔法。簡単に言うとそういうイメージだ。君がどちらの魔法を好み、選ぶかは自由。だがその前に人工的に造られる魔力の仕組みを知り、それらへの心からの敬意を持たなければ虚構の積み木はいずれ崩れ落ちる。そのくらいのこともまだ分からないのか」
 マルシオは何も言い返せなかった。彼の言う「虚構の積み木」とはおそらくアジェルのこと。嘘に嘘を重ねて国一つを動かそうとし、あと一歩で完成しそうだった彼の牙城はいとも簡単に陥落した。
 それでも、マルシオにはアジェルは高等な魔法使いに見えた。使う魔法は本物だった。そんな彼に足りなかったのは善でも情でもない。魔法の真理。
 クライセンは「教えて」くれているのだ。自分が「教えて」欲しいと言ったから。面白くない、が、ここで逆らうのは愚行だ。
「クライセン、お前は、ここの植物たちと会話ができるのか?」
 いじけた顔で庭を見回すマルシオに、クライセンはにこりと微笑んだ。
「私なら、この庭を……必要なら世界中を、一瞬で野ばらで埋め尽くすことができる」
 そう言い残し、クライセンは庭をあとにした。
 腹が立つ。それと同時、道のりは果てしなく遠いと、マルシオは痛感し、溜息をもらした。
 ティシラといえば、あの憎たらしい態度さえ惚れ惚れするらしく、恍惚の表情でクライセンの背中を見つめている。かと思ったら突然あっと声を上げた。
「ねえ、マルシオ」その瞳は星のまたたきのように輝いている。「もしかして、世界中を野バラで埋めるって、私へのプロポーズをイメージしてるんじゃないかしら」
 マルシオは返事をする気も起きなかった。
「どうしよう……! そんな素敵なことされたら私、断れないわ」
 断るも何も、クライセンと一緒ならどぶ川だろうが喜ぶくせに……と思うが、マルシオは黙って、一人で物思いにふける彼女を置いてその場を去った。
 そんな「子供たち」の様子を、サンディルが草木の向こうから幸せそうに見つめていた。





   

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