SHANTiROSEINNOCENT SIN-06肉食動物が鋭い牙を、魚や植物が猛毒を持って生まれたのは、強くなりたいと願ったからではない。そうしなければ生きていけないからだ――。 その日の夜は薄雲のかかった満月だった。 クライセンはマルシオは書斎に呼び出し、そんなことを話し出した。 マルシオは彼から話があると言われただけで緊張が走った。いい話だろうか、悪い話だろうか。もしかしたら、ただ雑用を言いつけるだけなのかもしれない。 それでもよかった。いや、そのほうが気が楽だったに違いない。 「君は魔法王の弟子になりたいんだろう?」 そう尋ねるクライセンの口調からは皮肉を感じられた。マルシオは何と答えるのが正解か分からず、返事をしなかった。 「君が選ぶんだ」 「……どういう意味だ?」 「私が弟子を選ぶんじゃない。君が私の弟子になるかどうか、自分で決めてくれ」 その言葉はマルシオに重く圧し掛かった。ずっと逆だと思っていた。クライセンに認めてもらうにはどうすればいいのかを考えてきた。自分が選ぶなんて考えたこともなかった。胸の裏側に鈍い痛みが走った。 「人々は私を魔法王だと称え崇める。確かに私には世界を救う力もあるが、使い方を変えれば滅ぼすこともできる。今の私なら、どんな悪事を働いても残酷なことをしても、ハゼゴやアジェルのような罰は受けない。地震が大地を割り、嵐が文明を洗い流して数多の命を奪っても誰も裁くことはできないだろう。それと同じだから」 マルシオは話に集中した。きっとクライセンが何を言いたいのか、すぐに理解できないと思ったからだ。ただ彼の言葉を忘れないように、しっかり記憶することに尽力する。 「だけど私は好きでその力を得たわけではない。生き残っていくためだった。戦争の敗者として、滅びゆく血脈の生き残りとして、この孤独の大地で。生まれたからには、せめて安らかな死を。そんな人並みの願いが、まだ何の知識も経験もなかった幼い私にも、無意識のところにあったんだ」 孤独の大地。 望まずして生まれ、生き残ったクライセンは、ノートンディルを滅ぼしたパライアスをそんなふうに感じていた。 物心ついたときにはすでに故郷は失われ、王を裏切った親友イラバロスがこの国の再建と執政に関わっていた。戦後数年経っていても世界は貧しく、まだ人々は深い傷を癒せずにいた。 父サンディルがいただけ救いだったとはいえ、人々から身を隠した生活を余儀なくされ、クライセンは楽しいと思うことを一つも感じられなかった。口数も、笑うことも少なかった。世界が魔法を神聖化していく中、黙っていても自然と魔法使いに育っていくクライセンには、アンミール人のことがまったく理解できない。 クライセンは理由もなく、一人で外出し、路上に転がる痩せた人々を見つめた。 何がよくて悪いのか、何も分からない。目の前に苦しんでいる人がいる。病気で顔が崩れ、毒素を吐く。飢え、渇き、苦しみながら息絶える。 クライセンにはその苦しみさえ理解できない。 手をかざせば、彼らは再び息を吹き返すからだ。 奇跡が起きた。 少年は目の色一つ変えず、死体を甦らせた。 これはいいことだ。苦しむ人を救うのだ。死んだ人を生き返らせるのだ。きっと誰もが自分に感謝する。 喉が渇いても水を飲む力も残っていなかったその「死体」は動き出した。だがもがき苦しみうめきながら、傍で佇む少年に怨恨の目を向けた。 クライセンは全身に雷が落ちたような衝撃を受けた。手足が震える。死体の表情から、「やっと苦痛から解放されたのに」という言葉が聞こえた。 無知は罪。まだ少年はそのことを知らない。悪意のない大罪を犯した少年は、闇に捕まった。 突然空が暗くなった。違う。少年クライセンを囲むように、三つの黒い人影が現れたのだ。 顔は判別できない。彼らはただの黒い人影だ。 それが「死神」だなんて、子供には考えも及ばない。ただただ、怖いだけだった。 神は怒っていた。クライセンを深い闇の中に閉じ込め、永遠に等しい罰を与えようとしていた。 いいことをしたのに、なぜ? 理由は分からない。人の死を目の当たりにしてきたが、自分が死ぬなんて考えたことがなかった。怖い。誰か、助けて。 クライセンが黒い手に捕まったそのとき、ある魔法使いがどこからかやってきて大声を上げた。 死神は動きを止め、魔法使いと話し合った。今思えば、それができるということは特別な力を持っているはず。だけど、今も彼が何者だったのか分からないままである。 恐怖に包まれた少年には、彼の背中が大きく見えた。子供だから、単純に彼が大人だとしか思わず、もう顔も覚えていない。 しばらくすると影から殺気が消えていた。クライセンにはもう彼らがただの黒い塊にしか見えない。 交渉は終わった。魔法使いは意識朦朧の少年に話しかけた。 「お前はベルカナの魔法使い。そして純血のランドール人の生き残り。死神は、お前が死んだランドール人の魂を浄化するなら許すと言っている」 クライセンには返事をする気力もなかった。 「選択肢はない。そうしなければお前は死ぬ。いいや、死ぬより苦しい地獄に、永遠に閉じ込められる」 魔法使いは虚ろな少年の背中を叩いた。 「死神は狂暴だ。生きていても死ぬより苦しいかもしれない。だけど、希望がある。彼らと契約するんだ。そして生き抜け」 選択肢がないなら勝手にしてくれ、それでいいと思っていたが、契約には本人の意志が必要。魔法使いは返事をしろと一喝した。 クライセンは、消え入るような声で「はい」と答えた。 気絶していたクライセンを、サンディルが見つけて連れ帰った。そのときにはもう魔法使いの姿はなかった。一度甦った者が再び死体に戻ったことは、誰も知らぬまま。 サンディルにはクライセンの変化がすぐに分かった。 クライセンの両肩と背中に、痛々しい契約の印が刻まれていたからだ。文字は読めない。人間のものでも、天使でも魔族でもない言葉だ。つまり、これは「神」の言葉。三つあるということは、「死神」に間違いない。 刻印を消すことはできない。時間が経てば体内に、そして精神にまで埋め込まれていく。 サンディルは嘆いた。これでクライセンは生き残ったという重荷だけではなく、死んでいった同胞たちの魂の悲しみや無念をも、たった一人で背負わなければいけないのだ。こんなことのために守ったのではない。 刻印の痛みにうなされ続ける幼いわが子の傍で、サンディルは三日三晩、ずっと泣き続けていた。 起きたことは受け入れるしかなかった。 サンディルはクライセンが正気を取り戻してから、時間をかけて彼がなすべきことをゆっくりと教えていった。 この世界にはクライセンが学ぶべき魔法使いもいない。だから一人で、死神の力を制御するほどの力を得よと伝えた。もちろん、自分にできることは何でもするし、命がけで守っていくと約束し。 クライセンは反抗も抵抗もしなかったが、笑いもしなかった。 力の使い方を間違ったから罰を受けたのだということは理解したが、何年経っても何が悪かったのかは分からないままだった。 クライセンはサンディルに言われたとおりに勉強し、何の迷いもなく立派な魔法使いに成長していった。 だがクライセンの心から憂いの火は消えなかった。 普通の多感な少年らしく、悩みや不満を顔に出す時期もあった。言うことを聞かずに家を飛び出して一人でどこかを徘徊しているときもあった。魔法を乱用することはない。死神が見張っているのだから。 サンディルは何度も繰り返した。彼はこんなことのために生まれてきたのではないと。何度も祈った。どうか、彼に生きる喜びをと。 ――マルシオはしばらく息を止めてしまっていた。それに気づいて、クライセンにばれないように小さく深呼吸する。 彼は最初から死神を支配するに値していたわけではない。幼かった頃に、間違った魔法を使ってしまい罰を受けたのだ。終わりの見えない長い長い時間、誰のものとも分からぬ魂を慰め続けているのも、たった一度の過ちへの贖罪。 取りついてしまった死神に押しつぶされないよう、クライセンは、生きるために力をつけていかなければいけなかった。もういっそ死んでもいいと思っても、死神が許してくれず、嫌でも生かされた。その結果、この世界で一番強いの魔法使いになったまで。 クライセンがこの話をした理由が分かった気がした。 それでも、まだ弟子になりたいか。まだ「魔法王」を尊敬できるのか。そう訊いているのだ。 できる、とマルシオは口をついて出そうになった。だがその気持ちが同情ではないことを証明できるものが、まだ見つからない。 暗い顔をしているマルシオを見て、クライセンはふっと笑った。 「何だその顔は」 「だって……」 「まだ話は終わってないのに」 死神はクライセンの魂を欲しがっていた。 彼らは罪人の魂が好物。まだ熟していない。まだクライセンの罪を許せるほど、彼の魂は洗練されていない。物足りない。 そのときが来たなら、食らえばいい。 クライセンは死神と共に成長を続けた。その心は孤独で荒んでいった。 だけど彼を救う者と出会った。 『偉大なる裏切り者』イラバロスだ。 今その世界で限りなく「魔法王」に近付いたクライセンの魂を凌駕する、唯一の高貴なる魔法使いであり、歴史を変えた大罪人。死神が咆哮し、牙を剥いて涎を垂らした。 これほど興奮した死神を今まで見たことはなかった。クライセンは死神に問うた。 「あの者の魂をお前たちに捧げよう。そうすれば、私の罪は許されるか?」 死神は喜んだ。死神にイラバロスは裁けない。だが、クライセンにはその資格がある。彼にならできる。早く早くと死神は急かした。 イラバロスもすべてを知っていながら、何も恐れなかった。クライセンに感謝し、一人で歩んできた道を彼に譲った。 クライセンは「魔法王」を受け継ぐと同時、死神と対等の立場を手に入れた。 体に刻まれた契約は死ぬまで続くとはいえ、罪を許され自由になった。 そうして彼は「世界一の魔法使い」になったのだった。 あとはただ、待つだけだった――安らかなる死を。 Copyright RoicoeuR. All rights reserved. |