SHANTiROSEINNOCENT SIN-07マルシオは涙が止まらなかった。 クライセンの話を聞きながら、いろんなことを想像した。次第に目頭が熱くなり、声が震えてまともにしゃべれないと判断し、席を立った。溢れ出すものを彼に見られたくなかった。だがこのまま出ていったらきっと誤解される。 「俺の気持ちは変わらない」背を向けて、短い言葉を残す。「でも、考えさせて欲しい。もっとちゃんと、お前のことを知らなくちゃいけないから」 マルシオはクライセンの顔も見ずに書斎を出て、灯りもつけずに自室に籠った。 あまりに想像を絶する人生だ。クライセンはただ生き残っただけではない。当たり前のように優秀な魔法使いになったわけではない。 もしかしたらランドール人があのまま戦争を続けていたら勝っていたのかもしれない。決して力がないから負けたわけではないのだから。なのに優れた民族は滅びの道を選んだ。これ以上の犠牲を出さないために。そんな人々のすべての死を、クライセンはたった一人で、何千年もの間、背負い続けてきたのだ。 イラバロスを英雄だと称える人もいれば、裏切り者だと蔑む人もいる。どちらが正しかったのはもう誰にも分からない。もし彼が親友であるザインを裏切らなかったらどうなっていたかなんて、そんな未来どこにもないのだから。 そしてクライセンが罪を犯さず死神と無縁の人生を歩んでいたとしたら? そんなこと考えても無駄だ。そんな未来はもう、存在しないのだから。 マルシオは苦しくて哀しくて、嗚咽で体を揺らした。 クライセンは孤独だった。死神に強要されて知識と魔力を蓄積し続けて、人間の許容量を超えてもまだ死ぬことを許されなかった。誰にも頼れず、話すこともできず、滅んだ同胞の魂を在るべき場所へ送り続けていた。いっそアンミール人が忘れていけばいいものの、彼らは滅ぼしておいてランドール人を神格化し、魔法使いを人工的に造り出そうとした。そのたびに、魔法王となったクライセンの重荷は増え続けていっていた。 いつしか、彼は「完璧」となった。人間にとって完璧とは「神」のことだ。クライセンは神の化身として、一人で「孤独の大地」を彷徨い続けていたのだ。 だけどクライセンは人間だ。笑い、怒り、思い悩むこともある。伝説だの神話だの言われている彼の所業は、ただの一人の魔法使いがたどった道に過ぎない。 そんな彼が、次期王であるトールと旅をし、あのとき、この「孤独の大地」を「守る価値がある」と言った。 そのことにどんな意味があり、どんな思いがあったのか。いくら考えても及ばないと分かっていても、想像しようとすると涙が止まらなかったのだ。 クライセンは今、穏やかな日差しの下、手作りの庭で冗談を言いながら家族と笑っている。 そのことにどれだけの価値があるか、きっと、この世の誰も知らない。 だからマルシオはその場ですぐに弟子になりたいとは言えなかった。魔法使いの弟子とは、優秀な魔法使いに魔法を教えてもらうだけではない。魔法使いにもそれぞれ感情があり、たどってきた道によって何に重きを置くかが違う。それらに共感し、受け継ぎ守りたいと思う者が彼の元で学ぶのだ。 マルシオは、最初はクライセンが「魔法王」だからという理由からだった。そう考える魔法使いは少なくなく、マルシオもその一人にすぎなかった。だが一緒にいるうちに、彼個人に興味を持った。称号だけではなく、彼は本物の魔法使いだった。知ってからもっと願望は募った。 だがそれだけではなかった。今までクライセンが弟子をとらなかった理由も分かった。本当のことを知ったら誰も彼を「高潔な魔法使い」だとは思わなくなるだろう。野蛮で、狡猾で、好戦的で、死神と駆け引きをする狂人だ。本当のことを知り、マルシオさえ恐怖を抱いた。だけど、それ以上の孤独がそこにあった。マルシオはもう彼の傍を離れたくないと思った。ただ、それが同情のような気がして、そうではない理由を探したかったのだった。 マルシオは涙を拭いながら、ふと彼女の顔を思い浮かべた。 「……ティシラ、お前なら、あいつになんて言う?」 ティシラは破天荒で能天気だが、いつもまっすぐだ。間違っていてもお構いなしに突き進み、そこに勝手に道を作る。そんな彼女が、「本当の」クライセンに何を思うだろう。 少し考えてみる。そして、すぐに頬が緩んだ。 きっとティシラなら惚けた顔で、素敵、かっこいい、としか言わない。それしか想像できない。 彼女は何があっても、この世でたった一人しか好きにならない。絶対に裏切らない。世界中を敵に回しても彼を守るだろう。その確信がクライセンの心を支えている。 ならば自分にできることはなんだろう。 おそらく、彼女と同じだと思う。マルシオが彼の理解者であり、絶対に裏切らない信頼関係を築き、何を犠牲にしても、クライセンの味方でいること。 この関係を確立したとき、きっとそこにクライセンが安らかな死を迎えるに相応しい場所になるのだと思う。 ――違うと、クライセンが否定したら? だったら、とマルシオは思う。 いいや違わないと言う。そう決めた。彼にはそのくらい強く出ないとダメだ。他に考えられない。クライセンの安息の場所はここだ。自分と、ティシラとサンディルがみんなで笑いながら花を育てるこの屋敷だ。他にあったとしても知ったことではない。マルシオはここだと思うし、クライセンもここなら笑っていられる。だからここでいいんだ。 ティシラのようなことを考えている自分に気づき、マルシオは目線を上げた。涙はもう止まっていた。 雲は緩い風で流れ、大きく丸い月が周りの小さな星たちを隠すほどの光を放っている。棚に飾った月光のろうそくを見ると、満月に呼応するように淡い囁きを纏っていた。 次の日、マルシオは早速クライセンに決意を伝えることにした。 もうしばらく時間をかけようかと悩んだが、このままでは気まずい。朝食のあと、ティシラとサンディルがまた庭に出たときに、リビングにいた彼の前に腰かけた。 「昨日の話だけど」 そう切り出すと、クライセンは何も言わずにちらりと顔を見た。 「俺の気持ちは変わらない。お前の弟子になりたい」 真剣な表情で伝えると、彼は「ふうん」と素気ない返事をする。 「君はどうして魔法使いになりたいの?」 「え?」 「魔法使いになって何をしたいんだ?」 「それは……」 マルシオは突然の質問に戸惑った。何をいまさら、というのが正直な気持ちだった。しかし、改めて訊かれると明確な答えが出てこない。 昔は「悪を罰し、正しい魔法を世に伝えたい」ということを言っていた気がする。だけどそれが建前だということは自分がよく知っている。それに、昨日のクライセンの話を聞いたあとでは、そんな建前は逆に彼を責めることになるかもしれない。 マルシオは困りながら、そんな質問はあの話をする前に訊いておいてくれと思う。 「まあいい」クライセンは問い詰めず、目を細めた。「じゃあそういうことで、私の弟子を名乗っていいよ」 マルシオはまた固まった。 「名乗っていいって……どういうことだよ」 「何か不満が?」 「不満とかじゃなくて、お前は、魔法使いとして、俺の師匠ってことなんだろ?」 「違うの?」 「そうだろ?」 「そうだな。ところで、師匠って何をすればいいんだ?」 マルシオはもう話すのが嫌になってきた。何をいまさら、と、再度心の中で叫んだ。 そう思うのに、きちんと答えられない自分にも苛立っていたのだった。 「……俺も、よく分からない」 音を上げたマルシオが項垂れて言うと、クライセンは口元を隠して笑っていた。 「とりあえず、私が師で君が弟子だという称号みたいなものを互いに認めれば関係は確立されるだろう。何をどうすれば師弟だと世間が思うかは、君が勉強してきてくれ」 「分かった……そうする」 「でも周りに騒がれたくないから、君の師匠が『魔法王』だってことは隠しておいてくれ」 マルシオが意味が分からず顔を上げると、クライセンは面倒くさそうに近くにあった新聞を手に取った。パラパラと中に目を通し、ああ、と声を漏らす。 「これでいい」新聞の一文を指さし。「『アース』だ。君の師匠はアースという名前にしておこう」 「はあ?」 「別にいいだろ。私たちが師弟であることに変わりはないんだから」 マルシオは開いた口が塞がらなかった。 「それとも、君が『魔法王の弟子』だと他人に言わなければいけない理由があるのか?」 「な、ないよ。そんなもの」 「じゃあいいだろう」 先にその場を離れたのは、マルシオのほうだった。 ぼんやりと庭に向かい、まずは、と、ティシラとサンディルに報告する。 一人で考えるより、クライセンのあの態度をどう思うか聞いてみたかったのが本音だった。 サンディルは嬉しそうに、朗らかに笑った。 「そうか。よかったな」 「よくありませんよ。俺はクライセンの質問に何ひとつ答えられなかったんです」 「いいんじゃないのか」 「いいんですか?」 「クライセンも知りたいから尋ねただけじゃろう。奴も知らんのだよ。師弟が何なのか、そして、君がなぜ魔法王の弟子になりたいのか」 マルシオは俯いた。ついクライセンの言葉には何か意味があると深読みしてしまう癖がある。今回のことはサンディルの言うとおり、分からないから尋ねただけ。あれがもし試験のようなものなら、まだ弟子だと認められないはずだし、認める前に訊いてくるだろう。そう思うと、気が楽になった。 「クライセンも師匠としては初心者じゃ。これから、形を整えていけばいい」 マルシオがやっと納得して一息ついたとき、今度はティシラが不満げな声を出す。 「マルシオ、何なのあんた。どうしてそんなにクライセンに甘えてばっかりなのよ」 「はあ? なんだよ、甘えてって」 「こないだも変なろうそくが欲しいとか言ってるし、今度は弟子ですって? 何がしたいのよ」 「何がって……お前こそ何なんだよ。別に俺がクライセンに何を頼もうが勝手だろ」 「まあまあ」サンディルが、変わらない笑顔で割り込む。「可愛い妬きもちも愛情のうち。ティシラも何かお願いしてみるといい。あれは意外と、なんでも聞いてくれる」 一瞬の間を置いて、ティシラの顔が茹で上がった。 「や、妬きもちなんかじゃないわよ!」 金切声を上げたあと、顔を背けてぶつぶつと、何やら愚痴を呟いていた。 マルシオはため息をつきながら、彼女の様子に声を出さずに笑った。 ティシラも、自分とは感情の種類は違うがクライセンを慕ってここにいる。彼女の夢である「恋愛成就」はいつのことか分からないし、お願いしてどうにかなるものではない。積極的に行動をしている自分を羨む気持ちを責めることはできない。 「でも……クライセンと話をしてみて、思ったんだ」マルシオは声を落とし。「俺も、魔法使いとして修行をする理由が欲しい。クライセンの、師匠の、意志を受け継ぐために何が必要なのかを知りたい」 マルシオの言葉で、サンディルはクライセンが彼にすべてを話したのだと察した。それでも彼の傍にいて学びたいとマルシオは決意してくれた。きっと、普通の人ならクライセンの「正体」を知れば、今まで信じていたものを壊されたと思うだろう。傷つき、夢を失い、彼を軽蔑するかもしれない。 周囲が勝手にクライセンを「高潔で清廉なる、神に選ばれし特別な魔法使い」だと決めつけていたことには気づかず。 だけどマルシオはずっと近くで彼を見ていた。魔法使いに憧れて人間界に来たマルシオもまた、いくつも夢を壊されてきたし、まだ理解できないことも多い。想像していたものとは違う。それでもここまで来た。クライセンを掛け替えのない友人だと信じたからこそ。だからクライセンは彼に自分の話をしたのだ。真実を知って、選んで欲しかったに違いない。 サンディルは、マルシオの言う「理由」は必要ないと思う。 「理由はなんだっていい。だが目標はあったほうが、何事も身が入るもの。考えて、悩んで、これから決めていけばいい」 マルシオは急ぐ必要はないことに気づいて、頷いた。 そこに、またティシラが水を差してきた。 「なによ、あんた理由もなく弟子になったの? 大体なんで魔法使いなんかなりたいのよ。天使のくせに。バカのくせに、人見知りのくせに」 「うるさいな。お前はとにかくうるさいんだよ。黙ってくれ」 「黙って欲しいなら言い返してみなさいよ」 「ああもう、うるさいな!」 着地点の見えない言い合いをする二人を、サンディルは優しく見守っていた。さりげなく、少し距離を置いて。 Copyright RoicoeuR. 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